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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第二章  胸に耳をあてて
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☆ 刺繍



「タチバナさん……  君は、君はおなかすいてない?」


 なんてことだろう。せっかく来てくれたのにこんなことしか尋ねられないなんて。彼女は二回まばたきした。


「お昼にお好み焼きを食べたので、おなかいっぱいで……」


 確か先週もお好み焼きだった。彼女はお好み焼きが大好きなのだ。ぼくはついクスっと笑ってしまった。頬を染めて下を向いた彼女は身もだえするように体をよじった。そんな彼女を見ると、幻とは思えなくなってしまう。


「何か飲む?」


「ありがとうございます。でも、紅茶を飲んだばかりなんです」


「それは残念だ。ちなみに、タチバナさんはどんな紅茶が好き? もしかしてミルクティー?」


 彼女の頬に明るい色が見えた。


「はい、ミルクティーが好きです。ユウキさんは今もレモンティーが好きですか?」


 その声は、やはりあの人に似ていた。


「今も? ぼくはアパートに帰ったら毎晩熱い紅茶にレモンを浮かべるのが楽しみなんだ」


「毎晩、ですか?」


「そう。今住んでいるアパートは五十年以上も前に建ったらしくて、山のロッジみたいに窓枠も壁も床も天井も寝台も全部無垢の木でできているんだ。おまけに、窓を開けると素晴らしく眺めがいい」


「素敵なアパートですね」


「そう思う? ぼくも最初はそう思った。寒くなる前はね。住み始めてから半年ほどは申し分ない住み心地だったんだ。でも、今は凍り付くような隙間風と底冷えを、望まなくても毎晩たっぷり味わえる。アパートにはバスルームがないから少し離れた温泉というか共同浴場に通っているんだけど、早い時間に閉まってしまうから真夜中になると体が冷えきってしまう」


「とっても寒そうです」


「そう、とにかく寒いんだ。でもね、信じられないかもしれないけれどガスコンロやストーブは夜明けから日暮れまでしか使えない。どう思う? 電気? それがね、容量が少なくてエアコンも電気ストーブも電気ポットも無理で、なぜかコタツは禁止。どう思う? 電気はあっても使えるのは照明と冷蔵庫くらいなんだ」


「不思議なアパートですね」


「だよね。ぼくもそう思う。で、体を温めようと思って軽く体を動かすと、今度は床がギシギシ鳴るんだ。もし床が抜けたら、真下は大家さんが住んでいるだ。大家さんはお年寄りだからぼくが上から降ってきたら大変だろう? そんなわけで結局、この店で熱い紅茶を魔法瓶に詰めてもらって――魔法瓶はマスターに借りているんだけどね――真夜中にレモンを浮かべて飲んでいるんだ。毛布にくるまって……  あっ、ボロボロのアパートのことなんてどうでもよかった。変な話をしてごめんね」


 どうでもいい話題なのに自分でも不自然なほど饒舌だった。何かを隠そうとすると、隠しておきたい別の真実がひょっこり顔を出してしまうものだ。それは重々承知しているつもりだったが。


「大変ですね。でも、二人で暮らしたらきっとどんな所だって楽しいと思います」


「それはそうだ。今は一人で暮らしているから余計に寒いのかもしれない」


 彼女はほんの少し眉を寄せた。気のせいかもしれないが。

 

 マスターが銀のトレイを持ってこちらへゆっくり歩み寄ってきた。いつもと同じ真っ黒なレンズの丸眼鏡のふちに軽く人さし指を触れると穏やかな声で「お下げいたします」と、ぼくにだけお辞儀した。やはりマスターには彼女が見えていないのだ。


 マスターはパスタの白い皿と白いサラダボウル、それにいくつかの小皿と青いタンブラーを手際よく片付けるとテーブルを拭き上げ、奥のソファーに戻って深々と身を沈めた。


 彼女は―― 何かを思うように目を伏せていた。


「タチバナさん、どうしたの? 大丈夫?」


 彼女は瞳をこちらに向けると、首を縦に振った。


「ユウキさんのアパートは五十年以上前に建ったんですね」


「そうだよ」


「大家さんはユウキさんと同じアパートに住んでいらっしゃって、ユウキさんは半年前からそこに暮らしているんですね」


 つつましやかな老夫婦の顔を思い浮かべて、ぼくはうなずいた。


「もし尾道から手紙を出したら届くでしょうか」


「どういうこと?」


「大家さんに宛てて『同封の手紙を二階の上田裕樹さんに渡してください。お願いします』って」


 大家さんに? 


