感情を食べる魔女と婚約者の恋心を食べられた男の話
それは夜更けのことだった。
魔女の店の扉のドアノッカーがかつりかつりと音を立てた。
魔女の店には営業時間などというものはない。満腹の時は店を開ける気にならないし、朝っぱらから誰かの相手をするのも真平だ。時には誰にも会いたくない時もあるし、腹が減って仕方のないときもある。そもそも、己の感情を持て余すようなヒトの類がここを訪れるのは、夕方から真夜中にかけてが大半だ。それを考えてみれば、魔女の店がそろそろ陽も落ちるだろう夕刻から夜半過ぎに開いている事が多いのも道理というものだ。それでも気まぐれな魔女のことだから、この扉が開くかどうかは運次第といったところだ。真昼間だろうと、真夜中だろうと。
外は雨が降っているのだろう。音のないところを見ると霧雨かもしれない。扉越しに、魔女はその姿をみる。濡れ鼠の黒い外套。まだ大人になりきれない成長途中の若木。感じるのは苛立ちと、焦りだろうか。
これは、招き入れたところでつまらないことになりそうだ。だが。
魔女は口元に指先をあて、僅かに考える。
先日食った少女の恋心の味が、不意に舌に蘇った。今、それほど腹が空いているわけではない。だが、先日極上の美味を味わったのだ。今回は下手物でもいいか、と思いなし、魔女は扉に声をかけた。
「入りなさいな」
そして開かれる扉。見えたのは若いヒトの男だった。男がこちらを見る。その目を見て、魔女は己の目測が外れたことを知った。
「それで?お前はここへ何をしにきたの」
今夜は下手物すら食えないかもしれない。
不機嫌も露わに、魔女は怫然と腕を組んだ。
「お前には、私に食べさせる感情などないくせに」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼には婚約者がいた。
過去形だ。婚約者からの希望で、婚約解消がなされたためだ。5年も婚約していたのに、あまりにもあっさりと彼らの婚約は解消された。
彼女とは幼い時分に出会い、アカデミーに入る前の、お互いに広い世界を知る前に縁が結ばれた。その頃の彼は目の前と周囲にある、小さな世界しか知らなかった。初めて会った婚約者は確かに可愛かった。緊張に潤む瞳も、差し出した手のひらに綻ぶ表情も。その時、確かに彼はそんな彼女に好意を持った。それがどんな種類の感情なのかなんて、考えたこともなかった。
それから、お互いの領地を行き来しはじめた。文通を始めたのはいつ、どちらからだったか。最初の頃は、両家の子供たちが全員参加して行われていた文通は、弟が飽き、婚約者の妹が興味をなくして、やがて彼と婚約者の二人きりでやりとりされるものとなっていた。最初に飽きたのは自分の癖に、季節の折々に届く少女からの丁寧で好ましい気持ちの綴られた手紙を見て、弟が羨ましそうな顔をする。それに優越感を覚えていたのを覚えている。この手紙は自分のために綴られたものだ。自分だけのために。それはなんだか面映く、そして自慢だった。
彼がアカデミーに入学する前の年、彼と婚約者との婚約が整った。そこに感慨は特になかったように思う。あの子がお前の婚約者になるんだよ。そう言う父母の機嫌の良さそうな顔を覚えている。彼はそのとき、「そうか」と思った。そうか、あの子が僕の婚約者なのか。あっさり決められ、結ばれた縁にどんな感慨も執着もなかった。
何故あの時だったのだろう。あの時婚約をしなければ、今彼はこんな事態になっていないはずだ。今まで通り、何の憂いもく、ひたすらに平和で幸せな生活が続いていくはずだったのに。
アカデミーに入学すると、婚約者との距離は一気に開いた。
これまで続いていた文通は、途端婚約者としての義務になり、婚約者の手紙は自分を絡めとる枷のように感じられるようになっていった。アカデミーのある王都は眩く、面白いものがたくさんあって、婚約者の変わり映えのしない手紙よりもよほど彼の関心を引いた。田舎の領地では優秀だと思っていた彼の能力は王都ではごく平均的なもので、それが悔しくて学ぶ時間を増やしたこともあるのだろう、婚約者に関する時間の全てが煩わしいものに感じられるようになった。それにしたって、アカデミーに入学する理由の一つが勉学であり、交友関係を広げることなのだから、責められる謂れはない。そんな言い訳ともつかない言い訳を己にして、脳裏の端に婚約者のことを追い遣っていた頃のことだ。
彼は彼女と出会った。図書館でのことだ。彼の読んでいた書籍を、使用し終わったら貸して欲しい、と話しかけられたのがきっかけだった。彼女はアカデミーの同級に所属する女生徒だった。
美しく装った彼女は、王都に住む貴族だった。領地を持たぬ男爵令嬢。先代が何かしらの功績を残し叙爵された、歴史の浅い貴族。だからだろうか。彼女は彼の目にはひどく無垢に見えた。
彼女は最低限のマナーは身につけていたものの、多くの学業の分野で知識が不足していた。
文法学、幾何学、算術、歴史、民俗学、哲学、絵画、魔法理論。彼女にとって全ての分野が必須というわけではないはずだが、学べることは全て学びたい、という彼女の意志に感銘を受けた。こんな女がこの世にいるのだ、と思った。
