婚約者に捨てられた夜、私は初めて自分のために泣いた
婚約破棄を告げられたのは、王都で開かれた春の夜会でのことだった。
「エミリア・フォルスター。君との婚約を破棄する」
婚約者であるクラウス伯爵令息は、集まった貴族たちに聞こえるよう、堂々とした声で宣言した。
彼の隣には、淡い桃色のドレスを着た令嬢が寄り添っていた。
私の幼馴染であり、親友だと思っていたリリア・ベルン子爵令嬢だ。
努めて声が震えないように心掛けなら、クラウスに問いかける。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「君は堅苦しすぎる。何をするにも私の顔色をうかがい、会話をしていても楽しくない。妻になる女性には、もっと愛らしく、私を癒やしてくれる存在であってほしいのだ」
クラウスは私を見下ろした。
「その点、リリアは素晴らしい。いつも笑顔で、私の話を楽しそうに聞いてくれる。私は彼女と結婚することに決めた」
リリアは困ったように眉を下げた。
「エミリア、ごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかったの。でも、私もクラウス様をお慕いしているの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
思い返せば、リリアはいつもそうだった。
私が新しいドレスを仕立てれば、彼女も同じものを欲しがった。
私が婚約者とのお茶会を楽しみにしていれば、彼女は決まって寂しそうな顔をして、私の予定に割り込んできた。
そして、いつの間にかクラウスと親しくなっていた。
それでも私は、彼女を疑わなかった。
幼い頃から一緒に育ち、何でも話せる友人だと思っていたからだ。
「……そうですか」
私はそれだけ答えた。
泣きたかった。
怒鳴りたかった。
どうして、と問い詰めたかった。
けれど、大勢の人々が見守る中で、そんなことをすれば、きっと私は更に惨めな女として噂されるだろう。
何より、目の前の二人に、これ以上自分の心を傷つけられたくなかった。
だから。
一言で終わらせる。
「婚約破棄、承知いたしました」
そう告げると、クラウスは一瞬、拍子抜けしたような顔をした。
「……随分と物分かりがいいな」
「あなたがそうお望みなのですから」
私は一礼した。
それから、二人に背を向けた。
背後から、リリアの甘えた声が聞こえる。
「クラウス様、私、少し怖かったです」
「大丈夫だ。もう君を悲しませる者はいない」
その言葉に、思わず足が止まりそうになった。
私を悪者にして自分たちの世界に浸っているようだ。
思わず振り返って、文句を言いそうになる。
けれど、私は歩き続けた。
あの二人に背中を見せることが、今の私にできる精いっぱいの抵抗だった。
◇
帰宅した私は、自室に入るなりベッドに倒れ込んだ。
そして、声を殺して泣いた。
クラウスとの婚約は幼い頃、家同士が決めたものだった。
けれど、私は彼を好きになろうと努力していた。
彼の好みを覚え、苦手な食べ物を避け、疲れているときには話しかけず、彼が喜びそうな話題を探した。
彼が褒めてくれたときは嬉しかった。
そっけなくされた日は、自分の何が悪かったのかと考えた。
いつか本当の夫婦になれば、私にも笑顔を向けてくれるようになる。
そう信じていた。
今になって思えば、私は彼に愛されていたかったのではなく、彼に愛されることで、自分の価値を確かめようとしていたのかもしれない。
そんなことを考えると、ますます涙が止まらなくなった。
そんなことを考えているうちに眠ってしまっていた。
翌朝、母が部屋を訪ねてきた。
「エミリア、昨夜のことは聞きましたよ」
「……お母様」
「あなたにも至らないところがあったのでしょう。男性というものは、もっと優しく接してくれる女性を好むものです。リリアを見習いなさい」
私は顔を上げた。
母は心配そうな顔をしていた。
けれど、その心配は私のためではなかった。
「フォルスター家としても、今回の件は大変な恥です。せめて今後は、社交界で騒ぎを起こさないようにしなさい」
昨夜、婚約者に捨てられた娘にかける言葉が、それなのだろうか。
家の、いえ自分の評価のことしか考えていない。
「……分かりました」
私はうつむきながら答える。
母が出ていったあと、私は窓の外を眺めた。
幼い頃、悲しいことがあると、私はよく母に抱きしめてもらった。
いつからだろう。
母が変わってしまったのは。
泣くことさえ、誰かに迷惑をかける行為だと思うようになったのは。
◇
婚約破棄から三日後、リリアが屋敷を訪ねてきた。
私は会いたくない、と言ったのだが、母が応接室に既に通してしまった。
