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純愛  作者: 一宮 沙耶
第1章 秘密

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4話 変わり果てた元カノ

莉菜が目の前にいる。結婚しようとしていた女性が。

2学期から担任が産休に入るため莉菜が新しい担任だと紹介される。

莉菜は、別の学校から、今日、赴任したらしい。


教頭先生が教壇に立ち、莉菜を紹介する。


「みんな聞いてください。佐々木先生は産休になり、今日から、担任として櫻井先生に来てもらうことになりました。櫻井先生は、帝都大学をご卒業され、その後、進学校で有名なあの有楽町高校でご活躍されていましたが、今回、私がこの学校にお呼びしました。櫻井先生、ご挨拶をお願いします。」

「今、ご紹介いただいた櫻井です。皆さんの1回しかない高校生活が、かけがえのない時間になるよう努力していくので、よろしくお願いいたします。この高校では英語を教えます。」


だいぶやつれ、暗い雰囲気だけど、あれは間違いなく莉菜。

この高校に呼んだという教頭先生が、心配そうに莉菜を見守る。


聞こえたのは、澄み渡り、遠くまで清らかに広がっていく、あの莉菜の声だった。

でも、今日の莉菜の声は小さく、わずかに震えている。


私が池袋の事故の前に買ったネックレスをつけていた。

私の遺品として受け取ったに違いない。

2年近く経った今でも大切にしてくれているとは思わなかった。


白のタンクトップに、ブラウンのワンショルダーのワンピース姿。

外見は、相変わらず清楚な雰囲気を装う。

ただ、どんよりした空気が莉菜の周りを漂っている。


あのいつも輝いていた目は、濁り、焦点が定まらない。

その目は、遠くを見つめ、心がここにないように見える。

艶やかだった肌は、いまは乾燥し、色つやが悪い。


目の下にははっきりとしたクマができている。

毎晩、眠れないのだと思う。

目の周りは赤く、毎晩、枕を涙で濡らしているのかもしれない。


不安で、自分に自信を持てず、罪悪感に押しつぶされそうな姿。

私の死を自分のせいだと勘違いしているのだろうか。

そんなことはない。事件に会ったのは、そこに出かけた私のせい。


手が小刻みに震え、立っているのがやっとの様子。

もう2年近くも経つのに、婚約者の死から立ち直っていないのだと思う。

そんな姿の莉菜を見たくなかった。


そして、こんな姿で、莉菜には会いたくなかった。

再会しても、もう男性として、莉菜を幸せにしてあげることができない。

だから、親には死んだと伝えて欲しいと言った。


でも、それが莉菜をこんな姿にするとは思っていなかった。

なんとひどいことをしてしまったのだろう。


莉菜とは、大学1年の時に駒場の駅で知り合い、しばらくして付き合い始める。

付き合い初めて2年目の記念日に、私達は、駒場の銀杏並木を並んで歩いていた。

銀杏の葉が道路を敷き詰め、一面、黄色の世界に染める。

あまりに素晴らしい風景の前に私達は立ちつくす。


銀杏の枝の隙間から陽の光が漏れ、黄色の世界が更にきらきらと輝く。

風が吹くたびに、葉がこすれた音が波のように響き渡る。

道路に落ちた葉が風に巻き上げられ、ダンスのように舞っていた。


そんな光景に見とれていたら、莉菜が、僕の手を握りしめる。

一面黄色の世界で、莉菜の顔が天使のように爽やかに透き通っている。

莉菜の髪の毛がたなびき、すがすがしい空気が周りを通り抜ける。


こんな素晴らしい光景の中で、私には、莉菜のことしか見えなかった。

莉菜の口から出る一言ひとことが私の心に突き刺さる。

目の奥には、永遠に続く、美しい青い海が広がっている。


私は、そのまま、莉菜と居酒屋に行った。

学生が行くところだから、安い居酒屋。授業が終わり、15時から開いているお店。

こんな時間だから、お客は少なく、学生ばかり。


莉菜とは、いつでも自然体で、安心して話せる。

いや、莉菜と出会ってから、人とも普通に話せるようになり、楽しい生活が続いている。

莉菜を守るためという口実で、剣道のサークルにも入り、最近は友達も増えている。


「あ、花咲がにの軍艦巻きがあるんだ。これは食べたいな。あとは、う~ん。任せる。あと、グレープフルーツサワーをお願い。」

