第一話
翌日。
男は学校の自分の机に頬杖を突きながら、昨夜の少女のことを考えていた。
男の名は最上犬彦。
逆立てた短い金髪。
尖った眉と吊り上がった目尻。
左耳の三連ピアス。
首からは勾玉のついたチェーンを提げ、丈の短い学生服に横に広がった学生ズボンをだらしなく穿いた『いかにも』な男だ。
犬彦はこれまた尖った犬歯を剥き出しにして、奥歯をガリガリと噛み鳴らす。
ああムカつく。どうしてあんな小さな女に俺の咆哮丸が防がれたのか。しかも姉ちゃんの鬼火矢まで効かないときた。あいつは一体何者なんだ。
そんなことを考えていた。
犬彦は歯軋りだけでは収まらず、今度は貧乏ゆすりを始める。やがてチャイムが鳴り、教室に担任の花山千春数学教諭(二六歳・独身)が現れる。花山教諭は教壇に立つと両手をパンパンと叩き、教室内の面々の注目を惹く。
「えーっと……今日は最初に転校生を紹介しまーす。男子の皆さん喜んでくださーい。転校してくるのはとびっきりの美少女ですよー。それじゃ百々田さん、入ってくださーい」
舌足らずな花山教諭の声に促され、美少女転校生が扉を開けて入ってくる。
「うおっ、すっげー可愛い!」
「背もちっちゃくて可愛らしい!」
と、教室中の男子達が黄色い歓声を上げる。
「じゃあ百々田さん、自己紹介してくださーい」
少女はチョークを取り上げて黒板に自分の名前を書くと教室の生徒達に振り返り、
「百々田桜子です。よろしく」
軽く頭を下げる。少女は濡れた絹のような漆黒の髪を手で払い、長い睫毛に縁取られた闇色の瞳で教室を見回した。
「てめっ……! 昨夜の!」
突然ガタンっ! と椅子を引き倒し犬彦が立ち上がり、少女――桜子と視線を交わす。
「犬彦くーん、静かにー。……ちょうどいいですね。百々田さんは今立ってる犬彦君の隣に座ってくださいねー」
桜子は無言で犬彦に歩み寄り、隣の席に着く。そして犬彦を一瞥すると、
「よろしくね。犬彦」
教科書を広げた。
四限目が終わった昼休み。
犬彦はチャイムが鳴るなり隣の2年2組の教室に駆け込み、
「姉ちゃん!」
と叫び教室内を見回す。と、一人の女と目が合った。女は一緒に喋っていた女子生徒に断りを入れると、犬彦の元に駆け寄ってくる。
「どうしたんですか、犬彦?」
「姉ちゃん! あの女! 昨夜のあの女が!」
姉ちゃん、と呼ばれたこの女は最上飛鳥。
ポニーテールに結った亜麻色の髪。
垂れた糸のような穏やかな目。
ぷっくりとした柔らかそうな唇。
豊満なバスト。
学校指定の質素なセーラー服を上品に着こなす優等生風のこの女生徒は、何を隠そう犬彦の双子の姉だ。
「昨夜の、女……?」
飛鳥は唇に人差し指を宛て考え込む。そんなのんびりした姉の危機意識のなさに犬彦は僅かに怒りを覚え、
「昨夜遭ったろ! 鬼の臭いがした女だよ!」
足を踏み鳴らす。
「冗談ですよ。まあ、ここは人目がありますから屋上に行きましょう」
二人は連れ立って屋上にやってきた。
「それで? 昨夜の女の方がどうしたんですか?」
「転入してきたんだよ! うちのクラスに!」
「あら、まあ」
「鬼が人間を装ってやってきたんだよ! どうする!? 早いとこ手ぇ打っとかねえと――」
と、ここで飛鳥が右手で犬彦の言葉を制し、扉の辺りを氷のような瞳で睨む。
「立ち聞きはよくありませんよ?」
飛鳥が切るような口調でそう言うと、人影が一つ、顔を覗かせた。人影は一歩二歩と二人に近づいてくる。
「別に盗み聞きするつもりじゃなかったんだけどね。出るタイミングを見計らってたのよ」
悪びれもせずにそう言ったのは――百々田桜子だった。
「あなたは、昨夜の……」
「てめっ、何の用だ?」
身構える犬彦。そんな犬彦を無視して桜子は飛鳥に歩み寄り、その身体を頭の先からつま先までじっくりじろじろと舐めるように観察する。そして視線を飛鳥の左手小指に戻すと、
