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春にして君が離れ

作者: 夏希纏
掲載日:2026/01/31

 そんなはずはない。瞬きをする。


 眼前にはきょとんとした顔をしている推定小学生の少年がいた。

 レジ打ちの書店員がいきなり手を止めて自分の顔をまじまじと眺めてきたら、そりゃあそんな顔にもなるだろう。


 私だって信じがたい。まさか小学生のお客様に、小学生だった頃の好きな人の姿を重ねてしまうなんて。


「すみません」


 知り合いの顔に似ていて、と付け加えようか迷ったが、結局それだけを言ってから手を動かす。

 金額を確定させて、いつも通りマニュアルのセリフを口に浮かべる。


 幸い少年のほうも大して気にしていなかったらしく、表情から困惑の色は消えていた。

 どうやら貴重な顧客を失わずに済んだらしいことにホッと息を吐く。


 少年がマジックテープの財布を取り出して、ブックカバーを装着する手が一瞬だけ止まる。

 黒の、いかにも小学生男子が持っていそうな財布。

 あいつが愛用していたものと酷似している財布。


「レジ袋はご利用されますか」

「いらないです」


 無理やり行動をルーティンに戻す。

 すると併せて、思考もいつも通りになろうとする。

 大丈夫。私はちゃんとあの人を忘れられる。


「ありがとうございました」

 無意味なほど丁寧なお辞儀をして、トレーのお金をレジに戻す。

 お札の向きを揃えている間にも、あの人の顔が頭をよぎる。

 考えたってどうしようもないことばかり、私は考えていた。

 だからきっと、私は今こうして暇をバイトで埋めることになっているのだろう。


「いらっしゃ……」

 マニュアル人間として残り三時間のシフトをやり過ごそうと顔を上げる。

 するとあの人が入店してきたような気がして、息が止まった。

 もちろんただの別人で、冷静になって見てみれば似ているところなど背格好と髪型くらいのものであった。顔なんて似ているところなどひとつもない。


 ──馬鹿な女。


 自嘲して、時計を見やる。シフトは残り二時間五十八分。

 忘れられるだろうか。あいつと出会う前の私に戻れるのだろうか。

 視線を落とすと、胸ポケットに刺さっているボールペンが目に入った。インクだけでなく、持ち手まですべて真っ黒のボールペン。


「すみません」

「あっ、はい」


 お客様に呼ばれ、急いで足を動かす。黒いスニーカーが地面を蹴る。

 あいつは黒しか着ない人間だった。


「かっこいいじゃん」


 どうして黒い服ばかり着ているのだと尋ねた私に、風戸かざとは至極当然のごとくそう答えた。

 私としては甚だその感性は理解できなかったものの、風戸があまりにも自信満々に言い切るので、そうかとしか返事できなかったのを覚えている。


 私と風戸(さとし)の出会いは小学五年生の春まで遡る。


 私服登校の小学校であったので、黒しか着ない風戸は非常に浮いていた。

 一目で変なやつと判別できるため極力話したくないと思っていたものの、ところがどっこい私の苗字は梶であるから、当然のごとく風戸の隣の席を割り振られてしまった。

 この会話も、進級時恒例イベントである隣同士への自己紹介タイムにて行われた一幕である。


 その黒も、上下ジャージならば運動好きの少年に紛れられたのだろうけれど、風戸はひと味違う。

 そのまま葬式に出席できそうな黒いワイシャツとチノパンという、この田舎のどこにそのような服が売ってあるのかもわからない、小学生にしては渋すぎるチョイスであった。


 その上、靴下も上履きも黒く、当然のごとく真っ黒の瞬足を愛用している。

 風戸の持ち物で黒くないものと言えば、学校指定のノートと赤白帽、体操服くらいのものであった。


 ここまで全身黒ければそれにちなんだあだ名でもつけられて然るべきだろうが、風戸は小学生にして苗字で風戸だとか風戸くんだとか呼ばれていた。


 小学生ながら、これは安易に触れてはならない領域だと皆が第六感で悟っていた。

 頑張っても頑張っても逆上がりすらできず、笑えないくらい運動神経の悪い人間にはかえって運動音痴イジりができないように、風戸の黒イジりは禁忌であった。


 ちなみに例示した笑えないレベルの運動音痴は私であるので、この時点で私はどこか風戸に親近感を抱いていた。


 風戸は恐らくマジックらしきもので黒く塗りつぶした上履きをプラプラさせながら、まだ自己紹介タイムは続いているというのに何も言わず虚空を眺めていた。

 まるで紹介すべき自己など何もないと言わんばかりの態度であった。

 私は思った。こいつのことをもっと知りたいと。


「あのさ、風戸の上履きってマジックで塗ってんの」

「そうだよ。黒い上履き売ってなくて」


 そりゃそうだ。こいつ以外の需要などどこにあるものか。


「墨汁に漬けるか絵の具で塗ったほうが早いんじゃないの?」

 風戸は天変地異でも目撃したかのように、あんぐりと口を開けた。


「確かに」

 風戸はあまり頭がよくないのかもしれなかった。

「ありがと」

 しかし屈託なく笑うその顔があまりにもあどけなくて、頭の出来がよくないことすらチャームポイントのように思えてくる。


「椿ちゃん、頭いいんだね」


 生まれて初めて言われた褒め言葉に、不覚にもくらっときた。自分は風戸呼ばわりされているのに、相手のことは名前にちゃん付けする健気さも、今思えば私の心臓を貫いたのだろう。