アカデミーに入学するまでにつけていた家庭教師に教わった内容では、とうていアカデミーでの学業についていくには足らず、自主学習と教師への個別の質問でなんとかしようとしていたらしい。自分自身も身の程を知ってすぐのことだったから、その気持ちは痛いほどにわかった。それから時間が合えば一緒に勉強し、教師へ質問しにいく前に二人で不明点がどこなのかを掘り下げるようになっていた。そのためには二人で話し合う時間が必要になる。彼らは、多くの時間を二人で過ごした。お互いが納得の行く回答を導き出せた時には共に喜び、試験の前には励ましあった。その間、婚約者のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
婚約者のことを思い出すのは、間隔もまばらに届くようになった文通ーーーその頃にはもはや文通の体を成さず、一方的に送られてくるだけになっていたーー…手紙が手元に届く時のみになっていた。それを読むたび、僅かな苛立ちが湧き上がるのを感じていた。
文面が脳天気だとか、そういうことではなかったように思う。
漠然とした不満。いい表すとしたらそういった類のものだ。それはもしかすると今彼が置かれている状況を示唆していたのかもしれない。あの時に動けば良かったのだろうか。両親へ連絡し、幼馴染のことを愛していないこと、本当に愛する人は別にいて、自分はその人と一緒に歩んで行きたいことを説明すればよかったのだろうか。
実際、何度となくそのことについては考えた。だが、その度、想像の中の両親は彼を責め、婚約者は泣いて、それ以上考えるのが億劫だった。何故自分がこんな悪者のような気持ちを味わわなければならないというのか。元はと言えば、勝手に婚約を結んだ両親のせいではないか。
そうして過ごすうちに数年が経ち、その日がやってきた。
ーーー…婚約者がアカデミーに入学してきたのだ。
余計なことをされるわけにはいかなかった。もはや、アカデミー内で彼と彼女は恋人同士だと認識されていたし、事実お互いにそう認識していた。いよいよ、婚約者との婚約をどうにかしなければ、という焦燥感が彼の気を滅入らせた。幼馴染が入学してくるんだ、と周囲には嘯き、婚約者との会食を取り付けた。そこで婚約解消の意思があること、両親にその説明をしたいことを伝えようと思っていた。
久しぶりに会った婚約者は素朴ながらも美しくなっていた。
彼が食堂に入ると、婚約者は花が綻んだようにして微笑んだ。その表情に、そして仕草に。自分を見つめる瞳に恋情を見て愕然とする。よく見積もったとしても妹のようなものだ、としか思っていなかった婚約者は、彼のことを「婚約者」としてしっかり認識していたのだと、その時になって漸く気づいた。想像の中の婚約者の泣き顔は、幼い頃のそれでしかなく、今目の前にいる少女に、婚約解消などと言い出せば想像以上に酷いことになるのは明白だった。
焦りを呑み込むように食事を喉に通し、無理をして会う必要などないこと、アカデミーでしかできないことをやるべきだということ、そして、手紙も不要だということをどうにか伝え、彼はその場を後にした。
婚約者がどういう顔でその場に残されたのかは、覚えていない。
それからはますます婚約者のことを考えるのが嫌になった。
だからと言って動くに動けず、恋人は心配そうに彼を見ていた。恋人の「どうしたの?」に「なんでもない」と笑う日々。じりじりと、崖の先端へ進んでいくような、嫌な感触。
そうしてしばらくを過ごすうちに、そんな焦燥感も鳴りを潜め、いつものーーー婚約者が入学してくる前と同じ、平和な日々を取り戻して暫くしてからのことだった。唐突に、婚約者から面会希望の連絡が届いた。
胸中に不安が湧き上がり、心臓が嫌な音を立てて軋んだ。指先は冷たいのに、こめかみがどくどくと音を立てている。…嫌な予感がした。
人気の少ない裏庭のガゼボを指定して婚約者と会った。
婚約者は想像とは違い、泣きはせず、ただひたすらに苦しそうな表情で、自分と恋人の関係の事実確認を行うと、彼にどうするつもりなのか、を尋ねた。そして、このままではいけない、とそう言った。
そんなこと、彼にだってとっくの昔にわかっていたのに。
その日、どうやって婚約者と別れたのかよく覚えていない。
苛立ちと不安でいっぱいで、「わかってる!」と強く言ったのは覚えている。次の授業で友人たちと恋人にひどく心配されたから、ひどい顔色をしていたのだろう。婚約者がこの後どのような行動に出るのかが不安でならなかった。
それでも学業は進んでいくし、友人との関係は理想的で、恋人は美しく、愛おしかった。日々の中で彼を悩ませるのは度々届く婚約者からの面会要請と手紙の数々で、もはやそれを手に取る気も起きず、封も開けずに自室の机の引き出しの中に閉じ込めた。
見えなければ無いものだ、などと思っていたわけではない。ただ、今は自分が平静で無いから、両親や婚約者に納得してもらえる説明が出来そうも無いから、だからーーーだから、時間が欲しかった。ただ、それだけだ。
そして、唐突に両親からの手紙が届いた。
そこには、婚約者との婚約解消について綴られていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「それで?私は後どれだけお前の面白くもない話を聞かねばならないの」
魔女が暇そうに自分の爪先を撫でている。赤く塗られた爪の一部が剥がれているのを気にしているらしかった。
「さっきも言ったと思うけれど、ここは魔女の店よ。つまり、ヒトの不要な感情をわたしが食うための食事処。食わせる感情を持たないヒトがくる場所では無いし、長居していい場所ではない。アカデミーで習わないの?魔法の使い方。魔女との距離の保ち方。ヒトにはヒトの法があり、魔女には魔女の摂理がある。世界には世界の理があるのよ」
