死に遭遇するまで
一葉が目を開くと、そこには見渡す限りの大草原が広がっていた。
「うん…?」
寝ぼけた様子のままぼんやりとあたりを見回す。
すこし頭を振ってみるが景色に変化は見られない。
「天国かな…?」
記憶を思い返すが、
あのどうしようもなく嫌な気分と、
あの廃墟から飛び降り自殺をした、
その後の行動に覚えがない。
一葉はゆっくりと立ち上がり、
ズボン(何故か服装は上下共に学校指定のものだ)についた雑草を払う。
身に覚えのない場所。
そもそもこんな風景を見たことすらないという事実。
自殺を試みたはずの自分。
それらから導かれる結論とは。
「夢か天国か地獄か、あるいは異世界に来てしまった、か」
いや、自殺するような神経の人間に正常な判断ができるだろうか。
そもそもその前から廃墟に住んでいることに気づいてもいなかったような。
完全に、狂ってしまっていたはずだ。
「例えば精神病で自分の妄想を見ている、
という方が現実的な自分の状況というのは我ながら寂しいものがあるな…」
さて、と一葉は再び自分に向けて言葉を発する。
この意味の分からない状況を言語化していく。
「俺はあの日、飛び降り自殺を試みたはずだな。それは間違いない。
世界に嫌気がさして、逃げるように跳んだはずだ。
その後、今、目の前にはどういうわけか見覚えのない草原が広がっている。
これも、まぁ、妄想かもしれないがひとまずは現実のものと仮定して、
そうすると俺は飛び降り自殺に失敗したあげく何処ぞやの誰かによってこの場所に運ばれていることになる。
運ばれた理由は…そうだな、一つは死体だと思って人気のないところにまで捨てられたか、
もう一つは一度起き上がって自分の意思でここまで来たもののそのまま倒れてなんやかんやと記憶が抜け落ちている、
とかそんなところでいいかな。
誰一人として俺を生かしておこうとする人間に心当たりがないからな。あとは…」
と次々に浮かんだ考えを言葉にしていると、一葉は一つ大きな違和感を覚えた。
自殺するまえの自分はろくに人間生活を送っておらず、かなり痩せ細っていたはずだ。
しかし今自分の手足を見るに、どうやらその当時ほど痩せきっているわけではなさそうだ。
顔にもぺたぺたと触れて確認するが必要以上にやつれている、という感触は返ってこない。
「これは…だから、あの時から結構な時間が経っている、ということか?
そうでなければこんな、普通の体型にまで戻らないよな…。
いや、いっそのことファンタジーのごとくあの自殺を試みた世界が全部妄想とか夢だとかはいかがだろうか。
俺黒田一葉はこの草原広がる世界の住人で、
この夕暮れに染まりつつある草原で気持ち良くお昼寝をしていて、
うとうとと見た夢がたまたまそんなひどい夢で丁度その夢から醒めた、みたいな」
誰に説明するわけでもないのに説明口調のまま一葉は身振り手振りまでつけて話を続ける。
混乱しているわりに饒舌だなと自分でも感じるが、
案外人間そんなものなのかもしれないなどと頭の中でおどけてみせる。
「なわけないですよね…ここどこだ本当に」
周りを注意深く見回してみても、名前も知らない草が茂っているだけである。
その視界に一本、大きな木があるのに一葉は気づいた。
というか、その木以外に、何も、ない。
「ひとまずの目標が決まったな、歩くか」
そう呟くと、一葉はさっさと何もない野原を歩き始めた。
目印になりそうに思えたその大樹は案外遠く、たどり着くまでに20分程度の時間を要した。
見た時からわかってはいたことだが、しかし実際に目の前にしてみるとなかなか巨大な木である。
「このサイズの木は初めて見るな…まぁ都会っ子だったのが主な理由だとは思うが…」
もちろん木があったからといって他に民家などが見えたわけでもないのだが、