「わかった。ところで、花咲がにってどこのカニ?」

「北海道の根室のあたりのカニ。私のおじいちゃんがいるところ。」

「そうなんだ。これまで聞いたことなかったけど、北海道で生まれたの?」


付き合ってから2年も経っているのに、今更に、莉菜のルーツを聞く。


「北海道の両親が東京の狛江にきて産んだ子供なのよ。陽翔は東京生まれだったよね。」

「とは言っても、神奈川とか言われている町田だけど。そういえば、今は荻窪に住んでいるけど、町田にずっといたら、小田急線で一緒に通えたのにね。」

「小田急線は混むから、好きじゃないわね。私も荻窪に行こうかしら。」

「来なよ。でも、莉菜の家は厳格だから、一人暮らしは難しいかもね。そういえば、この時期って就職活動とか大変だと思うけど、莉菜は、そんな感じじゃないよね。もう決まったの?」

「高校の先生になろうとしていて、就職活動はしていないの。陽翔はどうするの?」

「最近、就職活動を始めたところ。いろいろな会社のインターンに応募している。でも、莉菜とは会える時間は確保しているから、心配しなくていいよ。」


最近は、就職活動を始めて忙しい。

どうして2年先の活動を今から始めなければならないのか分からない。

しかも、この2年で、行きたい方向も変わるかもしれない。


でも、これが世の中なんだと諦めて活動している。

ただ、僕には、莉菜が1番なんだから、就職活動で莉菜と会えなくなるのは本末転倒。


「この時期だけなんだから、就職活動に専念しなよ。私は、ずっと陽翔を好きなんだから、そんなこと気にしなくていい。ね、分かった。」

「分かったよ。じゃあ、会える時間は少なくなるけど、ごめんね。」


莉菜の声は、水面を弾むボールのように、軽快に響き、周りを明るくする。

清楚で、僕には手が届かない存在なのに、今は僕と付き合ってくれている。

僕は、人付き合いが苦手だったのに、莉菜と出会ってから、自然体で飾らずにいられる。


今の自分があるのは莉菜のおかげ。

莉菜も飾らず、なんでも僕に言えるようだった。

莉菜と出会うまで、異性と、こんなに自然に過ごせるなんて考えたことがなかった。


「今日は陽翔と一緒にいられて本当に楽しい。」


そう言う莉菜の顔は眩しすぎて、見ているだけでも幸せな時間が過ぎていく。


「付き合い始めてもう2年だね。莉菜と最初に会った時、あんなにだらしない姿をみられてしまったのを後悔しているけど、あのことがあって莉菜と出会えた。莉菜が現れなかったら、今、僕は、生きていないかもしれない。」

「本当に、びっくりしたんだから。線路で、陽翔が、電車を見つめて立ち尽くしていたのよ。でも、実は、ホームのベンチに座っている陽翔を見て、誠実そうで、素敵な人だなと、しばらく見つめていたの。だから、ホームから落ちた陽翔をすぐに助けに行けた。というより、体が勝手に動いて、ホームに降りていた。あの時から、私には陽翔しか見えない。あら、私、酔っているのかしら。恥ずかしいこと言っちゃった。」


こんなことを無邪気に言ってしまう莉菜が可愛い。


「莉菜は天真爛漫で、そんな姿が素敵。他の女性と違って、いつも明るくて、周りを元気にさせるっていうか。そんな女性と一緒にいると、僕も楽しい。」

「ありがとう。ずっと、陽翔の横にいたいな。また、言っちゃった。恥ずかしい。でも、誤解してもらいたくないんだけど、男性なら誰にでもこんなに馴れ馴れしいわけじゃないのよ。」

「わかっているよ。莉菜は清楚だし。そうそう、今度、どこか行こうよ。江ノ島とかどう? 前から行ってみたかったんだ。」

「江ノ島か。私も行ったことないから楽しそう。行こう、行こう。でも、就職活動はサボらないでよ。」

「1日ぐらい大丈夫だよ。じゃあ、来週の土曜日にどう?」

「まあ、ずっと就職活動だと滅入ってしまうし、気晴らしにということで行こうか。楽しみ。」

「僕も。」


この時は、莉菜とずっと一緒にいると思っていた。

常に明るく、一緒にいると、私も前向きになれたから。

莉菜といると、悩みとかも、どうでもいいってという気になれた。


その後、私は、旅行代理店に入社し、莉菜は高校教師になる。

25歳の冬から婚約をして同棲を始める。


でも、1ヶ月後には、私は池袋の事件に巻き込まれた。

そして、莉菜は、私がその事件で死んだと思っている。

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