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それでも朝日は昇る  作者: 柴崎桜衣
第九章 サンブレストの大虐殺
98/153

9章1節

第9章  サンブレストの大虐殺 ―大陸統一暦1000年―


※本章は精神的に残酷な描写があります。

また2020年4月現在の社会情勢から、非情に酷であると受け止められる描写があります。

閲覧の際は、その点を留意くださいますようお願いいたします※

 カティスとカイルワーンが『しばらく旅に出る』とだけ書いた置き手紙を残し、誰にも告げずに街を出たのは、大陸統一暦1000年3月2日のことだった。

 誰かに少しでも事情を話せば、止められることは火を見るより明らかだったからだ。

 夜明けの開門と同時、できうる限り人目を避けて二人はレーゲンスベルグを出た。そしておそらく大騒ぎになっているだろう街と人々を捨ておき、一直線に東に向かう。

 馬車を調達できるところではそれに乗り、時には歩き、二人は鄙びた街道を進んでいく。街道沿いに点在している村々は皆飢饉に喘ぎ、凄惨な様相を示していた。

 そんな中の旅人の訪れを、小さな村では決して手放しで歓迎はしなかった。だが彼らは十分な路銀を携えていたし、医師であるカイルワーンが就寝までの時間を使って診察を行えば、それなりに感謝の念と態度の軟化は得られた。

 レーゲンスベルグを出発して、四日。3月6日、二人はカザンリクという村でその日の宿を求めた。目的地サンブレストの手前の村――あと半日もあれば、辿り着ける場所。

「お前がいなきゃ、こんなに楽じゃなかっただろうな」

 旅籠の部屋で、村人が用意してくれた精一杯の食事を口を運びながら、カティスはもらした。薄い碾き割り麦の粥――粗末だが、二人はかけらも不満を口にすることはない。

 言える状況ではないことを、二人とも痛いほど判っている。

「だが、君がいなければとてもここまで辿り着かなかったよ」

 粥に匙を突っ込み、口に運ぶでもなくかき回しながら、しみじみとカイルワーンも呟く。

 カイルワーンはカイルワーンで、この旅におけるカティスの存在のありがたさを実感していた。

 たかだか四日の間に、片手の指だけでは数えられない回数暴漢に襲われ、その都度カティスが撃退した。金を持った旅行者など、強盗や追剥にはいい鴨だ。食い詰め、困窮のどん底にある人々の心理を考えれば、仕方がない、と思わなくはない。かといってそれが精神的に堪えないと言ったら嘘になるし、大人しく襲われているわけにもいかないのも現実だ。

「僕一人じゃ、今頃とっくに身ぐるみはがれて山にでも捨てられてるよ」

 どこか恨みがましいその言葉に、カティスは苦笑する他ない。そして、粥を前に眺めるばかりで一向に手が出ないカイルワーンに、きつい口調で言う。

「うまくないのは判るが、ちゃんと食っておけよ。あと半日は歩かなければならないんだから」

「それは判ってる。……うん、おいしくないから手を出せずにいるわけじゃない。でも」

 視線が沈んだ。その内心を、カティスは量ろうにも量りきれない。

 出会ってからの二年で、カティスには判ったことがある。出会った頃ですらその食の細さに呆れたが、カイルワーンは精神の安定を欠くと、ただでさえ旺盛とは言えない食欲が、さらに減退するのだ。

 そしてそれは逆に、彼の精神状態を他人がうかがい知る指標になる。

「明日には着くんだと思うと……とても喉を通らない」

 その言葉が示す通り、カイルワーンがひどく緊張し、そして見えない恐怖に怯えていることが、カティスには判った。だが――だからこそ、厳しく言わずにはおれない。

「だからこそ、今食べておけ。何が待っているか判らないところに行くのに、ふらふらでどうする」

 厳しい口調と視線に耐えかねて、カイルワーンは緩慢に匙を口に運ぶ。それをじっと見守り――見張りながらも、カティスは自分までもが緊張していることを認めた。

 カイルワーンは根本を語らない。なぜ彼が今サンブレストに行こうとしているのかを。

 何が待っているのか判らない、と言う。それが何かを確かめるために行くのだ、と言う。だがカイルワーンは、そこで起こっている何かが、どんな事態を巻き起こすのかは知っているはずだ。だが彼はそれを恐れ、怯える様子を見せるにもかかわらず、それについて語ろうとしない。そのことが、カティスの不安と緊張を生む。

