☆ 歪んだ世界
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いつか君が話してくれた『永遠のひとかけら』―――みつけたんだ
本当?
本当だよ ほら、ここに
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ハッと目が覚めた。
毛布の隙間から思いっきり手を伸ばした。ガスストーブのノブを回す。ボシュッと大きな音がした。
セラミックの白い肌を青い炎がチロチロ舐めている。しばらくすると毒が回ったように真っ赤に腫れ、強い熱を放ち始めた。
寝台を降りて青いカーテンを開け放つ。窓際に小さなつむじ風が吹いた。痩せた木枠に抱かれた薄いガラスがガタガタ震えている。白く凍った窓に手を当てて溶かすと歪んだ景色が透けて見えた。
―――世界が歪んでもぼくが歪んでも、たぶん同じ景色が見えるだろう。けれど世界が歪んだのか、それともぼくが歪んでいるのか、それは誰にもわからないはずだ。
あなたは言うだろう、どちらでもいいのではないかと。そう、どちらでもいい。どちらかが歪んでいるだけなのだから―――
白い平織りのシャツと灰緑色の杉綾織りのズボンに着替えた。青いジャケットのボタンを留めて青いマフラーを首に巻く。毛布と同じ生地の灰色のコートに袖を通し、ガスストーブを消した。
壁から生えたキノコのような元栓を閉める。靴を履いてザックを背負う。スキーを抱いてドアを開けると吐く息が霧氷のように視界を遮った。
凍った階段を慎重に降りた。薄曇り。風は弱い。街外れの道は誰も歩いていない。自動車も走っていない。深閑として一人きりの白い道。
森の入り口でスキーを履いた。最初の深い谷を越える。下り坂、緩やかな上り坂。最初の峠。小さな谷、小さな尾根。そしてまた小さな谷。倒木を上下左右に避けながら進む。ストックを思い切り突いて最後の坂を登り切ると広大な雪原。
誰もが最後に一人で歩かなければならない静かな道があるという。その空に見える光とはなんだろう。人はその時、どんな光を見るのだろう。誰もいない雪原を渡る度にいろいろなことを空想してしまう。
―――なぜなのか理由はよくわからないけれど、詩や小説を書いていると次第に自分というものが消えていく。時間も空間も消滅する。そのかわりとても小さな一粒の、艶やかな『何か』になって、どこか遠くの星の重力の海に浮く。そして誰も見たことのない夢を夢見ながら溶けて消えていく。
その不思議な感覚は、もしかすると地下深くから掘り出したストロンチウムやマグネシウム、リチウムの粉末が色鮮やかに夜空を彩る姿を夢見ながら、静かな光に満たされた部屋で一心に黒い火薬に練り込んでいく至福にも似ているのかもしれない。
別の言い方をするなら、最期の空に輝く光を思い描きながら心の奥深く掘り進んで得た言葉の粉末を、暴発しない程度に熱い情熱を加えて練り上げていく恍惚、のような―――
硬く凍り付いた重いドアを押し開き、風除室に入った。大きなスノーシューの隣にスキーを立てかける。白い花の模様が刻まれたドアを開けるとマスターはいつものように素敵な笑顔を黒眼鏡の外に浮かべて迎えてくれた。ぼくはいつものように石積みの壁を背にする一番奥の席に座る。
前々から頼まれている仕事がいくつか残っている。急に入った急ぎの仕事もある。だが、ほとんど何もしないうちに日が暮れてしまった。薪ストーブには青白い炎がゆらめき、聴き慣れた交響詩が喫茶室に流れ始めた。
―――鞭打たれ血しぶきを上げるホルン。踏みつけられたトロンボーンの呻吟、不吉な地鳴りを思わせるチューバ。
ティンパニが弾丸のように連打され、葬送を想わせる弦楽奏が静かに、身を隠すように大地に吸い込まれていく。
トランペットの雄叫び。暗い森に何かがうごめく。得体の知れぬそれは渦巻いて成長し、雲を呼び雪を生み白い嵐になって極北の大地を大きく揺るがし、幾重にも森を囲む赤い鉄鎖を一気に弾き飛ばした。
眩しい光が空に輝き、虐げられていた大地は栄光を再び目にする。合唱が始まり、古い言葉と遠い記憶が魂を揺り動かし、抑圧からの解放を告げた。希望に満ちた旋律……
祖父が好きだったこの曲。聴く度に理由もなく胸が熱くなり、涙が込み上げてくる。
ポッポー、ポッポー、ポッポー …… …… ……
曲が終わると同時にハト時計が閉店時間を告げた。
文具やノートパソコンを手早くザックに納めて灰色のコートを羽織った。
このコートは祖父の形見。国境を越えて攻撃してきた十倍の敵と戦った祖父。怒濤のように押し寄せる戦車。エンジンデッキめがけて力の限り火炎瓶を投げ続けた祖父。
祖国を蹂躙するキャタピラを切断し、侵略者を狙撃し、白く凍て付いた森に潜んで最後まで諦めることなく強大な敵に立ち向かった祖父。まさにその戦いのさなか、若い兵士だった祖父をマイナス三十度の極寒から守ったコートを着てぼくは今、いったい何と戦っているというのか。
おや? 閉店時間を過ぎたのにマスターはレコードを回し始めた。
凍った大気の震えにも似た弦の響き。
これは……
極北の空を自由奔放にゆらめくオーロラの青い光。
青い光を吸って成長する雪の結晶。その輝きは暗い胸の底へ舞い降りて、なにもかも失ってしまった真っ暗な心の空洞を希望の光で満たす。
極北の至宝。青い光。その光は密かにこの曲の五線譜に埋め込まれている。〝 我らの光は永遠にここにある〟というメッセージを未来に伝えるために。
祖父はこの曲をこよなく愛し、故国から持ってきたレコードをよく聴いていた。祖父は独特の訛りのある言葉でぼくたち兄弟にいろいろなことを語ってくれた。冬の戦争のことも、その後の大きな戦争のことも。若くして最愛の女性を亡くしたことも、導きがあって幼い娘 ――ぼくの母になる人だ―― の手を引いてこの国へ移り住んだことも。神の言葉を伝える道を歩み始めたことも。
目を閉じた。優しかった祖父が隣に座っている。ぼくは祖父がいつもそうしていたとおり、胸に天使を抱くように両手を重ねた。曲が終わっても目をつむったまま、祖父と過ごした幸福な日々を思った。
・挿入曲:シベリウス作曲 交響詩フィンランディア(合唱付き)
〃 : 〃 バイオリン協奏曲