☆ エチュード
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ぼくは毎日ノートに空想ばかり書き連ねている。そんなものはいまだかつて一度も実現したことがないのに。
何の根拠もないただの空想。そんなものをいくら集めても、ゼロやマイナスを積み重ねるのと同じ。決してプラスにはならない。血まみれになる覚悟を決めて現実の中に手を突っ込まなければ、何一つこの現実世界に現実を積み上げることはできない。
けれどぼくは現実と格闘することを避けている。血まみれになるのは嫌だ。誰かと本音で話をして誰かの心の闇を覗いてしまうのが恐ろしい。だからこんな所にまで逃げてきた。現実世界では何の役にも立たない空想科学小説家。
『SF、つまり空想科学小説の真価は〝予言〟と〝真実〟にある。現実からノイズを取り去って必然の未来を空想して予言すること、過去からノイズを取り除いた必然の過去を空想し、事実をあぶり出して真実を現在に示すこと、それがすべてだ。つまりSF作家は誰よりもリアリストでなければならない。リアリストだけが過去と未来を知ることができる。俺はいつもそう肝に銘じて書いている』
ぼくの尊敬する先輩作家は時々そんなことを言っていた。血まみれになるのが怖いぼくは、その言葉がとても気になって忘れることができないくせに〝予言〟からも〝真実〟からも遠い、偽りの現実を生きている。
だが、もしも目の前に現れた幻が何かの予言であるなら、あるいは何らかの真実を示そうとしているのなら、ぼくは今こそ本気で対峙しなければならないのではないか。逃げ続けてきた自分自身と、そして……
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吹きすさぶ白鍵。怒濤の黒鍵。
悲壮だが華麗。破滅を予感させる旋律。
四散する和音。砕け散る波濤。激しく渦巻き猛り狂う波。雷鳴。落雷。
目の前に火柱が上がった。
メインマストが真っ二つに裂けた。大波がブリッジに直撃し、渦巻く海水。すべてのものが瞬時に ――羅針盤も六分儀も海図も時計も―― 流された。舵輪さえも。
破壊されたアッパーデッキに夜の闇が迫る。突如、暴力的なアルペッジョが急激に上昇し、凄まじい勢いで体が持ち上げられた。一瞬の無重力。そして一気に下降。デッキに全身を叩きつけられた。ほぼ同時に、その湿った衝撃とは別の、船底の巨大な何かが引き裂かれるような不気味な和音が暗闇に響き渡り、船体を震わせ、船は大きく傾き始めた。
天は我らに地獄行きを告げたのか。この体も、この魂も、深海の底に引きずり込まれ、最初から何もなかったかのように消滅してしまうのか。
その時、清冽な一音 ――聖なる鐘を打つような―― が天に鳴り響いた。空を振り仰ぐと、雲に覆われた夜の隙間に一点の光があった。不思議な懐かしさを覚える光。
ああ、あれはポラリス!
他のすべての標を失ってもなお輝き続ける唯一無二の光――
希望を残し、曲は終わった。
古いアンプをいたわるように撫でたマスターは再びレコードプレイヤーの前に立った。先程とは打って変わって穏やかなピアノ曲が流れ始めた。
甘いレガート。未熟な二人の恋の練習曲。お菓子の塔を積み上げて見つめ合う二人。
だが曲は途中から、錆びた釘を叩き込むような短音が情け容赦なく連打され、リズムと音程が大きく狂い始めた。
突然、音が途切れた。喫茶室に再び静寂が訪れた。真空管の光が不規則に明滅している。
マスターは赤い工具箱を開けた。ぼくはノートの白いページを開いた。やはり書かなければならないのだ。あの人のことを。青いインクで、今すぐにでも。
ふっ、と空気が動いた。
甘く切ない香り……
……
……
左の頬に、あたたかな気配を感じる……
……
まさか……
……
・挿入曲:ショパン作曲 大洋
〃 :ショパン作曲 別れの曲