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それでも朝日は昇る  作者: 柴崎桜衣
第八章 汝、己の自由の意を問え
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8章2節

 覚醒は、目眩に似ていた。くらりと世界が回るかのような錯覚を覚えて目覚めると、目の前には疲れの見える相貌があった。

 前にもこんなことがあった、とアイラシェールは思った。そしてそれがいつのことだったか思い出した瞬間、切なさが胸を満たした。

 あれはシャンビランの山荘で目覚めた時だ。カイルワーンに意識を奪われ、そして罪の意識に満たされたまま目覚めた時、目の前には彼の疲れた顔があった。

 同じだ。泣きだしたい気分で、アイラシェールは内心で呻いた。

 胸を満たすのは、あの時と同じ。

 己が存在する、そのことへの罪悪感。

「侯爵様……私、倒れたのですね」

 枕元に付き添っていたバルカロール侯爵は頷いた。

「あんな光景を目にすれば、当然のことだ。気にすることはない」

 起きるか? という問いかけに、頷くと侯爵は手を貸してくれた。寝床の上で上半身だけ起こして向き合うと、侯爵の消耗がより深く見て取れた。

 目は微かに充血しているし、髭も延びている。それは彼女に、自らの意識の欠落の時間の長さを突きつける。

「あれから、どれくらい経っているのです? まさか……」

「丸半日、意識が戻らなかったの。熱が出て、うなされて……その間侯爵様は、ずっと付き添ってくださっていた」

 その時寝室の扉を開けて入ってきたベリンダが、そう告げた。手にした盆の上には、水差しとグラス。

「ずいぶんと汗をかいたんだ。水を飲んだ方がいいよ」

 差し出されたグラスを素直に受け取り、ゆっくりとぬるい水を飲み下す。全身に水がしみ通っていく心地に安堵のため息をつくと、それに応えるように侯爵が笑った。

「心配した。このまま目を覚まさないんじゃないかって、真剣に思ったよ」

「申し訳ありませんでした。……侯爵様、拙速なのですが、お聞きしてよろしいですか?」

「なんだ?」

「あれから、()()()()()()()

 端的に問いかけたアイラシェールに、バルカロール侯爵は一瞬沈黙した。

「……詳細は、私にも知る手だてはない。この部屋は今のところ、外界から隔絶されているようなものだからな。それでも、私が君を連れてこの部屋に逃げ込むまでの経緯なら、説明できる」

 侯爵はひどく意味深なことを告げた。言葉の意味が判らず、目を瞬かせるアイラシェールに、侯爵とベリンダが事情を説明し始める。

「フィリスが陛下を刺し、君が恐慌を起こして倒れた。その場には私とフィリス、そして意識のない君と陛下のご遺体が残された。私もフィリスも、卒倒するまではしなかったものの、茫然自失の状態に陥った。私も、自分がどれほど自我を失っていたのかは判らないが、それでもフィリスよりは立ち直るのは早かった。……あの時フィリスは、確かに今まで一度も見たことのないような顔をしていたよ。軽く叩いただけでがらがらと壊れてしまいそうな、できの悪い彫刻みたいな……とんでもない失敗をした時の子どものような、うまく言えないがそんな感じだった。――おそらく、あれはフィリスにとっても衝動的なものだったのだろう。己が取り返しのつかないことをしてしまったことに、恐れおののいている――そんな感じだった」

「はい……」

「あの時どうするのが最上の選択だったのか、実のところ判らない。けれどもあの時咄嗟に私がしたことは、君を抱えてここまで逃げてくることだった。フィリスはまだ忘我の状態にあったから、何とかそれはできた。近衛騎士団の面々が異常を察して王の居室に踏み込んできたのがその直後であったようだから、時間的には間一髪――だからこそ逆に、ここまで逃げてくるのが限界だったとも言える」

 侯爵が示唆するところが、ここでアイラシェールには何となく判った。

 王は死んだ――しかも、フィリスが殺した。この事態を前に、フィリスを始めとした近衛騎士団はどう動く。

 全てを包み隠さず明かして全権を返上し、罪に服する――そんなことを、クーデターまで起こして実権を掌握した彼らがするわけがない。だとしたら。

 当然彼らは、事実を隠蔽しようとするだろう。王が錯乱し、後宮の奥に閉じこもっていることにし続ける。そのためには、邪魔なのは誰だ?

