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それでも朝日は昇る  作者: 柴崎桜衣
第一章 手向けの赤い薔薇
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1章8節

「どうした? こんなところで」

 不意にかけられた声に、アイラシェールは振り返る。その面は、昼間の明るい表情とは打って変わって、物思いに沈んでいた。

 塔の屋上を吹き抜ける夜の風は、ぞくりとするほど冷たい。

「カイルは、何になりたい?」

 無理に笑みの形を作って、アイラシェールは不意にそう聞いた。

「やっぱり『賢者』様みたいになりたい?」

 賢者カイルワーン――宰相で、軍師で、医者で、発明家で、歴史家で、なぜか料理家。王朝を築き、戦争を勝利に導き、革新的な医術や偉大な発明や料理のレシピを幾つも生み出し、詳細な記録を書き残した彼を、世の人はこう呼ぶ。

『万能の人』と。

 カイルワーンが戦記や列王記などの史書や、彼の著作をそらんじられるほど読み込んでいることを、アイラシェールは誰よりもよく知っている。

「憧れてはいるけどね。何でもできる人間になりたい、とは」

 カイルワーンは、そう答えた。吹き抜ける風が、黒い髪を静かに揺らしている。

「でもそれは、栄達を望んでのことじゃない。僕が欲しいのは、そういう幸せじゃないんだ」

「そういう、幸せ……?」

「幸せの形は一つじゃない。そうだろう? アイラ」

 カイルワーンの顔に浮かぶ、何か――とても揺るぎないもの。それは多分、彼の中に何か確固たる『信念』のようなものがあるのだろう、とアイラシェールは思う。

 それが何かは判らない。そして彼の気持ちもまた。十二年も、そばにいるのに。

 いや、だからこそなのだろうか。

「オフェリア姉様、辛そうだった」

 ぽつり、とアイラシェールは洩らした。

「多分私たちが思っているよりずっと、国の状況は切迫してるんだわ」

 外に出られないからこそ、アイラシェールは外のことを知りたいと願った。学問好きの相棒が、それに拍車をかけた。コーネリアが語る宮廷の噂、博士が語る近隣諸国の状況、事件。そして積み上げられた歴史書や思想書、法律書。農業・工業統計、貿易収支。すべてのものがより合わさって、幾つかの推論へと結ばれる。

 十二代、二百年。その長い月日が王朝にもたらすもの。

 危惧が芽生えたのは、いつの頃からだろう。二人とも覚えてはいない。けれどもそれは着実に、胸の中に根を下ろしつつある。

「これから、どうなっていくのかな」

 アイラシェールは、ぽつり、とそう言った。

「もしも――」

 言いかけた言葉は最後まで紡げなかった。不意に伸ばされた手は肩を回り、訝しむ間もなく細い体はたやすく抱き寄せられる。

「カイル――」

 驚き、ただ名を呼ぶだけのアイラシェールの耳に、ささやかれる声。

「必ず」

 強い声音だった。けれども回された腕は、微かに震えていた。

「必ず、守る。守ってみせる」

 小柄なカイルワーンの体は、細い体つきのアイラシェールとて、包み込むには足らない。それでも吹き抜ける冷たい風から守るように自分を抱きしめるカイルワーンの胸元を、アイラシェールはきゅっと握りしめる。

「うん……」

 アイラシェールは答えた。答えることしか、彼女にはできることがなかった――。


 貴族や外国大使などの要人が住まう屋敷町から隔壁一枚。門を一つくぐり抜けただけで、街並みはがらりと変わる。それは王都であると同時に、一大商業都市であるアルベルティーヌのもう一つの顔だ。

 王城での歓迎会から数日。下町に足を運んだグラウスは、そのむせ返るような活気に息を呑んだ。

 『南方の華』アルバ。温暖肥沃な農業地であるセンティフォリア領、ノアゼット領を持つと同時に、中央陸路の要所に位置する一大商業・交易都市アルベルティーヌをも擁する。大陸有数に美しく、そして富んだ国。

 その豊かさは王城においてもまざまざと見せつけられたが、それは市街においても痛感させられる。

 整備された街並みに立ち並ぶ家々はどれも、市民たちが丹精したと思われる薔薇や緑に飾られ、行き交う人々の服装も他国民には信じられないほど上等で、華やかだ。露店では様々な飾り物や細工物が売られ、貴族でも特権階級でもない市民たちでさえ、首飾りや指輪、腕輪といった贅沢品に手が届く。

 街路には流しの芸人の歌声が、客引きをする商人の威勢のいい声が、説法する司祭の神妙な声が、そして笑いさざめく人の声が入り交じって流れ、喧騒は耐えることない。

 まさしく『華』と讃えられるにふさわしい、美しく活気にあふれる豊かな都市。

 だが、と小さく呟いて、グラウスは通りに面した茶店に入る。アルベルティーヌで最も有名で、知識階級がよく出入りする茶店だと大使館の職員に聞き、やってきたのだ。

 勿論その目的は、物見遊山ではない。

「兄さん、何にする?」

「コーヒー。熱い奴を頼む」

 カウンターに腰を下ろしたグラウスに、店主が声をかけた。ぼそりと答えた彼に、店主は意地悪げに笑った。

 かたり、と小さな音をたてて置かれた小さなカップ。その指の小さな陶製の青い指輪を認めて、グラウスは口の端を小さく歪めた。

「ここらで見ない顔だな。外国人か?」

「ああ。ちょっと前に、アルバに来た」

「どうだ? この国は」

「どうって、何が?」

 灰色の目にからかうような光を乗せて、敢えてグラウスは問う。

「外国人の目に、何がどう映るのが気になる?」

 さらりと、グラウスは厳しい言葉を口にした。その言葉に、茶店の中の空気がざわり、と揺れた。

「美しくて、豊かだ。だが、本当に、すべてが美しく豊かなのかな。『南方の華』の恩恵は、すべての者の上に降りそそいでいるかな」

 小さく小さく、グラウスは嗤った。

「そこら辺は、君たちの方がよく判っているんじゃないのか? イントリーグ党の諸君」

 はっきりと言ったグラウスに、店主や居合わせた人々の目の色が変わった。

「君たちのその青い薔薇の指輪は『自由論』から取ったものだろう? 開祖マリアンデールの有名な言葉だ。『真の自由や平等は、この世界において、青き薔薇の如き存在なのかもしれない。この地上のどこにもありはしないのかもしれないが、それでも誰もが追い求めずにはいられない、望まずにはいられない、美しい青き花』」

 マリアンデール・イントリーグ。大陸暦1000年代に活躍した思想家だ。彼女の思想に影響を受けた者はこの二百年で数知れず、その者たちは彼女の名を取り『イントリーグ党』と呼ばれた。人間の平等と自由を謳ったその思想はこの二百年の間、しばしば王室とぶつかり、弾圧を受けてきた。

「……お前、何者だ」

 押し殺した声に、グラウスは答えた。実に、実に愉しそうに。

「青い薔薇を見てみたいと、思っている者さ」

 赤い薔薇と白い薔薇。グラウスの目の裏をよぎるのは、王宮の中で可憐に咲く二輪の花。

 悪いね、と小さく心の中で呟く。それでも彼は自らの行動を止めるつもりも、自らの思いを諦めるつもりも毛頭なかった。

 そのために、その花が無残に散らされることになったとしても。

 いや、むしろ、それこそが自分の願いなのか――不意に心に浮かんだ暗い思いに、グラウスは苦笑いを浮かべた。

 いずれにしても、風は吹く。それがどんな結末を迎えるかは、それを望んだ彼自身にすらまだ判っていない。


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