月と灰色の夢物語
月と灰色の夢物語
ミツエダウイロウ
ぐるぐるぐるぐる、灰色の渦巻。
僕は独房の中にいる。独房からは、まるでひとつの絵に描いたような銀色の月が見える。
セシルは、困惑と不安の真っただ中にいた。彼は月に目をやる。どこだが月は妖しく嗤っているように見える。そういえば、クレーターの影は、意地悪な二つの目に見えないこともない。とても綺麗で、優しい光を放っているくせに、月は妖しくて残忍な眼をセシルに向けて事態を遠巻きに眺めているようだ。
セシルは部屋の中に目線をもどす。うすよごれた机と、椅子。手に届く範囲にそれらが映っている。何の風情もない、スチール製の冷たい金属。よく足をぶつけては、キーンとする鈍い痛みに襲われていたっけ。
セシルは小さな部屋の中に閉じ込められている。自分で入ったのではない。そこは確かに自分の部屋のような気もするのだが、どうも確信できない。どうも心が迷っている。
不安を抱いているのにこれといった理由はない……。ただ、何となく漠然と抱えているのだ、と思う。それらの困惑や不安は、セシルの心をすっぽりと覆い隠し、そして彼の目の前を濃い紫や黒色で塗りつぶした。
ぐるぐるぐるぐる、灰色の渦巻。
あぁ、眩暈がする。ぐるぐるとした渦巻が、僕を襲っている。助けてくれ。
僕は、僕は、何も悪いことをしていません。いや、嘘をつきました。多分悪いことをしているのです。
だから反省します。反省しますから、どうか助けて!
セシルが混乱のきわみにいるうちに、部屋のドアをたたく大きな音がした。セシルははっとそちらを振り向く。
「セシル! 開けなさい! このドアを開けなさい! あなたに言っておかなければならないことがある。」
母さんだ。怒っている母さんだ。ドアをどんどん叩く音がする。
セシルは怖気づいて、そっとドアを内側から開ける。この独房のドアを。
得体のしれない、紫。
「セシル!」
母さんは、眉をこれでもと言わんばかりにつりあげて、腰に手をつけてセシルの部屋に入ってきた。
「あんたは! まったく! この家族のことをこれっぽっちも考えられないのかい!」
あぁ、母さんは本当に怒っている。気のせいか、漆黒のオーラを身にまとってる気がする。
セシルは気が気でならない。
この母親の異常な怒りっぷりは、彼を恐怖の念におとしめるのに十分なほどだった。目の前がまっくらになる。
ガミガミ。ガミガミ。
セシルはあまりにおびえすぎて、小さな子どものようになる。心だけでなく、彼の――生粋の華奢であるところの――体までもが、小さく小さく縮小する。今かれは、椅子の上に足をすぼめて小さな人形のように小さくちぢこまっている。
母親はセシルのベッドの上を占領し、声を荒げながらどしりと腰を据える。母親とセシルは真向かいになっている。セシルが逃げる道はふさがれているということだ。
ガミガミ。ガミガミ。
母さんの言っている内容がさっぱり頭に入ってこない。というより何を言ってるのかよく分からない……。それだけに恐ろしい、分からないから恐ろしい。セシルは恐る恐る母のほうに目線を戻す。母さんは紫のネグリジェを着ている。彼女の輪郭はぼわっとした感じになって、奇妙な色をした図体のでかい化け物がセシルを襲っているようにも思えるのだ。
得体のしれない紫。
ひどく一方的。それはセシルの、とても繊細な部分を容赦なく壊していく。今や赤ん坊くらいの大きさになったセシルには、母の愛の不在は原始爆弾のように感じる。
僕は虐げられている。いじめられている。お母さん……。
母さんの顔は、僕がこの世で一番怯えなければならないものだ。
ん? セシルはなぜだか急に塾に行かなくちゃ、と思いはじめる。こんな危機的な状況の中でだ。母さんの怒っていることが、何となく塾のこととも関係しているようにも思えるが、それがどうかはすこしも確かでない。
塾だ、塾に行かなくては。
セシルはちょっぴり大人びた高校生の姿になる。相変わらず母親への恐怖は残るのだが、それよりも優先させるべき気持ちがいっぱいに押し広がって、恐怖を脇にどけることができる。塾、塾。
と……。窓の方から、セシルの友達のテツヤの顔が見える。あぁ、何ということだ!