「この部屋から出ていない私たちには知るよしもないけれども、遠くから悲鳴や物が壊れる音がしてた。多分近衛はこれを機に、粛清に出たんだと思う。それが追放であったのか投獄であったのか、それとも抹殺であったのかは確認できないけれども」

 眉根をひそめてのベリンダの言葉に、アイラシェールは頷くより他なかった。

 枢密会議の解散、フレンシャム侯の投獄に伴って、追及を逃れた一部のフレンシャム派と、それまで第三勢力に与していた貴族のほとんどが城から出ている。だが近衛騎士団の独裁を止めようと、城に残っていた者たちもかなりいたはずだ。そんな彼らを、おそらく騎士団は駆逐しただろう。

 王さえ手にかけた彼らは、もう恐れるものは――否、失うものは何もない。

 ここまで考えてアイラシェールは、はたと気づいた。

 自分が意識を失っていた半日――その空白としてはあまりには長すぎる時間、どうしてこの部屋が安全な場所であり続け得たのだ?

「……ベリンダ、侯爵様、フィリスたちはどうして今まで、ここに踏み込んでこなかったのです。ここには陛下の死を知る私と、貴方様がいるのに」

 アイラシェールの問いかけに、ベリンダと侯爵は沈黙した。二人は言いづらそうにお互いの顔を見合わせると、やがて観念したようにベリンダが口を開く。

「マリーが、扉の前で踏み込もうとしている騎士団員と睨み合っている」

「何ですって?」

「マリーが体を張って、言いくるめた。ここで手荒な真似をして、アイラの勘気を買いたいのかと。さすがはマリー、近衛の連中の痛いところをよく判っている」

 ベリンダは、その時の様子を胸の中で反芻する。

 扉を荒くノックをする音に、ベリンダとマリーは招かれざる客の到来を理解した。

『ベリンダ、私が出る』

 マリーはこの時、とても険しい表情をしていた。その手が緊張に震えているのが、ベリンダには不思議だった。

『でもマリー、あなたは――』

『近衛騎士団とつながりのある私を信じられないのは、よく判る。でも、それでも信じて。侯妃様が意識を取り戻されて、自ら結論を出されるまでは、私が決して彼らをこの部屋には踏み込ませない』

 かつかつと踵を鳴らし、マリーは扉に歩み寄る。

『私が出たら、すぐ扉を閉めて鍵をかけて。侯妃様がお目覚めになって、彼らと直接対話をしようという気になるまで、外からどんな音が聞こえても、何を言われても、決して開けないで。いいわね』

 気押されたベリンダは、ただ頷くことしかできなかった。

 最小限の扉の隙間から、廊下に滑り出たマリーは、素早く後ろ手で扉を閉める。鍵が下ろされる音を確認すると、顔を上げて目の前の男たちを見た。

 その中心にいる、予想通りの人物を真っ直ぐに見て、マリーは言い放った。

『こんな時間に、何をしにきたの? リワード』

『侯妃殿下と、バルカロール侯爵にお目通り願いたい』

 この顛末を予想していたのか、恋人に臆することなく、リワードもまた真っ直ぐにマリーを見つめて言い放つ。

 その二人の火花散る様子に、むしろ部下である他の団員たちの方が動揺していた。

『貴方相手に、取り繕うのも無意味だと思うから、率直に言うわ。侯妃殿下は昏倒されておいでで、意識がいまだ戻られない。侯妃様ご自身の意志が確かめられないうちに、私は侯爵と侯妃様を、貴方たちの手に委ねるわけにはいかない』

『マリー、それはどういう意味だ』

『侯妃様には侯妃様の選択がある。貴方たちが――いいえ、バイド団長がどれほど侯妃様を慕おうとも、囲い込んで祭り上げたくとも、侯妃様にはそれを拒む権利がある』

 マリーは、険しい表情のリワードに笑いかけた。それは確かに、挑みかかるような、覚悟を決めた潔い笑みだった。

『貴方がバイド団長に忠誠を誓って、彼のために全力を尽くすのが本懐であるように、私は侯妃様の女官として、侯妃様のために全力を尽くすのが務め。だから私は、ここを退くわけには――侯妃様を貴方たちに渡すわけはいかない。貴方たちに渡せば、侯妃様に貴方たちを選ぶ以外の道はなくなる。私は侯妃様の女官として、あの方の選択肢を潰すことようなことを、断じて許すわけにはいかない』

