5.梅雨空は薄暗かった。
「ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらんっ、てねぇ」
外を見上げると、どんよりした雲がどこまでも続いていた。あれから一ヶ月。国民のほとんどすべてが恐れていた梅雨が訪れてしまった。梅雨は例年、洗濯物が片付かないだとか、カビが発生して大変だとかいろいろ嫌われているけれど、今年の梅雨はその比ではないくらい、みんなから恐れられていた。これほど梅雨入りの宣告にビクビクした年はないと、みんなも呟いている。
「べどべどぬちゃぬちゃ、らんらんらん、だのぅ」
一番乗りだと思って、ひとりごとを呟いていたつもりだったのだけど背後から教授の声が聞こえてびくりとなった。
「あんまり、らんらんらんって感じじゃないみたいですけどねぇ」
外を見下ろすと、傘をさした生徒達が登校してくるのが見えた。時折飛来物Nを見上げては、はぁと絶望的なため息を漏らしているのが見える。
「それで、明石くん、研究はどうなのじゃね?」
どうなのじゃね、と問われても、研究データを統括しているのは教授なのだから、私などにきくのは筋違いだ。でも、これも試験かなにかの一環なのだろうと思って、現在の状況を頭に浮かべた。
「サンプルの採取は出来ませんし、落下した後の水もとくにおかしい点はありません。何らかの電波や電磁波、その他の異常も見られないのですよね」
とりあえず、不真面目ながらも、ここ一ヶ月でそれなりの研究というものはやった。ほとんどが外での測定になったわけなんだけど、それでもたった一ヶ月でなにかの解決の糸口が見えるはずなんて無かった。
「ただ、ご存じの通り、範囲は依然拡大しています。一ヶ月で半径二百キロって所ですか」
「このままのペースだと、あと一ヶ月やそこらで本州制覇じゃのうー」
ちょうど出来上がったコーヒーを注ぐと、教授はそれを飲みながらやる気なく呟いた。
「他の大学との連携はどうなってるんです?」
「正直それほどつながりはないんじゃよ。上から研究費がばんばん支給されるだけで、猪突猛進って感じじゃな」
それはそうと、他の連中はなにしとるんじゃ? と教授は首を傾げた。いつもならば熱心な学生があと四人ほどすでに学校に来ているはずなのだけれど、姿が見えないことをいぶかしがっているようだった。
「飛来物Nの観測だそうですよ。置き手紙ありましたし」
私がぴらぴらと置き手紙を見せてあげると、うむーと呻いてもう一杯コーヒーのお代わりを注いだ。
大体、研究会の約七割がやる気を出して飛来物Nの研究に没頭していた。雨合羽を着て、ねとねと降ってくる飛来物Nの中をかけずり回っている。
「みんな、ご苦労なことだのぅ……」
「って、そんなくつろいでないで、教授もなにかやらなくていいんですか?」
尋ねると、教授はあくびをしながら、わしはただ見守っているだけで良いんじゃ、とだけ言った。
私はそんな態度の教授を尻目に、資料にもう一度目を通した。ここ一ヶ月でいろいろな研究者が発表したデータがここにまとめられている。
「やっぱり、私達も例の村に行くべきなんですかね」
調査結果は、ハジマリの地である例の山村のものが異様に多かった。この飛来物Nの発生地の中心。そこにはなにかあると踏んで研究者が殺到したという寸法だ。村の旅館はもう満杯で、本格的に寄宿舎まで作って研究を続けている人もいるらしい。
「温泉とか沸いてるのかのう?」
けれど、教授はいつもの調子でそう言うだけだった。
実際の所、うちの大学からも現地に飛んで調査しているグループがいるから、我々は行く必要がないといったところなのかもしれない。
「それよりも、明石くん、別の研究やりたくないかの?」
「やりたいですけど……これじゃ、そうも言ってられないじゃないですか」
ほとんどの人間が飛来物Nを追っている今、表だって飛来物Nの研究をやらないというと、周りの人間からの風当たりが強くなるに決まっているのだ。なかなか、この状況では他のことなんてできない。