なんとなくこの大樹を前にした一葉は不思議と安心感を覚え、
夕日に染まる空を眺めながら今日はもうこのまま木の根っこに寝そべってしまえ、
という気持ちになっていた。
幸い、今から夜になってもさほど寒くもなさそうな気候だ。
冷たい風が心地よいくらいで済むのではないだろうか。
そう思いながら、いったん木を背に腰を落とす。
「ふぅ…これから、どうしたらいいんだろうな…
水とご飯もなければ人の気配もないし、ついでに植物以外のものに触れてすらいない」
ぶつぶつ喋りながらも座ってみると、
疲れが残っていたのかあるいは先ほどの20分のウォーキングが早速足に来たのか(一葉としてはあまり認めたくないが)、眠気が襲ってきた。
どうせここで眠る予定だったしな、と一葉は睡眠欲の命ずるままに惰眠を貪ることにした。
再度起床。
辺りはすっかり暗くなっていたが、世界が変わったわけではなさそうだ。
相も変わらず、一葉には大きな木と力強く生い茂る雑草しか見えない。
ゆっくりと立ち上がりながらまたしてもひとりごちる。
「ふわぁ…よく寝たな…いやよく寝るのが早すぎたな…
これでは本来睡眠を必要とする時間帯に寝ることができず脳に上手く栄養が行き届かない恐れが…」
「あーっ、起きたんですね」
「んー、あぁ、なんだか仮眠を上手にとれた感じだな、かなりすっきりしたよ」
「それは良かったです、私もさっき丁度起きたところでして」
「そっか、じゃあとりあえず今後の予定でも話しあおうかうぉいっ!!??」
「やっと気づきましたね、っていうか遅いよっ!色々っ!」
一葉の横に、見たことのない少女が立っていた。
紺色のセーラー服に赤いリボンで身を包み、
さらさらしていそうな黒髪を割と短めに揃えており、
身長は標準くらいと思しき、
かなりすらっとした細い体型の、
そんな少女が、
立っていた。
「え、ええと、どちら様で?」
「私?私、野上結、よろしく」
「のがみ…むすび?」
「うん、私の名前、の、が、み、む、す、び、ちょっと珍しいでしょ?
漢字で書くと普通に野原の”野”に”上”、それに紐を結ぶとか結末の”結”」
「ああ、確かに、珍しい名前ですね…
その漢字なら”ユイ”とかって読ませそうですもんね」
「ですよねー、私もそう思うなー、気に入ってはいるんだけどね、
初対面だとちょーっぴり恥ずかしいかなって、えと、それで?」
「それで?」
「あなたは?お名前」
「おう、俺、は、黒田一葉って言います」
「うん?ごめんなさいもう一度お願いしても良いですか?」
「黒田、一葉、漢字は色の”黒”に田んぼの”田”で数字の”一”に葉っぱの”葉”で黒田一葉」
「くろだいちよう…私に負けず劣らず珍しいですね」
「そうかな」
「というか女の子の名前っぽいです」
「言わないで下さい少し気にしてるんですそれ」
一葉はふぅっと一息ついて、改めてこの少女に向き直った。
制服を着ていることから学生であることは間違いなさそうだが、
見たところどうだろう、中学生くらいだろうか、あるいは意外ともう高校生だったりするのだろうか。
自分の高校では周りは皆ガリ勉ばかりであったし(当然その中に一葉自身も含まれるのだが)、
ろくに異性の友人もいなかった一葉には外見や雰囲気だけで相手の年齢を正しく推測するだけの力量があるはずもなく、
ついでに言えば、
「ええと、野上、さんは、今、いくつ?」
と、年齢を軽々しく聞く、という微妙に節度のなっていない言動にも自覚は持てていないのであった。
「わー、まぁ学生の間はそんなこと気にする人いないと思いますけどねー、黒田さんたぶん素ですよねそれ」
「んん?」
「いえいえ、私、今高校一年生になったばかりの15歳です。」
「おぉ!ええと、大体当たってますね!」