応接室に通された彼女は、以前と変わらぬ笑顔を浮かべていた。
「エミリア、元気にしていた?」
「ええ」
「よかった。私、ずっと心配していたの」
彼女はそう言って、私の隣に座ろうとした。
それを手で制止する。
すると彼女は困ったように言う。
「ねえ、これからも友達でいてくれるでしょう?」
私は彼女を見た。
その言葉を、以前の私なら喜んで受け入れただろう。
婚約者を奪われても、親友まで失いたくないと思ったに違いない。
以前の、誰かに必要とされたいと考えていた私なら。
でも。
今の彼女の悪い時全く考えていない態度を見て。
もう嫌だと思った。
「どうして?」
「え?」
「どうして、これからも友達でいたいの?」
リリアは目を瞬かせた。
「だって、私たちはずっと友達だったじゃない」
「そうね」
私は頷いた。
「だから、あなたがクラウスと親しくなったときも、二人きりで出かけていたと知ったときも、何も言わなかったわ。あなたを信じていたから」
「そ、それは……」
「でも、あなたは私の婚約者を好きになった。そして、彼もあなたを選んだ。二人の気持ちは、もう変わらないのでしょう?」
リリアの顔から、少しずつ笑みが消えていった。
「エミリア、私はあなたを傷つけるつもりなんて……」
「分かっているわ。あなたは自分が幸せになりたかっただけなのでしょう?」
私は静かに続けた。
「だから、私も自分の幸せを考えることにしたの」
「……どういう意味?」
「あなたとは、もう友達ではいられないという意味よ」
リリアは絶句した。
やがて、その目に涙が浮かんだ。
またいつもみたいに泣くのね。
呆れが浮かぶ。
「ひどいわ。私はあなたのことを大切に思っていたのに」
その言葉を聞いて、私は怒りを覚えた。
「大切に思っていたのなら、どうして私が傷つくと分かっていて、クラウスを選んだの?」
「それは……」
「あなたが彼を好きになったことを責めているのではないわ。人の気持ちは自由ですもの。でも、私の気持ちを知りながら、何もかも失わずに済むと思わないで」
リリアは唇を震わせた。
「……あなたって、そんな人だったのね」
「そうね。私も、自分がこんなことを言える人間だとは思わなかったわ」
私は立ち上がった。
「お帰りください」
彼女はしばらく私を睨んでいたが、やがて立ち上がり、足早に部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、私は深く息を吐いた。
胸が少し痛かった。
長年の友人、幼馴染を失ったのだ。
簡単に割り切れるはずがない。
それでも、私はもう彼女を追いかけなかった。
◇
それから一か月が過ぎた。
クラウスとリリアの婚約が正式に発表されたという知らせが届いた。
私は驚かなかった。
むしろ遅かったなと思った。
ただ、二人が婚約披露のために開いた茶会で、少しばかり騒ぎがあったらしい。
発端は、リリアがクラウスに新しいドレスをねだったことだった。
彼女は以前から華やかな装いを好んでいた。
クラウスは彼女の笑顔を見るために、惜しみなく贈り物をしていたそうだ。
ところが、彼女が望んだ品を用意するたび、クラウスは不満を漏らすようになった。
ドレスを贈れば宝石も欲しがり、宝石を贈れば今度は旅行をねだる。
それがリリアだからだ。
リリアにしてみれば、愛する人に大切にされている証が欲しかったのだろう。
クラウスにしてみれば、いつまでも感謝して笑っていてくれる女性を望んでいたのだろう。
二人とも、相手に自分の理想を求めていた。
そして、その理想が少しずつ食い違い始めた。
ある夜、クラウスがリリアに言ったという。
「君は以前、こんなに我儘ではなかった」
それに対して、リリアはこう答えたそうだ。
「以前は、あなたの婚約者ではなかったもの」
その言葉を聞いたとき、私は思わず苦笑した。
リリアは、クラウスの前ではいつも愛らしい女性だった。
しかし、それは彼女の一面にすぎなかった。
彼女は欲しいものが多い。
我慢できないことも多い。
不機嫌になる日もかなり多い。
私と同じ、ただの人間なのだ。
そしてクラウスは、私に求めたものと同じものを、今度はリリアに求め始めているらしい。
いつも笑顔でいること。
自分の機嫌を損ねないこと。
自分を優先すること。
私は、それを聞いても二人を助けたいとは思わなかった。
もう、私が関わることではないのだから。
◇
さらに二か月後、婚約破棄の傷も癒えてきたから、私は王都の小さな菓子店で、一人の男性と知り合った。
名前はアラン。
商家の次男で、王都の商会に勤めているという。
私が焼き菓子を選んでいると、彼が隣から声をかけてきた。
「そちらは美味しいですよ。ただ、少し甘めです」
「そうなのですか?」