 かくして私は小学五年生の春、新学期早々に人生で初めて恋に落ちた。全身黒づくめの変な男子に。

 こんなに浮いていれば友人などいるわけもなかろうとタカを括っていたものの、風戸は孤立していたわけではなかった。


 私の見立て通り勉強はやや不得意であったものの、運動神経もコミュニケーション能力も並であり、休み時間にドッヂボールやサッカーに興じる程度には交友関係を築き上げていた。


 中学受験算数のテキストを解きながら、運動場へ視線を向ける。風戸はいつも真っ黒で遠目からにもわかりやすかったため、この距離でも風戸の一挙手一投足を窺うことができた。


 今日はサッカーをしているらしい。風戸はこの世でいちばん自由な存在であるかのようにボールを追いかける。いち早くボールに追いついた風戸は、その足で思い切りそれを蹴り上げて、ゴールネットに叩き込んだ。


「よっしゃー!」


 風戸は肺の空気をすべて使い切る勢いで声帯を震わせる。喜びを込めた拳を空に突き上げ、飛び跳ねて、近くにいたクラスメイトとハイタッチを交わす。

 何メートルも隔たれた場所からの視覚情報を、半ば妄想と化した想像によって補う。近頃は風戸の声も脳裏で創作してしまっていた。


 自陣の仲間に囲まれる風戸を眺める。算数のテキストは一問だって進んでいなかったけれど、元よりただの暇つぶしであるのだからどうだってよかった。

 会話が下手で、クラスメイトと雑談しようとも思えず、特に好きなものも趣味もなく、テレビは親に規制されている。平均以上にできるものが勉強しかなかったから、漫然と高学歴を目指して勉強しているだけの生活。


 そんな何もなかった私にとって、風戸だけが特別だった。風戸を眺めていられるのなら、偏差値が下がろうが志望校に落ちようが、もはやどうだっていいことだった。

 休み時間終了五分前を告げる音楽がスピーカーから流れる。すると風戸は脱兎のごとくサッカーボールを抱えて校舎へ走ってゆく。歩いたって間に合うけれど、風戸は必ず走る。私とは違うその『今を生きている感じ』が、私にはとても眩しく感じられた。


 授業中、風戸はよく舟を漕いでいた。睡眠不足というわけではなく、休み時間と放課後を全力で謳歌するためには授業にリソースを割いているわけにはいかないといった具合であった。


 これ幸いと、私は風戸をじっと見つめる。ほとんど眠っているから、彼が私の視線に気がつくことはない。目が覚めるときは直前にぎゅっと瞼を閉じるクセがあるから、その兆候が見えたらノートにでも視線を移せばよかった。


 あどけない寝顔が、安らかな寝息が、手を伸ばせば届く距離にあった。

 風戸の輪郭は丸く、小学五年にしても幼いほうだった。成長が遅いタチなのだろう、背の順でも前に位置している。


「風戸! 風戸起きろ!」


 担任が風戸の睡眠を妨害すると、風戸の瞼がぎゅっと動く。

 クラスメイトは彼を一瞥だけすると、また思い思いのほうへ視線を散らした。風戸が授業中熟睡し、それを担任に起こされるのなんて日常茶飯事で、あだ名にすらならないような事柄であった。