「テ、テツヤ! 君はこの光景を見ていたのかい?」
セシルは窓から顔をのぞかせているテツヤに向かって、大声でどなった。
「あぁ、そうだよ。 なにやら大変だねぇ、君は。」
テツヤの様子はいたって冷静だ。不思議なくらいに。楽しげな顔さえ浮かべているのだから。
「大変そうって……君は、君は親と口論になったりしないのかい? 」
「いやぁ、よくあることだよ。それにしても。君はよほど、母親に対して愛情を抱いているんだね。セシルが抱いている恐怖は、母親に対する絶大なものだ。愛情と恐怖は、これ即ち裏返しのものなり。」
テツヤが指を立てて――彼の手はとても頑丈で、それでいてうつくしさを感じさせる――口を小さくすぼめるようにしてセシルに言った。
「ほう。確かにね! 僕は母さんを愛しているよ。でも、だから何だい? 」
そういえば、このテツヤの出現とそれからテツヤと僕との会話に母親は全く気付いていないようだ。セシルの方に向かってベッドで構えている姿も全く変わらない。さっきから周りの事などおかまいなしにセシルの方にむかって怒声であたり散らしている。
こう見ると、母さんもひどくみじめなものだ。セシルは、母親のとてもくたびれた前髪――ところどころ白髪が混ざっている。よく見ると四方八方に髪の毛がとんでいる――の切なさに気が付いてしまった。
「君は、小さい頃何かをしでかして――そうだな、例えば買ってもらった大切なおもちゃを不用意に壊してしまったりだとかのワルさの類のことだね――、母親にこっぴどく怒られたことがある。君は、普段見ない母親の怒った姿を見て、戦慄した。その過去の記憶が、さっきまでの君をつくっているんだ。君はまるで昔に戻ったような気分になった。小さくなったのはそのためだ。」
なるほど。そう言われてみればそんな気もする。僕はたしかに、母さんが怒ったりしたことをあまり目にしない。だからこそ、怖いのだ。
「明確な分析をありがとう。何だか気持ちがほっとしたよ。」
正直な気持ちを言う。張りつめた心が少し和んだ気がする。その反動のせいで目頭があつくなってしまう。
「それは何より。」
テツヤは満面の笑顔を見せてくれる。あれ、そういえばここの窓はそんなに低い場所にあったっけ? 僕の部屋は二階のはずだ。それに、テツヤは僕の家をそもそも知らないのではなかったか?
そういった小さな疑問がふっと頭をよぎるのだが、それよりも性急な気持ちが彼の心をかき乱す。ええと……。
「そうだ、テツヤ。僕は塾に行こうと思ってるんだ。」
「僕も同じだよ。君を迎えにきたんだってば。」
テツヤはセシルと同じ塾の仲間だ。
「それじゃ、すぐ外に出るよ。待ってて。」
「Okay.」
セシルは机の上にあるテキストやらノートやらをかき集めて、鞄の中に急いで詰め込む。
母親の方を一応振り向く。反応はない。母さんは相変わらず焦点の合わない目つきをして僕の座っていない椅子に向かってガミガミ独り言を言ってるだけだ。
「じゃあね、母さん。行ってくるよ。」
それだけ言い残すと、セシルは勢いよく自分の独房から飛び出して、テツヤの待つ外へ向かった。バイバイ、母さん。恐怖はもう無い。
情念の深い、銀色。
テツヤは、日本から来た留学生だ。大きな目をしていて、がっしりとした体格をしている。友達想いで、何より優しい。こいつのそばにいると、何だかほっとする。
自転車をゆっくり漕ぎながら、彼らは夜の街、海の中を漂っていた。
テツヤが口をひらく。表情からは、ちょっとした強張りが見てとれた。
「実はな、セシル。さっきも言ったけど、僕だって家族との口論やケンカはよくあるんだ。」
セシルは少し考える。
「家族っていうのは……ホストファミリーのこと? テツヤのとこの。」
テツヤはふふっと笑う。