「やっぱり……『鬼封じの神器』……!」
「っ!」
「これが何か、知っているのですか?」
そんな飛鳥の問いをやはり無視して桜子は、
「単刀直入に言うわ。その神器を渡して、今すぐヒーローごっこは終わりにしなさい」
「!?」
「どういう意味だ!?」
桜子は声を荒げる犬彦に冷たい視線を送って、
「言った通りの意味よ」
「ふざけんじゃねぇ! これは俺が……俺達がじいちゃんから貰ったものだ! お前なんかに渡せるか!」
「最上錬太郎……あのバカ、こんなひよっこに神器を託すなんて……」
「っ! ひよっこだと……!?」
「待って犬彦!」
思わず拳を振り上げた犬彦を、飛鳥が制する。
「あなた……祖父をご存じなのですか?」
飛鳥の問いを、桜子は悲しそうな遠い目をして――無視した。そして踵を返し、
「渡す気がないなら奪うだけよ。痛い思いをしたくなかったら、今晩一二時までにその神器を持ってこの学校に来なさい」
振り返らずにそう言って、屋上を後にした。
「っああムカつく!」
逢魔時。犬彦、飛鳥の二人は夜の住宅街を警らして回っていた。逢魔時、即ち夕から夜になるこの時間帯は、『鬼』が異界の門を開け人間界にやってくる時間である。魔に逢う時。故に、逢魔。
「っああクソっ! 今日は一〇〇匹は狩らねえと収まんねえぞ、チクショウ!」
「落ち着きなさい、犬彦」
フンフンと鼻息荒く憤る犬彦をあやしながら、飛鳥はこんなことを考えていた。
犬彦、飛鳥の二人は、祖父・最上錬太郎から『鬼封じの神器』を授かり、『鬼』を狩ることを命じられた。しかしそれは口頭ではなく、錬太郎が『鬼封じの神器』とともに遺した遺書に書かれていたことだった。
父が遺書を開き『鬼封じの神器』を二人に渡したのも、一昨年の話だ。だから二人は、錬太郎の顔を知らない。どんな声で、どんな人だったかも、知らない。
そんな二人もよく知らない祖父の名を、あの転校生――百々田桜子が知っている。
飛鳥は小さく溜め息をつくと、左手小指の指環を見る。
錬太郎の遺品である『鬼封じの神器』を犬彦は首のチェーンの先にペンダントトップとして、飛鳥は左手小指の指環として、それぞれ身に着けている。
『鬼封じの神器』。二人はそれで『鬼』を狩る。
『鬼』を狩る理由は分からない。なぜ自分達が選ばれたのかも分からない。
それでも二人は錬太郎の遺言通り、毎夜『鬼』を狩っている。それが自分達と錬太郎を繋ぐ唯一の絆だと信じているから。
しかしその絆に楔を打ち込むかも知れない人間が現れた。
百々田桜子である。
桜子は『鬼封じの神器』を渡せと言った。ヒーローごっこは止めろと言った。二人に鬼狩りを止めろと言ったのだ。それはつまり、錬太郎との絆を断てと言ったのと同じだった。
(そんなこと……できるわけ――)
「姉ちゃん! 後ろ!」
「えっ?」
犬彦の叫び声に振り返る間もなく、飛鳥の身体は重たい一撃によって吹き飛ばされる。飛鳥はそのまま地面に転がり、民家の塀に激突して止まった。
「姉ちゃん!」
急ぎ駆け寄る犬彦。そしてその身体を抱き上げ、活を入れる。
「大丈夫か、姉ちゃん!?」
「犬、彦……大丈、夫……です……それより――」
飛鳥は頭上を見上げる。
そこには、異形で、醜悪な、身の丈三メートルはあろうかという文字通り鬼が、細い月明りを浴びて不気味に笑っていた。
「ほう……ワシの一撃を喰らって生きておるとは……ただの人間ではないの……」
鬼は右肩に担いだ金棒で肩をとんとんと叩きながら、
「今宵は久しぶりに女を喰える……」
にたぁと口角を歪ませる。そして――
「憤っ!」
振り上げた金棒を飛鳥に向け叩きつける。
「姉ちゃん!」
咄嗟に犬彦が横っ飛びして、飛鳥を抱きかかえ金棒をかわす。そしてそのまま地面をゴロゴロと転がり、鬼と間合いを取って立ち上がる。
