5話 江ノ島
あの時の莉菜は、ここにはいなかった。
莉菜の顔色は真っ青となり、教壇から倒れそうになる。
その姿に気づいた教頭先生は、莉菜を支え、早々に教室を出ていった。
そして、1時間目の歴史の授業が始まる。
先生の声は私には届かず、さっきの莉菜の姿が頭の中をめぐる。
莉菜は廊下で倒れているかもしれない。
助けにいかなくちゃと思って、席を立ち、廊下に向かう。
でも、歴史の先生から、教頭先生が面倒をみているから、心配しなくていいと言われた。
私は、踏みとどまったものの、莉菜の倒れた姿が目に浮かび、心配で鼓動が高鳴る。
あの様子だと、家でもきちんと暮らしているのか不安。
親が面倒をみているのかもしれない。
捨てられ、嵐にもまれ、泥だらけになった子猫のような姿。
いつも天真爛漫に笑顔ではしゃいでいた莉菜は、今、どこにもいない。
私のせい。でも、今更、私が、あなたの婚約者だとは言えない。
軽率に、私は死んだと伝えてくれと言ってしまったことを悔やむ。
次の休み時間に教員室にいくと、今日は莉菜は早退したらしい。
でも、翌日からは、自分を奮い立たせ、教壇で担任として健気に振る舞う莉菜がいた。
環境を変えて、立ち直らなければと必死にあがく姿がそこにあった。
顔は笑顔でも、足が体を支えきれず震えている。
みんなは、大丈夫だろうかと心配そうに見つめるけど、本人は気付いていない。
そういえば、今更だけど、莉菜が昔に比べ遥かにやせ細っていることに気付く。
腕も足もやせ細り、折れてしまいそうなぐらい。
頬も、昔のようにはつらつさはなく、痩せて柔らかさは感じられない。
時の経過の影響もあるのかとは思うけど、たった2年で変わる域を超えている。
自分に鞭を打ち、必死に生きようとしている莉菜を見ているのは辛い。
でも、まだ、そんな薄っぺらい仮面は簡単に外れてしまう。
1週間ぐらい経った頃、英語の授業中、莉菜の目が涙で溢れた。
結婚生活の小説を生徒に読ませている最中。
口元は笑顔なのに、目からは大きな涙の粒が次々と流れ出る。
莉菜は、ごめんなさいと言って涙を拭き、すぐに普通の顔で授業を進めた。
休み時間中にクラスメートが話すのが聞こえる。
「どうして、櫻井先生って、あんなに情緒不安定なんだろう。」
「私、教員室で聞いちゃったんだけど、櫻井先生の婚約者が最近、亡くなったらしいよ。」
「私も聞いた。それが、聖奈が入院した原因となった、あの池袋の事件だったらしいよ。頭を撃たれて即死だったとか。」
「聖奈も知っていたのかしら。そういえば、櫻井先生のこと、すごく気にしていたし。」
「やめなよ。あんな女に聞いても答えてくれないと思うし。」
「そうね。感情がない女だもの。聖奈はどうでもいいけど、櫻井先生はかわいそう。」
「でも、もうしてあげられることはないしね。別の男性を紹介するとか。私たちの合コンに誘ってあげようか。でも、おばさんって、相手にされないかもね。」
「茶化すのは、やめなよ。だいぶ参っているようだし。」
もう噂になっている。しかも、事実と違う。
私のことまで絡めて、悪い噂になりそうな気もする。
本当に、女子高って面倒なんだから。
私は、授業が終わり、夕方に教員室にいる莉菜に話しかけてみた。
「櫻井先生、さっきの授業で読んだ、ここなんですけど、現在完了形になっていますけど、過去形じゃダメなんですか?」
「過去形でもいいんだけど、意味が変わるのよ。現在完了形だと、行ったということだけでなく、行ったことがあるという感じかな。でも、頑張ってるわね。江本さんだったわよね。」
「はい。ところで、先生は、週末とかは何かしてるんですか?」
「部屋でぶらぶらしているだけかな。江本さんは?」
健気に振る舞っているけど、目線が定まらない。
「私も似たようなものです。ご存じか分からないのですが、私は10カ月の間、入院していて、その後も家でリハビリをしていて、まだ学校に馴染めていないんです。なんか、つい最近お越しいただいた櫻井先生は、環境は違っても、まだ学校に馴染めないっていう点は同じかななんて思って親近感がわいて。ごめんなさい。わたしと一緒にしてはだめですよね。」
