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第一章-海辺に咲いた花-

潮の匂いがする家だった。


軋む扉。

低い天井。

壁に吊るされた干し魚。


波の音が、遠くで規則正しく崩れている。


少女は、その家で目を覚ました。


視界に入ったのは、煤けた梁と、揺れる影。

自分がどこにいるのか、分からない。


「……ツムギ」


そう呼ばれて、目を瞬いた。


それが自分の名だと、疑いもしなかった。


疑う材料がなかった。


記憶がなかった。

過去も、家族も、何も。


だが、老夫婦は泣きながら少女の手を握った。


「戻ってきたんだね」


皺だらけの手は、ひどく温かかった。


少女は間を置いて頷いた。


違う、と言えなかった。

言えるほどの自分が、なかったから。


自分が誰であるか分からない者に、

否定する資格はないと思った。


だから少女は、ツムギになった。


ツムギ・アルカ。

それが少女の名前。


窓の外では、灰色の海が広がっている。

その広さを見ても、何も思い出せないことが、少しだけ不自然だった。



海辺の村は静かだった。


豊かではないが、飢えるほどでもない。


網を繕う音。

潮風に揺れる洗濯布。

乾ききらない木材の匂い。


老人は言った。


「今年の冬は厳しい」


少女は干し魚の数を見て、

薪の量を見て、

倉の湿気を指でなぞる。


自然に口を開いた。


「それでは足りません。保存方法を変えなければ――」


言いかけて、止まる。


なぜ自分がそんなことを知っているのか、分からない。


塩の配分。

乾燥の角度。

冬を越す備蓄の計算。


考えたわけではない。

最初から、そこにあった。


老人は目を丸くして、笑った。


「ツムギは賢いねぇ」


少女は、ただ微笑んだ。


胸の奥が、少しだけ冷えた。


“賢い”。


その言葉が、どこか遠くの誰かに向けられていた気がした。



それは突然だった。


鎧の音が、村に入ってきた。


波の音を踏み潰すような、重い足音。


帝国の兵士。


威圧的。


村人は俯く。


老人は震える手で書類を差し出した。


兵は一瞥し、鼻で笑う。


「不足だ」


「そんな……約束通りの量を……」


殴打。


鈍い音。


老人の身体が土に倒れる。


少女の視界が、狭まる。


音が遠のく。


波だけが、やけに大きい。


少女は駆けた。


「やめて!」


兵が振り向く。


その顔に、感情はない。


怒りも、憎しみも、ない。


ただの義務。

ただの制度。

ただの帝国。


少女の胸が締めつけられる。


やめて。

やめて。

やめて。


その瞬間。


兵の喉元が、不自然に膨らんだ。


黒い何かが、皮膚を内側から押し上げる。


小さな、細い――棘。


それは内側から、静かに成長していく。


兵の目が、わずかに揺れた。


迷い。


ほんの一瞬。


次の瞬間、それは突き破った。


血が噴き出す。


花が咲く。


喉元に、黒い花弁のような棘が広がる。


兵が崩れ落ちる。


音は小さい。


喉を押さえたまま、土に伏す。


少女は、しばらく動かない。


自分の鼓動だけが、やけに大きい。


――違う。


これは、初めてではない。


そんな感覚が、胸の奥をかすめる。


波が、遠くで崩れる。


視界の端で、老人が倒れている。


歩く。


膝をつく。


揺らす。


反応はない。


口元に手をあてる。


冷たい。


少女は、自分の指先を見る。


そこには、棘はない。


血も、ない。


まるで最初から存在しなかったように。


そのことに、安堵している自分がいる。


それが、少しだけ怖い。


もしまた同じことが起きても。


同じように、何も感じないのではないか。


少女は、息を吸う。


吐く。


もう一度吸う。


何も言わない。


謝らない。


泣かない。


悲しみも、怒りもすぐに冷めたから。


ただ、老人の瞼を指で閉じる。


指先に、わずかな血がつく。


それを見つめる。


血は温かい。


自分の心は、冷たい。


「……そうか」


背後の声。


少女は振り返らない。


「それが、お前の力か」


沈黙。


少女は自分の手を見ている。


さっきまで何もなかった者の手。


今は、命を奪った手。


「……違う」


声は平坦だった。


感情が乗らない。


「止めただけ」


誰を?


何を?


自分でも分からない。


男が近づく。


視線が、わずかに鋭い。


恐れてはいない。


だが、軽くも見ていない。


「帝国は止まらない」


少女は老人から視線を外さない。


「……知ってる」


なぜ知っているのかは、分からない。


けれど、知っている。


この時代は止まらない。


踏み潰す側は、いつも歩き続ける。


男は少女に仮面を差し出す。


黒の半面。


白でもなく、紅でもなく、黒。


少女は、少しだけ海を見る。


灰色の波は、何も覚えていないように揺れている。


自分も、何も覚えていない。


それでも。


胸の奥には、消えない何かがある。


棘のような、違和感。


仮面を受け取る。


黒が顔を覆う。


仮面越しの視界は、少し暗い。


その暗さが、今は落ち着く。


「名は」


男が問う。


少女は、少しだけ間を置く。


波の音。


潮の匂い。


閉じられた瞼。


「……ツムギ」


それが嘘だと、どこかで知っている。


けれど今はそれでいい。


老人の名は、誰も呼ばない。


少女の本当の名も、誰も知らない。


風が吹く。


血の匂いが、薄れていく。


少女は振り返らない。


ここに居てはいけない。


ツムギであってはいけない。


ただ歩き出す。


その日、帝国はひとつ、棘を生んだ。


自分が何を芽吹かせたのかも、知らないまま。


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