 風戸は開ききらないぼけっとした眼差しで、教科書と黒板を交互に見やる。何が起こっているのかすら判断できないようだった。


「二十一ページ五行目から音読」

 少しだけ近づいて、風戸に耳打ちする。風戸はまだ眠たげな目を私に向けて、ふっと口端を緩ませた。

「ありがと」

 寝起きのその声は、まるで一緒に暮らしているみたいで。


 私がぽかんと口を開けたのに風戸は気づかないまま、おもむろに立ち上がって該当箇所の音読を始めた。

 担任が私に抗議の目線を向けていたことにしばらくして気がついたけれど、風戸の『ありがと』がもらえるのならば、多少担任に嫌われたってどうでもいいことだった。

 私は心の底から、己の梶という苗字と先祖に感謝した。


 風戸は音読を終えると同時に、今日の営業は終了しましたと言わんばかりに目を閉じる。学校へは遊びに来ているのだといった態度を隠さないその行動。


 いいなぁ。

 皮肉もやっかみもなしに、私は彼を羨んだ。他人よりも多少勉強ができることをプライドにして、何とか学校生活にしがみついている私がひどく愚かに思えてくる。

 願わくば私も、風戸が楽しいと感じることに混ぜてほしかった。


 運動全般できないし、女子コミュニティに属していないのにも関わらず男子コミュニティに入る勇気も持てないのに、身勝手な欲望ばかりが膨らんでゆく。

 風戸の髪が春風に柔らかくなびく。このまま風になってどこまでも飛んでゆくような、ありもしない錯覚が見えたような気がした。


「風戸。私に遊びというものを教えてほしい」


 このまま風戸を眺めているだけでは何も進展しないと思った私は、早速行動することに決めた。

 給食の時間。私たちは今日の担当ではなかったので、自席で給食担当の配膳を待っているところだった。

 風戸は授業中でもないのにぽかんと馬鹿みたいに口を開ける。


「どういうこと?」


 二秒ほどの間を開けて、風戸はようやく返事をした。今思えば当たり前の反応だったのだが、私はまさか風戸がそんな当たり前の反応をするとは考えておらず、背筋に冷や汗を掻いていた。

 嫌われたのではないか。疑心暗鬼が思考回路に巣くう。


「私、遊んだことがないの。だから風戸に遊びを教えてほしい」

「ああ。俺、遊んでばっかりだから遊びには詳しいよ」


 一週間クラスメイトやっていれば充分にわかることを、風戸はここだけの秘密だと言わんばかりに放った。


「俺に任せなよ」

 徳川家からの大役を仰せつかった家来のように請け合う。

「でもなんで俺なの? 女子と遊ぶもんじゃない?」

「なるほどね」


 私は風戸がそこへ気づいたことに感心していた。普通そうだということに気がつかないほど、これまでの私の交友関係は薄かった。


「なるほどって何が?」

「風戸がそこに気がつくとは思わなかったから」

「どうして?」

 ビー玉の瞳を心底不思議そうに輝かせ、風戸は首を捻る。


「あ」

 唐突に風戸は手を合わせて、いたずらっぽく微笑んで顔を寄せた。

「俺と友達になりたいってことだ」


 その推理は微妙に違ったけれど、訂正するほどの間違いでもなかったから、私は頷いた。

 そうだよ。流れのまま口に出す。口に出してしまってから、ああ嘘なんて吐くべきじゃなかったと後悔した。訂正しないまでも、明確な肯定はしないでおくべきだったのだ。


 しかし一度声に出した以上はどうすることもできず、風戸がウキウキしながらしゃべり出すのを眺めていることしかできなかった。風戸は映画に出てくる子役のように表情筋を動かす。


「まずはねぇ、3DSかカードゲームかな。3DSって持ってる?」

「持ってない」

「ならカードゲームだね。俺のデッキあるからそれ貸したげる。今日の放課後って暇?」

「暇」


 本当は塾があったけれど、そんなもの些末な問題である。これまで人生十年あまり、一度たりともサボったことなんてなかった。だから今日くらいは許してくださいと、天の菅原道真に向かって祈る。


「じゃあ今日の放課後、俺ん家か公園かでカードゲームね。帰ってすぐ、北公園の入り口集合で!」

「わかった」


 家か公園かで気合いの入れ方も異なるのだが、どうせ風戸に言ったってわかるはずもなかった。わかってほしくもなかった。


 ゆえに私は言葉少なに了承し、風戸の言うとおり、帰ってすぐに北公園の入り口へ向かった。

 私が待ち合わせ場所へたどり着くと、全身黒づくめの少年はぼけっと暇そうに突っ立っていた。

 両手にはコロコロコミックの付録についてくるようなトレーディングカードの束が握られていて、こいつはケースという存在を知らないのだろうかと訝しんだ。


「遅いね」

「すぐ来たよ」


 待たせた罪悪感はあるけれど、私もそれなりに急いでここにやってきたのでごめんの一言は口に出せなかった。そんなに待つのが嫌ならば時刻指定すればいいのだ──喉の奥でぶつくさ文句を垂れる。


「そっか。ごめん」

 だから素直に謝罪を口にした風戸に、胸がちくりと痛んだ。風戸はただ、私の家から公園まで距離があるかもしれないということを考慮できていなかっただけだった。


「さっきちょっと見てきたんだけど、カード広げられそうなところはもう他の人に取られちゃったから、俺の家来ない?」


 私のほうこそ、と言う前に風戸は言葉を継ぐ。すっかりタイミングを逃してしまった私は、唐突に降って湧いた自宅訪問イベントに呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 何も言わない私をよそに、風戸はさっさと自宅へ向かって歩き出す。