「はい」


 ぼくがノートを切り取ってアパートの住所を書いて渡すと、彼女はそれを見つめて不思議なことを言った。


「ありがとうございます。手紙はきっと今のユウキさんに届きます。でも、ユウキさんがわたしの家に手紙を出したら、受け取るのは今のわたしではなくて、二十年後のわたし、ですよね」


「二十年後の君……」


 ぼくはその意味することに気付いて愕然とした。頭がくらくらする。意識が薄らいで、ぼくの視線は失速した飛行機のように墜ちていく。濃紺のスカートに重ねた彼女の白い指の間に、ぼんやりと青い表紙のようなものが見えた。本だろうか。彼女は何を読んでいるのだろう? もしかしたら彼女が本当は誰なのかを知る手がかりになるかもしれない。 我に返って視線を立て直すと、向日葵が太陽を向くように彼女も顔を上げた。


「タチバナさん、今日は本を持ってきたんだね」


「はい、とても面白くて。何度読んでもまた読みたくなってしまって」


「そんなに面白いなんてうらやましいな。どんな本? もしよければ教えてほしい」


「これなんです」


 そう言って彼女は青い本をテーブルに載せた。


「ふーん。君は読書家なんだね。奥深いテーマがいくつかあったような気がするけれど、何だったっけ」


「わたしには難しいことは何もわからないんです。でも、なぜか同じ所を繰り返し読みたくなってしまうんです」彼女は遠慮がちに微笑んだ。


「同じ所?」


 難しいことは当然ぼくにもわからない。もしかしたらこれから先も永久にわからないかもしれない。今はわかっているつもりでも。


 彼女はぼくの目を見ると、いざなうように視線を落とした。青い表紙を開いて厚い本のページを丁寧にめくり、見開きを両手で捧げ持った彼女は、ぼくの胸へそっと本を寄せた。彼女の白い胸元から甘い香りが立ち、彼女の右腕はぼくの胸に触れた。


 彼女の制服の右袖には小さな袖章があった。青い唐草模様と白い鳥の刺繍。鳥のくちばしは唐草の上から三番目の、最も大きな葉をついばんでいる。それは尾道第三高校の校章にそっくりだった。いや、三高の校章そのものだ。


 ああっ、そうだ、今まさに目の前に揺れる白いスカーフ。襟から豊かにあふれたその純白が優美な弧を描いて左右の胸を広く覆うのも、その中心の結び目をふんわり大きくまるで白い花が咲くように美しく整えるのも、母校が女学校だった頃から受け継がれてきたという、尾道市民なら誰でも知っている伝統の装いではないか……  なぜ今まで気付かなかったのだろう。

 

 彼女は顔をこちらに向けて、「ここなんです」とささやくように言った。目が合った。ぼくたちは同時に小さくうなずいて、ぼくが見開きに手を添えると彼女はそっと手を離した。本を引き継いだぼくは小さな活字を目で追った。 





------------------------------------------------------------


 でも、それでもぼくの言葉をしっかりと覚えこんで、将来いつかその言葉に同意してください。


 いいですか、これからの人生にとっては、何かの美しい思い出、なかでも子供のころ、両親の家で過ごしているころに胸に刻まれた思い出こそが、何よりも尊い、力強い、健康な、有益なものになるのです、それ以上のものはありません。


 きみたちは教育についていろいろ聞かされるでしょう。けれど、子供のころから持ちつづけられる、何かすばらしく美しい、神聖な思い出、それこそが、おそらく、何よりもすばらしい教育なのです。


 もしそのような思い出をたくさん身につけて人生に踏み出せるなら、その人は一生を通じて救われるでしょう。


 そして、そういう美しい思い出がぼくたちの心にはたった一つしか残らなくなるとしても、それでもいつかはそれがぼくたちの救いに役立つのです…………


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―――そうか、彼女はここに強く惹かれたのか。


 まだ二十歳の元修道士が十二人の少年に語りかけるこの場面。かつてぼくもこの元修道士の言葉の崇高さに心を打たれ、人が最後まで人として踏みとどまることができる力の、その源泉に、まさに手が触れた思いで天を仰ぎ、涙がとめどなくあふれた、まさにその場面。


 けれどぼくはもう気付いてしまったのだ。あることが気になって何度も繰り返し読むうちに。



















・引用:"でも、それでもぼくの言葉を ~ ぼくたちの救いに役立つのです" 


    『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著 江川卓訳 











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