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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第一章  記憶より微量の何か
2/59

☆ 遠い記憶

 

  

 

 あっ  

   あれは……




  白く輝くスカーフ


      濃紺のセーラー服


 

 優しい光に照らされて――まるで透明なガラスに固定された標本に顕微鏡の焦点が合うように――くっきりと浮かび上がったのは、微笑みながらどこか遠くをひたむきに見つめる人の姿だった。その澄み切った瞳には、漆黒の瞳の奥には、青白い光が静かに揺れている。

 

 ああ、 あの瞳は、あの微笑みは、あの制服は、間違いなくあの日のあの人。他の誰でもない、決して忘れることのできない、かつてぼくが高校生だった頃の恋人。



 もしかして……


 呆然としたまま時間だけが過ぎていく。息が苦しい。ぼくは天を仰ぎ、懸命にもがき、深い深い泉の底から浮上した。




 ✧


 


 目が合うと隣の人は頬を染めて目を伏せ、耳に掛けていた髪を丁寧に下ろした。少し長めのショートボブ。彼女は胸に揺れる白いスカーフの結び目を左手でさりげなく整えると、濃紺のスカートに覆われた膝に両手を重ねた。


 わずかに首をかしげて、彼女はぼくを見つめた。黒い瞳の奥に青白い光が揺れた。ぼくはその不思議な光から目を離すことができなかった。ほっとしたように微笑んだ彼女はまぶたを閉じた。胸に膨らむ白いスカーフが幾度か上下して、新しい朝を迎えるかのようにパチパチと二回まばたいた彼女は、桜色の唇を、そっと開いた。


「ユウキくん」


 ぼくは絶句した。彼女は黙ってぼくを見つめている。そんなに澄み切った瞳で見つめないでほしい。卒倒してしまいそうだ。


「コスギ・ユウキくん」


 彼女は再びぼくの名を呼んだ。


「……」


 肺に残ったわずかな空気を喉まで押し上げたが言葉にならない。彼女は磨かれたばかりの鏡のような目でこちらを見ている。


「わたしを覚えていますか?」

 

「……まさか」


 彼女はにっこり笑った。白い歯がチラッと見えた。胸が甘く溶けてしまいそうな、懐かしい笑顔。


「もしかして、あなたは…… タチバナさん?」


「はい。タチバナ・アオイです」


 


 

    あり得ない……


  







 ✧ 





 




 黒いものが見えた。黒いものが見える。目玉が触れるほど至近に、ぼーっと見える。硬い板のようなものに(ひたい)が載っている。両手は伸びきっていた。後頭部を殴られて絶命したカエル。ぼくはそんな無様な格好でテーブルに突っ伏していた。


 なぜこうなったのか。ぼくは牛が草を食むように先程からの出来事を反芻した。冷静に考えれば、名前が同じで姿や仕草がそっくりというだけの、ただそれだけのことだった。単なる偶然だ。決してあの人が出現したわけではないし、現れるはずもなかった。


 隣に座った人が誰なのかはいくら考えてもさっぱり分からなかった。もしかしたら以前どこかでひとことふたこと交わしたことがあるのかもしれない。まったく覚えていないが。

 彼女はぼくが誰なのかを知っていた。知った上で隣の席に座ったのだろう。なにかしら用があるのかもしれない。どんな用件なのか見当も付かないが。



 思い切って顔を上げた。彼女は先程と同じようにこちらを向いて左隣の椅子に座っていた。その端正で落ち着いた様子は柔らかな布で丁寧に磨かれた銀のカトラリーを思わせた。賓客(ひんきゃく)を招く正餐(せいさん)の席に、あるべき場所にそっと置かれて、けれど晴れやかに目を奪う魅力―――


 ぼくは背筋を伸ばして声をかけた。


「タチバナさん、そこは寒くないですか? このあたりはストーブから遠いし窓際だから、残念ながら底冷えがするんです。ほら、息が白くなるでしょう? ぼくにはこのくらいがちょうどいいんだけど。もし差し支えなければもっと暖かい席にご案内しますよ」


「お心遣いありがとうございます。でも、寒くないです。ここはランプの明かりがとても綺麗で、幸せな夢の中みたいですね。それに……わたしはユウキさんの隣のこの席が好きです」 


 耳に心地いい、少し低いトーンの柔らかな響きだった。彼女の声に導かれるようにぼくは天井を見上げた。


 本当に綺麗だ。


 奥行きがつかめないほど暗い天井の闇にぶら下がっているのは普段どおりの、数だけは多い石油ランプの弱々しい光、のはずだった。だが今、それらの光はあたかも生まれたばかりの星のようにきらびやかに瞬き、明るく輝いていた。


 この人はいったい何者なのだろう。


 彼女が隣の席に座った理由とか、知り合いでもないのにいきなり〝ユウキくん〟とか〝ユウキさん〟はないだろうとか、締め切りを過ぎてしまった連載とか編集の奴らが今にも強引な督促に来るのではないかとか――そんなことはもうどうでもよくなってきた。このままいつまでも彼女の声を聴いていたい……


 突如、軽快なピアノ曲が喫茶室に響き渡った。


 しばらくすると耳障りなノイズがブーンと唸り始めた。店の奥にマスターの姿が見えた。マスターがアンプの載った薄暗い棚をコンコンとノックするとオレンジ色に光るダチョウの卵ほどの大きな真空管がチカチカ明滅した。耳障りなノイズは瞬時に消えた。暗がりに巨大な影を見せるスピーカーは再びピアノ曲を流し始めた。明快な和音が連続するリリカルな主題。


 おもむろにこちらを向いたマスターは両手で大きな円を作った。ぼくも両手を挙げて同じサインを返した。マスターはオールバックの白髪を得意げに撫でた。だが急に体をエビのように折り曲げると ンッ、クシューン と大きなクシャミをした。


 マスターは真っ黒なレンズを入れたご自慢の丸眼鏡を恥ずかしそうにかけ直すと、アンプの脇のソファーに深く体を沈めた。


 あれ? マスターは気付いてないのだろうか。ここに新しいお客さんが来ているというのに。




・挿入曲:シューマン作曲 8つのノヴェレッテより 第1番

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