☆ スイッチ
黒く澄み切った瞳……
彼女はこちらをじっと見つめている。瞳の奥底には今日も青白い不思議な光が揺れていた。思わず視線を下げると胸にふくらむ真っ白なスカーフが目に入った。
眩しい…… 目が潰れそうだ。ぼくは自分自身のふがいなさを呪いつながら彼女に声をかけた。努めて明るい調子で。
「一週間ぶりだね。元気?」
「はい。今、お邪魔してもいいですか?」
「もちろんだよ。ところで、タチバナさんはもう昼ごはん食べた? 実は、今日から日曜日限定のランチメニューが新しくなったんだ。ぼくはさっき頂いたんだけど、とてもおいしかった。よかったら君もどう?」
「〝 ローマの休日〟はなくなってしまったんですね。新しいメニューはどんな名前なんですか?」
溌溂とした声に明るい風圧のようなものを感じて少々たじろいだ。彼女はテーブルの上に散らばるサラダボウルや空っぽの皿を興味深そうに眺めている。
「それがね、〝 ティファニーで昼食を〟っていうんだ。どう思う?」
「映画の題名みたいですね。とってもおしゃれでおいしそう」
「と思うだろう? 確かにおいしかった。でも、驚いたらいけないよ。中身は〝 ローマの休日〟とまったく同じだったんだ」
「えっ? どういうことですか?」
「わくわくしながら注文したら、〝ローマの休日〟と見た目も味もまったく同じナポリタンだったんだ。マスターに抗議したら、『今日はニューヨークの気分でございます』って言うんだ。何のことかさっぱり分からないだろう?」
「ええ、わかりません」
「マスターはニヤッと笑って『主役を変えると歴史が変わってしまいます』って言ったんだ。意味わかるかい?」
彼女は胸を押さえて笑った。
「ここのマスターはとてもいい人なんだけど、時々真面目な顔でお茶目なことをやらかして客をからかうんだよ」
「楽しそうですね。わたしもびっくりしてみたかったです。でも、ここに来る前にお好み焼きを食べたんです。紅茶も飲んできたのでおなかいっぱいです」
「いつかタチバナさんにご馳走したいな。君はお好み焼きと紅茶が本当に好きなんだね。まるであの人みたい…… いや、なんでもない」
「いつか一緒にお好み焼きを食べたいなって。そう思うんです。いつか、尾道で、ユウキさんと一緒に」
「尾道で? ぼくが尾道に行っても君に会えるのかな?」
「きっと会えます」
「君と尾道で会うにはどうすればいいんだろう。空に向かって飛び出せばいいのかな。まさか」
彼女の目をまっすぐ見つめた。
「どうしたらいいんでしょう。わたしにもわかりません」
彼女は本当にわからないみたいだった。彼女の邪気のない目を見てそう思った。
「ユウキさん、今、お仕事、だいじょうぶですか?」
「仕事? だいたい片付けたから大丈夫なんだ。今日はもう終わり。もう道具はしまったよ。ほら、あそこに」
「あれですか? まるで魔法の本みたいですね」
「中古で買ったコンピュータなんだけど、天板がツルツルしてて何度も落としそうになったから厚い革をぐるっと巻いたんだ」
「小さいですね。わたしはテレビみたいな大きなものしか見たことなくて」
「どちらも仕組みは同じで1と0の二進法で動いているんだ」
「電気のスイッチを入れたら1で切ったら0ですか?」
「よく知ってるね」
「本に書いてありました。きっとこの中には小さなスイッチがたくさんあるんですね」
「一億個くらいあるのかな」
「こんなに小さいのに…… やっぱり魔法の本です」
「魔法が使えたらと思うことはあるんだけどぼくには無理だ。もちろんコンピュータは魔法みたいなこともできるけどね。タチバナさん、少し話は変わるけれど、もしコンピュータが1と0の代わりに生と死、光と闇、有と無、赤と黒、始まりと終わり……の二進法を使って動くとしたら、どんな計算結果が出ると思う?」
「生と死、始まりと終わり、光と闇、始まりと終わり…… 人のような、神様のような不思議なコンピューター。おもしろそうです。でも計算結果は想像できません」
「そうだよね。ぼくも想像できない。どちらかというと空想だから。ぼくは毎日そんな空想ばかりしてるんだ。そういえば、今、不思議な仕組みで動くコンピュータが世界中で研究されているんだけど、こんな話、興味ある?」
「生と死の二進法ですか? 詩的ですね。わたしは好きです」
「詩的、か。そうだね、ある意味詩的かもしれない。そういう新しい仕組みのコンピュータは〝DNAコンピュータ〟とか、〝量子コンピュータ〟 って呼ばれているんだ」
「DNAコンピューターって、遺伝子がコンピューターになるんですか?」
「そうなんだ。特殊な方法で培養した遺伝子を利用したら、今のコンピュータより少ないエネルギーで早く計算できるらしい」
「遺伝子が計算をするんですか?」
「そうだよ」
「信じられません」
「だろう? でも量子コンピュータはもっとすごいんだ」
「ユウキさん…… 量子って何ですか?」
「簡単に言えば、原子より小さなものを量子と呼んでいるんだ。代表的な量子は電子や陽子や中性子。光の粒の光子も量子で、他にもまだいくつか種類があって、まだ発見されてないものもあるらしい。超極小の彼らが暮らす世界は、ぼくたちが暮らしている〝原因があって結果がある〟という世界とはかなり違う世界なんだ。今ここに起きていることが原因なのか結果なのか判然としないのがあたりまえというか、混沌として矛盾しているというか、とにかく不思議なことだらけ」
「混沌と矛盾から始まるなんて、謎があって神秘的です。まるで神話の世界ですね」
「混沌と矛盾、謎と神秘。言われてみると確かに神話の世界に似ている。実は、電子とか陽子とか中性子とか光子といわれているもの、つまり量子には実体がなくて、互いに引き合ったり反発したりする力の濃淡が、ある範囲内にランダムに現れるだけの、はっきりしない、確率的な〝力の状態〟に過ぎないとも言われているんだ」
「はっきりしない力の状態って、どういうことですか?」
「そうだなあ…… 量子は『物質をかたちづくる最小の要素を追求していくとその先に見えてくる物質のひとつ』、という意味で存在しているというより、『力を生み出す粒子のような雲のような、何が原因でそうなっているのかわからない、というか、そもそも原因があるのかどうかすらはっきりしない、確率的で、濃淡のある、不明確な、けれど根源的な何か』なんだけど、どういうことかわかる?」
「わかりません」彼女はあっけらかんと笑って答えた。
「まあ、そうだよね。おおまかに言えば、量子という〝物質〟や〝塊〟はどこにも存在しなくて、混沌として漂う〝力〟が霧や雲のように浮遊している〝状態〟を観察することができるだけなんだ」
「存在しないものを観察できるんですね」
「不思議だよね。でも、そんなモヤモヤした状態の〝力〟が集まって積乱雲のように発達すると、まるで雪の結晶が生まれるみたいに電子や陽子と呼ばれる〝状態〟になって、そういうものたちがある程度集まると原子の性質を持って、更にそれが集まって分子という個性を持ったものが、たまたまぼくたちに"物質"として感じられる、ということらしい。ちっとも実感が湧かないから具体的にはぼくにもさっぱりわからないけれど」
「ユウキさん、わたしにはわかります」