「姉ちゃん、絶界だ!」
犬彦の叫びに飛鳥は頷き、右手で四縦五横を切る。すると景色から色彩が消え、モノクロームに塗り替わった。
「援護頼むぜ、姉ちゃん!」
「任せてください。鬼拔!」
飛鳥は糸目を見開き、左手小指の指環に右手をかざす。すると指環から光が弾け、飛鳥の左手に大きな弓となって顕現する。そして右手に鬼火矢を具現させ、鬼拔に番い、鬼に向けて射る。鬼火矢はまっすぐに、鬼の顔面向けて高速で飛んでいく。そして眉間に命中し、小さく爆発して烟を上げた。
そこにすかさず犬彦が咆哮丸を具現化し、地を蹴り鬼の脳天に一撃を――
「温いわ!」
鬼が左手で顔面を拭う。その紫色の皮膚には火傷の一つも負っていなかった。鬼は金棒を振り回し、犬彦の咆哮丸に打ち付け、その身体を弾き飛ばした。
「ぐあっ!」
十メートル程向こうの民家の壁に激突する犬彦の身体。ガラガラと壁が崩れ、犬彦は瓦礫に埋もれた。
「犬彦! くっ……」
飛鳥は犬彦を気にしながらも鬼火矢を番える。しかし鬼火矢を射る前に、鬼に懐に入られてしまう。
「早っ!? うあっ!」
鬼に左腕を掴まれ持ち上げられ、だらんと宙ぶらりんの格好にさせられる飛鳥。飛鳥はなんとかその拘束から逃れようと身を捩るも、鬼の手は離れない。
「ふははははは。もっと踊ってみるか?」
下品に笑う鬼。
飛鳥は右手に鬼火矢を具現化して、鬼の右目に突き刺す。しかし――鬼は瞼を閉じただけでやはり傷一つ付いていない。
「温いと言うておろう……」
鬼の口から毒霧のように、鼻が曲がる程の悪臭を帯びた息が吐き出される。
思わず顔をしかめる飛鳥。
「さて……焼いて喰うた方が美味かろう……」
鬼が大口を開ける。見たくもなく見えた喉の奥から、紫色の炎がせり上がってきていた。そして次の瞬間。
鬼の身体が、ガソリンに火を点けたかのように激しく燃え上がった。
「■■■■■■■■――――…………」
鬼は断末魔を上げながら燃え尽き、灰になっていった。
どすん、とお尻から地面に落ちた飛鳥は辺りをきょろきょろと見回す。
「……一体、何が……」
と。
飛鳥の目の前に人影が一つ、夜空から舞い降りた。その人物を見て飛鳥は驚き、目を丸くする。
「あ……あなたは……」
百々田桜子だった。
桜子は夜風にセーラー服のスカートを翻し、夜の闇よりも冷たい瞳で飛鳥を睨む。
「言ったはずよ。ヒーローごっこは止めなさいって。あたしが来なかったらどうなってたか……分かるわよね?」
「…………」
言葉を返せない飛鳥に近付き、桜子は飛鳥の左手を掴み、持ち上げる。
「返してもらうわよ。神器は――」
「姉ちゃん、避けろ!」
そこに突然の斬撃。それは犬彦が放ったものだった。
咄嗟に飛鳥を放し、サイドステップで斬撃をかわす桜子。振り下ろされた咆哮丸の鋒はアスファルトに大きな亀裂を入れる。その状態から犬彦はアスファルトを捲りながら切り上げる。
「これは――」
切り上げからの袈裟切り。
「俺達が貰った――」
刺突。
「力なんだ!」
切り払い。
「誰にも――」
ここで犬彦は大きく跳躍し、
「渡さねえ!」
桜子の脳天に渾身の一撃を振り下ろす。しかし桜子はそれらの攻撃を最低限の動きだけで避けていた。そしてその場で横に一回転し、犬彦の顔面に後ろ回し蹴りを食らわせる。
「ぶはっ!」
回し蹴りの勢いで民家の塀に叩き付けられる犬彦。そのまま地面になだれ込み、うなだれる。そんな犬彦に桜子はゆっくりと近付いて、
「『貰った』?」
右腕で犬彦の首根を掴み、
「力ってのはね……耐えて堪えて苦しんで……努力の果てに手に入れるものなのよ」
少女とは思えない怪力で犬彦の身体を持ち上げ、
「人から『貰った』力なんてね、何の役にも立たないのよ!」