「そんなことないわよ。江本さんみたいな生徒さんと一緒に学校に馴染んでいけるといい。心の友ね。頑張って、乗り越えていきましょう。」
莉菜が急に私の顔をまじまじと見つめる。
もしかして、何か気づいたのかしら。
「江本さん、顔真っ青じゃない。あの日じゃないの。無理しないで、今日は早く帰った方がいいわよ。」
莉菜は、目の前にいる私を女子高生だと信じて疑わない。
もう男性として見える部分は、莉菜にとって全く残っていないことが悲しかった。
そして、学校に馴染めないという生徒を先生として守ろうとしている。
そんな莉菜の熱心さでかろうじて繋がっているだけ。
でも、そうでもしないと莉菜と一緒にいられる時間は作れないと思う。
ただ、莉菜と一緒にいて私は何をしたいのだろう。
ただ一緒にいたい気持ちと、昔の婚約者とは言えないという気持ちが交錯する。
「はい。私は、生理が少し重めなので、今日は早めに帰ることにします。ところで、学校でも頑張っているんですけど、最近、外に出てみようかなと思い始めているんです。今年は、9月末なのにまだだいぶ暑いんですけど、江ノ島に行こうかなと思ってるんですよ。ただ、一緒に行ける人がいなくて。暇だったら、どうかと思って。」
何も考えずに、私は、何を話しているのかしら。
でも、江ノ島に誘い出すのは、気分転換でいいかもしれない。
そして、江ノ島は昔の2人の思い出の場所。
「江ノ島か。懐かしいわね。体調が戻ってからがいいから、10日後の土曜日にでも、一緒に行こうか。」
「嬉しい。先生はどこにお住まいなんですか?」
莉菜が住んでいる所は、変わっていなければ知っている。
でも、知らないふりをして自然に会話をつないでいかないと。
「最寄りの駅は、品川だけど、江本さんは?」
「私は、白金だから、品川で待ち合わせましょうよ。10時でいいですか?」
「じゃあ、そうしましょう。品川駅の東海道本線のホームで、江ノ島の方に向かって一番後ろで待ち合わせましょう。」
「わかりました。楽しみにしていますね。」
江の島という言葉に、莉菜の顔には少し笑顔が戻る。
江の島には、付き合っていた頃の思い出があって、思い出したんだと思う。
それを知りながら江の島に誘う自分はずるい。
でも、こんなに話しがトントン拍子に進むとは思っていなかった。
指定された土曜日、品川のホームで莉菜は学校では見ないカジュアルな服装で待っていた。
ふんわりとした袖とゆるやかなラウンドネックのトップス、莉菜の体にはかなり大きめ。
痩せる前に買って、自分が痩せたと気づかずに着てきたのかもしれない。
ワイルドシルエットのクロップドパンツは、足元に抜け感を演出する。
大人の上品さをまといつつも、学校でみるよりも若々しい。
暑い日のはずなのに、莉菜が歩くたびに、爽やかなそよ風が流れる。
この体になって気づいたことがある。生理の周期で気持ちが大きく左右される。
生理が終わったこの時期は、何でもできる気分になり、清々しい。
しかも、莉菜と一緒の時間を過ごせる。
「先生、いつもより若い感じで素敵。」
「10歳近く若い女子高生と一緒に歩くんだから、少しは合わせないと。でも、若いっていいわね。手入れをしなくても肌がとってもきめ細やかで、うらやましいわ。」
「先生、そんなこと考えなくても、とっても若くて可愛いのに。」
莉菜は私のことを女子高生としか見ていない。
私自身も目を下に向けると、バストがふくらみ、スカートをはいている自分がいる。
男性として莉菜を守ることはもうできないと実感した。
「ところで、今日は、先生のこと莉菜先生と呼んでいいですか?」
「先生というのも、周りからなんなんだろうと思われるから、莉菜さんと呼んでよ。江本さんは、聖奈さんでいいわよね。」
「そう呼んでくれると嬉しい。」
江ノ島につき、二人とも、秋なのに暑い、暑いと言いながら坂を登っていた。
「夏も終わったのに、まだだいぶ暑いですよね。秋はいつ来るのかしら。」
「そうね。ところで、江ノ島は、昔、付き合っていた人と来たところなの。懐かしいわ。」
莉菜の目が少し潤んでいた。
