☆ 小さな旅へ
二人の沈鬱なやりとりはしばらく続いたが、息絶えるように途絶えた。小さな部屋の青い空気は再び硬く凍った。時間までもが凍り付いたようにしんと白く固まった。ぼくは目をつむり、天使を抱くように胸に両手を重ねた。
―――あの人と同じ教室で過ごした頃、ぼくは何を考えていたのだろう。翌日の英語の暗唱試験のことだろうか、それとも複雑な方程式の解法、あるいは模擬試験の判定結果……
確かにそんなことも考えていた。けれどそれらのことは、たとえば当時打ち上げられたばかりの宇宙望遠鏡の、焦点の合わない主鏡で星を観察することと同じだった。
つまりそれらの多くはあまり意味のないものだった。あの頃のぼくは常に上の空だったような気がする。どんなときも心の中心にあったのはあの人のことだったのだから。彼女への思いは長大な交響曲に熱い血液を送り込むティンパニのようにこの心臓を打ち続け、彼女の姿が心を離れることはなかった。
もしも―― どこへでも自由に旅することが一度でも許されるなら、あの日のあの人に会いに行きたい。あの人はあの街の白い坂道を昇っているはずだ。もちろんあの日のままの姿で。深い海と同じ色の制服を着て、遠く光る空を見上げて、ゆっくり、まっすぐ。
その名を呼べば、あの人は微笑みながら振り向くだろう。純白のスカーフが胸に大きく揺れて、あの日と同じようにぼくたちは近付いて。右手を差し出すと、彼女は左手でそっと僕の手を取って目を合わせ、小さくうなずいた。
海の見える公園へ。
狭い坂道。いくつも曲がり角を折れてさらに上へ。家々の壁や塀に挟まれ、僕たちは胸いっぱいに膨らみ、しばしば触れ合い、風船のように弾んだ。
それは小さな旅だった。旅は長いようにも短いようにも感じられた。未来に向けて旅立った彼女とあの日のあの街へ旅立った僕が青い空の白い光に満ちた路地を並んで歩く。ふたりは互いの手をしっかり握って進む。手を離したらなにもかも消えてしまうから。
古い三重塔の下を北に折れて、細く急な石段を駆け上がると、あっというまに海の見える公園に着いた。ふたり並んで青いベンチに腰を下ろした。
すぐ近くに三重塔の尖った先端が見える。見下ろす町並みは屋根と屋根とがくっつき合って魚のうろこのように連なり、その向こうにはキラキラ光る海。ほんの二、三百メートルしか幅のない海峡を、小さなフェリーがミズスマシのようにせわしなく行き交う。潮の香りのするそよ風にディーゼルエンジンの重い排気音が混じる。すべての記憶を蘇らせる懐かしい匂い。
長い編成の列車が東へ加速して去り、波打ち際の山裾に消えた。しばらくするとカタタンカタタンと響くレールの音が耳に届いた。
とりとめもなく話をするうちにいつのまにか、日は傾いていた。夕陽を受けて輝く美しい瞳。何かをひたむきに求める視線。少し翳りのある長い睫毛が息づかいに合わせて、誘うように揺れて、彼女はこちらに体を寄せた。
新鮮なレモンに直接触れたように、ひんやり冷えた清楚な制服。互いが互いを求め、手を重ねて、さらに深く体を寄せ合う。甘く切ない香り――― 濃紺の服地に包まれた彼女の、やわらかなぬくもり。
新しい未来を予感させる海。限界の存在しない空。慈愛に薫る潮風。光と香りが溶け合って胸の奥をくすぐる。この海もこの空もこの風も、君と最初に出会った頃の海と空と風と何も変わらない。
僕がまだ十七歳の頃、『君と出会うのが早すぎた』と言ったことがあった。もっと自信に満ちた人間に成長してから君に会いたかった。もちろん、本気でそう思った。けれど本当は早すぎたのではない。もっと早く、もっとたくさん会って、もっと多く伝えなければならなかったのだ。
西の空一杯に広がった茜色が徐々に緑色に、そして密度の濃い紫色へと変化していく。彼女は、僕の胸に耳を当てた。空が、彼女の制服と同じ色に染まった。
彼女は顔を上げた。
「とてもあたたかくて、綺麗な星がたくさん輝いていて、幸せな夢を見ているようです。このままここにいたら、わたしたちどうなるんでしょう」
「星になるんだ。ふたりとも」
「星に」
「オリオンの三連星が見える。シリウスも、ほら、あそこに」
僕は東の空を指差した。
「綺麗」
「君はオリオンとアルテミスを知っているだろうか」
「ギリシア神話……ですか?」
「そうだよ」
「ふたりは恋人どうしです」
「恋人どうしだったんだ」
「なぜ…… どうして過去形なんですか」
彼女はそう言うと、首をかしげて、僕を見上げた。
「オリオンは、アルテミスが誤って放った銀の矢に頭を射貫かれて死んでしまった。でも、もしオリオンが蘇ってアルテミスと再会できたら、ふたりは再び愛し合うことができるかもしれない」
「死んでしまった恋人たちは蘇ることができるでしょうか」
「恋人たち? どうして複数形なんだろう」
彼女はそっと視線を外した。胸のスカーフと襟の白線が揺れた。
「死んでしまったオリオンと……」彼女は言い淀んだ。
オリオンの他に、誰かいるのか。アルテミスは死んではいないはずだが。
不吉な予感がして、彼女の手を握りなおした。指と指が、互いを求めて絡み合った。彼女は、まっすぐ僕の目を見つめた。
「裕樹さん、わたしは蘇ることができますか」
「あおい、それは……」
透明なガラスが熱を持って光輝くように、彼女の体が柔らかく溶けて赤く光り始めた。
彼女は次第に青白い光に変化して、僕は光に包まれるように彼女に包まれた。僕は甘く切なく彼女と交じり合い、僕たちはひとつの光になった。
抱き合い、溶け合ったまま夜空に昇ったぶたりは新しい星のように、誰も知らない冬の空にきらめいた―――