それより低く予想していた、と言わない程度のモラルだけは一葉にもあった。
「制服着ているのに大体を外すって感覚がわかりませんけど…黒田さんは?」
「俺は先月高校3年生になったところだ、2コ上になるのかな?」
「みたいですね、ではなんだか不毛な自己紹介も終えたことですし、ひとまずよろしくお願いしますね、先輩」
「せっ、先輩って」
「いいじゃないですか、年上の呼び方として最も楽なんですよ、先輩って」
「あぁ…確かに先輩って付けるだけで敬っている感じが出るし、
さん付けだとちょっと歳の離れた近所のお兄さんとか、
憧れの芸能人とか少し遠い人の印象が強くなるせいで目の前にいる人には使いづらいんだよな、
実は先輩ってただ学年が上の人って意味なのにいつからそんな敬いのニュアンスを含むようになったんだろうな、
これは政治家のことを先生呼びするのと同じ現象だよ学校の先生はわかるしお医者様もわかるが何で政治家のことを先生って呼ぶんだろうな、
いやこれは少し論点がずれてるかむしろ学校の先生のことを先生呼びするのはただ役職を呼んでいるだけなのに、
何故かそうしないと怒られることの方が今回の先輩呼びと関係性が認められるかな」
「ごめんなさい何言っているのか全然わかりませんでした」
「おい」
「先輩ひょっとして頭良い風でただ人に理解させる気のない小難しい単語をつらつら話しだす隠れ馬鹿なんじゃないですか」
「思いのほかズバッと切り捨てたね初対面の先輩のこと…」
「…」
「ん?どうかした?」
「怒らないんですね、見ず知らずの人間にひどい事言われたのに」
「初対面とはいえ、こんなテンポで話ができてる間柄の人に今のノリで何言われてもそんな怒るようなことないだろ」
「そういう見方もありますか」
「怒らせようとしてたのか」
「一応は、今後の動きを共にするかどうかふるいにかけたつもりです」
「さらっと言うねまた」
「ま、よほどひどい人じゃない限りは一緒に行動してもらえた方が助かるのも事実ですし、
先輩は、先輩も制服ってことはやっぱりここがどこなのかとかはご存じないんですよね?」
「ああ、ほんの少し前に起きてふらふら目についたこの大木に向かって歩いてきてまたひと眠りして今に至るよ」
「あはは、私とおんなじですねー」
と、急に結は八重歯を覗かせながら笑顔になりその場で両手を広げてゆっくりと回り始めた。
その仕草を見て一葉は素直にかわいいな、と思った。
「一体ここどこなんですかねー」
「さぁ…俺は今まさに野上さんに会ったことでこれが自分の妄想説を取り下げる必要が出てきて正直困ってるところなんだ」
「結」
「へ?」
「私、親しい人に苗字で呼ばれるの、あんまり好きじゃないんです、だから、結、って呼んでください」
「え、親しい?いや、ああ、わかった、じゃあ、その、結、さん?」
「いや先輩の方が先輩なんですからそこは呼び捨てでお願いしますよ」
「いやいやいやそうは言っても俺女の子の友達とかいなかったからさ、それは、ちょっと難易度高いといいますか」
「照れてるんですか?」
「照れてるんですよ」
「じゃーあだ名でいいですよ、さっき先輩も言ってましたけど、
”むすび”って読み方は珍しいので結構”ユイ”って呼ぶ子も多かったので、
そっちなら名前っぽいですけどあくまであだ名ですから大丈夫ですよね?」
「大丈夫なように努力は、する…ユイ」
「はい、よろしくです、一葉先輩」
「…」
「あれ?一葉先輩?」
「ほんの少し、待って欲しい…」
「照れてるんですか?」
「照れてるんだよっ!」
10秒ほど顔がにやけるのを必死で抑える一葉。
それを見てくすくす笑う結。
「それで、なんでしたっけ、さっき一葉先輩が言ってた、妄想がどうのこうのって」