「ちょっと」

 慌てて追いかけると、風戸はちらりと振り返り、左手に持っていたカードの束を私に差し出した。

「これ、デッキ。見てていいよ」

「あ、うん……」


 受け取ったはいいものの、このゲーム自体知らないのでカード説明を見てもさっぱり理解できない。

 風戸は相変わらずスニーカーのつま先に至るまで全身を黒に包み、我関せずとスタスタ歩いて行く。何か言えよと思うと同時に、これでこそ風戸だとも思う。


 ここで右折するとも言わず、無言で右折やら左折やらを繰り返す彼に「あのさ」と声を出す。

 面倒くさそうな色だったり、話しかけられて嬉しそうな色だったり──風戸はそういった感情の波の一切合切を排したような顔で振り返る。


 鏡のような瞳孔。


「他の人と遊ばなくてよかったの」

「なんで?」

「休み時間、他の人と遊んでたでしょ。放課後も遊ばないの?」

「ああ……」


 風戸はガサガサと乱雑な手つきでカードをシャッフルさせながら、いいんだよ、と凪いだ声色で答えた。


「休み時間は人数合わせとして遊ぶってだけで、大して仲良くもないから放課後遊ぶことはほとんどないかな。たまに放課後大人数で遊ぶとかあれば混じることはあるけど」

「そうなんだ」

「寂しい人間なんだよ」


 否定することも肯定することもできず、雑談はそこで終わってしまった。重苦しい空気の中、足と車だけが動く。排気ガスのにおいが鼻腔に纏わり付く。

 やがて築三十年ほどのやや古ぼけた低層マンションの前に到着すると、ようやく風戸は足を止めた。


「ここ、俺の家。同級生が来るのは初めてだよ」

 初めてなのに特段了承を取ることもなく連れてきたのか。随分慣れている手口だと思っていたのだが。

 私が内心動揺しているのにも構うことなく、風戸はマンションの中へ入ってゆく。

 風戸家は一○一号室だったらしく、私が風戸に続いて角を曲がると、もうすでに彼は自宅の鍵を開けていた。鍵についているゆきお人形ストラップが揺れる。華厳の滝。親きょうだいは不在なのだろうか。


「親、いないの?」

「父親はいるけど、今はいない。仕事だから」


 家庭環境を尋ねたわけではないのだが、図らずとも新情報を入手してしまった。父親は友達を家に呼ぶことに対してOKを出しているのか?


 風戸のことだからかなり怪しかったけれど、だからこそここで風戸相手に問いただしたところでロクな回答を得られるとは思えなかったから、私はこのまま成り行きに任せることにした。

 風戸の部屋に上がり込みたい、という下心に支えられている選択ではあったけれど。


「お父さんは十時くらいまでは仕事だと思うから、それまではここいてていいよ」

「いや……」


 帰宅時刻は六時だ。さすがにそれまでには帰ると言いかけて、止まる。

 私は今、母の中では塾に行っていることになっているのだ。塾が終わるのはだいたい七時二十分。いつも半過ぎくらいに帰っているから、今日もそれくらいにするべきだろう。


「七時くらいまではここにいていいかな」

「いいよ」


 呆気なく許可が下り、反射的に息を吐いた。すると喉に突っかかっていたものが消失して、今までずっと息が苦しかったことに初めて気がついた。

 風戸が扉を開ける。玄関には靴が一足しかなかった。恐らくは父親のものであろう、黒いスニーカーのみ。まさか父親も全身黒なのだろうか。


「きょうだいとかいないの?」

「いないよ」


 何となくひとりっ子っぽい気はしていたので、そこにさしたる驚きはなかった。

 家の壁が全部黒いだったりといった、そういったこともない、ごくありふれたマンションの一室。それが風戸の家に関する印象のすべてだった。


 かなり忙しいサラリーマンの父子家庭であるはずなのだが、家の中は不思議なほど整頓されている。まず廊下には何も置かれておらず、リビングも殺風景と言っていいくらいの状態だった。


 そもそも物があまり多くはないようで、コロコロコミックなど風戸(ここで言う風戸とはもちろん息子のみを指している)の私物らしきものの他には最低限のものしか置かれていない。

 写真立てやら息子が描いた絵やら、表彰状やらの類いが飾られていることもなく、雑誌やら小説やらも見当たらない。自宅は寝るだけ、と割り切っている限界一人暮らしサラリーマンの家と言われたらこんなものかと思うけれど、小学生と暮らしている家だとすればあまりにも寂しい。


 何か足りないと思ったら、この家にはテレビがないことに気がついた。

 机に置かれている菓子パンとお茶漬けの素だけがかろうじて生活感を醸し出していた。

 風戸はその机まで私を案内すると、菓子パン類を端っこに退かしてカードを広げ始める。


「一応聞くけど、ルールとかは知らないよね?」

「知らないよ」

「わかった。じゃあ教えながらやるから、一旦そのデッキをシャッフルして、そのうち七枚を手札にして……」


 じじじ。

 冷蔵庫が稼働する音が鼓膜を揺らす。


 休み時間は遊ぶけれど、放課後に遊ぶほど親しい友達はいない。きょうだいもいない。

 風戸の言葉が脳裏でリフレインした。それならば風戸はいつも、この冷蔵庫の稼働音が響く部屋でひとり過ごしているのだろうか。


 慣れた動きでカードを分ける風戸の手に、半ば無意識のうちに自分の手を重ねていた。風戸の手は私の手よりも小さく、温かかった。


「椿ちゃん?」

 無垢な瞳孔が私を見据える。──何をやっているんだろう、私は?

