覚醒の悪魔-1
「真の勇者と、その実力で言っていたのか」
オリヴィスが振り下ろした剣が、金属音を響かせて宙を舞う。
持ち主から離れ、地面に落ちても剣に纏わり付いている黒炎の勢いは変わらない。
トンと地面を叩く音と共にアビスモが姿を現わした。黒炎はどんどんアビスモの方へ引き寄せられていき、剣から放たれる炎は小さくなって消えた。
「あ……? そ、そんな」
剣を拾おうともせず、オリヴィスは後ずさる。
尻餅を着いてアグレアスの前まで後退したオリヴィスは、無傷のまま黒炎から出てきたアビスモへ「化け物」と呟いた。
「神々からの祝福を受けた武器以外では傷つかない体質でな」
ローブに付いた煤を払うような仕草をしたアビスモが、落ちている剣を拾いながら、事もなげに言い放つ。
「畜生!」
自棄になったように立ち上がるオリヴィスへ、アグレアスは掌から出した黒い槍を手渡す。オリヴィスは、アビスモに背を向けるようにしながら、ルリジオを見た。
前へ倒れるような姿勢で投げた飾り気の無い黒槍は、ルリジオの右肩を貫く。
杭のようにも見える槍は、植物の蔦のようにも、タコの足のようなぬめぬめとした触手をルリジオの首や腕へ広げていく。
「……ふむ。君は呪いを扱うのが得意なようだね。君というのは勿論そちらの漆黒の谷間が素晴らしい月夜の悪魔へ向けての言葉なのだけれど」
微笑みを絶やさないまま、ルリジオは肩に突き刺さった槍を左の手で掴んだ。
その手にも触手は絡みつき、そして彼の皮を突き刺して肉の中へ潜っていく。美しい頬にもその黒い触手の侵食は広まっていく。
「強がって涼しい顔しやがって! オレ様を無視するな! その呪いはお前の命をすぐに奪うぞ! アグレアス、お前はあの化物を見ていろ」
「畏まりました、御主人様】」
ツバを飛ばしながら大きい声を張り上げたオリヴィスは、新たな剣をアグレアスから受け取って、ルリジオの方へ近付いていく。
「少しは気を利かせろ」
立ち上がり、アグレアスはアビスモと向き合うようにしてルリジオへ背を向ける。
「乳ばかり大きくてもオレ様の役に立たないならゴミと同じだ」
オリヴィスが吐き捨てるように漏らした言葉実に、少しだけ眉を顰めたルリジオは、薔薇色の唇から小さな溜息を漏らした。
「乳房の大きさは」
グッとルリジオの左手に力がこもる。白磁のように美しく滑らかな細腕に、僅かに筋肉が隆起する。一気に槍を引き抜くと、それに引きずられるように黒い触手たちもルリジオの肌から引き離された。
ぐねぐねと動く触手も気にしないまま、ルリジオは地面に落とした槍を右足で踏みつけた。
「それだけで十分価値があるだろう!」
細い体躯から出たとは思えないほど大きな声は、ビリビリと周囲の空気を震わせる。
思わず両手で耳を塞いだオリヴィスが、一瞬伏せた目を上げると目の前には微笑みを浮かべていない、冷たい表情を浮かべたルリジオが佇んでいた。
槍から伸びた触手が潜り込んだ痕からは、鮮血が流れていて彼の空色をしたマントや鎧を汚している。
「ひ」
小さく声を漏らしたオリヴィスの剣を持っている右手首をルリジオは掴んだ。
貴族の女を思わせるほど細くて美しい指が革の籠手越しに、オリヴィスの腕に食い込む。
余りの痛さに剣を握る手を開いたオリヴィスの足下に剣が転がった。しかし、ルリジオはそんなことは気にも留めず、目の前に居るオリヴィスの褐色の瞳を見つめている。
「乳房が大きいと言うこと、それは何にも変えられない宝だ。そう思わないところまでは個人の価値観の違いということで大目に見ようと思うが、こともあろうにゴミだと罵るだと? 乳房の大きさを罵り、能力と関連付けて罵倒をすることがどれだけの大罪かわかっているか? 乳房の大きさと性格や能力の高低は必ずしも一致するとは限らないということすら知らない恥知らずめ。そもそもあれが大きさだけが取り柄の乳房だと思うのか? 大きさだけが取り柄でも確かに素晴らしい。しかし、あの張りと艶を見ろ。悪魔と言ってもこの地上で得られる魔素や湿気、そして馴れない埃や食事によって肌艶は左右される。アレは日々手入れのされている至高の宝だ。黒いドラゴンの革を鞣した胸当て、下半分の谷間を外に晒すということは素晴らしい乳房に傷を負う確率も高くなる。しかし、彼女の体には傷がない。お前のような力不足のたいした自前の魔力も無いような男を依り代にしていればいくら悪魔といえど負った傷を癒やすときにボロは出るものだ。しかし、よく目をこらしてもあの月夜の悪魔の乳房には傷痕がまったく確認できない。つまり乳房の下半分への防御を疎かにしていようが近接戦闘においてそこを傷つけられる立ち回りをしない程の手練れだということだ。お前が大きいだけといったあの至高の宝はそれだけを見てわかるだけの情報にあふれ……」
みるみるうちに直っていく傷痕と、激しい剣幕で嵐のようにまくし立てられたオリヴィスは顔を真っ青にしてルリジオを見ている。
ルリジオの言葉が途中で止まったことに気が付いて、ようやく手を振りほどいた彼が目線を少し下に向けると、真っ黒な触手がルリジオの腹部を鎧ごと貫いていた。
言葉を失ったまま倒れたルリジオから、慌てて離れたオリヴィスはアグレアスの方へ駆け寄る。ルリジオの心臓を貫いたのは、アグレアスの尾だったのだ。
「た、たまには役に立つじゃないか! この狂人を黙らせたことの褒美にオレ様の血をまたくれてやろう!」
「吾のために怒ってくださった方を殺すのは気が引けましたが、これも御主人様の命ですので」
倒れたルリジオに頭を下げたアグレアスは、背中にオリヴィスを隠すようにしながらアビスモと向き合った。
「吾の実力も、オリヴィス様の実力もわかったでしょう? ここで引くのならそちらにいる王都の犬共を《《今は》》見逃しますが」
フッと唇の片方を上げて微笑むアグレアスだったが、仲間が倒れたことにも、自分の挑発にもアビスモが動揺をしていないことに気が付いて首を傾げる。
「る、ルリジオ」
アグレアスは、不可解な男よりも、自分が先ほど倒した男の名を叫びながらこちらに駆け寄ってくる影に気が付いた。
自分よりも小さな魔力だ。怯えていた悪魔が自分に刃向かってきたところで容易に殺せるだろう……とアグレアスは判断する。
アビスモから完全に意識を反らさないまま、アグレアスは畳んでいた四枚の黒翼を広げて、倒れたルリジオへ駆け寄った悪魔へ目を向けた。