 市政を執行する者としての職務。街の防衛責任者としての職務。お互いが背負っている責任は決して軽くはないのに、彼は今回それらを全て置き捨てて旅に出た。

 それほどのものが、これから行くサンブレストには――サンブレストから始まる未来の事態には、あるのだ。それが判っているから、カティスも緊張せずにはいられないのだ。

 二人の不安を呑み込み、最後の道行きが始まる。

 サンブレストへは、山中の細い街道を辿る。わずかな登りの道を二人は着実に進み、そして昼を少し回った頃、山間に開けた村を見つけた。

 そこはカイルワーンが考えていた以上に、小さな村だった。

 村の門は開かれていた。そして村人が幾人か往来していた。何の変哲もない、反乱などという物騒な匂いもない、ただの寒村だった。

「ここに、一体何があるっていうんだ? カイルワーン」

 村の入口に立って、拍子抜けしたような――少しだけ呆れが混じったカティスの問いかけをぶつけられ、カイルワーンは顎に手を当てて考え込む。

 大陸統一暦1000年4月5日、この村は国軍によって焼き討ちに遭う。村人は一人も残さず焼き殺され、弔うことも、骨を拾うことも許されず、遺骸はさらされ続けた。

 世に言う『サンブレストの大虐殺』――魔女討伐の、きっかけとなった事件。

 その理由が何だったのかは、歴史上の謎の一つで、歴史家たちによって盛んな議論が交わされている。最有力説は、ここが魔女への反乱の拠点であった、というものだが、それをカイルワーンは旅に出る前からすでに否定していた。

 なぜなら、反乱が起こる気配を、カイルワーンは今の時点では感じなかったからだ。

 国は困窮に喘いでいる。民は飢饉から次々倒れている。国政や貴族への不満は耳にする。だが、それが反乱という形で人が集うところまでは、まだいっていない。

 何より大多数の民衆はまだウェンロック王が逝去したことを知らず、国権がアレックス侯妃と緋焔騎士団に握られていることも知らない。『魔女』と呼ばれることになる存在のことを、まだほとんどの者が知らないのだ。

 魔女の支配に対する蜂起、という前提はいまだ成立しないし、国王に対する蜂起という気配もカイルワーンには感じられずにいる。

 だからこそ、カイルワーンは不思議でならないのだ。4月5日のサンブレスト、6月10日のイプシラントの戦い、そして6月12日のアルベルティーヌ攻防戦。その日まであと月日はたった三ヶ月しかないのに、彼女はいまだ全国民に『魔女』と呼ばれ、恐れられる存在にはなっていない。

 史実が語る時代の空気と、この現実のずれは、一体なんだろう?

 民衆はそれほどまでに『サンブレストの大虐殺』に怒りを覚えたのだろうか。この一件であからさまになる『魔女』の所業に、それほどまでの怒りを覚え、己の窮状とを重ね合わせて立ったのだろうか。