魔女の切れ長な目ががぎろりと彼を見た。
その視線を受けると同時だ。ぽろりと、彼の口から言葉が溢れでる。
「…婚約者の感情を返してほしい」
両親からの手紙には、婚約者の両親経由で事の次第を知ったこと。彼のアカデミーでの生活について調査を行ったこと。婚約者へ婚約解消の提案を行い、最初は首を縦に振らなかった婚約者が、その恋心を魔女に食わせるに至り、漸くそれを受け入れたことなどが書かれていた。そして続く、彼をなじる言葉の数々。両親からの信頼は、すでに地に落ちている。それを取り戻すためには、婚約者の感情が必要だ。
「なんですって?」
魔女が目を見開いて嗤う。
心底愉快そうな、こちらを小馬鹿にしたその表情に、彼は苛立ちを感じた。
「本気で言っているの?お前はわたしがヒトの感情をコレクションしてるとでも思っているのかしら。言われたのでしょう、その婚約者の恋心は魔女に『食われた』のだと。意味がわからない訳ではないでしょうに」
お馬鹿さんね、と言って魔女が目を伏せる。まるで恍惚の表情だ。先程までの表情から一変して、その瞳が蕩ける。魔女の手のひらが魔女の胸の下、ちょうど胃袋あたりだろうか、そこに当てられた。赤い爪先が、神聖なものに触れる仕草でそこを撫でる。
「とっても美味しかったのよ。あんなに純度の高い感情はそうないわ。時間をかけて、少しずつ丁寧にその感情を育んで来たんでしょう。本当に、あれはそうは食べられない、極上の恋心だったわ。よくよく考えてみれば、お前を思って育んだ感情なのね。そこだけは、本当、ちょっと残念」
この世には、知らない方が良い事ってあるものなのね、と言って、魔女が腹から手を離した。伏せられていた睫毛がゆっくりと持ち上がる。そして再び彼の前にあらわれた赤い瞳。
それが、僅かに光ったように見えた。
先ほどまでの、茫洋とした魔女はそこにはいなかった。
強い視線。闇を思わせる薄暗いそれに、体が震える。そしてその事に困惑する。
こんな、華奢な女を前にして、一体、何を怯える必要がある。
「そうね、愚かなお前に是非とも教えてほしいわ。10日以上も前に食べたものを、どうやって取り戻す?お前にそれができて?その口から?それとも腹を切り裂くのかしら。どちらにせよ、もうすでに私の血肉となったそれを取り戻すことなど、何人たりともできないけれど」
心底彼を馬鹿にして、魔女はコロコロと嗤う。目が細められると、赤い瞳がまぶたに半分隠されて、彼の体の強張りが僅かに緩んだ。
途端にひとつ大きく息を吐いた彼の額に脂汗が浮かぶ。
一体今のはなんだ。
魔女の蠱惑的な紅い唇が蕩けるように歪む。口端を赤い舌が舐める。
「本当に美味しかったの。そうね、もう一度あれを食べられるなら、お前に協力してもいい。でも」
魔女が立ち上がる。
その顔にはもはや、口に含んだ感情の味を思い出して蕩ける表情も、彼への関心もなかった。
昏い瞳。どんな光も宿さぬ赤い瞳が、ただ彼を見ている。
部屋の空気が重くなっていく。視界が狭まっていくようだった。彼の目に映る景色の彩度が、一気に下がったような気がした。暖炉に明々と燃えているはずの暖炉が明滅している。
彼は瞬きすらできず、ただ魔女を凝視し続ける。耳鳴りがする。地響きのような、体の奥底に響く音。
目の前にいるこれは、ヒトならざるものだ。
この世の中にあって、この世ならざるもの。
これは、何か、ーーーとてつもなく恐ろしいものだ。
「わたしはそんなに勤勉じゃ無い。ヒトの感情を食う以外のことをしたりしない。さあ、立ち上がりなさい。そしてわたしに背を向けて、その扉から出るの。とっとと帰りなさい。わたしにお前の感情を食わせる気がないのなら」
背筋にぞくりとした悪寒が走り抜けた。息が浅くなるのが自分でわかった。
蛇ににらまれた蛙のようだ。目の前にある得体のしれない強大なもの。それに対する畏怖で背中に嫌な汗が流れている。立ち上がらなければならない。立ち上がりたくない。その扉から出て、一刻も早くこの不安から逃れたい。だがこのまま帰るわけには行かない。ここから手ぶらで帰ることもまた、彼には恐怖でしかないのだから。
もはや彼には選べる道がなかった。
「頼む…婚約者の感情を返してくれ。そうしたら、きっと、優しいあの子は俺の味方をしてくれる」
「本当に、よく回る口だこと」
魔女が彼を睥睨する。
彼にはわかる。魔女がその気になれば、抵抗など意味のないことだ。どう言った方法でかは不明だが、自分はきっとこの店から追い出される。
だが。
「頼む、このままでは、俺は生きていけない。婚約者の感情がもう帰ってこないものなら、俺はどうすればいい?俺が何をどうすれば、全てを無かったことにできる…?」
「起こったことは、無かったことにはならない。お前が置かれた状況は、お前が成した結果でしょう」
「俺が置かれた状況は、俺が望んだことじゃない!あの子を婚約者にしたことも、婚約者以外の人に恋したことも、婚約者に婚約解消されたことも…!」
「そうね。言い方が悪かったわ。確かにお前は、何も成したことがない」
もはや彼の視界には、魔女は得体の知らない闇に染まったもの、としか認識できなくなっていた。黒い人影。
その、見えるはずのない真っ黒な顔に、侮蔑の感情が見える。