「いや、まさか! もちろん、些細なことでホストファミリーとはよくもめ事になるよ。でもそこまで深刻には至らない。向こうが優しいからかな。叱られたことはあるけど、怒られたことはまだない。」「じゃあ、向こうの日本の家族……。」
「そう。遠く離れているからこそ、とでもいうのかなぁ。海外暮らしを、僕の家族は本当は望んじゃあいなかったんだ。僕が勝手に飛び出したといっても過言じゃない。」
テツヤはそう言って、小さく息をつく。どうやらちょっとした寒さがこの海の中に差し込んでいるらしくて、その息は真っ白い空気のかたまりとなって海面の方へプカプカ浮いてゆく。
「君が海外にいるということで、よくケンカに?」
「そうだ。うん。ほんとうに小さなことだよ。連絡をマメによこさなかっただの……。一週間に必ず一回は電話をしてこいと言うが、やっぱり無理な時もあるじゃん? でもそういうのが向こうにはなかなか理解しづらかったりして、んでガミガミ怒られる。しょうじき、参るときもある。」
セシルは生まれてこのかたアメリカを離れたことがないし、テツヤのような家族の人間関係は実感としては把握に欠ける。それでも、テツヤが話す一語一句はとても誠実に聞こえ、まるで自分の身に起こった出来事のようにセシルには響いた。そっと。
情念の深い、銀色。
僕らの行先は確かに大学近くの公園横だったはずなのに、今セシルの眼前に広がっているのは、小さい頃よく通っていたスイミング・スクールへの道のりだった。真っ青の看板が印象的で、セシルを指導していた泳ぎの先生は、とても真面目だった(そして時おり怖かった)。よく通っていた道のりには、小さな歩道が多くて、そしてやたら曲がったり登ったりする。何故いまこの場所に……そもそも、僕らを取り巻く環境が海の中っていうことからしておかしい。まぁ、いいか。
テツヤが切り出す。
「おとといも、そういうことがキッカケで電話越しに怒鳴りあうことになった。周りにはあまり迷惑をかけたくないんだけれど、それでも怒鳴らずにはいられないような気分だったんだ。そういう時って、あるだろ?」
セシルはうん、と頷く。1日に十、いや二十回はある。コーヒーをこぼした時だとか、単語を覚えられなかった時だとか、友達からひどく傷つけられた時だとか。いや、これはカロリー不足なんだろうか? ぼんやりした頭の中で反芻してみる。脳髄の奥の方で、かすかに頭痛がセシルの胸を震わす。良心がチクリと痛む。
なんだこれは?
「いがみあっているうちに、親は、これからアメリカに来るって言いだした。なんてことだ! これしきのケンカが起こったくらいでこっちに来られたんじゃたまらない。空港費の無駄だ。そんなことを言っても、向こうは頑として意見を変えない。」
僕ら二つの自転車は、儚く照らされた外套の下を、ゆっくりと登ってゆく。道路の脇の方から、黒猫がひょっこり顔を出す。きらりと光る丸い目が、僕らをじっとみつめる。猫はそこに佇んだまま僕らの通り過ぎるのをじっと待っている。
「それで僕は、完全に折れたんだ。いや、折れようと決心をした。うん、こんなに心配してくれている親のことだから、別にずっと拒否しなくてもいいっかってね……。それに、自分が連絡もよこせないような不真面目な生活を送っていることは事実だったんだ。それなのに僕は見て見ないフリをしてきた。観念した。親にはついついあたり散らしてしまうことが多いけど、その時は反省したな。親の気持ちも、少しは汲んでやらなければなって。あと、自分のことについてももっとよく考えなきゃって。」
セシルはちょっと笑った。すごくよく分かる。自分のことのようにテツヤの言葉は胸を刺す。
「そうか……。えらいな、テツヤは。」
セシルがそういうと、テツヤはちょっとだけ困ったような表情をしてみせた。
「そんなんじゃないってば。」「じゃあ……君の親は本当にアメリカに来たんだ? というか、今いるんだ。」
