第十九章-炎の名-
砦最上階。
屋上のように開けた石床。
風が強い。
遠くに戦火の煙。
焦げた匂いが、ここまで届いている。
その中央に、一人の少女。
外套が風に揺れる。
炎の気配が、常に周囲を満たしている。
黒百合は歩み出る。
足音を鳴らさず。
「お前が、第三王女か」
少女はゆっくり振り返る。
笑う。
柔らかく。
「うん。そうだよ?」
瞳は赤い。
炎の色。
「ここまで来るなんて、思ってなかった。すごいね」
ぱち、ぱち、と軽く手を叩く。
だが空気は冷えている。
「でも」
笑みが細くなる。
「帝国に刃を向けるのは、褒められないな」
⸻
次の瞬間。
炎が広がる。
屋上全体を覆う灼熱。
石が赤く染まる。
空気が焼ける。
黒百合は跳ぶ。
転がる。
踏み込む。
だが熱が壁のように立ちはだかる。
近づけない。
炎はただの火ではない。
意志を持つように動く。
逃げ道を潰す。
「近距離型でしょ?」
セインが言う。
楽しげに。
「でも、わたしは違う」
炎が一斉に収束する。
空気が軋む。
背後に、巨大な火炎の弓が形成される。
圧縮。
凝縮。
歪む空間。
番えられるのは、極限まで圧縮された灼熱。
「これは、避けられないよ」
放たれる。
一直線。
空気を裂く火炎。
黒百合は正面から迎える。
退けば追う。
ならば、受ける。
剣を掲げる。
衝突。
刃が軋む。
金属が悲鳴を上げる。
亀裂。
次の瞬間――
砕ける。
剣が粉々に弾け飛ぶ。
衝撃が全身を打ち抜く。
黒百合の体が吹き飛ばされる。
石床を滑る。
焦げる匂い。
皮膚が焼ける感覚。
⸻
炎。
焦土。
空を覆う紅。
詠唱。
落ちる流星。
撃っていたのは――
自分。
手の感触がある。
魔力の流れを知っている。
圧縮の手順。
放出の角度。
理由はない。
記憶もない。
だが身体が覚えている。
あの魔法は。
⸻
「……っ」
黒百合は立ち上がる。
折れた剣の残骸を握ったまま。
視界が揺れる。
仮面の内側で呼吸が乱れる。
ツムギが浮上しかける。
違う。
今は黒百合。
黒百合でいなければ、崩れる。
⸻
セインが笑う。
「あはは、やっぱり耐えきれないよね」
もう一度。
炎が収束する。
今度はさらに濃い。
空気が震える。
「これで終わり」
セインが口を開く。
「――アグニ」
その瞬間。
黒百合の中で何かが弾ける。
名を、知っている。
構造も。
重ね方も。
喉が、勝手に動く。
「アグニ」
同時。
掌に炎が生まれる。
同じ波形。
同じ圧縮。
同じ“名”。
放つ。
二つの業火が空中で衝突する。
轟音。
衝撃。
炎が噛み合い、削り合い、爆ぜる。
爆発。
余波が屋上を揺らす。
炎が消える。
⸻
静寂。
煙の向こう。
セインの表情が、初めて止まる。
笑みが消える。
瞳が細まる。
「……なんで」
声が低くなる。
「どうして、その魔法を知ってるの?」
黒百合は折れた剣を見る。
半ばから失われた刃。
役目を終えた金属。
静かに投げ捨てる。
乾いた音。
煙の中で、セインを真っ直ぐ見る。
胸の奥が熱い。
恐怖ではない。
懐かしさ。
怒り。
焦燥。
混ざり合った感情。
「知らない」
正直な言葉。
だが視線は逸らさない。
「でも」
一歩、踏み出す。
「その炎は――私の中にもある」
風が吹き抜ける。
二人の間に、見えない線が引かれる。
帝国の象徴。
仮面の少女。
同じ名の炎を持つ者同士。
初めて、対等に視線がぶつかった。