犬彦を地面に叩き付けた。
何度も、何度も叩き付ける。
それは何分か、一〇分を数えたか。やがて桜子の息が上がってきたところで、桜子は塀に向けて犬彦を投げつけた。ドゴン! と鈍い音を立てて、犬彦は再び瓦礫に沈む。しかしその右手は、まだ咆哮丸を封じてはいなかった。
それを見た桜子は頬に一筋伝った汗を手で拭い、
「頑固なやつね……だったら分からせてあげる。本物の力ってやつを!」
左腕を夜空高く突き上げる。するとその左腕は青白い稲光を纏いだし――
「謹製奉ルハ我ガ左腕ニ封ジシ鬼ノ力以テ悪鬼ヲ祓エ――退魔滅却、急々如律令! 鬼怒!」
叫びとともに桜子の背後に青白く光る巨大な鬼の上半身が顕現した。
それを見て飛鳥は得心した。少女から感じた鬼の気配はこれだったのか、と。
そして、悟った。犬彦は殺される、と。
桜子は左腕を振り被る。すると鬼怒の左腕も高く突き上げられた。そして振り下ろされる、剛腕。
「待って!」
刹那、飛鳥は桜子の前に飛び出していた。犬彦を庇うように両手を広げて。
「…………」
「待って、ください。鬼封じは、返しますから……」
言って飛鳥は鬼拔を封じ、指環を外して桜子に手渡す。桜子はそれを受け取ると犬彦の方を向いて、
「…………そっちもよ」
短く言う。
飛鳥は犬彦の傍にしゃがみこみ、犬彦の右手を両手で優しく包んで咆哮丸を封じ、勾玉を桜子に差し出した。乱暴にひったぐる桜子。
「命拾いしたわね。鬼怒、もういいわ」
言うと桜子の背後の鬼がバチン! と弾け、消えた。そして桜子はそれ以上何も言わず、その場を後にした。
残された飛鳥は未だ意識覚めやらぬ犬彦を抱いて、肩を震わせていた。
犬彦の傷は打撲痕はあるものの見た目より酷くはなく、翌日も普通に登校することができた。しかし昨夜桜子に手も足も出ず敗北を喫したことで、精神状態はかなり荒れていた。犬彦は花山教諭の授業を聞き流しながら(いつものことではあるのだが)、隣の桜子を盗み見た。
桜子はすました顔で黒板に板書きされた方程式をノートに書き写し、時折花山教諭に当てられると、すらすらと数式の解を答えていた。どうやら頭の方も敵いそうになかった。
と、桜子と目が合う。
桜子はふっと薄く笑うと、視線を戻し椅子に座った。
放課後。
飛鳥は顧問の教諭に許可を取り、校舎から少し離れたアーチェリー場に居た。
リカーブボウを構え、ドローし、的に狙いを定め、リリースする。放たれた矢は寸分の狂いなく的の中央に刺さる。
腕が悪いわけではなかった。ただ昨夜の鬼が強すぎて、それ以上に桜子が強かったのだ。
その圧倒的なまでの力に恐怖し、飛鳥は鬼封じの神器を桜子に渡した。犬彦の命を救うため、渡さざるを得なかった。そして鬼封じの神器とともに、祖父との絆も失った。
けれど、犬彦の命を救うためならそれでもいいと、飛鳥はそう思うことにした。
祖父のことは忘れよう。鬼封じの神器を守れなかった自分達にはもうどうでもいいことなのだと、そう思うことにした。
そして二本目の矢をボウに番え、ドローし、リリースする。
矢は大きく右に逸れた。
腕が悪いわけではなかった。
鬼の気配がした。
上履きを脱ぎ捨て靴に履き替え、途中で飛鳥と合流し裏門へ回る。
視界の先には身の丈三メートル程の異形の鬼が、小柄な邪鬼五匹を引き連れ、こっちに向かってきていた。しかし下校中の生徒も部活動中の生徒達も誰一人、その鬼達の存在に気付いていない。
いや、見えていないのだ。
異界の存在である鬼や邪鬼の類は基本的には人間の目には映らない。が、稀に時間や場所などの条件が合致して一般人が鬼を見ることもある。その現象を百鬼夜行と呼ぶ。
「姉ちゃん、絶界だ!」
絶界。人間界へ被害を及ぼさないように自身と対象を閉じ込める為の結界だ。