「いや、今はいないよ。僕が心から反省しているのを察したらしくて、今すぐというのは撤回する、て言ってきたんだ。でも、この週末、二人そろって僕の生活を見に来るって。まぁ、観光目当てってのも入っているだろうけどね!」
テツヤはセシルの肩をぽん!と叩いた。
「二人揃ってってことは……君のお母さんと、それとお父さんか。」
「そうだよ。」
そこまで言うと、テツヤはどうやら何か思う所があるらしく、しばらく口をつぐんだ。鼻を一回こすって、僕らの前の方向をぼんやりと眺めている。
セシルも、特に今話すこともないと思って、同じように前の方をぼうっと眺めて少し考え事をしていた。後ろを振り返ってみるともう猫はいなくて、ただ暗闇――大海原の彼方に沈む蒼い海底――が僕らの周りを優しく包み込むだけだ。
情念深い、銀色。
「まぁ、そんな感じだよ! 海外での一人暮らしってのは、例えば君のような心強い友達がいても、時には腹立たしくなるほど寂しくなることもある。自分の生活ぶりを、改めて反省しなきゃって思うこともある。」
テツヤはきりっとした目で僕の方を振り返る。思わずどきんとしてしまう。
「だから、セシルが塾にこれまで中々来なかったことも、僕は別に責めたりしない。それより、今日は、よく来ようとしてくれたな!」
話が本題に入ったみたいだ。頭痛がやんだ。カキーン、と、僕の頭の中で何かが音をはっきりと立てた。
そうなのだ。僕は実に六カ月もの間、塾に行っていないきりだった。
塾の時間になると、行ってきますと親に声をかけて外には出てみるものの、行先はビリヤードだったり酒場だったり、ともかくそんなことばっかりして、僕はせっかく親が出してくれた塾の代金をドブ川に捨てていたようなものだった。良心の呵責が僕を責めたてて止まなかった。
僕が独房の中で味わったあの混乱と不安は、僕の超自我がいいかげん塾に行ってまともな生活をしろよと、命令を下していたのか。それに僕の怠惰心がいやしくも闘っていたんだ。それが六カ月分溜まった。僕の心は、すっかり砂漠のように荒れていた。
母さんは、多分このことで怒っていたのだ……。
今、気持ちがようやくぴったり収まった気がして、セシルは一つ深呼吸をする。ぶくぶくの甘い香りがする海水を吸って、それらを一気に吐く。ふわぁー。
僕は、もう大丈夫だ。
「テツヤ、ありがとう。これからは塾に通うことを、確約するよ。」
セシルはそれだけを必死に、テツヤに伝えたかった。否、自分にも。
「そうか。 ははっ。 大歓迎だぜ全く! 君のことだからな、半年来なかったからって勉強が追いつかないわけじゃないさ!」
勉強の追いつき加減のことは……。セシルは考える。実は一人でも、まったくやっていなかったということはないから、テツヤの言うとおりついていけないということはないのかもしれない。それを思うとほっとする。
「今、どの範囲をやってる…?」セシルがそう言うと、テツヤは微笑んで、道すがらに塾の今までの進捗状況を事細かく教えてくれた。テツヤは本当に頼れる友達だ。テツヤを友達にもって、本当に良かったと心の底から思う。
情念深い、銀色。夜は終わりを告げない。
そうこうしているうちに、二人は塾の前まで来た。実にゆっくりと進んできたので、割と遅刻をしてしまった。テツヤは僕に合わせてくれたのだろう。申し訳なく思う。
「遅刻は毎度のことなり。てね。」そんなことまで言ってくれる。
それにしても、六か月ぶりの塾だ。心臓がドクドクいっている。先生は僕の事を許してくれるだろうか。受付のお姉さんは? 周りの友達は? そんなことが頭の中をかすめる。
