第二章-種-
村を出たのは、日が沈む頃だった。
海は赤い。
すべてを呑み込む色。
少女――ツムギは振り返らない。
振り返れば、家が見える。
だから見ない。
前を歩く男も、振り返らない。
黒い外套。
無駄のない足取り。
「急ぐぞ」
低い声。
「……どこへ」
「生き延びられる場所へ」
それ以上は言わない。
⸻
夜道は冷える。
しばらくして、ツムギが口を開く。
「あの人は」
分かっていても聞いた。
「死んだ」
男は止まらない。
「……私が、殺したの?」
足音が止まる。
わずかに横顔。
「違う」
短い。
「帝国が殺した」
風が鳴る。
ツムギは仮面に触れる。
真実を覆う冷たい仮面。
「どうして、私なの」
男は振り向く。
測る目。
「帝国は処刑された第二王女、黒薔薇を恐れていた」
第二王女。
処刑。
波音が遠く重なる。
「象徴は死んでいない」
「私は、関係ない」
ツムギは言う。
「私は、ツムギだから」
男は否定しない。
肯定もしない。
そのとき。
林の奥で枝が折れる。
「いたぞ!」
鎧の音。
兵が三人。
「裏切り者ロウド!」
名が夜を裂く。
ツムギは初めて男を見る。
ロウド。
彼は小さく息を吐く。
「早いな」
兵が叫ぶ。
「王命を違えた罪、忘れたか!」
ロウドは答えない。
剣を抜く。
冷たい金属音。
「ツムギ、守りたいか」
前を向いたまま。
唐突に。
ツムギの喉が鳴る。
冷たい瞼。
血。
「……」
沈黙。
「なら、立っていろ」
それだけ。
兵が踏み込む。
月光が刃を照らす。
ロウドは動かない。
一歩。
横にずれる。
剣が鳴る。
短い音。
兵の剣が弾かれる。
返す刃。
血が落ちる。
静かだ。
残る二人が同時に来る。
速い。
ロウドは間合いに入る。
踏み込みは最小。
斬撃は正確。
音は、ほとんどしない。
二つの影が崩れる。
夜が戻る。
ツムギの呼吸だけが乱れている。
足が動かない。
ロウドは血を払う。
「見る必要はない」
振り向かずに言う。
ツムギはそれでも見る。
倒れた兵。
開いた目。
動かない。
胸が強く打つ。
仮面の裏で、何かが軋む。
「力は」
ロウドが言う。
「使えば、必ず残る」
教えない。
慰めない。
ただの事実。
最後の兵が起き上がる。
最後の力。
掠れた叫びとともに斬りかかる。
ロウドは受ける。
押し込まれる。
その瞬間。
ツムギの足が、前に出る。
無意識。
仮面の奥が熱い。
兵の視線が一瞬、逸れる。
その隙。
ロウドの刃が喉を裂く。
兵が崩れる。
森は何事もなかったように静まる。
ロウドは振り返る。
ツムギを見る。
評価でも、称賛でもない。
ただ確認。
「行くぞ」
歩き出す。
ツムギは小さく頷く。
まだ、ツムギ。
だが。
仮面の奥に、小さな種が芽吹く。
まだ名もないもの。
夜は深い。
灰色の海の記憶だけが、遠くに残っている。




