第二十五章-名前を奪われた少女-
森は深い。
陽光は届かず、湿った土の匂いが漂う。
三人は細い獣道を進んでいた。
やがて、リューネが口を開く。
「黒薔薇は、処刑されたことになっている」
静かな声。
「帝都中央広場で。反逆罪として」
黒百合は何も言わない。
足音だけが続く。
「だが、崖で死んだと断じるには、証が足りなかった」
風が木々を鳴らす。
「遺体は確認されていない」
爆炎。
落下。
荒れた潮流。
「それでも帝国は“死”を必要とした」
王族の反逆は、曖昧にしてはならない。
威信のため。
秩序のため。
「だから第一王女は決断した」
空気が重く沈む。
「黒薔薇を、処刑した」
ロウドの声が低く落ちる。
「……どういう意味だ」
「公開処刑は執行された」
淡々と。
「だが処刑台に立ったのは、別の少女だった」
森が静まる。
「海辺の村にいた娘」
ツムギ・アルカ。
帝国の侵攻で両親を失い、
祖父母と暮らしていた少女。
「年頃が近く、背格好も似ていた」
炎に包めば、誰も見分けられない。
「第一王女は命じた」
その少女を、
黒薔薇として処刑せよ、と。
黒百合の足が、わずかに止まる。
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
知らないはずの名。
だが、耳に残る。
ロウドの声が低くなる。
「替え玉か」
「帝国に“黒薔薇は死んだ”と信じさせるための処置」
帝国は今も、そう信じている。
黒薔薇は処刑済み。
討伐しているのは“黒百合”。
正体不明の反逆者。
王女ではない。
そういうことになっている。
沈黙。
やがてロウドが問う。
「……本物は」
リューネは、わずかに視線を伏せる。
「崖下の潮流は複雑だ」
遺体が上がらなかったのは事実。
「海辺の村に、素性不明の少女が流れ着いたという報告もあった」
公式記録ではない。
断片的な噂。
回収されなかった報告。
「第一王女は、それを捨てきれなかった」
死んだと断じるには、証がなかった。
だから。
「生きている可能性を、残した」
それが願いだったのか。
罪から目を逸らす理由だったのか。
分からない。
「老夫婦は、帰らなかった孫娘の名を呼び続けていたという」
ツムギ。
家に残った最後の名。
「もし、意識を失った少女がそこにいたのなら」
その名を与えられたかもしれない。
それだけの話だ。
断定はしない。
事実はない。
ただ、可能性だけがある。
森の中で、黒百合は立ち止まる。
胸の奥が、ざわつく。
潮の匂い。
冷たい水。
誰かの声。
――ツムギ。
一瞬、心が囁く。
黒薔薇。
自分だ、と。
……そんなわけがない。
首を小さく振る。
違う。
私は――
「……私はツムギだ」
声は低い。
はっきりと。
「ツムギで、黒百合だ」
それが今の自分。
戦う者。
王火を使う者。
黒薔薇ではない。
そう、言い聞かせるように。
それでも胸の奥で、
消えない影が揺れる。
森が途切れる。
視界が開ける。
朽ちた石造りの遺構。
半ば崩れた塔。
苔むした紋章。
古い王家の印。
ロウドが目を細める。
「王家の……旧神殿か」
リューネは足を止める。
仮面越しに黒百合を見る。
「第一王女は」
一瞬、間が落ちる。
「王家の始まりの地に、答えがあると考えた」
断定はしない。
名も呼ばない。
だが、導く。
「ここは、王族が産声を上げた場所」
風が遺跡を抜ける。
静寂。
森が、息を止めた。




