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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ありがとう、大好きです

ほぼ実話です。


母の闘病生活(祖母も)と感謝の気持ちを忘れないよう何か形にしたかったので書いてみました。


こういうものは初めて書いた、投稿したので誤字や脱字、文脈的におかしいところがありましたらすいません。

2017年11月8日の早朝、最愛の母が息を引き取りました。


思えば長いようで早くあっという間だったのかもしれない。


母が職場で倒れたという連絡を受けたのが約13年前の朝、仕事中の事だったように思う。


仕事中はあまり携帯をチェックしない人でその日も最初は後で見れば・・・くらいにしか思っていなくて仕事が終わってかけ直すと妹が泣きながら


「ママが貧血で倒れて救急車で運ばれた、お兄ちゃんどうしよう・・・・・・」


と、半分パニックになりながら伝えられ自分も血の気の引いていくのがわかりました。


前日の夜、いつものように仕事から帰ってきていつものようにお酒を飲んでいた母、いつからかほろ酔い気味になった母のなんでもない話や愚痴を聞きながら寝るのが当たり前になっていた気がする。


ただそんな当たり前になっていた会話のなか、数日前からは会話の最後に


「風邪かな? ずっと頭が痛くてね・・・薬飲んでるけど効かないのよ・・・」


と言う事が多くなり、そのたびに自分も妹も口をそろえて


「あんまり痛くなったり辛いならちゃんと病院に行かないとダメだよ」


と言っていたのを覚えています。


今となってはそれが母の身体からのSOSサインでその時に無理やりにでも病院へ連れて行き、検査を受けていればもっと違った形になっていたのかもしれないなと思わずにはいられません。


話が少しそれましたが、妹からの連絡を受けた後、急いで運び込まれた病院へ行くと父から


「お母さん、最初は貧血って運ばれたけど、調べたら血圧が200超えてるようで脳梗塞の疑いあり、さっきまで意識はあったが今はなく・・・緊急手術になりそうだ」


と伝えられ、頭の中がぐちゃぐちゃで何も考えられなくなり立ち尽くす事しか出来ませんでした。


それからの数ヶ月は家族みんなで病院へお見舞いに行ったり、泊り込みをしている父へ差し入れを持って行ったり、みんなで協力してなんとか頑張り全部で合計9回?だったかの手術の末、何とか一命は取り留めた母


でも、その代償は決して軽いものではなく、右半身不随、言語障害、etc・・・という重いもの。


どんな状態であれせっかく助かった命、家族で相談して頑張ってみんなで母を見ていく確認をしたのを覚えています。


そしてしばらく入院生活が続くものの体調が快復してきたのもあり、退院・・・また母も一緒の生活が始まったところで今度は母ではなく同居していた祖母(母方)に異変が・・・


祖母はまだまだ元気で自転車に乗りあっち行ったりこっち行ったりしていた人だったが、ある時にふと気づくと1日に何回もご飯を食べるようになり・・・今しがた食べても数分後にまたみたいな感じで・・・


次第に冷蔵庫の中のものを漁ったりするようになり、お風呂には1月に1回入るか入らないか、服の着替えなどもほとんどしなくなったのです。


その頃になると、家族で相談して自転車には乗らせない方がいいかもという事になり自転車は引き取ってもらったが、何故かふと目を離すといなくなる日が増えだし、探しに行ったりするも見つからずいるとひょっこりと帰ってきてどこに行っていたのか聞くと


「母の妹ちゃんのところに行ってご飯を食べてきたのよ?」


と、何事もなかったかのように言う祖母、そのとき自分はかなり驚いたのを覚えています。


なにせ母の妹さんのところは自宅から片道、数十キロは離れているところにあったからなのです。


それから数年?祖母の状態は変わらず、ふらっと出て行くと帰って来たりを繰り返していて、探しに行くも見つからずまたいなくなったある日の夕方、警察が来て祖母が交通事故で病院に運ばれましたと告げられ急いで病院へ行くも即死だったようです。


今にして思えば、祖母の誕生日に年齢を尋ねてみても母が倒れた時の年齢をずっと言い続けてたし徘徊?するようになったのも母が倒れたのがショックすぎてそうなってしまっていたんだなと思う。


すべてが終わった後、自宅から事故現場がそこそこ近くつらいという事と母にもっと広いところでゆっくりしてもらおうという事になり家族全員で今の家に引っ越す事に決めました。


今の家に引っ越して約7年ほどかな?

母も祖母が亡くなってつらかっただろうし、毎週あるデイサービスへ通うのもつらかっただろうけど、デイの職員さんたち、主治医、看護師さんたち近所の人たちもみんな良くしてくれたし家に出来た母の部屋も日当たりが良く過ごしやすそうで自分も含めみんな幸せだったと思います。(きっと祖母も)


母が倒れてから今までなんて話せばいいかわからなくてあまり話しかける事はなかったけどたまに話しかけると声にならない声で泣いたり笑ったり、動かせる左手を伸ばして来てくれたのはもちろん、自分が髪を切ってきた時には毎回、大笑いしてくれたのは今でも忘れられません。


年数を重ねるにつれて食が細くなって痩せて・・・辛うじて自分で食べれていたのが徐々に食べれなくなり、動かせていた左半身もほとんど動かさなくなっていきましたが、歳を取って老けはするものの母の笑顔はそこにありました。


晩年は誤飲することが多くそれが原因の肺炎やちょっとした事で体調を崩すなどで入退院を繰り返していましたが、退院してきたときはそこに母がいる、それが自分たち家族の日常だったんだなと思います。


今回も約3ヶ月の入院を経て体調が快復して元気になってきたので退院してきたところだったのに・・・


数日前からちょっと体調が悪く、週明けに先生と相談かなと言っていた矢先の2017年11月6日、早朝に妹から職場に


「ママがっ、ママが息してなくて・・・もうダメかもしれない、早く帰ってきて!!」


と連絡があり真っ白になる頭、震える手で急いで帰ると父が心臓マッサージをしていて救急隊員さんに代わり救急車で搬送されるところで・・・慌てて病院へ行くと主治医の先生から奇跡的に心音と自発呼吸が回復したが、意識が戻らないのでどうなるかわからない、心拍数が異常に早く通常の3倍ほどもあるので1~2時間くらいが限界かもしれないと伝えられると妹と2人、涙が次々と溢れそれを止められないままでした。


結局のところ主治医の先生や看護師さんたちに任せるしかなく何も出来ない気持ちで悔しかったけど、そうする他、やれる事はなく自宅へ帰る事になりましたが、それから約3日・・・帰らぬ人となってしまいました。


状態が悪化しはじめてからあっという間で時間が早朝だった事もあり家族の誰1人、見取ってあげれなかったけど1~2時間くらいが限界と言われていたのが約3日、苦しいだろうに頑張ってくれた母に感謝をしてあげたいです。


本音を言うと心残りはたくさんあるし、どんな状態であれもっともっと一緒にいたかった、生きていて欲しかったよ・・・


自分自身、まだ心の整理なんて出来ていないし、ふとした時に涙は止まらなくなるしで向き合うまで時間はかかると思うけど・・・約13年の闘病生活を含む66年間、お疲れ様でした。


母にとってはいくつになっても頼りない子供だろうけどこれからもっとがんばるからしばらく泣く事を許してください。


最後に・・・自分を、妹を産んでくれてありがとう、お母さん「大好きです」

お読みいただきありがとうございました。

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