第二十六章-借りた名-
遺跡の中は、冷えていた。
外の森よりも、なお静かで、重い。
崩れかけた石柱。
壁に刻まれた古い紋章。
王家の印。
黒百合は足を踏み入れる。
靴音が、やけに響く。
ここで生まれた。
そう言われた。
だが――
何も思い出さない。
懐かしさも。
既視感も。
胸を刺す痛みもない。
ただ、石の匂い。
湿った空気。
(……何もない)
期待していたわけではない。
それでも、ほんのわずかに、
何かが疼くと思っていた。
崖。
炎。
王宮。
どれも霧の向こうだ。
思い出せないのではない。
最初から、そこにないような感覚。
隣を歩くリューネは何も言わない。
ロウドは後方を警戒している。
黒百合は、歩きながら考える。
自分がツムギではないことは、前から分かっていた。
あの老夫婦に呼ばれ、
その名を受け入れただけ。
それが必要だった。
生きるために。
だが。
では、自分は何なのか。
センカ。
黒薔薇。
処刑された王女。
どれも、どこか遠い。
さきほど胸をかすめた感覚。
黒薔薇は自分だ、と囁く影。
――そんなわけがない。
首を振る。
私はツムギだ。
そう言った。
黒百合でもある。
それで足りるはずだ。
なのに。
(足りない)
胸の奥に、小さな空洞がある。
ツムギは借り物の名だ。
黒百合は、他人が付けた異名だ。
では、本当の名は。
石壁に触れる。
冷たい。
何も語らない。
それでも、指先にわずかな震えが走る。
ここが生まれた場所だと言うのなら。
何か一つでも、痕跡があるはずだ。
否定でもいい。
証明でもいい。
何でもいい。
ただ、空白のままではいられない。
長い廊下の先。
巨大な扉が現れる。
王家の紋章が刻まれた、古い石扉。
空気が変わる。
ロウドが低く言う。
「……最奥だな」
リューネは静かに頷く。
黒百合は扉の前に立つ。
心は凪いでいる。
怒りも。
悲しみも。
恐怖も。
ない。
あるのは――
(知りたい)
それだけだ。
自分が何者なのか。
奪われたのか。
捨てたのか。
選んだのか。
ゆっくりと手をかける。
石が軋む。
重い音が遺跡に響く。
闇が、口を開く。
黒百合は一歩、踏み入れた。
借りた名のまま。
まだ、答えを持たないまま。