 でも、それは、ひどく不自然ではないだろうか。

 史書は真実を語らない。それは痛いほど判っている。だが――もしかしたら。

 サンブレストから始まる革命の一連の流れは――その経緯ではなく、背景は、もしかしたら、根本的に歪んでいるのではないだろうか。

 もしかしたら、彼女は『魔女』などとは呼ばれてはいなかったのではないだろうか。

 だとしたら、彼女を『魔女』と呼び、その存在を呪われた者にしたのは――。

「考え込んで、立ち尽くしてる場合じゃないだろ。――行くぞ」

 ぽん、と肩を叩かれ、思考に沈んでいたカイルワーンは我に返る。

 村の中に足を踏み入れると、往来を歩いていた村の女性に早速声をかけられた。

「あら、見ない顔ね。旅の人?」

「そうなんだ。ちょっと山越えしてセンティフォリアまで行かなければならなくてね」

 さらりと偽りを口にするカティスに、女性は珍しそうに話しかけてくる。

「お二人? こんな時期に旅をしなければならないなんて、難義ねえ」

「差し迫った事情があってさ。今日は疲れたからここらで宿を取ろうかと思うんだけど、この村には旅籠はあるかい?」

「あるわよ、こっち」

 女性に連れられ、二人は村の中に歩みを進める。入れば入るほど、見れば見るほど何の変哲もない村だ。

 だが、このそこはかとなく漂う、奇妙な匂いは何だ、とカイルワーンは眉をひそめる。

 甘く、どことなく生臭いような――。

「……変な臭いがしないか」

 ぽつり、とこぼしたカイルワーンに、ああ、と女性は表情を曇らせた。

「病人がいるのよ。そのせいよ」

 え? と呟いて、驚きの表情を向けたカイルワーンに、カティスはすかさず言った。

「診にいくか?」

「ひょっとして、あなた、お医者様なの? こんなにお若いのに?」

 もはや聞き飽きた言葉には、何も感じない。だが、途方もない胸騒ぎがした。

 ざわざわと胸の奥がざわめく。

「助かるわ。この村にはお医者様がいないんだもの。どんな病気か、誰にもちっとも判らなくて困っていたの」

 連れられていったのは一軒の家。扉をくぐると、例の臭いがつんと鼻を突いた。

 奥に寝かされていたのは、何の医術の心得のない者でも、一目で病人だと判るほど憔悴した男だった。

 皮膚はがさがさに渇き、皺が寄り、そして青黒い斑が浮いていた。落ちくぼんだ目が枕元に座るカイルワーンを見、口が何かを言いたげに動いたが、喉から漏れた息はひどく嗄れていて、声にならなかった。

「ひどい脱水症状だ……下痢? それとも嘔吐か?」

「両方なんです。物凄い下痢をして、水を飲ませても吐いてしまって、何をしてもよくならなくて……もうどうしたらいいかと」

 患者の夫人が、嘆くように顔を手で覆って呻いた。

「もうこの村では、この病気で四人も亡くなっているんです。これは何かの呪いでしょうか? 私たちは、何か神がお怒りになるようなことをしてしまったのでしょうか?」

 わあ、と感極まって泣き出す婦人の様も、カイルワーンに衝撃は与えはしなかった。ただ脳裏を回るのは、遠い記憶。

 こんな症状の患者の診察をしたことは、今まで一度もない。だが確かに覚えがある。

 父が、最大限の恐れとともに語った病と、それに伴って起こった未曽有の出来事。

 まさか。

「……下痢した便は、どうした? 見せてもらえないか?」

 声が震えた。家の裏手に招かれて、戸口から外に捨てられた下痢便を見た瞬間、カイルワーンの全身に震えが来た。

 まさか。

 まさか。

 そんなはずがない。

「カイルワーン、どうした?」

 怪訝そうなカティスの声さえ、カイルワーンの耳には入っていなかった。彼の脳裏には、目の前の症状が言葉の鎖になって回っている。

 甘く生臭い匂いのする真っ白い大量の下痢便と、それから来る極度の脱水症状。

 高熱と嘔吐。体表に現れる、青黒い斑紋。

 嗄れ声と、意識の混濁、昏倒。皮膚の皺と弾力の欠如。

 それは今、ここに、あり得るはずのない病。

 どうして。

 どうして、と心が叫ぶ。

 信じられなかった。信じたくなかった。だがどんなに否定しても、否定できない現実が目の前に横たわる。

 間違いない。

 これは、これは――。

「青い、恐怖……」

 ぽつり、と口から漏れた己の言葉が、かえってカイルワーンには信じられなかった。

 自分は今、何てことを言ったのだ、と。

「カイルワーン、おい、しっかりしろ!」

 膝が笑っていた。患者と同じく、体が痙攣していた。異常を察したカティスが、背後からその肩を支えた瞬間、カイルワーンの中で糸が一本ぷっつりと切れた。

 もう、堪えきれない。

「……あ、あっ……」

「……カイル?」

「…………うわあぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 絶叫していた。自分の耳を両手で押さえ、自分の足で立つこともできず膝を床について、カイルワーンは気が狂ったかのように絶叫していた。