「ただ流されて来ただけだものね。何ひとつ選び取ることもせず、何ひとつ行動することもなく、ただただ流れて来ただけだもの」
「俺に何ができたというんだ」
「知らないわ。わたしはお前の教師でも母親でもない。ーーーママにでも聞いたらいかが?ついでに魔法と魔女についても教えてもらって来なさい」
「頼む、助けてくれ。何でもする。俺の感情でも何でも持っていっていい、頼む。このままじゃ、俺は全てを失ってしまう。そうなったら…」
彼の慟哭が部屋の中に響く。
彼はその顔を両手で覆って、背を丸めた。その背が震えている。
「俺は、俺でなくなってしまう。俺の全てーーー、これまで手にしていた全て、手に入れるはずだった全て、努力してきた全て、俺を俺にした全てが、消えてしまう」
その手が震えている。
脳裏に浮かぶ父の声。母の涙。
「魔女よ、俺を助けてくれ。このままじゃあ、ーーー俺は、ーーー…俺は、生きていけない」
まるで神に祈る罪人の姿だ。
彼は、神に赦しを乞う愚か者のように、魔女に願いを告げた。
それからどれくらいが経っただろうか。
ふわりと、優しい香りが彼の鼻腔をくすぐった。
のろのろと顔をあげると、視界に映る魔女の店が、元の姿を取り戻していた。そして魔女も、元の姿を取り戻している。その魔女が、彼の目の前の机に、紅茶だろう紅い液体の入ったティーカップを置いた。
「わたしにできることは感情を食べることだけよ。でも、それでいいのなら構わないわ。お前はこれまで通り平和に生きていきたい。その為に今ここにいて、わたしにお前の感情を食わせようとしている。そういうことでしょう?」
魔女が、笑みを口元に乗せた。
なぜだろう。彼にはそれが、地獄の入り口に見えた。
でも、もうーーーー引き返すことはできない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
少し前のことだ。彼と婚約者の婚約が解消された。両親に手紙で呼び出されて向かった実家には、彼の両親と、婚約者の両親とが待っていた。四対の瞳が射抜くように彼を見つめる。「おかえり」の言葉の一つもなく、彼が部屋に通されるなり、その書類は差し出された。
婚約解消手続きのための書類には、鹿爪らしい書体で彼と婚約者との婚約が解消される旨と、それに伴う金銭の授受に関する項目が細かく記載されていた。そしてその最後に、婚約者の筆跡で、婚約者自身の名前が書かれていた。
サインするがいい、と父が言った。お前の望みだろう。よかったな、と。その言葉に心は籠っていなかった。
父から書類を受け取り、机に置かれていたペンをとる。
そのペンは、信じられないくらいに重く感じられた。
なぜ、今自分はこのペンを持っているのだろう。
婚約者の両親は冷たい瞳で彼を、そして彼の指先を見つめていた。
「好みというものがありますものね、仕方ありませんわ」
婚約者の母親がそう言う。眉ひとつ動かさず、彼の震えるペン先を凝視するその視線は、もはや彼のどんな失態も許してくれそうにない。緊張に手のひらが汗ばみ始めた。
「こんな無情な男に大事な娘さんを添わせるわけにはまいりませんもの。大事にしなければいけないものがなんなのかもわからないような男に育ててしまって、本当に申し訳ありません」
彼の母がそう言って頭を下げた。
母の視線はこちらを向かない。お前など視界に入れたくない、と言われているかのようだ。彼はペン先をインク壺に浸す。慣れた動作のはずだ。それなのに、緊張で口から心臓が飛び出しそうだった。
「筋の通し方の一つも教えられなかったようです。アカデミーでは学業に力を入れている、と聞いていましたが、人と人の繋がりを大事にできぬでは、いくら学業ができようとも意味をなさないでしょうな。頭の痛いことです。お嬢さんのことは、我々はとても気に入っていた。…娘になってくれることが決まったあの日、我々がどれだけ喜んだか…。そんなあの子に、こんな酷い仕打ちをしてしまい、本当に申し訳ない。その恋心を魔女に食わせるまで、こんな…愚息のことを慕ってくれていた彼女に詫びる方法があればどれほど良かったか」
父が渋い顔をして、こめかみを押さえている。重いため息がその、震える唇から漏れていた。その横顔に指が震える。彼の名を書くべき場所に、ペン先が触れた。
「こればかりは縁のものです。仕方ありません。娘も、もはや彼に対してどんな感情も抱かぬ、と申しております。お二人には本当に良くしていただきました。感謝の念に堪えません。今まで、本当にありがとうございました。今後も変わらぬ付き合いを…と申したいのは山々ですが、それは我々には酷くーーーー…難しい。長らく続いた友情ですが、ここから先は、適切な距離を取らせていただければと思います。どこか…夜会などで会うことがありましたら、その時には、またお話しできることを願っております」
婚約者の父の声には、様々な感情を押し殺す震えが見えた。彼の父母への友情、娘への愛情、彼への憎悪。全てがあり、全てを見せまいとする努力もまたそこにあった。憎い彼の、その父母のことを、婚約者の両親は憎むことができなくて、それがまた婚約者の両親を苛んでいる。
己の名前を書き終えた書類を前に、彼は何をすることも、何を言うこともできなかった。
父母と婚約者の両親との友情の終焉が、そこにはあった。婚約者の凜とした筆致に並ぶ、震える己の書跡がとんでもなく見窄らしく見えた。
父が彼から書類を取り上げる。そして一瞥すると、それを婚約者の両親へ手渡した。
