第5話「吹奏楽と中国の風」
―― 異国で出会った音と人。Teethの“はじまり”の旋律。
静かな診療室に、クラシックが流れていた。
フルートとホルンの柔らかいハーモニー。
歯科医院にしては珍しく、そのBGMは“本人”が演奏したものだ。
園川悌輔――コードネーム:Teeth。
富山県にある「園川歯科医院」の副院長であり、Zone STARZの隠れたキーマンのひとり。
表向きは誠実な歯科医師。だが、その裏では異国語と音を自在に操る“多重人格の旋律者”である。
壁に飾られた一枚の写真。
そこに写るのは、彼と朱・珠莉――
中国出身の通訳の娘で、現在の妻。
あれは、数年前の春。
研修医として中国を訪れた彼は、たまたま立ち寄った上海の医療技術交流会で、朱珠莉と出会った。
言葉の壁を越えて会話が弾んだのは、彼女が7つの中国語方言と日本語を話せたからだけではなかった。
互いに“音楽”を愛していたからだ。
「私ね、日本の“すいそうがく”を一度だけ聞いたことがあるの。あれは奇跡だった。」
「ホルンか? 俺は高校のとき、吹奏楽部だったんだ。…君は?」
「フルート。でも独学。お姉ちゃんに楽器もらって、夜、こっそり練習してた。」
何度も行き来を重ね、3年間の遠距離恋愛を経て、2人は富山で結婚した。
Zone STARZのメンバーとなったのは、その翌年。
悌輔は、自分の医院を守りながら、
家族にさえ秘密の“音楽の舞台”に立つ決意をした。
──そして今。
スタジオでは、新曲の準備が始まっていた。
Teethが書いた曲のタイトルは《Wind Through Bamboo》。
中国の竹林に風が吹き抜けるような、静かで、力強い旋律。
その一節に、彼はこう記していた。
「吹奏楽とは、魂の風だ。
それが言葉にならない感情を運んでくれる――。」
彼は今でも、毎朝、朱珠莉にコーヒーを淹れる。
その香りの中に、かつての上海の風を思い出しながら。
Zone STARZ。
異なる人生を歩んできた者たちが、音楽で再び出逢う。
その風は、確かに吹き始めていた。
【中盤パート】
「悌輔さん、今日もスタジオ行くの?」
朝食の準備をしながら朱珠莉が問いかける。
「うん。今日から仮レコーディングだ。」
悌輔は味噌汁の味を確かめながらうなずいた。
「“Zone STARZ”って、今何人なの?」
無邪気に問う珠莉。だがその質問に、悌輔はほんの一瞬だけ箸を止めた。
「今は…6人。まだ、秘密だけどね。」
やわらかく笑いながら、あくまで“音楽仲間”として言葉を濁す。
珠莉は、悌輔が音楽活動をしていることは知っている。
だが、その実態――音楽ユニット「Zone STARZ」として
“裏の顔”を持つことまでは知らされていない。
その日、彼はスタジオ「龍雷神BASE」に向かった。
そこには、すでにKOUHとHikariが到着していた。
「Teethさん、昨日のホルンのパート、聴きましたよ。すごく良かったです!」
Hikariが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「ありがとう。吹奏楽部の名残だよ。音だけは忘れないみたいだ。」
照れ臭そうに返しながら、彼はホルンを手に取る。
スタジオの壁に設置されたモニターには、曲のスコアが映し出されている。
今取り組んでいる楽曲は、Teethが作曲を手がけた《風馳》。
竹林に風が走り抜けるイメージと、中国の旋律美を取り入れた壮大な一曲。
「この曲は、おれにとって“家族”の曲なんだ。」
ホルンの調律をしながら、彼はつぶやいた。
「中国で出会って、3年待って、やっと迎えた人がいる。
この曲は、その人にだけ届けばいいと思って作った。」
KOUHは頷く。
「君の風が、ここにも届いたよ。」
その瞬間、Teethの表情がふっと和らいだ。
音が重なる。
医師、看護師、弁護士、会計士、歯科医。
異なる現場で命と数字を預かる者たちが、
ひとつの旋律の中に、自分の“生きた証”を刻み始めていた。
彼らの活動は、まだ誰にも知られていない。
けれど、その音は確実に広がっていた。
ひとつの風のように――。
