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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第二章  胸に耳をあてて
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☆ 追憶



―――幼少の頃の美しく神聖な思い出がただ一つでもあれば、最後まで人として踏みとどまることができる―――


 確かにそのとおりだと思う。人の思いとしてこの上なく素晴らしい。当然そうあってほしいし、現にそうなのだろうとも実感する。多くの大人たちが、あるいは親たちが、子供たちのためにそのような環境を作りあげることはそれほどに大切なのだ、という意味では、おそらく何も間違ってはいない。あくまでもそのような意味においては。


 けれどもしこの物語を何度も繰り返し読むなら、元修道士が語る愛は綺麗事に過ぎず、今の彼では人の心を心の底から動かすことはできないことに気付くだろう。『自分には罪はないが、罪ある人間を救うのは自分だ』という、一見優しく気高く純粋に見えて実は最も酷薄な立場でしか物事を見ることができない彼の悲しさにも。


 だが、彼はまだ若い。ましてやこの物語の主人公であるはずの彼ならば、むしろ美しい思い出や神聖な思い出を持たない人々であればこそ救われなければならないのだ、と気付いて実際に行動を起こす日が来るに違いない。

 この物語は未完のまま終わってしまった。だから彼が将来どうなるのかは永遠に誰にもわからない。もちろん未完のままでも十二分に素晴らしい。けれども完結していればおそらくもっと奥深い作品になったのだろう。

 

 そして更に気になるのはこの物語の核心。


 この物語には、人が人を人として認めなければ人はどうなってしまうのかについては ――人に人として扱われない人はもちろん、人を人として扱わない人のことも―― いやというほど懇切丁寧に何度も繰り返し描かれている。

 それなのに、神の名のもとに迫害され、あるいは神の名において人として認められない人のことは、この物語の主要な文脈の中では、たとえば『異端審問で異端者が焼き殺された』などと、切り捨てられるようにしか語られない。


 残念なことだが、もう気付いてしまったのだ。この作品の最深部に通奏低音のように流れる、密やかな、しかし最も重要な主題に。


 普通に考えたらありえないことだが、もしかするとこの作品を手がけた当の本人すら不気味に鳴り続ける音に気付くことができなかったのではないか。おそらくこの物語が最後まで完全に描かれ、完璧に完結していたとしても。

 けれど、もしかすると彼女は気付くかもしれない。これからも何度も繰り返し読めば。


 石油ランプの炎が大きくゆらめいた。奥のスピーカーからフルートとピアノが奏でる旋律が流れ始めた。感傷的な空想に誘う甘く切ないメロディー。


―――遠い追憶。憧れと悔恨。忘れられない、哀しいほど美しい思い出。かつて恋人たちが語り合ったカフェの前を彼は青い空を見上げたまま足早に通り過ぎるだろう。けれどあの人が好きだったこの曲を耳にした彼は立ち止まって振り返るだろう。そして白い壁の青い窓へ視線を向けて、あの人と同じ姿のあなたを探すだろう。

 そして彼は再び上を向くだろう。涙を隠すために。そこにはもう青い空はない。手を伸ばしても永遠に届くことのないあの人の面影。すべての色を失ったこの硬い空の向こうにも、既にあの日のあの人は存在しないのだから―――



 

 顔を上げると、彼女と目が合った。


 頬が触れそうなほど近くでぼくを見つめるタチバナ・アオイ。君は本当に、本当にただの幻なのか? 本当は本物のタチバナ・アオイではないのか?


 ああ、己は何をそんなに真剣になっているのか。彼女は幻なのだ。その笑顔もあたたかな声もその香りも、すべては幻。幻がこの本に隠れた真の主題に気付く日など、決して来ることはない。


「ユウキさん、わたしにはまだ何もわからなくて。人が救われるってどういうことなんだろう、この世界でわたしには何ができるんだろうと思った時、人って何だろうって考えてしまって……」


「君と同じだよ。ぼくにもわからない」


 彼女はにっこり笑ってうなずくと、こんな言葉を口にした。


「ただ、人は愛すべき存在だと思うんです」


「タチバナさんは素敵な言葉を知っているんだね」


 優等生みたいなことを言う彼女に、少しばかり皮肉を込めたつもりだった。


「とても素敵だと思います。わたしもそう思うんです。一年生の時、ユウキくんが三高新聞に載せた言葉です。覚えていますか?」


 当然、ぼくの顔から血の気が失せたことに気付いたはずだ。なのに彼女の優しい視線には何の変化もなかった。


「そんなことがあったかな……   覚えていない。忘れてしまったのかな」


 そうではない。本当は彼女が言ったとおりなのだ。

 人は愛すべき存在―― それは司祭だった祖父が常々口にしていた言葉だった。ああ、祖父が大切にしていた言葉を、ぼくは忘れかけている。なんということだ―――


「ユウキさんは今、どんな小説を読んでいるんですか? ユウキくんは時々SF小説を楽しそうに紹介してくれるんです」


「SF小説? いろいろと偶然が重なるね」


「偶然……ですか?」


「いや、なんでもない。SFはぼくも好きなんだけど、古い恋愛小説も好きなんだ。たとえば……」


 ぼくは床に置いたザックから古い文庫本を引っ張り出した。中学生の頃から読み続けてきたのでいくぶん擦れてはいるが、表紙には赤と黒の二色で描かれた人物の顔がはっきり見える。


「これなんだけど、久しぶりに読み返してみたんだ。古典的な恋愛小説だけど、知ってる?」


「この本……  つい最近、図書館で借りて読んだばかりなんです。時間を忘れて、一気に」


「わかるよ。ぼくも時間を忘れて一気に読んだから」


「最初はいろいろな駆け引きに心を奪われて。でも、駆け引きではない本当の恋を知って、夢中になって、気が付いたら夜が明けていて。最後はとても切なくて……」


「そう、ため息がでるほど」


「もしかしたらユウキくんはもう読んでいるかもしれませんね。ユウキさん、どうなんですか? 読んでいたらきっと……」


 彼女は語尾を濁し、テーブルの一点を見つめて黙りこんでしまった。


「タチバナさん、前から気になっていたんだけれど、君の言うユウキくんって誰のことなんだろう?」


「ユウキくんは、十七歳のユウキさんです」


 なんでもないような言い方だった。だが、言い終わってキリッと結ばれた彼女の口許には反論を許さない強さがあった。彼女は大きなまばたきを二回すると、ぼくの目をじっと見て言った。


「高校生の頃、ユウキさんはいつ本を読んでいたんですか? ユウキくんはいつも夜遅くまで家の仕事を手伝って、朝は早く起きて青果市場でアルバイトをしています。放課後は毎日部活で、休みの日はほとんど山に登っていて、秋の終わりまではわたしも一緒に。今はユウキくん一人で……」


 確かにあの頃のぼくは毎朝学校へ行く前に青果市場のアルバイトをしていた。だがそれは学校にも、もちろん同級生にも内緒にしていたのだ。あの人を除いては。


「君はいろいろなことを知っているんだね。でもね、、、、」


 ぼくはいつのまにか言うべき言葉を失っていた。逃げるように床に目を泳がすと、彼女とぼくの黒い影がひとつに溶けて離れがたく結びついていた。








 ・挿入曲:フォーレ作曲 夢のあとに


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