飛鳥が頷いて右手で四縦五横を切り絶界を展開すると、世界から色彩が消えた。犬彦は焼却炉横に打ち捨てられたホウキを手に取り、頭を抜いて構える。飛鳥もそれに倣った。
「昨夜のでっかいのに邪鬼が五匹か……分が悪いな……」
今二人の手には咆哮丸も鬼拔もない。分が悪いにも程がある。しかし二人は戦わなければならなかった。鬼が見える者の宿命として。祖父との絆を断たれようと、その宿命は変わらない。
「むう?」
異形の瞳が二人を捉える。
「この儂に敵意を向けるか、人間よ。ならば望み通り喰ろうてくれよう!」
その図体からは想像もつかない跳躍で、二人に迫る鬼。
「来るぞ、姉ちゃん!」
空中で一回転して振り下ろされた金棒を犬彦は左に避け、飛鳥は右に避ける。そこに遅れて五匹の邪鬼が襲い掛かる。
「姉ちゃん!」
「わたしは大丈夫です!」
ホウキの柄で邪鬼を一突き、一匹目を灰にする飛鳥。襲い掛かる二匹目、三匹目の邪鬼の爪をかわし、ホウキの柄で弾き、空いた胴に横薙ぎの一閃。邪鬼は耳障りな悲鳴を上げながら灰になる。
他方の犬彦は巨躯の鬼に向かい跳躍し、脳天に一撃を叩き込む。が、それは鬼の左手によって防がれた。犬彦の手にびりびりと痺れが走る。
鬼は左手を薙ぎ払うと右手の金棒を振り被り、打ち付ける。バックステップでかわす犬彦。ドゴオ! と轟音が弾け地面が陥没した。
犬彦は鬼の左に回り、右足の膝裏にホウキの柄を叩き付けた。鬼の姿勢を崩すのが目的だった。だが鬼はびくともせずに、犬彦を睨んで不気味に笑う。
「痒いのう。今何かしたか?」
「くっ……バカにしやがって!」
怒りに満ちた表情で犬彦は切り落とし、切り上げ、刺突と連撃を繰り出す。しかし鬼はそれらを左手一つで全ていなした。すると――
「きゃあっ!」
犬彦の背後から飛鳥の短い悲鳴が聞こえた。振り返る犬彦。見遣る先では飛鳥が校舎の壁まで追い詰められて、左肩から血を流していた。そしてそんな飛鳥に、邪鬼の右腕が繰り出される。
「姉ちゃん!」
「余所見をしている暇があるのか!?」
鬼が地面を抉るように金棒を振り上げる。犬彦は跳躍しその金棒の動きに右足を合わせ、大きく後方へ跳ぶ。そして飛鳥の目の前に舞い降り、邪鬼の頭に一撃を見舞う。バキっ! とホウキの柄が折れた。
「くそっ……!」
三匹の邪鬼に追い詰められる二人。そこに巨躯の鬼もやってきて、
「人間ごときが」
色彩のない濁った眼で二人を睨む。
咆哮丸も鬼拔も効かなかった巨大な鬼相手に、素手でできることなど何もなかった。しかし、それでも犬彦はファイティングポーズを取る。
「てめぇら! 姉ちゃんに触ったらただじゃ済まさねえぞ!」
「ほう、この状況でもまだ戦意を失くしてはおらんのか」
「い……犬彦……」
心配げな表情で犬彦を見詰める飛鳥。
「――姉ちゃん、俺が奴に殴り掛かったら全力で逃げろ……」
犬彦が飛鳥にそう告げる。
「できません、そんなこと!」
「いいから逃げるんだ! とにかく逃げて時間を稼げ! そうすりゃあいつが……あいつならきっとこいつらも倒せる!」
奥歯を噛んで悔しそうに言う犬彦。
「美しい姉弟愛よのう。ならば望み通り男の方から屠ってくれるわ!」
鬼が金棒を振り被り、犬彦目掛け振り下ろす。
「犬彦っ!」
「っ!」
犬彦は一撃を覚悟して固く目を瞑る。その時――
頭上から光の矢が鬼の金棒目掛け高速で降り注いだ。
バコォン! と、犬彦の目の前で金棒が烟をあげ粉々に砕け散った。
「むうっ!?」
鬼は右腕を振り切った勢いのまま横に一回転し、背中から地面に転がる。
「へっ……やっと来やがったか――」
犬彦は薄目を開け頭上を見上げる。そこには濡れた絹のような黒髪を風に棚引かせた少女が、右手に霊符を構えながら、深い闇色の瞳で眼下の犬彦と飛鳥を見下ろしていた。
「――転校生……!」
百々田桜子であった。