「金をかけずに密かに研究すればいいんじゃよ。若いうちはなるべく知識を一杯貯めて、アイデアだけこねくりだしておけばいいんじゃ」
「でも、そういうわけにも……」
「そもそも、今の状態が異常なんじゃよ。学生のうちは各自バラバラの研究をやるはずなのに、集団で飛来物Nなんぞにかまっているしのう。資料整理だけやってくれれば、わしとしては全然かまわんし、他は自分の事やってくれてかまわんよ。質問にだって、わし、答えちゃう」
答えちゃう、と可愛らしく言われても、やっぱりちょっと他の学生の手前そうもいかないような気がしてしまう。やってみたいことはあるけど、堂々と研究するのが今は怖い。きっと、みんなは私を糾弾するに違いない。おまえはどうして、飛来物Nに危機感を抱かないのかと、今でも口をすっぱくして言われているくらいだ。
「……考えておきます」
だから、この答えが今の私には精一杯だった。
コーヒーの準備をしながら、テレビのスイッチを入れると、朝のニュースが流れ始めた。ニュースキャスターはもうほとんど沈痛な顔も出さずに、満面の笑顔でニュースを読み上げていた。慣れというのは本当に恐ろしい。
「世間は気楽に新製品の紹介……か」
今朝の紹介コーナーは、スマートフォンの新機種の紹介だった。最近の携帯は各社いろいろな種類があるから、紹介するには事欠かない。
それを聞きながら、コップに氷をぎっしりいれて、コーヒーを注ぎ込む。やっぱり夏は暑いからアイスコーヒーだ。
昨日は徹夜で文献を手繰っていたので、瞼がやたらと重かった。本当は梅昆布茶とかのほうが好きなのに、ここの所ずっとコーヒーのお世話になりっぱなしだ。
教授にはああ言われたものの、やっぱりなかなか自分のやりたいことがやれる環境は作れなかった。辛うじて教授が、この飛来物Nにまつわる記録を命じてくれたおかげで、それ以外の活動には目を瞑ってもらえている物の、狂信的な同期生達は私のやる気のなさにイライラしているようでもあった。
いや、言い直そう。きっと、私に対してイライラしているのではなくて、飛来物Nの調査に行き詰まってきているのが主な理由なのだろう。
会の発足から三ヶ月、季節が夏になってもなお、飛来物Nはねとりねとりと空中を占めていた。調べても調べても成果は上がらず、現象そのものの原理がわからなければ対処の仕様もなかった。考えられるのは飛来物Nがなるべく早く消えるように高い位置に屋根を設置するだとか、雨の日は外を見ないだなんていう消極的なものばかり。残念ながら、この飛来物Nを元の雨に戻すような技術は、未だ見つけられていなかった。
けれど、この切迫感が一般の社会生活にも充ち満ちているかというと、必ずしもそうとは言えなかった。
教授に言われたように、私の役目は飛来物Nにまつわる記録なので、何気ない近所の世間話や、周囲のちょっとした反応、テレビの報道の移り変わりなんかも記録しているのだけど、飛来物Nが降り始めた頃にくらべれば人々の反応は変わり始めていた。
未だに、納豆が怖くて外に出られないといった人やら、空から降ってくる物体から目をそらして別の事を考えながら歩いているような人もいるけれど、概ね飛来物Nに対して、一般庶民は慣れてきているようだった。
結局、納豆が降ろうがなんだろうが、自分達はそれに対処できるはずもないのだし、生活する上でさほど支障がないのだから、それでいいやと開き直った感じとでもいえばいいだろうか。
そんなどうしようもない飛来物Nなんかに構っているよりも、大根が一円でも安いお店を探したり、いい男に夢中になることの方が数倍マシということだ。
メディアの方も、降り始めの頃はさんざん『脅威』だとか『驚愕』とか『世界滅亡』みたいな言葉が踊っていたのに、三ヶ月たった今ではもうその話題は当たり前になってしまって誰も語ろうとしていない。せいぜいが天気予報の時に、今日はどこどこまで納豆が降りましたといった報告程度だ。
現在では中心地の村から半径約千キロ圏内に納豆が降るようになっていた。ほぼ本州を丸飲みして、辛うじて九州だけにはまだ、水の雨が降っているといった感じだ。
