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第9話 仮想空間

「仮想空間?」

「そう。デスパートが総力あげて開発した仮想現実世界なのよ。人間の意識のなかにもうひとつの現実をつくってそこでビジネスをしようっていう」

「なんのビジネスなんすか」

「ざっくりいうとこの仮想現実でしかつかえない紙幣を流通させて現実のクレカと紐づけするの。まあデビカでもペイペイでもなんでもいいんだけど」

 橋枝君は感心したように頷いた。

「つまりこっちでつかったぶんは現実の銀行口座から引き落とされる、と」

「さすが橋枝ちゃん物わかりがはやい」

「でも仮想空間で売られてるものなんかに、みんな現実のお金を落ともんなんすかね」

「その難題をクリアするためにこんだけリアルな仮想空間をこしらえたわけよ。ここで生活を送っているうちにべつの人生をつくりなおすみたいな感じになって現実世界であくせく働いてもらって仮想空間でもうひとつの人生を楽しく生きようって思わせるのが狙いなの。なにを買ってもらうにしてもデータでつくりあげるだけなんだからえらくおいしいビジネスでしょ」

「こっちの紙幣って政府が発行しているんすか。それともビットコイン的なやつとか?」

「デスパート社発行の通貨ね。この会社が仮想空間を一から十まで仕きるんだから絶対にインフレとか起きないわけ」

「そんなのうまくいくんすかねえ」

「いまの時点でうまくいくかどうかなんて二のつぎの問題なのよ。IT系のインフラはXやフェイスブックやtiktokなんかみたいに早い者勝ちみたいなところがあるから。最初に旗をたてた人間が覇者だからね。細かい不具合とかはやっているうちにだんだん整備されていくものなのよ」

「つうことは、ゴーグルかなんかつけられてるんすか」

 橋枝君は髪をかきむしってみるが、手ごたえみたいなものはまるでない。

「こっちの世界とは完全にパラレルなものだから現実世界のものにはなにひとつ触れられないのよ。僕らはアイマスクみたいなものつけられて意識だけこっちにトンデるの」

「じゃあ自分の意思で現実に戻れるんすよね」

 松永は表情を歪めて、ただ首を振った。

「え。でもそれって危なくないすか。本人の意思で現実世界に戻れないのって」

「まだこれ試作段階だし完成品はもちろん本人の意思で自由に出たり入ったりできるようにはなるんだけどね」

「試作段階?」

「うんパイロット版。たまに役員連中が遊んでみてああだこうだケチつけながら精度を高めていくわけ」

 橋枝君はエレベーターのボタンを軽くさわってみる。建築年数の浅いビルに設置されたエレベーターに共通する、しなやかな押し心地がたしかにあった。スムーズにエレベーターの扉が開き、数秒後にまたスムーズに扉が閉まる。これがヴァーチャルの世界とはとても思えない。

「それにしてもよくできてますよね」

 松永の頬を引っぱりながら橋枝君は言った。

「いや橋枝ちゃん普通に痛いんだけど」

「ちゃんと人肌の感触っすね」

 橋枝君が松永の頬をさわった手をズボンでこすっているのを松永は見逃さなかった。いじめられっ子体質は、こういうところにひどく敏感になる。

「アイマスクがデスパートからのデータを受信して視神経に映像を送りこんでるのよ。それがリアル過ぎて脳が錯覚を起こして感触までリアルになるっていう」

「どうやってそんなことが可能になるんすか」

 橋枝君はまるでNHKの教育番組に出てくる生徒役の子供のように、素直に感嘆しながら無垢な表情で訊いた。

「橋枝ちゃんは子供の頃とかにテレビはどうやって映るんだろうって思ったことない?」

「ああ、ありますね」

「ほぼあれとおなじ原理なの」

 といわれても橋枝君はテレビがどうして画像を映しだしているかなんてまったく知らないわけで。松永はその原理を噛みくだいて説明してあげた。送信側が画像をデータに変換して、受信側がそのデータから画像を構築するとか。まあそんな話だ。

「仮想空間との違いはといえば結局のところ送信装置なんだよね。データなんてどうにでもなるわけだし情報を記号に変換したものでしかないんだから。ようは生身の人間の神経がその記号を受信してくれるかどうかなのよ。そこにデスパートは成功したわけ」

 橋枝君は頭がこんがらがってきた。パソコンを使いこなす教育は受けてきても、そうした構造的なことに関する知識はノータッチで生きてきたわけだから、橋枝君の豆腐のような脳みそはこの時点でもう破裂しそうである。

「技術的ブレイクスルーは人間が瞼越しに光の色を認識するっていうネット記事が発端だったらしいのね。瞼越しに光の色を認識するんだったらデータを何億色もの光に詰めこんで明滅させたらこういうリアルな風景になるわけなのよ簡単に言うと」

 橋枝君はとりあえず頷いた。世の大半の人間がスマホがどういう構造になっているのか理解しないでつかっているのとおなじように、たぶんそういうことは平均的な人間は理解しなくていいのだ。

「もちろん人間の脳はデータなんて受信しないから光が瞼にとどく際にはまさに現実のようなこういう風景が照射されているの。大事なこと言うの忘れてた。この仮想空間にいるときは眠っているときなのね。光を浴びていると人間は熟睡することはできないから半覚醒状態になる。つよい光だから網膜にまで写りこんで半覚醒状態の人間の意識にコミットできるわけ」

