捻れ角の悪魔
「あらあら。あらあらあらあら……」
驚いたように目を皿のように丸くしながら、ウェパルは自分に抱きついてきた悪魔の顔を見た。
彼女の髪代わりの白蛇たちも、威嚇をすぐにやめてセパルを見つめている。
「一人前の悪魔になったのね? あと数千年は半人前のままだと思ったのだけれど……」
セパルの青い髪の中から顔を覗かせている緑色をした数匹の蛇たちの頭を、人差し指でそっと撫でたウェパルは、両手で彼女の頬を挟んだ。それから、セパルの額に自分の額をくっつけて嬉しそうに笑う。
それは、恐ろしい悪魔というには相応しくない笑顔……人間の母娘のような穏やかな雰囲気だ。
「それにしても……あれだけ重かった体も、寝ても寝ても取れなかった眠気もすっかり無くなって快適だわぁ」
娘と顔を離してから、ぐぐっと両腕を腕に上げて伸びをしたウェパルは、目の前にやってきて娘の肩を抱き寄せたルリジオを見て目を細める。
「蛇神の君、約束を果たしました。ご気分はどうですか?」
「あらあら……まさか本当に旧き神がわたくしに嵌めた枷を解き放ってしまうだなんて……驚いちゃいました」
先ほどセパルに向けていた優しげな笑みは消え、どことなく残忍そうな笑顔を浮かべながら、ウェパルはルリジオの顎を人差し指で撫でた。
そのまま喉元から胸にかけてゆっくりと指を這わせるウェパルは、体を密着させながら彼の耳元で囁く。
「今すぐわたくしに魂を捧げるのなら、永遠にわたくしと娘の二人と一緒にいれますよぉ?」
「|蛇神の君、あなたの柔らかな白い鱗に包まれた乳房……しっとりとした谷間に抱かれながら永遠の時を過ごせるというのは非常に魅力的なお誘いなのですが……僕は限りある時間を妻たちと共に暮らすことを選びます。一人前の悪魔になった捻れ角の君は、アビスモと契約していますし、僕たちが結ばれることに貴女の許可はいらないとはいえ、あなたも至高の宝の持ち主……敵対は望んでいません」
涼やかな笑顔を自分に向けただけで、誘惑に乗ってこようとしないルリジオに、ウェパルは内心舌打ちをしながらも、蠱惑的な笑顔は崩さない。
彼から少し離れて、腕を組んで何か考えている様子を、セパルは不安そうな表情で見つめている。
「じゃあ、その綺麗な碧輝石みたいな右目をくださいな。良い魔法薬の材料にな……」
「わかりました」
「は?」「ええ?」
セパルとウェパルが声を揃えて驚いているにも拘わらず、ルリジオはなんの躊躇いも無く、抜いた剣を自分の右目に向ける。
慌てて彼の腕を取った悪魔の親子が、それぞれ自分に近い方の腕を取る。両腕を二人の谷間に挟まれたままのルリジオは、満面の笑みを浮かべながらも首を傾げた。
「少しだけ、困らせようとしただけです! そんな躊躇無く自分を傷つけようとするなんて正気じゃないですよ」
「至高の宝を持っているご婦人というだけではなく、義理の母になる方からの願いだ。拒否する理由なんてないじゃないですか。それに、僕は女神ダヌの加護を受けているので右目くらいくり抜いてもすぐに生えてきますよ」
「そういうことなら……」
事もなげに話すルリジオにホッとして、ウェパルとセパルは彼の腕を放して胸をなで下ろす。
少し遠くでそれを見ていたアビスモが、ニヤリと笑いながら二人に声をかけた。
「こいつが受けた加護は身体機能の超高速再生だ。つまり、傷ついた時の痛みも、再生するときの痛みも感じているのに、躊躇無く右目を差し出そうとしていたんだぞ」
「ひ……」
「彼女たちの喜ぶ顔が見れると思えば、多少の痛みなんてちょっとした試練みたいなものだよ。さあ、右目を今差し出すから少しだけ待ってく……」
「いらないです! お話を聞いてました? わたくしは、ちょっっっっっっとだけ娘の旦那様を困らせようとしただけのおちゃめな悪魔ですので……」
再び剣を持ち上げようとするルリジオを、ウェパルは大きな声で制する。
彼が鞘の中へ輝く刀身を収めるのを見てから、ウェパルは豊かな柔らかい胸を揺らしながら肩を竦めた。
「旧き神の枷から解き放たれたわけですし、また変な封印や契約をされたらたまらないので、わたくしはこんな世界からおさらばしますねぇ」
ウェパルが長い腕をぐるりと回すと、人一人が入れそうな大きさの水球が現れる。
その中へ入った彼女が、ひらひらと赤いヒレを動かしながら並んでいるセパルとルリジオを見ながら眉尻を下げた。
「本当に、あなたはここにいるんですか? 定命の者の寿命が尽きるまでとはいえ、あなたの旦那様はかなぁり変わっていますけど……」
「確かにコイツは少々変わった奴だが、それでも我をたくさん助けてくれたのだ。だから、嫌では無い」
ニッと唇の両端を持ち上げながら微笑んだセパルは、自分の腰を抱いているルリジオの顔を見つめる。
小さく肩を竦めて溜息を吐くウェパルが、短く「そう」と返事をすると、ルリジオはセパルの顔へ目を向けてにっこりと優しい笑みを浮かべた。
金色の短い髪がさらりと流れ、大きな空色の瞳がまっすぐにウェパルの顔を捉える。
「蛇髪の君、その美しい谷間に我が腕が抱かれた感触、忘れないよ。服の上からでもわかるやわらかさ、そしてわずかにだが布の摩擦があったこと。その小さくやわらかな鱗の生えた谷間を素肌で感じられないことは非常に残念だが……伴侶のいるご婦人の乳房を故意に触ることは僕の信念に反するからね。捻れ角の君は僕に任せてくれ。一度、妻にした美の女神は何があっても大切にしてみせる」
「わたくしだって悪魔ですもの。もっと悪魔らしくありたいのですが、貴方はとことんペースを崩してくる人ですね」
水球の中でぐるりと縦に一回転したウェパルは、頬にすり寄ってきた蛇の一匹の頭を撫でながら息を漏らす。こぽこぽと小さな水泡が球体の上に登って消えていった。
「未熟な娘ですが、よろしくお願いしますね。では、わたくしはさっさとこの世界から去りますので」
ウェパルが右手を顔の横でヒラヒラと振って、微笑む。彼女が別れの言葉を言い終わると同時に、音も無く水球も、彼女の姿も見えなくなってしまった。
ルリジオに腰を抱かれたままのセパルは、しばらく彼女の母がいた場所を見つめて立ち尽くしていた。