 すっと引っ込めると、風戸は不思議そうに自分の手をまじまじと見やった。


「冷たいのに、あったかいね」


 風戸はふっと口端を緩めて、呟いた。

 それはどういうことか尋ねようとした舌は思うように動かなくて、口は声帯の震えを待ったまま不格好に開きっぱなしになる。


 じゃあ、手札を見て。

 風戸の合図で、真相を知る機会は一生失われてしまった。それでもいいか。誰にともなく言い訳して、七枚の手札に視線を落とす。


 その手札はこのデッキの中で考えられる限り最高のものだったのだが、ルールすら把握していない状況下では無意味だった。

 私は風戸に完敗を続け、十九時を迎えると同時に不完全燃焼感を伴いつつ家を出た。

 風戸は私の家まで送るとの提案を繰り返す。それ自体は非常に嬉しかったものの、母が風戸を目撃しようものなら事がややこしくなるのは明白だったので丁重にお断りする。


 今となっては、一秒でも長く風戸と一緒にいればよかったと後悔している。


 放課後に遊ぶ唯一の友達と風戸に認定された私は、席替えがあってもよく教室で彼と喋るようになった。

 話題はもっぱらカードゲームやら風戸の家にある漫画のことだったけれど、文句なんてあるはずもなかった。

 私も風戸と同じくらいそれらのことが好きなフリをして、表情筋と舌を動かす。

 風戸は、私が好きなのはゲームや漫画じゃなくて風戸と風戸が好きなものなのだと気づくこともなく、無邪気に甲高い声で喋る。そんな何も気づかない様子すらも愛らしく思えて、授業中黒板を見る時間は減少の一途を辿った。


 風戸はなぜだかランダムの席替えなのに前の席になることが多く、私はいつも風戸の背中を眺めていた。

 中学受験模試では六十弱だった偏差値が五十ちょっとになり母にはこっぴどく怒られたけれど、もはや中学受験に関するモチベーションなどとうに失せていた。


 高い学力を保ってなけなしの自己肯定感をメンテナンスし続けるよりも、風戸と何の益体もない遊びをすることのほうが私の人生にとってはプラスだった。


 可能な限り、風戸の近くにいたかった。中学受験の答案用紙はすべて白紙で出そうと決めていた。

 風戸は近所の公立中に進学するから、全落ちすれば母の意向に関わらず風戸と同じ中学に進むしかなくなる。


 授業が終わり、給食を限界まで掻き込む。お代わりに並び、クラスメイトの女子が『こいつマジか』と言いたげな眼差しを向けるが、私の特技はスルーであるためノーダメージであった。


 私は特別大食いでもないのだが、塾をサボった日は晩ご飯抜きの刑に処されるため、事前になるべく栄養を摂っておく必要があるのだった。

 母は嫌いではないのだが、罵倒して飯を抜けば私の行動を制限できると思っているところは嫌いである。


「俺んちでご飯食べてもいいのに」

「悪いじゃん。ご飯目的で来てるって思われるのも不本意だし」


 人類で唯一、私が異常に給食を詰め込むようになった理由を知る風戸は事もなげにそう言うけれど、死んでも御免であった。


 風戸にだけは、与えられるのではなく与えたかった。私が与えられるものなんて、今は何も思い浮かばないが。


 せいぜい宿題のわからないところを教えたり、夏休みの宿題のペースメーカーになったり、そういうことしかできなかった。

 風戸は大袈裟なくらい感謝してくれたけれど、風戸に与えられたものを返せているとは到底感じられなかった。


 風戸のおかげで、私の毎日はこれまでとは比べものにならないくらいに色づいた。

 世界はこんなにも豊かなものだったのかと、帰り道の空に星を見つけるたびに驚く。これまではただ下を向いて、コンクリートの地面だけ見ていたことに初めて気がついた。


 夏休み、夏期講習のほとんどをほっぽって、母の目の届かないマンションの一室で身を寄せる。

 風戸の柔軟剤の匂いが私の肩からもするんじゃないかと、甘い仮説に浸る。飯を抜かれまくってほとんど頭なんて働かなかったけれど、風戸が隣にいるのならば餓死したって構わなかった。


 もちろん、私が風戸の迷惑になるようなことをするはずもないのだが。


 家庭教師の駄賃代わりにスティックパンをひとつもらい、カードゲームを始める。

 最近ようやく風戸と同じくらいにはルールとカードの特性を理解できたので、ここらの戦績は五分五分といった具合であった。

 私に負けて悔しがる風戸が見れるかと思ったのだがそんなことはなく、ただ楽しげに笑っていたのがいささか不満だった。


 これまでひとりで二役やっていたから、負けるのは新鮮だったらしい。

 だから風戸は勝敗に関わらず、常に楽しそうだった。


 笑っている風戸は好きだったけれど、他の顔も見てみたかった。

 悲しんだり、悔しがったり、怒ったり、嫉妬したり──わざと負の感情を引き出すことはしたくなかったけれど、風戸のすべてを知りたいと希う気持ちは止められなかった。


 夏休みの最終日、私は上履きを墨汁に沈めた。


 バケツの中に、ボトル数本分の墨汁が光を反射して揺れている。

 すべての色彩を吸い込んだ黒に、手を入れる。風戸に飲み込まれているような、幸せな心地がした。


 黒いスニーカーから、黒い上履きに履き替える。


 これがクラスの人気者の所業ならば『風戸の真似かよ!』といったヤジでも飛んできそうだが、あいにく私はクラスの人気者ではなかったので、視認されながらも優しく無視されていた。