 橋枝君はもっともらしく頷く。理系ではないピュアなアホにはもうムリだ。ついていけない。坂のうえから転がってきたボールを一個拾ったものの、つぎに何十個ものボールが落ちてきて呆然としている感じ。

「でもこっちで衝動買いとかしてしまったときに、それこそ夢うつつでの判断だったんで無効にしてほしいって言われそうですけど」

「僕らもその可能性は十分考えたんだ。顧問弁護士をまじえてさんざん話しあったんだけど結局本人がそう訴えるんならそれはそれでいいんじゃないかっていう結論になったのね。いわゆるクーリングオフということにして現実の買い物といっしょである一定の期間をもうけて返品可能にした。買って一年もたってからやっぱいらないやってのはどちらの世界でもムリ筋な話なわけでしょ」

「まあ、たしかに」

「他にも技術的にクリアしなければならないことがあってね。つよい光を浴びていると脳が覚醒してしまうから熟睡していることにはならない。だから危険は危険なわけよ。完全に脳は寝ていない状態なんだから長時間はむりでしょ。それでどうしたかっていうと時間を圧縮したわけね」

「圧縮?」

「プログラムでこっちの時間が現実世界と比べてゆっくりとながれるようにしたのよ。向こうの十分がこっちの二四時間になるの。利用する人たちが毎日この仮想空間に来られるために本人の睡眠時間からほんの十分だけを充ててもらうってことになるわけ。こういうのの技術的応用にもまだアインシュタインの相対性理論が活用されるんだから歴史に名を残している天才ってほんとすごいよね」

 橋枝君はもう松永の話を真剣に聞いてはいなかった。

「松永さんは松永さんなんすよね。なんかうまく言えないんですけど」

「僕は僕だよ。いわゆる双方向だから。橋枝ちゃんオンラインゲーム好きだったんだらわかるよね。僕はもちろんデータ上のキャラではない。現実の僕は橋枝ちゃんとおなじように役員たちに強引に手足を押さえつけられたあとアイマスクつけられて眠らされてるの」

「そういえば、俺そのときの記憶がまったくないんすよね」

「たしかに橋枝ちゃんあのとき白目むいてなすがままって感じだったね。ていうか動画にあんな文字さしこんだのやっぱり橋枝ちゃんだったの」

 橋枝君はでへへという感じで舌を出した。松永はひとしきり唸る。

「橋枝ちゃんにそんな勇気あったのねえ。でもそのせいで僕たちこんなところに閉じこめられちゃったけど」

 松永の言葉にはどこか不安を煽りたてるようなところがある。

「閉じこめられちゃったって、出ようと思ったら出られるんですよね」

 橋枝君の声にはどこか松永に媚びる感じがあった。

「役員連中がその気になればね。この装置はまだ自分の意思では現実世界に戻れないようになってるの。微弱な電力がながれつづけて意識のない状態になっていて向こうの世界でスイッチを落とさないと現実の世界に戻ることができないのよ」

「じゃあ停電になったら戻れるんじゃないすか」

「ムリね。このプロジェクトのためにビルの地下に自家発電装置を設置して稼働させているしその貯蓄電力が底をつくまで都心部が停電しつづける可能性なんてほとんどゼロに近いんじゃないかな」

「だったら俺たちどうなるんすか」

「役員たちの気が変わって本体のスイッチを切ってくれるか僕たちの捜索願いが出されて捜査の手がここまで伸びて警察が来るかプログラム上のバグが生じるようなことをやって安全装置が働いていったん電源が落ちるか地震がきてアイマスクがずり落ちるまで揺さぶられるかするとひょっとすると戻れるかも」

「けっこう可能性があるんすね」

 橋枝君は半笑いで言う。

「冷静に考えてもらえば可能性がどれもゼロに近いってことがよくわかると思うんだけど」

「警察の線はどうすか。俺らが行方不明になったら家族が騒ぐと思うんすよね」

「事件性がないと警察はすぐには動いてくれないのよ。毎年何人の捜索願いが届け出られてるか知ってて言ってるの」

「じゃあバグの線はどうすか」

「バグは単なるバグに過ぎない場合が多いからねえ。機械本体を揺さぶるくらいのバグを見つけるなんて砂漠に落ちた針を見つけるようなものじゃないの」

 橋枝君は考える。たしかにゲームをやっていて、バグに遭遇した際にソフトがリセットされても、ゲーム機本体の電源が落ちた経験はなかった。スマホでさえフリーズして強引に再起動がかかるのを最近は経験したことがないような気がする。

「この世界はどこまで広がってるんすか。無限じゃないすよね」

「日本はだいたいカバーできたかなあ。猫の額のような面積の小島とか島全体が個人の所有地だったりする場所は最初から存在しないことになってるけど」

「データに起こすのにめちゃくちゃ莫大なお金と手間がかかったんでしょうね」

「グーグルのストリートビューみたいな感じで一枚ずつ写真を撮って専門ソフトをつかって立体的にデータに起こしたの。もちろん他人の家の敷地には入れないしもし局地的なバグが生じて入れたとしても真っ黒な空間が広がってるだけだから法には抵触しない」

「僕らの他には誰もいないんすか」

 松永はしばし考えた。これ言っちゃおうかどうしようかという、いかにも松永らしいもったいのつけかたに、橋枝君はイラッとする。

「いるのはいるんだけどね。ひとりだけ」

「えっ、誰ですか」

「渚ちゃん」

 橋枝君はのけぞりそうになる。


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