この後の手配は彼らが行うのだろう。
婚約者の父親はそれを無言で受け取ると、同じく書面をさっと視線でたどり、大事そうに懐にしまった。そして席を立つ。婚約者の母も同様に席を立った。両親も立ち上がる。そして、言葉もなく、お互いがお互いに心のこもった礼をとった。二対の美しいボウ・アンド・スクレープ。そしてカーテシー。心の底から尊敬し、敬愛し、親愛の情を抱いている二対の夫婦は、そうして友情の終焉を悲しみつつ受け入れた。たった一枚の紙切れによって、それはなされた。
彼は、全員が部屋を出て行くのを、呆然と見送った。
自分がもたらしたものの罪深さに吐き気がした。
婚約者の両親を見送った父が、部屋へ戻って来る。
そして、彼の胸ぐらを掴んで無理やり立たせると、彼の頬を拳で殴りつけた。
あまりの衝撃に、ソファに倒れ込む。頬はじんじんと痺れているが、最初は殴られたことに気づかなかった。
目前に立ったままの父は、肩で息をして、この世の悲しみという悲しみを煮溶かしたような顔をした。
「お前に、私たちは何を期待していたのだろうな。人の気持ちを思いやれる子に育っていると、そう思い込んでいた。愚かだったのはお前ではなく、私たちなのだろう。私たちがもっと早くに気づけていたなら。そうすれば、せめて、あの子をこんなに傷つける前に、どうにかすることができたかもしれない」
父の体の横で、大きな手のひらが握り込まれている。その拳が震えているのは、これ以上ないほど、手のひらが握り込まれているからだろう。
「…なぜ、あの子を気持ちを考えなかった。なぜ、あの子にちゃんと説明しなかった。なぜ、あの子を傷つけるだけ傷つけて、のうのうと生活していられたんだ。せめて、我々に事実を説明し、相談していれば…あの子をあんなに傷つけることにならずに済んだだろう。あの子は、…あの子は、その感情を魔女に食わせたんだぞ。そうまでしてお前への気持ちを消して、お前の意に沿うようにしてくれた。それに対して、お前がしたことはなんだ?ただただ先延ばしにするだけの行動を続けおって、馬鹿者が。それでお前はどうするつもりだったんだ。あの子を婚約者として縛り付けておきながら突き放して、悪戯に傷つけて、それで何がどうなると思ったんだ!」
父がソファに崩れ落ちるように座り込み、その顔を両手で覆った。
震える背が、父が泣いていることを彼に知らせた。
だが、慰めることもできない。彼はただそこにいて、父を見遣るだけだ。これほど弱々しく感情的な父を、これまで見たことがなかった。
しばらくすると、目元を赤く染めた母が静かに部屋に入ってきた。手に持った盆に水差しとグラスを載せている。
盆ごと机の上に置くと、グラスに水を入れ、優しい仕草で父の肩を叩いた。父が、泣き濡れた顔をあげる。そして母の手からグラスを受け取ると、グラスを満たしていた水に口をつけた。父が水を飲み終わるのを待って、母がグラスを盆に戻す。そして父の横に座った。父母が、こちらを見る。その瞳の中に諦念と失望が見えた。
「お前には、心が足りぬ。アカデミーへ帰るがいい。そして、勉学に励め。身近な人を大事にできぬものに、領民を思いやることなどできるはずもない。いたずらに決断を先延ばしにする領主など、害悪にしかならぬ。お前を、後継から外す。この家と領地は弟に継がせる。アカデミーで学び、身を立てよ。もはや我々はお前に何も期待せぬ。好きに生きろ」
父が何を言っているのか、分からなかった。
「ーーー許せ。我々の期待のために、お前は動くことができなかったのだろう。お前には、我々の期待も、あの子の恋情も、重すぎるものだったのだ。お前のためを思ってのことだったが、あの時、お前の婚約者を決めたこと、それ自体が間違っていたのだな。お前は、自由にしておくべきだった。お前は、後継の器では無かった」
違う、と言おうとした。
自分がアカデミーで必死に学んでいるのは、両親の期待に応えるためだった、と。婚約者のことも考えていないわけではなかった、ただ、時期を待っていただけだ、その時が来たら、説明するはずだったのだ、と。
だが、こちらを見つめる失望に塗りつぶされた表情を見て、彼にはもはや、何も言えなかった。
どうすればいいのか分からず、彼は縋る視線で母をみた。母は赤い目元に涙を溜めて、こちらを見ていた。震える唇が、細く、しかし確かに彼に向かって言葉を紡いだ。
「与えられたものを大切にできないお前に、これ以上何を与えることもできません。選び取ったものにしか意味を見出せないのなら、大事なものを、自分自身で選び取りなさい。その目で見て、その手で触れて...考えて…。しっかりと選ぶのよ。逃げるための居心地の良い場所ではなく、自分を成長させられる何かを、きっと、選びなさい。私たちは、あなたと同じ価値観を共有できない未熟な親だけれど、それでもお前の幸せを願っているわ。あの子のことを思えば、虫のいい話かもしれないけれど。...せめて。せめて、お前が大切にしているアカデミーでの時間が、お前にとって良いものであることを願うわ。お前を良い方へ導いてくれることを、願っているわ」
そう言った母の瞳から、雫がこぼれ落ちた。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
アカデミーに帰る馬車の中。彼の中にあるのはただひたすら、その疑問だけだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カツン、と音がした。