 しかし、そんなことどうでもよかった。


「椿ちゃん」


 風戸は相変わらず全身真っ黒の姿で教室へ踏み込んだ。

 もはや誰も彼の黒に目を向けることなく、ただ漫然とした空気が絶え間なく続いてゆく。


 入学当初からこいつは全身真っ黒だったのだろうか。

 これまで浮かんだことのなかった疑問が、唐突に生じる。

 もしそうじゃないのならば、今日から全部黒で行こうといつ思ったのだろうか。その日向けられた視線に対して、風戸はどう受け止めていたのだろうか。

 風戸の視線がちらりと下を向き、すぐに私の目に移った。


「俺といっしょ?」


 その目尻に不安が滲んでいることに、私は気がついた。

 あるいは、私がそう見たかっただけなのかもしれない。


「一緒になりたい」


 その言葉がどう風戸に響いたのかはわからなかった。

 彼は悲しそうに口角を上げて、首を振った。

 私は初めて見る顔に動揺するばかりで、「ありがとう」と言い残し自席へ向かう風戸を見送ることしかできなかった。


 真昼間に、私たちは学校から解放された。

 新学期が始まる憂鬱さが早め下校の解放感に上書きされ、小学生たちはこの世の春と言わんばかりに飛び跳ねていた。


 その中で私と風戸だけが、重苦しい静謐さを保ったままに歩いていた。


 じっとりとした、不快な湿気が熱を伴って全身に纏わり付く。二人分の影が伸びる。身長差が縮まりつつあることに気がついた。


「お母さんがいなくなって、黒しか着なくなったんだ。色があるのが気持ち悪くて」


 死んだわけじゃないんだけど。

 私が口を開く前に、風戸は言い添えた。


「変だよね」


 逃げるように風戸は口にする。

 痛々しく自嘲する顔は、きっと私が見たいと望んだものだったけれど、こんなことならば望まなければよかったと後悔する。


「私も一緒に黒くなるよ」

「ううん。俺が止めるべきなんだよ」


 私の気色づいた言葉が風戸に受け入れられるはずがなかった。

 風戸の黒に踏み込むべきじゃなかったのだと、笑顔の向こう側を覗こうとするんじゃなかったと、今更になって気がついた。


 風戸は黒いスニーカーで石を蹴る。

 石は軽快な音を立てて側溝に落ち、風戸はそれ以上何も言うことはなく、はしゃぎ声を背景にただ歩き続けた。


「じゃあね」


 風戸はいつも通りのフリをして手を振る。

 私はこれから塾に行かなければならないのだと、当たり前のことを思う。


 翌日から風戸の上履きは他人みたいな白と赤になったけれど、私は真っ黒な上履きを辞めることができなかった。


 だんだん色づいてゆく風戸とは対照的に、私はだんだん色彩を失っていった。

 私の視界の中で、風戸だけが特別なまま変わらなかった。合格通知も桜の花も、すべてが凡庸でありふれたものに感じられた。


 中学に入学して初めてなのにいつも通りの下校道、風戸の黒に染まった学ランを遠目に見て、私は風戸に恋したときのことを思い出してしまった。


「椿ちゃん?」


 風戸も私に気がついたらしく、大きく手を振る。こんな真っ昼間の各駅停車しか止まらない駅前には大した人もおらず、わざわざ手など振らなくてもわかるのに。


 しかし風戸は、それでも大きく手を振る。そういう人だった。そういうところが、網膜に焼き付いて離れなかったのだった。


 近所の公立中学は男子学ランに女子セーラー服という、田舎中学の体質をそのまま表したような制服をしている。考えるだけでげんなりする組み合わせであった。


 私が進学した中学の制服はワンピーススタイルで、それ自体はとても気に入っていたけれど、風戸の隣をセーラー服で歩くのは満更でもなかったかもしれない。


 風戸と一緒に登下校する可能性を捨てたのは私だったのに。


「椿ちゃんの中学も今日からだったの?」

「うん」


 似合ってるね、かっこいいよ。

 そんなふうに正面から褒めることができたなら、私はまた風戸と距離を詰めることができただろうか。


 クラスが同じだったときは時折カードゲームに興じていたけれど、進級してクラスが変わってからはほとんど話すこともなくなった。私は塾に直行していたし、風戸もわざわざ私を待ったりはしなかった。