「あの、その方って、みんな噂してたんですけど、今は亡くなったとか・・・。」
「そうなんだけど、気にしないで。もう亡くなって2年ぐらい経つから、少し、気持ちも楽になってきたけど。」
気持ちは全く楽になっているようにみえない。
それだけ、私が莉菜に負担をかけているということ。
なんとしても莉菜の気持ちを回復させないと。
「そうなんですね。でも、ずっと想い続けるなんて、とってもいい人だったんですね。」
「そうね。いつも、私のことばかり見てくれて、私が病気とかすると、いつも、仕事とか関係なく、ずっと看病もしてくれたわね。だから、彼の前では、悩みとか弱音とか吐けなかったけど。それでも、いつも笑顔でいられたわ。」
天真爛漫と思っていたけど、私には遠慮もしていたなんて知らなかった。
ただ、莉菜がそれでずっと笑顔でいられたのであれば、それでいい。
「そうなんですね。憧れます。ところで、わからないですけど、弱音を吐いても、付き合ってくれたんじゃないですか。」
「そうかもね。でも、当時は、そんなことできないって思っていたのよ。」
「大人の恋って複雑ですね。いずれにしても、彼は優しかったんだし、普通の人じゃあ一生かかっても味わえない幸せな時間を過ごせたってことですよね。」
私も、一生分の愛情を莉菜からもらえた。
これからは、陰で莉菜を支えていく。
「そうなの。そんな彼だから、この江ノ島でも、ずっと私のことを見ててくれた。私がはしゃぎすぎちゃって、初めての靴ということもあって、足を捻挫しちゃったの。でも、彼は、私が行きたいと言っていたカフェには、せっかくだから行かないとと言って、肩を貸してくれて連れて行ってくれた。そして、帰る時もずっと駅まで私をおぶってくれたわ。大変だったと思うけど、頼もしかったわね。少し恥ずかしかったけど。」
莉菜は遠くを見て、昔の想い出を語る。
そんな莉菜の姿を見ているのは苦しい。
でも、昔のことを何も知らない女子高生を演じていくしかない。
「そんなことがあったんですね。なんか素敵。」
「ありがとう。私の話しばかりじゃ、いけないわね。ところで、今日はだいぶ歩いたけど、疲れたでしょう。大丈夫?」
「大丈夫ですよ。でも、この辺で、少し休みましょうか。」
「そうね。じゃあ、カフェに入って、明るい話でもしましょう。」
「甘いもの食べたい。」
エアコンで涼しいカフェの席で、2人はレモンケーキを食べることにした。
まだ、本当に夏って感じで、目の前の海で海水浴でもしたい感じ。
太陽の光と波でキラキラと輝く海では、サーファーが大勢、波に乗って楽しんでいる。
海って、こんなに美しかったのかな。
莉菜と一緒で、莉菜を再び輝かせたいから、そう見えるのかもしれない。
浜辺では、強い日差しのもとで、お母さんが子供と砂場を歩いている。
休んでいるサーファーたちが集まって楽しそうにしている。
みんな今という時間を充実して過ごそうとしている。
私たち2人は、過去に生きていて、昔に黄昏ているのに。
あんなふうに、今を楽しく過ごせたらいい。
深みのあるレモンケーキだけが今を感じさせた。
私は、悲しみを隠し、明るく振る舞う莉菜の顔を見るのが辛かった。
男性だった私は莉菜を幸せにしようとしてきたけど、結果は不幸にしてる。
「あら、聖奈さんまで泣かせてしまったわね。私の暗い話しで、ごめんなさい。迷惑だったと思うけど、聖奈さんに話したら、気持ちが落ち着いたわ。ありがとう。」
「迷惑だなんて。莉菜さんが少しでも、落ち着ければ、それだけで嬉しいです。」
「聖奈さんって、私が言うのも変だけど、本当にいい子ね。そういえば、来るときに見たんだけど、ガラスの指輪があったから、プレゼントするわね。聖奈さんも、もっとおしゃれしようよ。」
「プレゼントなんて嬉しいです。でも高いものはちょっと。」
「大丈夫。500円ってでてたし。おそろを買って、一緒につけましょう。」
学校にいる時より、莉菜は笑顔で接してくれている。
少しは、私といて、穏やかな気持ちになれたんだろうと思う。
今日は、江ノ島に来て良かった。
2人は、ずっと黙って海を見ていた。