テーブルの上に現れたのはペン軸だ。何もないところから現れたそれは、父愛用のそれに似ていた。
「それで?」
魔女の声に、のろのろとペン軸から視線を外す。
「他にもあるのでしょう?お前を『このままでは死んでしまう』と思わせることが。必要なことは全て話しなさい。さもなくば、中途半端なことになってしまう」
魔女がペン軸をつまみ上げる。それをまじまじと見て、それから手にしていた小箱に入れた。
「続けましょう」
そして微笑む。
何かに突き動かされるように、彼は話し始めた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アカデミーに戻った彼を出迎えたのは、強張った表情をした恋人だった。
恋人は、自分自身も硬い表情をしながら、彼の顔色の悪さを見てとると、心配そうに彼の額を撫で、彼を気遣う言葉をくれた。それに弱々しく微笑み返す彼が、恋人に連れられて来たのは、何の因果か、彼が婚約者と話をした裏庭のガゼボだった。
二人でそこに座る。恋人は膝の上で組んだ手に視線を落とし、何をいうべきかを考えている様だった。表情と同じく、恋人の組まれた手もこわばっている。その手を温めてやりたい、と思ったが、どうしてか彼は動けなかった。
お互いに無言の時間が流れ暫くして、恋人が重い口を開いた。
彼が実家に戻っている間に、アカデミーに彼と彼の婚約者の話が噂話として広まったらしい。
彼が入学前から婚約していたこと。にも関わらず、彼がアカデミーで恋人を作ったこと。婚約者が入学して来てからでさえも、婚約者を蔑ろにしていたこと。そして、先日、彼が婚約者に婚約解消されたことさえも。
話し終えた恋人は泣き濡れていた。
「何故なの。何故、婚約者がいると最初に言ってくれ無かったの。言ってくれていれば、この気持ちを育むことも無かったかもしれない。…いいえ、それでもきっと、私はあなたのことを好きになった。それが罪深いことだとわかっていても」
恋人の小さな肩が震えている。
「でも知っていたなら、一緒に悩むことができた。どうしたらあなたのご両親や婚約者さんに理解してもらえるかを、一緒に悩むことができたのよ。誠心誠意説明して、許してもらえるようにお願いすることもできた。…私はそうしたかったわ。私と、あなたのために。そして、傷付けてしまうあなたの婚約者さんと、ご両親のために、そうしたかった。でも、もう、何もできない。もはや、何をどう説明したところで、あなたの婚約者さんの傷は無かったことにはならないし、あなたのご両親の落胆も、消えないでしょう。ーーー…今更、...そう今更…言っても意味のないことだとは分かっているわ。でも、ごめんなさい。言わずにいれない…。ーーーなぜ、婚約者がいることを言ってくれなかったの?私のことは、そんなに大事じゃ無かった?信用して無かった?私が、アカデミーに授業について行くのもやっとの学力しかないから、だから、私には言えなかったの…?」
彼女の慟哭を前に、彼は違う、違う、と繰り返し続けた。
それ以上のことは言えなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
目の前のテーブルに、見覚えのあるリボンが載っていた。
いつだったか、恋人に贈ったものによく似ている。
それを贈った時、恋人はすごく喜んで、髪に編み込んだり、結んだりして何度も何度も使用していた。
ああ、そうだ。裏庭のガゼボで話したあの日も、恋人はこれをつけていた。彼女の俯いた頸に、そのリボンが揺れていた。
魔女がそれをつまみ上げる。
そしてそれも小箱へしまった。
「さあ、続きを」
魔女が微笑む。
もう何も考えられない。痺れた頭の隅にある疑念も恐怖も、彼は認識することができなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
会いに行った婚約者は、まるで他人のような顔をして彼を見た。周囲にいた婚約者の友人たちが、まるで悪鬼を見る表情で彼を睨んでいる。婚約者を連れ出そうとしたが、婚約者は顔を横に振ってそれを拒否した。それで仕方なく、…いや、そうではない。婚約者とその周囲の振る舞いに苛立ったのだ。だから、彼は後先を考えずにそこで話し始めてしまった。
「この噂は君のせいだろう」
責める口調に婚約者はわずかに眉を顰めた。
「どの噂ですか」
「君と俺との噂だ。まるで俺を悪者のように言うのはやめてくれ。そりゃあ、君を好きになれなかったのは申し訳なかった。だが、妹にみたいには思ってた。君の幸せを願っていたから、これまで何も言い出せなかったんだ。わかるだろう。俺は君からの婚約解消にもすぐに応じた。婚約解消は君の望みじゃないか。君の望みはすんなりかなって、賠償金ももらって、これ以上何を望むんだ」
言えば言うほど、周囲の空気が悪くなる。
だが、どれだけしゃべろうとも、婚約者の顔色は何ひとつ変わらなかった。ただただ、凪いだ瞳が哀れなものを見ている。
「そうですね。私に望みがあるとすれば、これでしょうか。あなたとはもう、できるならお会いしたくありません」
小さく微笑みながら告げられた言葉に、彼はなぜか驚愕した。
幼い頃から見てきた。婚約者の瞳には、いつでも親愛の情があったはずだ。屈託のない笑顔、笑い声、温かい手のひら。そういった全てがまるで最初からなかったかのようだ。その微笑みは他人に向けられるものだった。