「Teeth、イントロのリズム、もう一回確認してもらえる?」
スタジオのメインルームで、KOUHが目を光らせながら指示を飛ばす。
「了解。」
Teethはヘッドホンを装着し、軽く肩を回すと、ホルンのマウスピースに息を吹き込んだ。
ホルンの柔らかくも芯のある音が、静かにスタジオに広がる。
そこへHikariのキーボード、CHAMのベースライン、そしてFOXの語りのようなリリックが重なる。
『――世界は広く、君の声は小さい。
でもその声を、ぼくらは聞いた。』
FOXの声が乗った瞬間、スタジオの空気が変わった。
「いい感じ……今の、テイク使えそう!」
Hikariがモニター前で拍手を打つ。
この曲《風馳》は、Zone STARZにとって特別な意味を持っていた。
Teethの個人的な想いを軸に構成されたが、
その旋律は、メンバーそれぞれが“過去に置き忘れた想い”と繋がっていた。
「この曲、珠莉さんのための曲だったんだね。」
KOUHがふと、Teethに言った。
Teethは静かにうなずいた。
「中国の風景と彼女の笑顔が、頭から離れなかった。
あの国の音階、響き……全部、曲に閉じ込めたかった。」
3年前、富山から上海へ旅行に行ったTeethは、通訳を務めていた朱・珠莉と出会った。
その日から3年。言語も文化も、時間も距離も超えて、彼女と結ばれた。
結婚式で流したのは、この《風馳》の原型。
“音”だけが、お互いの国をつなげてくれたのだった。
Zone STARZの音楽には、“誰かの人生”が詰まっている。
医療、法律、数字、言葉。
日々、重圧と使命の中にいる彼らにとって――
音楽は「もう一つの救命手段」だった。
夜のスタジオ。録音が終わり、Zone STARZのメンバーたちは片付けをしながら、少しずつ緊張をほどいていく。
「Teeth、珠莉さんにこの完成音源、いつ渡すんだ?」
CHAMがコーヒーを片手に訊く。
「次の週末、富山に帰るからそのときに。
彼女、Zone STARZのことはまだ知らないけど……この曲を聴けば、伝わると思う。」
「音で語るのが、お前らしいな。」
FOXが静かに笑う。
Zone STARZは、“公に姿を現さない音楽ユニット”。
だがそれは、誰にも秘密にしていいものではない。
大切な人にだけは、そっと音で届けたい――そんなルールが自然に生まれていた。
Teethは、スタジオの片隅に置かれた古いホルンケースに手を添えた。
吹奏楽部時代、毎日のように触れていたホルン。
あのころ、自分がここまで来るとは夢にも思っていなかった。
回想。
――中国、雲南省の古都・大理。
通訳として観光地を案内してくれた少女・朱珠莉。
彼女の語る声、景色の説明、そして何より彼女の笑顔が、Teethの心に残った。
「日本の音楽にはね、風がない気がする」
珠莉がぽつりとつぶやいた。
「風?」
「うん……中国の音楽には、風が流れてるの。山や川や、人の息遣いが入ってる。」
その一言が、Teethの音楽観を変えた。
「じゃあ、その風をぼくが吹かせてみせるよ。」
気がつけばそう答えていた。
そして今。
Zone STARZで奏でるこの曲が、その“風”になる。
「Teeth、お前の音、今日……ちょっと泣きそうだったわ」
KOUHが突然つぶやいた。
「おい、医者が泣くなよ」
FOXが冗談めかして笑うと、他のメンバーもつられて笑う。
笑いながら、Teethはそっと言った。
「ありがとう。みんながいたから、この音を風にできた。
Zone STARZでなかったら、きっとここまで来れなかった。」
そのとき、モニタールームにいたJOHが、静かにレコーダーを止めた。
「この音源、クローズドで流していいですか?」
「どこで?」
「……珠莉さんのスマホに。匿名で。」
Teethは、一瞬目を見開いたあと――頷いた。
「うん。風が吹く方に、音も届けばいい。」
Zone STARZの音は、誰にも知られず、しかし確かに、誰かの心に届こうとしていた。
その夜。
富山の小さな家の一室で、朱珠莉は目を丸くして、スマホを耳に当てた。
再生ボタンを押すと、そこから――
優しいホルンの旋律が、確かに“風”となって流れ始めた。