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第30話 吸われていく血と精気

「い、伊織ちゃん……?」


 こんなになってもまだ、私は自分の身に何が起きているのか理解できなかった。

 だって、伊織ちゃんがこんなことするなんて、想像することだってできなかったから。


 だけど、首に走った鋭い痛みが、これが現実の出来事なんだって教えてくれた。

 噛まれたんだ。


「痛っ!」


 悲鳴をあげながら伊織ちゃんを見ると、その目は血走っていて、相変わらず息は荒い。とても、正気とは思えなかった。


 とたんに、体が震え出す。


(伊織ちゃん、どうしちゃったの?)


 伊織ちゃんのこんな姿、もちろん一度だって見たことない。姿形は似ているけど、まるで初めて見る全く別の何かみたいだ。

 いったいどうしてこうなったのかまるでわからず、ただ恐怖だけが込み上げてくる。


 怖い! 怖い! 怖い!


 だけど私がいくら震えても、伊織ちゃんの様子は変わらない。


 やめてと言いたくても言葉は出てこず、逃げたくても腕は掴まれたまま、全然振り解けない。

 そうしている間に、噛み付いていた歯が、さらに深く食い込んでいく。


「あぁっ!」


 よくは見えないけど、多分、血が流れているんだってのがわかった。それは、私にさらなる恐怖を与えた。


 吸血によって精気を吸い取られたら、命を落とすことだって有り得る。

 さっき久保田先生から言われた言葉が、頭の中を駆け巡る。


 どうしてこんなことになってるのかはわからないけど、伊織ちゃんが私の血を吸おうとしているのは明らかだった。

 そして、その時は間もなく訪れた。


 噛まれた傷。じわじわと溢れ出る血。そこに口をつけた伊織ちゃんは、一気に吸い上げ、ゴクリとひと飲みする。

 その瞬間、私の中にある精気も一緒に吸い取られた。


「────っ!」


 悲鳴は、出てこなかった。出すことができなかった。


 吸われたのは、まだたったの一口。それだけで、ただそれだけで、とんでもない疲労と苦しさが襲ってきた。


 前に、キスして精気を吸われた時とは全然ちがう。

 血を吸われるのがいかに危険か、例え何も知らなかったとしても、本能で理解できたと思う。まるで、命そのものが直接奪われていくような感覚だ。


 痛い。


 苦しい。


 辛い。


 怖い。


 そんな感情が奥底からあふれてきて、心が塗りつぶされそうになる。


(私、死ぬの?)


 だけど、たったひとつだけ、よかったことがあった。


 これだけ死が迫っているんだって実感したからこそ、同時に、死にたくないって思えた。どんなに苦しくても、このまま死ぬのは嫌だって、とてもとても強く思えた。

 そしてその強い思いが、体を動かした。


「い──嫌っ!」


 体中の全ての力を使って、伊織ちゃんを突き飛ばす。命の危機が、土壇場で力を与えてくれた。


 だけどそれが限界。伊織ちゃんから離れたとたん、膝から崩れ落ちるようにその場に倒れる。

 もう、指一本動かすことだって苦痛だった。


 突き飛ばされた伊織ちゃんは、今もまだ目が血走っていて、一歩ずつ、こっちに近づいてきた。


(やめて……)


 声を出す力もなく、心の中で言う。

 逃げたいけど、立ち上がるどころか這うことだってできずに、地面に横たわったままだ。


 伊織ちゃんがあと数歩近づいてきて、ほんの少し手を伸ばせば、またさっきまでと同じように捕まってしまう。

 だけどそこで、伊織ちゃんの動きが、急にピタリと止まった。


 血走った目がみるみるうちに元に戻っていき、興奮していた様子だったのが、あっという間に落ち着いてくる。


 いったい、何が起きてるの?


 わけがわからないのは、本人もそうだったのかもしれない。

 力無く倒れている私を見て、信じられないってかんじで、その顔に驚きが広がっていった。


「る……瑠璃ちゃん?」


 呟くように言った声は、震えていた。

 そして、血相を変えて叫ぶ。


「瑠璃ちゃん! 瑠璃ちゃん!」


 しゃがみこんで、ぐったりしている私に、何度も何度も呼びかける。


 こうなったのはもちろん、伊織ちゃんが私から、血を吸ったから。

 なのに、どうしてそんなに驚いているんだろう。どうしてそんなに悲しそうな、怯えているような顔をしているんだろう。


 わけがわからない。


 さっきから何度も頭の中で繰り返していたその言葉をもう一度思ったところで、伊織ちゃんは唐突に意識を失い、そのまま地面に横たわった。


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