 叫ばなければ、とても正気を保っていられそうになかった。

「カイル、カイル! どうした! 何があった!」

 居合わせた者たちは、現状に取り残されていた。彼らをこの家に連れてきた女性は呆気に取られ、患者の婦人は医師の突然の取り乱しようにおろおろとし、そしてカティスは。

 カイルワーンの肩を掴み、揺さぶりながら、その名を呼び続ける。

「カイル、しっかりしろ! 何をそんなに取り乱してるんだ! しっかりしろ!」

 それがどれくらいの時間であったのか、二人にも判らなかった。だがカイルワーンは、はたと叫ぶのをやめると、今気づいたとばかりにまじまじとカティスの顔を見た。

 その血の気の引いた顔は、今まで見たことがないほどの焦りに満ちていた。

 事実この瞬間、カイルワーンは、それまでの一生で最も切迫していた。

 彼はその時、一分一秒を争う選択を迫られていたのだ。

 衝撃に麻痺した心が必死の思考を紡ぐ。

 ここにいるのが僕一人であったのならば、別にいい。僕一人であったのならば。

 だが、今ここには、カティスがいる。カティスが、他の誰でもない、カティスが。

 駄目だ。

 自分のことならば、どうなったっていい。だが。

 カティスがここにいたら、このままここにいたら。

 カティスに、これが、()()――。

 それだけは駄目だ。

 それだけは、絶対駄目だ!

 それは物凄い力だった、とカティスは後に思った。体格にあんなにも差があるカイルワーンが、彼の腕を引っ掴んで引きずり、走り出したのだ。

「おい、カイル! 待て!」

 カティスが何を言っても、何を叫んでも止まらない。患者も、その家族も、何もかもを放り出し、荷物とカティスの腕を掴んで、必死の形相でカイルワーンは家を出、往来を抜けて、村の外にまで走っていってしまう。

 カティスを引きずるようにして走り、どれくらいたっただろう。もう村も後方に去り、とうとう息があがり、足がもつれて地面に転がるまでカイルワーンは走り――逃げ続けた。どさり、と自分の体を地面に投げ出し、ぜいぜいと苦しそうに息をするカイルワーンに、カティスはやはり乱れた呼吸で問いかける。

「どうしたんだよ、いきなり! 何がどうなってるんだ!」

 基礎体力の差だろう、たやすく呼吸を整えて、カティスはいまだ呼吸もままならないカイルワーンに問いかける。そんな彼に、少し待ってとばかりに手のひらを見せると、やがて掠れた声で答えた。

 もう判った。

 全て、判ってしまった。

「……判ったんだ。サンブレストで何が遭ったのか、もう全部……」

「カイルワーン!」

「……それしか方法がなかったんだ。それしか、方法が……」

 カイルワーンは、遠い空の下にいるアイラシェールのことを思った。

 そして間もなく彼女が下す、決断のことを。

 彼女はどんなに苦しんで、この結論を出したのだろう。どんなにか泣いて、自分がそこから滅びに向かうことが判っていて、それでもなおあの決断を下すのだろう。

 その胸の内を思えば、自分の胸も張り裂けそうだとさえ思った。

 ふとマリーシアの哀歌の一節がカイルワーンの耳に甦る。

 右手に秤、左に剣――その詞の意味が、何となく判ったような気がした。

 彼女は秤に乗せなければならなかったのだ。

 アルバ一千万の国民の命と、サンブレストの村人の命を――そして、自分の命を。

 そして軽かったものを、重かったもののために、切り捨てなければならなかったのだ。己を守るためであっても、重い方を切り捨てることが、どうしてもできなかったのだ。

 彼女の目の前にも、自分の目の前にも、道は一つしかない。たった一つしか。

 そんなことは、とうに判っていたことだったのに――。

「カイルワーン、俺の質問に答えろ!」

「答えるよ。答えるから、落ち着いてよく聞いて」

 ごくり、と唾を呑み込んで、呼吸を整えて、カイルワーンはカティスを見上げた。

 悲愴な決意をたたえて。

「サンブレストで起こったこと。僕が確かめたかったこと。その正体が、あの病気だ」

「あの病気――って、まさか」

 カイルワーンの狂態の意味に、この時カティスは思い至った。心に浮かんだ、一つの可能性――それは。

 はっと口を押さえ、青ざめるカティスに、静かにカイルワーンは追い討ちをかける。

「そう……あれは、伝染病だ。そして、あの病気には」

 震える声が、止めを刺す。

「治療法も、予防法も、ない」


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