第1章 第1話 商都、路地裏、そして灯火屋商会
商都、市場外れの路地裏。
「灯火屋商会」
色褪せた木の看板だけが、かつての灯火屋商会の名残を伝えている。
ごく控えめなノックの音に、老人は重い体を引きずりながら扉を開けた。
男は短く名乗った。
立っていたのは、若い男だった。
無駄のない身なり、無表情、感情をうかがわせない目。
(……商売の匂いはするな。)
「……誰だ。」
「アルフレッド・ヴァインベルグと申します。お時間をいただけませんか。」
言葉は礼儀正しいが、低い声には、微塵のへりくだりもない。
老人は煙管をくわえ直し、無言で中へ招き入れた。
油と古紙のにおいが立ちこめる狭い店内。
男は言われもしないのに机の前に立ち、懐から一枚の羊皮紙を差し出した。
「ご相談は、こちらに。」
老人はしわだらけの手で羊皮紙を手に取り、ざっと目を通す。
(……違約条項に、保証金か。小袋の重さも、見せ金じゃねぇな。)
机に置かれた小袋が、ほのかに金属音を立てる。
ちらと顔を上げたが、男は微動だにしない。
「なるほど、話はわかった。」
老人は煙を吐き出した。
「つまり——うちの名前を貸せ、って話だな。」
「はい。」
短い返事。
声色一つ変えずに、当然のことのように答える。
「……ふん。なぜうちなんぞに?」
「ギルド登録があり、商業記録に瑕疵がないからです。」
またも、事務的な答え。押しつけがましさもなければ、卑屈さもない。
(肩書きも後ろ盾もねぇくせに……。こいつ、自分を売り込もうって気配がまるでねぇな。)
かえって老人は、わずかに警戒心を強めた。
「で、どこに仕掛けるつもりだ。」
「貴族家です。近く、資産整理が行われる見込みです。」
男は、あくまで淡々と、他人事のような口調で言った。
(本気か、こいつ……。)
この街で貴族に関わるというのは、金よりも面倒ごとを招きかねない。
それを、臆する様子もなく口にする若者。
老人はしばし考え込んだ。
(……まぁ、失うもんもねぇ。それに——)
ちらりと視線を投げる。
煤けた帳簿の山。
灯火屋商会の火は、既に風前の灯だ。
老人は煙管を外し、短く言った。
「いいだろう。」
男がわずかに頭を下げた。
「ただし、うちの顔を立てるため、うちの人間を同行させる。異存はないな?」
「もちろん。」
即答。
まるで最初から想定していたかのような素早さだった。
老人は奥へ向かって声を張った。
「おい、ハンナ!」
ばたばたと小走りで少女が現れた。
年のころ二十前、栗色の髪に、素朴なドレス。
その場の空気を読みきれず、所在なげに立ち尽くしている。
「こいつに、ついて行け。うちの名を使う以上、顔を出さねぇと筋が通らん。」
「え、わ、わたしが……?」
戸惑うハンナに、老人は頷いた。
ハンナは震える手でスカートの裾をつまみ、ぎこちない礼を男に向けた。
「よ、よろしくお願いします……!」
男は、変わらぬ無表情で軽く頭を下げた。
その姿を見ながら、老人はひとつため息をついた。
(……この先、どう転ぶかは知らんが。せいぜい、うまくやってくれや。)