「この世界が夢だったりしないかなって、そう思ってたけど、こうして話ができる相手がいるんじゃ、そうもいかないか、って」
「そればかりは自分で証明のしようがないですものね」
「相手がいるから証明できるってものでもないけどそれ言い出すと議論が進まないからな」
「ですねー」
「だから現実にこの世界に来てしまったというのを大前提に今後どうするか考えたいところだけど、まずはこの世界の住人に会いたいんだよな」
「人がいれば、ですけどね」
「そこだな、俺ここに来てからまだそれらしいものってこのでっかい木しか見てないんだけど、ユイは何か見た?」
「いいえー、全く一葉先輩と同じ状況です」
「うーん、今日の所はいいにしても、明日起きたら少し歩いてみるしかないか…食料の確保と、その、下世話な話だけど、そういうのも考えないとだし…」
「あぁー、それは死活問題ですねー、あんまり考えたくはないですが」
「人がいることを祈って今日の所は寝るしかないかな、さっき起きたばっかだけど」
「ですかね、私たちのない頭で色々と考えていても正しい答えが導かれる気がしません」
「反論はしないがもう当たり前のように俺を巻き込むんだな」
「巻き込みますよくるくるーっと」
「くるくるーって…」
「あ、そうだもう少し雑談を続けさせてもらいますね一葉先輩」
「ん、なに?」
「その制服、少し気にはなっていたんですが、ひょっとして…」
「ああ、これか…」
なるほど忘れていた。
一葉はその両親の教育方針からいわゆる英才教育を幼いころから強いられてきており、
つい先日まで(つまりは一葉が幻覚を見るほどに狂ってしまう前まで)通っていた高校は全国でも有数の進学校であった。
そして、その高校は、一葉の父親の経営するVandal社が大きく援助していることでも有名な、
『私立鉄高等学校』。
“くろがね”と苗字の”くろだ”で”くろ”を被らせているのは父親のこだわりらしい。
そしてその制服にはVandal社のロゴを基調としたデザインが施されている。
そのため、一般認知度はVandal社の認知度にほぼ等しいといっても過言ではない。
しかし、進学校という施設は得てして、
『頭が良い』というイメージよりは『お坊ちゃま、お嬢様』というイメージが先行しやすいものである。
よってこの制服を着て帰路につけば、
周りからの視線が羨望と卑下が6:4程度の割合で自分の体に突き刺さる。
それを一葉もよく知っているので、あまり話していたい内容ではない。
「うん、あそこの生徒なんだ俺」
「へぇ、じゃあ本当はお勉強できるんですか、それともお金持ちなんですか」
「おぉ、やっぱりそこもずばずば来るんだな」
「もちろん言いたくなければ大丈夫ですよ、無神経な質問をしている自覚はありますから」
「いや、構わないよ別に、どっちかと言われたら、後者に区分されるのかな、やっぱり」
「お金持ち、ですか、どうなんですか実際、鉄高校って」
「良くも悪くも勉強一筋だよ、
金持ちだろうが努力家だろうが皆良い大学入って良い会社に就職して安定した生活を送りたい、
そのために今は何においても勉強か、そうでなければコネ作るための勉強って」
「一葉先輩もですか?」
「ううん、俺は、もっと…―いや、俺もそんなつまらない生活を送っていた、気がするよ」
「そうですか…」
「なんか、ごめん、この話こそつまらないよな」
「いえいえ、私から聞いた話です、一葉先輩が気に病むことなんて何もないですよ」
「そっか…ユイは、高校上がったばっかって言ってたっけ?」
「はい、始まって1か月くらいですね」
「ユイの性格なら1か月もあればすぐ友達できただろ、かなり楽しい時期じゃないのか?」
「いえ、そんなこと…ない、ですよ」
出会ってからこれまでずっと高いテンションをキープしてきた結が初めて声を静めた。