むしろ、今騒いでいるのは海外のメディアで、日本人がハワイでの大雨を心地よく全身で浴びている姿なんていうのを面白可笑しく描いていたりする。彼らにしてみればこの現象はまだ対岸の火事だ。きっとあと四年も経って、飛来物Nが彼らの空を埋めるとき、今の日本人の気持ちという物がわかるようになるだろう。
「やっぱし、徹夜はきついなぁ」
ひんやり冷えたアイスコーヒーを一気に飲み込むと、頭がきーんとした。眠気が多少とれたような気がする。しゃっきりすると、白いご飯をよそって、冷蔵庫から取り出した白いパックを開けた。
「やっぱし、納豆はこういう匂いしてないとだよねぇ」
魯山人式の納豆の食べ方なんていうのをこの前きいたので、とりあえず何も入れずに三〇五回こねくり回し、醤油を入れてから残り百十九回を混ぜてみる。本来ならネギとか和辛子を入れるそうなのだけど、面倒なのでそれはなし。とろとろのお豆をご飯の上にのせればそれで完成だ。
一時期、この世の悪の集大成とまで言われた納豆の出荷量も、今ではある程度回復しているのだそうだ。空から納豆のようなものが降っているからと言って、納豆業者が犯人と決めつけるような人間が減ったということだろう。もしくは混乱が落ち着いて、飛来物Nなどどうでもいいと思う人間が増えた証拠なのかもしれない。ねばねばしたモノが好きな身としては、この周囲の人間の寛大さはありがたかった。あの騒動のせいで、食用の方の納豆が市場から消えてしまったら私は哀しい。
「ごちそうさまでした」
しっかり手を合わせて、お茶碗を軽く水ですすいでねばりを落としてから浸けた。この粘りは口に入ればごちそうだけど、やはり手なんかにつくと厄介な代物だ。本場の納豆様に比べたら飛来物Nなんて、たんに見た目が糸を引いているだけの豆に過ぎない。
それから、窓際に出て外を見た。温かい光がベランダに溢れていて絶好のお洗濯日和だ。食事前につけた洗濯機が止まる音を確認すると私はそれらをベランダに干した。
こういう天気の日は、納豆が空から降っているだなんてことを忘れさせてくれる。ベランダから表通りの方を見ると、歩いている人達もにこやかで元気そうだった。金物屋のおじちゃんなんて、まだ八時だっていうのにシャッターを開けて店を開けてしまっている。
「こんな時間から金物買う人もいないと思うけどねぇ」
けれど、きっと心情的にお店を開けていたいのだろう。日の光を浴びているだけで、滅入っていた気分がどこかに飛んでいくような元気がもらえるような気がするから。
そんなことを思っていると、金物屋に人が入っていくのが見えた。ここからだとどんな人なのかはよくわからないけど、随分と奇特な人もいるもんだと思う。おじちゃんの話だと、最近包丁を買う人が増えたんだそうだ。あの人ももしかしたらそうなのかもしれない。
「納豆が降ったら包丁が売れる……っていくらなんでも関連性ゼロっぽいよね」
例えば飛来物Nに金属が接触すると腐食が早くなるとか……ってそんな研究データはどこにもなかった。飛来物Nはどこまでいっても、「アメ」で無くなった時点でただの「雨水」になるのだから、そんな力があるはずもない。
「まぁ、偶然偶然」
洗濯物を全部干し終えるちょうどその時、出発時刻を告げる目覚まし時計のアラームが鳴った。今日は洗濯をしようと思って気合いをいれて十分早く動き始めたおかげで、ちょうどいいくらいだ。今から鏡の前で睨めっこをして出発支度を整え始めれば十分に間に合う。
もともと化粧っけのない私だけど、鏡を見るとよくやつれた自分の姿が写っていて愕然とした。やっぱり睡眠時間が削られるのは人間として厳しい。
「ほとんど二足のわらじ状態だもんなぁ」
はぁ、と軽く息を吐いて荷物を持ち上げると、部屋のチェックをしてから外へ出た。研究資料がどっさり入った鞄は肩にきしきしと食い込んだ。
残り二話となりました! 四万字以内には収まるはずではあるのですが……
納豆は美味しく食べたいものです。