「私が教室でみっともなく泣いてしまったので、同級の皆様は私に起こったことを知っているのです。皆様が私のことを心配してくださって、それで、先輩や教諭の皆様から情報を収集してくださいました。その過程で、今回のことが広まってしまったのでしょう。それは、本当に申し訳ないことです。私が自分の感情をコントロールできていたら、こうはならなかった。それは事実です。本当に、申し訳ありません。あなたの恋人の方にも、大変申し訳ないと思っています。とても良い方だと伺いました。その方には何の咎もないというのに、私たちの都合に巻き込んでしまって申し訳ないと、…できたらそう伝えていただけますと幸いです」
あなたが謝ることじゃない!と周囲にいた女生徒が駆け寄ってくる。そして婚約者の肩を抱いて、彼を睨みつけた。
それに嬉しそうな顔をして、婚約者が「大丈夫、ありがとう」と声をかける。そうして彼を見た。
「ご安心を。もはや私には、あなたへの感情の一切がありません。魔女様に食べて頂いたのです。過去の記憶ーーー…経験したことは事実として認識できますが、その時自分がどう思ったか、といった感情の部分が全て抜け落ちていて、そのことを思い出しても、どんな感情も抱きません。確かにあったはずのあなたへの思慕も、愛着も、親愛の情も、もう何も思い出せない。だから、今もあなたに何の感情も湧き上がりません。もっと早くこうしていればよかった。そうしたら、お互いに、もっと平和に過ごせたでしょうに。…踏ん切りをつけるのが遅くなってしまって、本当に申し訳ありません」
自分に抱きつく友人を宥めながら、婚約者が美しく笑った。
「ですから、皆さんも、そんなに怖い顔をなさらないで。もう私たちは名実ともに他人ですもの。そんなに怒っていただく必要がないんです。でも、その気持ちが私のためだということはわかっています。…とっても嬉しい」
頬を染めるのは、友愛を感じているからだろう。
心底幸せそうな顔をした婚約者が、彼を見る。
「では、これで失礼いたします。もう二度とお会いすることもないでしょう。…どうか、お元気で」
言って踵を返そうとする婚約者に手を伸ばした。咄嗟のことで、思ったより強い力でその肩を引いてしまった。
驚いた顔がこちらを見上げる。
「頼む、両親を説得してくれ」
言った言葉は、考えて発したものではなかった。
「君のいうことなら、きっと両親は聞いてくれる。頼む、俺を助けてくれ。俺の努力を、無にしないでくれ」
「なんて身勝手なことを…!」
彼の言葉を聞くや否や、婚約者の横にいた女生徒がそう言って彼の手を払う。周囲にいた他の生徒たちも集まってきて、その中の一部の男子生徒が、彼と婚約者の間に割って入った。
「あまりに、目に余ります。戻られた方がいい。頭に血が上っているときに行動を起こすものじゃありません」
「彼女の気持ちも考えてください。あなたがどれだけ彼女を傷つけたと思っているんですか」
「男の風上にも置けない。何て人だ。これが先輩だなんて」
様々な声が彼をなじる。
男子生徒に遮られながらも、彼は手を伸ばした。
あの子なら、優しいあの子なら、きっと自分を助けてくれる。そう信じて疑わなかった。
人垣の間から見えた婚約者は悲しそうな顔をしていた。
「申し訳ありません。ただの知り合いでしかない人のためにーーー友人でもなく、大切とも思えない人のために、私は心を砕くことはできません。そうしたい、と思えない。きっと、それはあなたのご両親には伝わってしまうでしょう。あの方たちは、本当に私に良くしてくださいました。愛してくださいました。だからこそ、きっとそれは見抜かれてしまう。私も、大好きなあの人たちに、これ以上悲しい思いをさせたくありません。…何も感じないあなたより、私にとって大切なあなたのご両親を、私は大事にしたい」
その時の絶望を、どう言えばいいのだろう。
感情を食われるとは、こう言う事なのか。
そうしているうちに、誰かに呼ばれたのだろうか。彼の友人がやってきて、彼を宥めながらそこから連れ出してくれた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
見慣れた…見慣れていた封蝋がテーブルの上に転がっている。まだ婚約者が彼に親愛を感じていた頃、定期的に届いた手紙を封じていたそれ。
魔女はテーブルに転がる封蝋を見て、楽しそうに目を細めた。
そしてそれを手に取ると、両手の中に包み込む。
そうして、少しの間目を伏せると、再びそれを小箱にしまいこんだ。
「おしまい?」
どうだろうか。
これ以上、彼に語るべきことがあるだろうか。
父母の失望の表情。恋人の泣き顔。後輩たちの彼を非難する言葉の数々。婚約者の拒絶。
全てを脳裏に思い浮かべる。
だが、それを思い浮かべても心は軋まなかった。焦燥感と不安に押しつぶされそうだった、さっきまでの彼は、どこかへ行ってしまった。
「俺は…」
最後に脳裏に浮かぶ、自分をあの場から連れ出してくれた友人の顔。そうだ、その顔にも怒りの表情が滲んでいた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
友人は掴んでいた彼の腕を、寮の彼の部屋へ入ってようやく離してくれた。
無理な姿勢で彼を引いて、常にはない速さで校内を移動してきたからだろう。友人の息はあがっている。そして、彼の息もまたあがっていた。