一葉はそれを見逃さなかった。
この話題はダメだな、と直感してさっさと話を終わらせる。
「あーもうそろそろ雑談も切り上げるとしようか、
ご飯が見つかってない今、夜まで喋りとおして疲れ果ててしまいましたなんてことは避けたいし、
眠気はないかもしれないけどせめて横になっていればそのうち寝れるだろ、
ユイは、それ以外に服とか持ってないよな?」
「へっ?はぁ、うん、この制服だけですよ?」
一葉は制服(曰く、お坊ちゃまらしいブレザー)の上着を脱いで、それを結に差し出す。
「今はそんな寒くはないけど、これから冷えるかもしれないから一応これかけときな」
「でも一葉先輩がシャツだけに」
「いいから!あれだ、男はこういうとき恰好つけたい生き物だから!」
そう言いながら一葉は上着を結に放り投げる。
結はそれを受け取り、数秒思案顔を浮かべてから、先ほど見せたように八重歯をぐいと覗かせながら、
「なら、遠慮なくもらっちゃいます、一葉先輩、ありがとうございます」
と、笑った。
その笑顔は一葉の心の不安を一気に吹き飛ばすほどに、かわいらしかった。
「さーて寝るかー」
と、一葉が横になろうとしたその時、慌てた様子で結が声をかけた。
「せっ、先輩!一葉先輩あれ!」
「ん、なんだユイ?」
「あれ、人じゃないですか?」
「んんー?」
結の指差す方向に、確かに小さく人影が見える。
「おお本当だ!よくこの暗い中見つけたな!っていやそれより、話聞きに行こうか」
「はい、そうですね」
「あのーっ、すみませーんっ」
「すみませーん」
その人影に呼びかけながら少し駆け足で近づいてく。
徐々にはっきりしていく姿形は、やはり人のものだった。
こちらの呼びかけに反応したらしく、向こうも駆け足で来てくれているようだ。
その姿がだんだん大きくなる。
お互いの近づくスピードがだんだん速くなってきている。
速く。
早く。
迅く。
「…ユイ」
「なんですかー?」
「…逃げるぞ」
「えっ?」
「全力で、後ろに走れ!!」
「えぇっ!?」
「行くぞ!!」
一葉は前に向けていた体を180度回転させ、
まだ隣でぼんやりしていた結の腕をつかんで自分に出せる全速力で来た道を引き返した。
急に腕を引かれた結は未だに混乱したままで「えっ?なに?なに?」と叫んでいる。
しかし今は結の言葉に構っていられない。
一葉はさきほどの人影が近づいてくるのを見て、根源的恐怖を感じざるを得なかった。
どう感じたのか、それはたった一言。
「速すぎるっ…!!」
「速いっ?って、何がっ?」
「後ろ見てみろっ!!」
「後ろって…えっ!?あの人もうそこまで来てるっ!?」
「くそっやっぱりか!!」
「どういうこと!?」
「知らん!!ただ、さっき影が近づいてくる速さが、どう考えても人間の走るレベルを超えてたから!!」
「そんなの普通気づく!?」
「鉄高校の3年理系が言うんだ信じろ奴との距離と奴の速さを目測でざっと計算してみたら、
普通に高校生男子の倍以上の速さは出てるっ!!」
「わぁ一葉先輩インテリ素敵っ!」
「あいつはっ!?」
一葉と結が同時に振り返ると、
既に手の届く距離に、その大きな男は構えており右腕を高々と振り上げているところだった。
「「ぎゃあぁぁぁぁぁ!!!!」」
二人して泣き叫んでいると、
結が自分の腕をつかんで前を走っていた一葉に足を絡ませて並んで転倒してしまった。
しかしそれが幸いし、すんでのところで追いかけてきた男が振りかざした腕の軌道から二人は逃れることができた。
一葉と結が転げたせいで空を切った腕はそのまま勢いを殺すことなく地面をばちん、と叩いた。
指の先が当たった部分は多少土を抉りつつも、
腕がまるで曲がることをしらない棒のようにただただ振り切っただけのそんな軌道を描いて地面にぶつかったため、
