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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第五章  遠いあの日のままの姿
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☆ 愛の契約書


 



 ぼくがホームポジションに軽く指を触れて目配せすると、彼女は目でうなずいた。ぼくは彼女の胸の前にノートパソコンを滑らせた。


「こうですか?」彼女はすべての指を正しくキーの上に置いた。


「そう。そっと押すだけで文字が打てるよ。自由に打ってごらん。大丈夫、強く押しても壊れたりしないから」


 感触を確かめるように彼女はゆっくり指を運び始めた。


「とても静かです……  あっ、画面にアルファベットが……  とても奇麗……」


 しばらくするとリズミカルなタッチタイピングが始まった。結構思い切りよくパチンパチン叩いている。全然静かではない。活字を鋳込んだ重い金属アームをダイレクトに打撃することに慣れた指には軽すぎるのだろうか。


「タチバナさん、そろそろ国語を打てるようにしてみようか」


「はい」と返事をした彼女は名残惜しそうに胸をテーブルから離した。こちらを向いた彼女はスカートの上に両手を重ねた。目の前に白いスカーフの花がふわっと咲き、甘く切ない香りが薫った。

 

「ぼくは時々、このコンピュータの前の持ち主はどんな人物で何を打っていたんだろうと想像することがあるんだ」


「楽しそうですね。誰かが抜き忘れた(しおり)みたいです。そのページには必ず素敵な言葉があるから。わくわくする感じが少し似ていませんか?」


「うーん、似ているけれど、それほど素敵な想像をするわけでもないんだ」


「どんな想像なのか知りたくなってしまいます」


「そう? たとえば、前の持ち主は真面目な法律家だったんだ。彼は若い恋人たちの目の前で情熱的な愛の契約書を打ち込みながら、二人がまだ知らないこと、たとえば愛に伴うリスクや苦しみや心の痛みや悲しみを丁寧にひとつひとつ説明した。若い二人はうなずきながら聞いていた。でも本当は二人ともそれが何のことかさっぱりわかっていなかった……とか」


「ユウキさんは真面目な想像をするんですね。わたし、愛って本当はとても残酷なのかもしれないって最近思うんです。愛は自分にとってどうでもいいことを犠牲にすることではなくて…… 苦しみや痛みのない愛は本当の愛ではないかもしれないって思うんです」


「ふーん、君は大人のようなことを言うんだね。では、こんな想像はどうだろう。前の持ち主は夢見る大学生で、宇宙の終わりと始まりの再現実験のレポートをこれに記録していたんだ」


「そんな実験をしたら……きっとこの宇宙が壊れてしまいます」


「彼は古い宇宙を壊して素晴らしい宇宙を新しく創りたいと思っているんだ」


「理想の宇宙……ですか?」


「もちろん。けれど理想だけでは新しい宇宙なんて創造できないかもしれない。もし創ることができても彼ひとりしか快適に住むことができない宇宙だよ。たぶん」


「ひとりぼっちの宇宙ですか? その大学生はこれからどうなってしまうんでしょう?」


「うーん。じゃあ占ってみようか。この液晶画面に秘密の魔方陣を組んだ占い師がいたかもしれないからね。魔方陣のファイルを見つけて、そこに運命の数字を打ち込めば大学生の未来はもちろん、何でも占えるはずだ」


 彼女の目がキラッと光ったような気がした。


「ユウキさん、運命の数字はどこですか?」


「それはね、君の瞳に浮かび上がるんだ。……もちろん冗談だよ」


 彼女は静かに立ち上がった。どうしたんだろう?


 胸に膨らむスカーフを片手で押さえた彼女は、少しかがんでそっとこちらへ顔を寄せた。そして……こちらの心の中にあるものすべてを映す魔法の鏡のような目で、ぼくの目をじっと見つめた。


「運命の数字……見えますか?」


 低くささやいた彼女は、瞳をさらにこちらに近づけた。青白い光が揺れる眼差し。その光に魅入られた者をすべて溺れさせる青い泉。底知れぬ深さを持つ瞳――


 唇に熱い吐息を感じた。と同時に甘く切ない香りがぼくを包んだ。桜色に濡れる唇が唇に触れたら、理性は一瞬で吹き飛ぶ。


 こめかみの血管がドクドク脈打って、ああ、頭が割れそうだ。


 急いで目をつむり、「見、え、た、よ」と、ぎこちなく告げた。恋を知ったばかりの少年でもないのに。



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