友人が振り返る。
そして彼の胸ぐらを掴んだ。
「なにやってるんだよ!それでなくてもお前が悪いんだぞ、更に悪人になりに行くような事して、お前は何がしたいんだよ!」
「だって、このままじゃ、俺…後継から外される。両親から見放された…弟を後継にするって…」
「仕方がないだろう!お前がやったのはそれだけの事だったってことだろう?!反省しろよ!」
「俺だけが悪いって言うのか?勝手に婚約者を決めた両親も、勝手に俺を好きになった婚約者も悪くなくて、俺だけが悪い。そういう事か?」
「じゃあ言わせてもらうが、お前が婚約者以外の女に惚れたのだってお前が勝手にしたことだろう!婚約という契約があることを分かった上でそれを成したんだろうが!その上、お前、その婚約を自分の力でどうにかしようとしたか?婚約者に謝罪して、誠心誠意対応して、詰られようが謗られようが、頭を下げて謝罪する。お前が真っ先にしなければいけないことがそれだった。できることがそれだった。そうしたところで、許してもらえるかどうか微妙なところだ」
友人が掴んでいた胸ぐらから手を離す。
苦虫を噛み潰したような表情で、何も言い返せない彼を見つめた。
「俺たちは、お前達を応援してた。お前達が恋に落ちる過程を、ずっと側で見てたんだ。お前たちが幸せになる事を、信じて疑ってなかった。なのに、こんなの、酷すぎるだろ」
友人が先程まで彼の胸ぐらをつかんでいた手のひらで顔を覆う。苦悶の表情が、その手の隙間から見えた。
「お前は、婚約者だけじゃなく、彼女の事も、俺たちの事も騙してたんだぞ。俺たちが大事にしてたお前や、お前の恋が、お前の裏切りの上に成り立ってたなんて、知りたくなかった。お前がそんなやつだって、知りたくなかった!」
「婚約はどうにかしようと思ってた!けど…!」
「遅すぎるだろ?!婚約者が入学してからどれだけ経ってると思ってる?お前たちが恋人になってから、どれだけ経ったと思ってるんだ!婚約者が入学する前にどうにかできた問題だろうが!できなかった筈ないよな?だってその頃には、もうお前の気持ちは固まってたんだから!そうだろ?なあ、お前にはそれができた。…できた筈だろ」
力無くそう言う友人は泣いていた。
彼の裏切りを知り、自分達がその片棒を担いでいた事を知ってしまって。その時に事実を知っていたかどうかなんて、友人には関係がなかった。あの時、彼が恋に浮かれていた頃、同じように浮かれてくれた友人が、その陰に婚約者の悲しみがあったことを知ってしまって、その事実に罪悪感を抱いている。
「なぁ、お前、反省しろよ。ちゃんと、関係者に償えよ。今更でも、婚約者が感情を失っていても、なんでも」
俺たちが知ってるお前は、そんな男じゃなかった。これ以上、俺たちを幻滅させないでくれ。
友人は、涙を流しながら俯いて、絞り出すような声でそう言うと、やがて、部屋から出ていった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お前は、とことん人に恵まれているのね。大した徳も積んでいないのに、幸運なこと」
テーブルの上に現れたのは、校章だった。小さな、金色のエンブレム。
魔女がそれを手に取る。
「さあ、もう十分でしょう。お帰りなさい。安心して良いわ。お前の願いは叶っているでしょう。もはやお前には、不安も恐怖も焦燥感もないでしょうから。これで明日から平和に暮らしていけるわね?これまで通りに」
言って微笑む魔女に、凪いだ気持ちで彼は頷いた。
「ああ。ーーー…ああ、確かに」
彼の中にあった苛立ちも、恐怖も、焦燥感も、確かにもうない。
何が起こったかはわかっている。だが、全て、もう成ってしまったことだった。彼が自分自身で、選び取ることなく選び取ってきた結果がそこにある。それだけのことだった。
「夜分までありがとう。失礼する」
彼は緩慢に立ち上がると、ふらりと店を出て行った。
ドアベルの澄んだ音が、部屋に満ちる。
彼の後ろ姿を見送って、魔女は小さく息を吐いた。手にしていたままの校章に少しの間視線をやって、次の瞬間にはそれを口の中に放り込んだ。
舌を刺激する辛味は恐れだ。感じるえぐみは不安の味。そして、ねっとりと甘すぎるそれは、自己愛と虚栄心の味だ。美味いかどうか、という話であれば、美味くはない。だが、今日の魔女は下手物もありだと思って彼を店に入れたのだから、そこに文句はない。
舌に残る後味の悪さを紅茶で流し込んで、魔女は頬杖をついた。
「まあでも、恐れも不安も自己愛も、虚栄心さえもなくしてしまったら、貴族としてはやってはいけないでしょうねえ。強すぎても持て余すけれど、全く無いとなると、それはそれで問題なのが感情というものだし」
彼が食べる感情の範囲を指定しないものだから、少し取り出しすぎてしまったようだ。
確かに、明日からの彼は平和に暮らせることだろう。彼を苛む感情の悉くを魔女に明け渡し、強い感情をいくつも失って、今の彼は茫然自失の状態だ。ゆくゆくは新たな経験に紐付く感情が芽生えるだろうが、それまでは残された感情しかうまく機能しないだろう。
小箱の中にのこされた感情のかけらが、それぞれどんな味をしているのかは未知数だが、彼が魔女に譲った感情はそれなりの数になるはずだ。
「だから魔女との付き合い方を学び直して来いと言ったのに…お馬鹿さんなんだから」
テーブルに残されたままのティーカップを見て、魔女が嗤った。