 唯一の友達と舞い上がっていたのは、きっと私だけだったのだろう。


 風戸の靴は真っ白だった。おかしいことじゃない。あの公立中は靴と靴下は白じゃないといけないと決められており、風戸はただそれに従っているだけだ。

 そうじゃなくても、風戸はもう全身真っ黒じゃなくなってしまった。もう、それは止めると風戸が決めたから。


「時間ある? 久しぶりに遊ぼうよ」


 中学受験が終われば次は仁義なき大学受験戦争が始まるのだが、今だけは無視することにした。私の特技はスルーであった。


 もう一年以上風戸の家には行っていなかったけれど、目を瞑っていても道がわかるほどには鮮明に覚えていた。


 空気の匂いが、風戸と歩くときのそれだった。


 風戸はいつの間にか私と同じくらいの背になっていた。

 薄汚れた華厳の滝ゆきおストラップが揺れる。そういえばこのストラップは、まだ母親といたときに買ったものなのだろうか。


 扉が開く。懐かしい匂いが脳味噌をほぐしてゆく。あの頃とは違う白のスニーカーと、焦げ茶のローファーが三和土に加わる。


「一年くらい放課後暇だったから、また遊べるなんて夢みたい」


 リビングの隅にある小さな本棚から、カードケースを取ってくる。

 両方とも、私がよく出入りしていた頃には存在しなかったものだ。


 本棚には主要五科目の基礎的な中学学参と、現代文の問題に出てきそうな名作小説が数作刺さっていた。

 博士の愛した数式。斜陽。老人と海。かがみの孤城。

 時代も内容もてんでバラバラで、とにかく文芸作品を読ませたいという意思だけを感じる。恐らく父親がセレクトしたものだろう。


「……本当かな。どうせ部活に入ったら私のことなんて忘れるんでしょ」


 否、もう私のことなんて忘れかけているのではないのだろうか。

 本棚にも床にも、この部屋のどこにもコロコロコミックなんてなかった。

 風戸は着実に、私と出会った頃とは変化している。もう私なんて思い出す必要もないくらいには、きっと。


「何それ。部活と私どっちが大事なのーなんて言わないでよね」

 風戸は何も気づいていないような笑顔を浮かべ、軽やかな声で答える。


「めんどくさい彼女じゃん」

「あは、ごめんごめん。じゃあ椿ちゃんは言わないか」


 春にして君を離れ。

 アガサ・クリスティーの名作タイトルが目に入る。

 もう秋頃には離れていたはずだけれど、今になって離れてしまったことを受け入れることができた。


 どうしてミステリーの巨匠アガサ・クリスティーの中でもミステリー作品ではないこれだけが唯一本棚に刺さっていたのかはわからない。きっと訳もわからないまま息子に買い与えたのだろう。