正面の玄関から入ると、とても久しぶりの空気がセシルをすっぽり包んだ。そうだ、これだ! あぁ、懐かしいなぁ。ひんやりとしたフロア。受付のお姉さんは、席を外しているようだ。セシルはまだ塾に真面目に通っていたころの、健全な姿勢を思い出しつつあった。あの頃は、勉学にストレートに燃えていた。正しい、前向きで明るい未来だけが僕の視野に確固としてあったんだ。
「最近は模擬テストばかりやっているからね、遅れは三十分ちょいか。今から受けても間に合うさ。」テツヤが誘導してくれるように前を歩き、エレヴェーターのボタンを押した。
上階からするすると、真四角のボックスが二人を出迎える。チン、という音とともに、彼らは目指す教室へ向かう。どきどき、どきどき。
あたりを溶かす、虹色。
「着いた。」
テツヤが小さくつぶやいた。セシルは、さっきから緊張のせいでうまく言葉が外に出なかった。教室は、すぐ目の前だ。
みんなが居るところに――。
ガチャッ。
「おー。 テツヤ、それからセシル! お前、やっと来たか!」
涙が出そうになった。数学のアップル先生は相変わらずフレッシュな外見で、学生と比べても遜色ないほどの明るさと健やかさを放っている。キラリと光る歯を見せて僕らに向かってほほ笑んだ。
「お前らそろって遅刻だぞ。 ほら、これが問題と解答用紙だ。まだ一時間あるから、これから急いでやりなさい。」
先生はそう言うと、教壇に置いてある僕ら二人分の用紙を取り出して、僕らに手渡してくれた。用紙は何故かまだほんのり暖かい。驚くことに、解答用紙にはそれぞれテツヤとセシルの名前があらかじめ書かれていた。先生の字だ。テツヤは何ということもない顔をしたが、セシルにはそれが、自分はまだ忘れられていないことの証明だ、それどころかアップル先生は六カ月もの間ずっとこうやって解答用紙に僕の名前を書き続けてくれていたかもしれないんだ、なんてことを思ってまた目頭が熱くなった。
あたりを溶かす、虹色。
「セシル! あんた久しぶりね!」
ローズがいる。相変わらずの素っ頓狂な声をあげて、試験中だというのにセシルに向かって手を振りだす。
「セシル。」
「お前、今まで何やってたんだ!待ちくたびれたぞ。」
マチルダだ。それに、ジョージ。懐かしい連中だ。
彼らは一様にしてセシルに暖かい眼差しを向ける。セシルはとても有り難いことだと思う。ここには、忘れてはならないとても大切なものがあった。それを僕は、まだ手放してはいなかったんだ。そう気付く。
「今日の問題は、すごく難しいんだよ。おれ、さっぱり分からねぇ。セシル、お前にはどうかな?」
セシルが席に腰をつけると、横に居るジョージがひそひそ声で声をかけてくれる。ジョージはセシルの幼少時代からの友達で、とてもオープンな性格でユーモアに溢れる、セシルにとって尊敬の対象でもある奴だ。
バッグを置いて中からペンケースを取り出して、セシルはあらためて問題用紙に慎重に目を寄せた。ん、難しい。っぽい。でも、久しぶりに塾に来たんだから、そしてこれから通い続けるんだから、がんばらなくちゃ。
シャープペンシルを握った感触はとても確かなもので、その重みがしっかりとした現実としてセシルに認識を与えてくれる。緊張はもう無い。隣でジョージがうーんと頭を抱えている。本当に小声でうーんと言っているんだから面白い。セシルもいまゆっくりと、精神の集中を図る。あぁそうだっけ、こうやって塾の仲間と一緒に問題に思考をめぐらすことが、僕をとても神聖な気持ちにさせてくれるんだっけ……。
問題は全部で四問あるが、さてどうしたものやら。
おっ、一つ、解けそうな問題がある。これは、この前僕が自習でやった問題に似ている。
まずは一問。それからだ。
ジョージが隣で眠そうにしている。テツヤが目配せをする。マチルダとローズは笑っている。アップル先生は後ろの方で僕らの解答の終わるのをゆったりと待っている。
僕は、再生する、きっと。
あたりを溶かす、虹色。 (完)