桜子は『はっ!』と声を発し屋上から飛び降りると霊符で三匹の邪鬼を一瞬にして切り刻む。そして二人に向き直ると、
「全く。神器もなしに煉鬼とやり合おうなんて無茶が過ぎるんじゃない?」
相変わらず冷たい瞳で言い放つ。しかし犬彦は薄く笑って返し、
「へっ、そう思うならもっと早く来いってえの」
「しょうがないでしょ? まだこの学校に不慣れなんだから。それより――」
桜子はスカートのポケットから鬼封じの神器を二つ取り出し、二人に投げてよこす。取り落とさないように受け取る犬彦と飛鳥に向かって桜子は、
「その腕、まだ動くでしょ? 手伝いなさい。あたしはお腹空いてるの。さっさと片づけてご飯食べに行くわよ」
ニっ、と笑って見せた。
その笑顔と言葉に二人は力強く頷き、咆哮丸と鬼拔を具現化する。
「貴様ら……儂を無視して戯言をぬかすか!」
鬼がよろりと立ち上がり、三人を見下ろす。
「餓鬼が一匹増えたところで……小賢しいわ!」
瞬速で右腕を突き出す鬼。三人がそれぞれ跳んでかわすと、右腕は勢いをそのままに校庭を陥没させ、土埃を巻き上げる。そして地面に突き立てた腕をそのまま横薙ぐと、
「賢しい賢しい賢しい賢しい!」
両腕をダブルラリアットの要領で振り回す。
そこに。鬼から一番遠くに着地した飛鳥が鬼拔を構え、鬼火矢を二本番え引き、射る。
「はっ!」
鬼火矢はシュルシュルと音を立てながら、見事回転している鬼の両の眼球を射抜いた。
「ぅぐあっ!?」
すかさず犬彦が仰け反った鬼の右腕を袈裟切りで、左腕を切り上げで切り落とす。
「ぐあああああぁ!?」
野太い悲鳴をあげる鬼。そこに――
「謹製奉ルハ我ガ左腕ニ封ジシ鬼ノ力以テ悪鬼ヲ祓エ――退魔滅却、急々如律令! 鬼怒!」
桜子が鬼怒を顕現させ、その左腕で鬼の人中を貫く。
「■■■■■■■■――――…………!」
叫び声とともに鬼は灰になり、風に流され消えていった。
「さってっと、滅却滅却っと」
「はぁっ、はぁっ……」
「はっ、はっ、はっ……」
鬼怒を封じ、制服に着いた埃を払い伸びをする桜子と、死線を潜り抜け肩で息をする犬彦と飛鳥。やがて飛鳥は、桜子が自分を見つめていることに気付き、慌てて鬼拔を封じ指環を外し、桜子に差し出す。犬彦も倣い咆哮丸を封じ、勾玉を桜子に投げてよこした。
桜子は右手で勾玉を受け取るとそれをじっと見つめ、
「…………錬太郎……あなたの遺志はちゃんと受け継がれてるようね……」
ひとりごちる。そして勾玉を犬彦に投げ返した。
「おっとっと?」
危うく取り落としそうになるも、なんとか勾玉を手中にする犬彦。困惑しながら桜子を見ると、桜子は、
「持ってなさい。あんた達、少しは役に立つみたいだからね」
「転校生……」
桜子は飛鳥に向き直ると、
「あなたも。まだ粗削りだけど、神器を持つに足る資質は認めてあげるわ」
右手を差し出す。
「自己紹介がまだだったわね。あたしは百々田桜子。よろしくね」
飛鳥は笑顔でその手を握り返し、
「最上飛鳥です。よろしくおねがいします」
「あんたも。あらためてよろしくね、犬彦」
「あ……ああ! よろしく頼むぜ、モモコ!」
ニカっ、と満面の笑みで応える犬彦に怪訝そうな表情で桜子は、
「モモコぉ? なによ、それ?」
「モモタサクラコだからモモコだ」
「……変なの。まあいいわ。お腹減ったからファミレス行くわよ。犬彦、おごりなさい」
「はぁ!? 何で俺が!?」
「命助けてあげたじゃない。二回も」
「二回って……一回目はお前が殺そうとしたんじゃねぇか!」
「あの、それならわたしが出しましょうか?」
「いいのいいの。こういう時は男が全額出すもんなのよ」
「このっ! やっぱりお前とはよろしくできねえ! できる気がしねえ!」
わーきゃー言いながら昇降口に向かう三人だった。