 訳もわからないまま、顔も素性も知らない友人を家に招くことを許可したように。

 物が少ないながらも荒れようのない整頓された家を与えたように。

 ただの紙に過ぎない、大量のトレーディングカードを集めたように。

 きっと風戸はそうやって愛されているのだと、私は理解した。


 私もそうやって風戸を愛したかったのだと。


「椿ちゃん?」

 風戸は傍若無人なまでに無垢な指で、私の頬をなぞった。


「なんで泣いてるの」

「眠くて」

 一言答えて、いつもの場所だった椅子に座る。


「そっか」

 風戸は私の想いに気がつかないままに移動して、カードケースの一方を私に差し出した。


 ケースの蓋を開け、思い出のカードに手を添える。

 デッキはまったく更新されておらず、風戸がこの一年他のことで遊んでいたことを察した。

 読書でもしていたのかもしれないし、放課後一緒に遊ぶ友人ができたのかもしれない。


 三戦して、すべて私の勝利に終わった。風戸は運が悪かったと笑っていたけれど、それだけではないように私には思えた。


 お互い中学進学と同時にスマホを買い与えられていたため、LINEを交換して早々に解散する。帰宅後、程なくしてスマホが振動した。


『今日は久々に楽しかったよ。また遊ぼうね』

『こちらこそ。またね』


 LINEのメッセージ画面はその日のそのやりとり以降、更新されることなく止まっている。

 幾度となく『部活何入った?』『今週暇なときある?』なんて送ってみようかな、と入力したことはあったけれど、送信ボタンを押す勇気が持てなかった。


 向こうからメッセージが来ないことがすべてを物語っているような気がした。


 初期アイコンだった風戸のプロフィール画像は、部活中に撮影されたらしき写真に変わっていた。

 バレー部。LINEのステータスメッセージに表示される情報が、私が把握できる風戸の近況のすべてだった。

 どうやら県大会に出場が決まったらしい。


 県大会出場おめでとうと送るべきか小一時間悩み、やはり私は断念した。

 風戸のステータスメッセージを監視していることもバレてしまうし、会話できたとしても風戸に語れるような近況なんてなかった。


 勉強ができると思っていたけれど、それは小学生にしては、というだけだった。

 中堅上位校に進学を果たした私は一年一学期の中間テストにして平均を下回ってしまい、一年が終わる頃には言い逃れできないほど落ちぶれてしまっていた。


 部活も、体験入部には行ってみたもののどこの空気にも馴染むことができず、結局どこにも入部できなかった。学校と家と塾の往復を繰り返すだけの日常。


 風戸に『椿ちゃんは最近どう?』と聞かれるのが怖かった。

 かつて彼に頭がいいと言われた私は、ただのまやかしだったことに気づかれたくなかった。

 たとえこのまま距離が離れていくとしても、風戸の中の私は頭がいいままでいてほしかった。

 こんなことを考えている時点で、どうやら私の頭は相当悪いらしい。


 黒のパスケースに学割定期を入れる。

 黒い筆箱から、黒いシャーペンを取り出す。

 土日は黒い服を纏って予備校へ行く。


 風戸が捨てた風戸を大事に抱えながら、私は大人になってゆくフリをする。


 大学受験を終えると、もうどうすればいいかわからなくなってしまった。

 国公立に全落ちし浪人の選択肢もよぎったけれど、どうしても国立大に行きたいというモチベーションもなかったため、ギリギリ母が許すレベルの私立大学に進学を決めた。


 あれだけ疎ましかった受験勉強ばかりの生活も、終わってみれば解放感よりも寄る辺なさが募る。

 人生の指針を失ってしまったみたいだった。ひとまず娯楽という娯楽を体験してみるけれど、やっているのではなくやらされているような感じがして、うまく楽しめない。


 変わらないことなど、持ち物や服を黒で揃えることしかなかった。

 幼くして母離れを強いられた風戸がすべてを黒に染めた理由の一端に、数年越しに触れたような気がした。


 大学の入学式は黒のスーツの人間ばかりで、私が目立つことはなかった。

 小学五年生春の風戸なら、白のワイシャツではなく黒のワイシャツを着ていたのだろうけれど、私はそこまで振り切ることができなかった。


 無意味に視線を周囲に巡らせる。

 黒い服を着ている人を見ると、風戸なんじゃないかと思うクセが未だに抜けなかった。


 劇的な再会をすることもなく、入学式及び新入生オリエンテーションはつつがなく終了する。

 大学前のバス停はUSJくらい混み合っていたため乗車を諦め、最寄り駅まで歩くことにした。

 駅から大学は舗装された登山道といった様相を呈しているが、大学から駅までは下るだけだ。


 あまりにも混み合っていたため一本見送り、次に来た電車に何とか潜り込む。西宮北口駅で乗客全員が吐き出され、ぞろぞろとゾンビの大群のごとくホームを進む。

 このまま家に帰ってもよかったのだが、今後のために何か資格でも取っておこうと思い立ち、改札を出る。アクタ西宮にあるジュンク堂を目指す。


 西宮ガーデンズのブックファーストに行ってもよかったのだが、ガーデンズの幸せそうな空間は私にとって毒だった。

 アクタ西宮は人がいるのにどこか閑散とした雰囲気で、ようやく楽に息を吸えるようになる。


 涼宮ハルヒの等身大パネルを横切り、コミックコーナーに迷い込む。


 資格関連はまったく別の場所にあるのでここへ来る必要はないのだが、今の私にはこういった無駄が足りていないような気がしてならなかった。


 話題のアニメを視聴しておらず、孤立していた小学校時代が脳裏に蘇る。

 今更追ったところで空白が埋まらないことは理解しているけれど、せっかく空いた時間があるのだから話題の漫画でも読んでみようか。


 考えつつ、これといった読みたい漫画も見つからなかったのでコーナーを移動する。

 文庫本が並ぶ棚の前で、スーツの男性が佇んでいた。


「あ」


 黒いジャケットにスラックス、リュック。

 白いワイシャツと焦げ茶の革靴。


 全身に黒を纏い、この世でただ唯一の存在感を発揮していた頃の風戸はどこにもいない。

 けれどこの人は風戸智なのだと、私は一目見た瞬間に理解した。


 彼は百八十センチほどありそうな長身を屈め、中段に刺さっているタイトルを物色し始める。

 丸くくりっとした印象の瞳は、幼さを残しつつもどこか怜悧さを感じさせる眼に成長を遂げていた。文庫本に添えられた手は大きく、骨を感じさせる。


 隔たれた時間の重さに、私は立ちすくむことしかできなかった。

 風戸は一冊を手に取り、私のほうへ足を向け、止まる。


「……あ、すみません」


 低くなった声が言う。かざと。低くなりきれない声は掠れる。

 風戸は邪魔になっていると誤解したのか、軽く会釈してすれ違う。取り残された私は、余計な色のついた顔面をそっとなぞる。


 あれは本当に、風戸だったのだろうか。


 講義中、通学中、食事中、寝る前。

 生活の至るところで、その問いは姿を見せる。スーツ姿の男性を見るたび、黒を纏った男性を見るたび、風戸を思い出す。


 目を開くたび、いつも風戸を探す。大講堂での授業は、いつも早めに行って風戸が来ないか待つ。会って何を話そうか考えながらバイトをする。二段バーコードを通す。


「いらっしゃいませ」


 風戸がレジに来たような気がして、私はいつも以上に声を張り上げる。

 しかしそのお客様はただのサラリーマンで、サッカー台には『春にして君を離れ』があった。

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