「ええ。私は好きですが、甘いものが苦手な方には、こちらのほうがいいかもしれません」
そう言って、彼は別の焼き菓子を指さした。
ただ、それだけの会話だった。
彼は私が貴族令嬢だと知っても、必要以上にへりくだらなかった。
私がどんな家の人間なのか、誰と婚約していたのか、そんなことを尋ねることもなかった。
店を出るとき、彼は軽く頭を下げた。
「それでは、よい午後を」
「あなたも」
私は少しだけ笑った。
それから何度か、その店で彼と顔を合わせた。
会えば挨拶をする。
時には、お菓子の感想を話す。
彼は私の話を聞いてくれたし、私も彼の話を聞いた。
特別なことは何もなかった。
けれど、私は気づいた。
彼と話すとき、私は相手の顔色をうかがっていない。
気に入られるために言葉を選ぶ必要もない。
笑いたいときに笑い、疲れているときには無理をせず、分からないことは分からないと言える。
それが、こんなにも楽なことだとは知らなかった。
ある日、アランが尋ねた。
「エミリアさんは、どんな男性が好きなのですか?」
突然の質問に、私は目を丸くした。
「どうして、そんなことを?」
「いえ。あなたのことを、もう少し知りたいと思いまして」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「答えにくければ、無理にとは言いません」
私は考えた。
以前なら、優しくて、頼りがいがあって、私を大切にしてくれる人、と答えただろう。
今は少し違う。
「……私が、無理に笑わなくてもいいと思える方でしょうか」
アランは一瞬、驚いた顔をした。
それから、ゆっくりと頷いた。
「それは、大切なことですね」
彼はそれ以上、何も聞かなかった。
その優しさが、私は嬉しかった。
◇
秋の初め、クラウスとリリアの婚約が解消されたという噂が届いた。
理由は、価値観の違い。
クラウスはリリアに、以前のような慎ましさを求めた。
リリアはクラウスに、自分を特別扱いしてくれることを求めた。
どちらも譲らず、最後には互いを責め合ったらしい。
クラウスは、私との婚約を破棄したことを後悔しているという話も聞いた。
以前の私なら、その言葉を聞いて喜んだかもしれない。
彼も私の大切さに気づいてくれたのだと、胸を弾ませたかもしれない。
けれど、今の私には関係のない話だった。
彼が後悔しているのは、私を失ったからなのか。
それとも、自分の望みどおりにいかなかったからなのか。
私には分からない。
そして、知る必要もなかった。
数日後、アランから一緒に散歩をしませんかと誘われた。
私は少し迷ったあと、頷いた。
公園を歩きながら、私たちは他愛のない話をした。
途中で雨が降り始め、二人で慌てて軒下に駆け込んだ。
「ああ、せっかくの散歩だったのに」
アランが困ったように笑う。
「ふふっ。私は、これはこれで楽しいです」
口にしてから、私は驚いた。
誰かに気に入られるためでも、相手を喜ばせるためでもない。
ただ、本当にそう思ったから笑ったのだ。
アランは私を見て、少しだけ目を細めた。
「その笑顔、素敵ですね」
頬が熱くなった。
けれど、私は顔を背けなかった。
「ありがとうございます」
そう答えた。
雨はしばらく止みそうになかった。
それでも、私は急いで帰ろうとは思わなかった。
婚約を破棄されたあの日、私は自分の何もかもを否定されたような気がしていた。
けれど、そんなことはなかったのだ。
私は、誰かに選ばれなければ価値がない人間ではない。
誰かに愛されるために、自分を小さくする必要もない。
もちろん、これからも傷つくことはあるだろう。
新しい恋が、必ず実るとも限らない。
アランが私を好きになってくれるかどうかだって、まだ分からない。
それでもいい。
私はもう、自分の幸せを誰かの手に委ねたくなかった。
「エミリアさん?」
「はい?」
「雨が弱くなってきました。そろそろ行きましょうか」
「そうですね」
私は彼の隣に並んだ。
濡れた石畳の向こうに、秋の街並みが広がっている。
その景色は、昨日までと何も変わらない。
けれど、私の足取りは少しだけ軽かった。
婚約者に捨てられたあの夜、私は確かに泣いた。
大切な人を二人も失い、自分の居場所までなくしたように感じていた。
それでも、失ったものだけが私の人生ではない。
これから出会う人も、これから好きになるものも、まだ知らない喜びもある。
私はそのすべてを、自分の意思で選んでいこうと思う。
もう、誰かに愛されるためだけに生きるのはやめたのだから。
――そしていつか、本当に誰かを愛することができたなら。
そのときは、自分の心にも、相手の心にも、嘘をつかずにいたい。
私は隣を歩くアランに目を向けた。
彼が気づいて、微笑む。
私も笑い返した。
今度こそ、自分のために。