掌などは思い切り痛そうな当たり方をしたらしい。
小石にでも当たって擦れたのだろうか尻餅をついていた一葉の目の前で男の、
少しだけ血が出てしまっている腕がぶらんとしていた。
「ぐっ、大丈夫かユイ?」
「はい、すみません足ひっかけちゃって」
「いや、全然、立てるか」
「はい…」
と再び襲いかかってくる前に距離をとろうとした一葉の目に驚愕の光景が目に映る。
「っ…!?」
先の行動で多少の出血をしてしまっていた男の腕の傷が、みるみるうちに塞がっていた。
目を疑っている間にその傷は跡形もなく消えており、
また、男は臨戦態勢を整えきっており、
そしてその腕の傷が治るのに一葉が茫然としていた一瞬に、
男が今度は左腕を振りかぶって、
今にも一葉に落とそうとしていた。
「一葉先輩危ないっ!!」
どんっ、と体が傾く。
世界が斜めに揺らぐ。
驚きから目を覚ませないまま自分が元いた場所を見つめる。
そこで、
まさに、
自分が押しのけられたところで、
自分を押しのけただろう結が、
謎の男の、
上から全力で振り降ろされた左腕を右肩にくらい、
そのまま右肩から左わき腹にかけてを、
切断された。
切断としか表現のしようがないほどに、
男の腕は鮮やかに、
結の体を二つに裂いた。
一葉は全くわけのわからないまま、
ただその結の傷口から溢れ出た赤とも黒とも見える熱い液体を、
その全身に浴びることになった。
無表情に落ちる結と、
その半身を見てから、
ようやく一葉の感覚器官は自分の世界へと帰還する。
「あ、ああ、あぁぁぁああぁぁぁぁああぁぁ…」
ただ、この光景を見て、一葉の精神が平静でいられるわけがなかった。
「あぁぁぁあああぁあぁああああぁぁああぁ…」
初対面の女の子。
自分を庇って死んだ女の子。
体を真っ二つにされて死んだ女の子。
野上、結。
「あぁぁああああああああああああああ!!!」
一葉は何の思考もなく立ち上がり、
何の策もなくただまっすぐに、
何の捻りもなくただ全力で、
腕を振り切り隙だらけの、
結を目の前で殺した男に向かって、
拳を突き出した。
「てんめえぇぇぇぇぇっ!!!!」
一葉の素直な右ストレートはその男の頬を捉えた。
一葉はそのまま無心で殴りぬける。
拳が割れるような感覚に激痛が走るが、今の一葉にはそんなことはどうでもよかった。
痛みに鈍くなるほどに今の一葉は狂っていた。
一葉の全力のパンチを喰らった男はなんの抵抗もなく吹き飛びそのまま数メートル地を転がっていった。
その間に一葉は結の体に近づく。
せめて、自分を救ってくれたお礼を今言ってしまいたい。
そう思って結の顔のあるほうの体を抱き寄せようと屈んだ一葉はまたしても目を疑う光景に出会う。
先の男の腕の傷が治ったように、結の体がひとりでに動いて、くっつき始めていたのだ。
「な、んだ、これ…なにが、どうなって…」
完全に二つに裂かれていたはずなのだ、
どこからどうみてもばらばらに、
それなのに、
これは、
いったい、
なにが、
おきているというのだ。
「なんなんだよ…ユイ…お前は…一体…」
むくっと起き上がる気配。
結ではない。
あの男だ。
起き上がって、三度こちらに攻撃をしかけようとしている。
どうしようもないほどの混乱のなか、一葉は叫ぶ。
「お前は、お前は!なにがしたい!ここはどこだ!ユイになにをした!お前は、一体何者なんだよ!?」
悲痛な叫びに、思いもよらぬ方向から応えが。
「それ、私が教えてあげようか」
一葉の背後に、人の姿。
「!あな、た、は……」
全身を黒のパンツスーツで固め、片手に拳銃のようなものを持った、背の高い金髪の女性がそこにいた。
そして、二言で答える。
「あれはね、ゾンビ」