 てこでも動かないとばかりに、手を広げて立ちふさがるマリーに、リワードは沈鬱な面持ちで問いかけた。

『俺が頼んでも、退く気はないんだな』

『リワード、不正というものがどこから始まるか、判る?』

 悲愴な笑みを崩さず、マリーは言い放った。

『不正は『身内だからいいか』という甘えから始まるのよ。信頼は、全てを許すことと同じじゃない。勿論誰が来たところで退くつもりはないけれども、私は貴方だからこそここを譲ることはできない』

 ぎり、という微かな音をマリーは聞いた。奥歯を噛むその音は、誰もが息を殺す静寂の中、確かに響いた。その中に込められた苛立ち、逡巡、焦り、迷い……それらを全部見越して、マリーは静かに告げた。

『斬りなさい』

『なっ……』

 その言葉に狼狽したのは、言われた当人ではなくて、周囲の団員たちだった。一同の視線が一気に自分に向くのを感じても、リワードは動じない。ただ真正面の恋人を睨み、その言葉を聞く。

『私は貴方のことが好きよ。それは嘘偽りのないこと。けれども、私には私の本懐があり、責務がある。貴方がバイド団長の騎士として、決して譲れぬ望みが、責務があるように。リワード、貴方には判っているでしょう。謀反人の、罪人の子の汚名を着た私たちには、依って立つところは誇りしかないことを――だからこそ、お互いそれが全てに優先されるのだということを』

 誰も何も言えない。痛いほどの沈黙の中、マリーはきっぱりと言った。

『私たちに、道は他にない――女の私が、男の貴方を斬ることは無理だもの。だから、貴方が私を斬りなさい。斬って私を退かし、この扉を破って、その務めを果たしなさい。貴方はそれができる人よ。――もっとも』

 ふと、マリーは挑発するように口許を歪めて、一言付け加えた。

『私を斬った貴方たちを、侯妃様がどう思われるかは判らないけれども?』

 その瞬間、金属が滑る音と悲鳴じみた叫びが響いた。

『副長!』

『そんな、やめてください!』

 リワードは部下たちの制止に構わず、腰の剣を抜いていた。その顔には苦吟も動揺もなく――表情がそもそもなかった。

 苦悩も恋情も何もかも置き捨てれば、もはや浮かべるべき表情なんてなくなる。

 切っ先はマリーの胸元で微かに揺れ、そして。

『ど阿呆! 何を考えてる、リワード!』

 怒号が響いた。

 駆け寄り、その手から剣をもぎ取って叫んだのは、彼と対等の立場にいる唯一の人物。

 近衛騎士団もう一人の副長は、怒髪天をつくという勢いで、リワードに食ってかかった。

『お前がマリーを斬ったらどうなる! 団員と団長と、侯妃が何を考える! まとめなければならない関係に自ら楔を打ってどうするんだ、この阿呆!』

『エスター、しかし……』

 この時初めて、リワードの顔に動揺の色が動いた。逃げ場のない、追いつめられた顔をした盟友に、エスターは憮然として言い放つ。

『こうなれば、手荒なことはできない。マリーに狼藉を働けば、必ず侯妃の態度が硬化する。それは得策じゃない』

 リワードの鞘を剣帯から外し、剣を収めてから押しつけると、エスターは顎をしゃくった。ついてこい、という命令に、一同は戸惑いながらもどこかほっとした表情を見せた。

 誰もがこの修羅場から、離れたがっていた。

『ここはお前一人に任せる。侯妃と侯爵はこれ以上どうにもできないし、押さえなければならないところはまだまだある――手勢が足りない。こいつらは俺がもらっていく。お前はもう少しゆっくり、マリーを説得してろ』

『それができるくらいなら――』

『逃がすなよ。今はそれだけでいい』

 言い残し、部下たちを連れてエスターは立ち去っていく。その背を見送り、ただ一人だけ残されたリワードは、ようやくマリーを見た。

 先刻とは打ってかわった、疲れきった弱々しい表情が、そこには浮かんでいた。

『説得、してみる?』

『……無駄なことは、俺が一番よく知ってるよ』

『じゃあここで二人で、侯妃が結論を出されるのを待ちましょう。それが出ないことには、私も貴方もどうしようもない』

 これまた先程とは打ってかわった弱々しい笑みを浮かべるマリーに、リワードは素直に首肯した。

 待つこと以外に、二人にはできることがなかった。

「フィリスたちの弱点は、君だ。だから私は君を楯にしてここに籠城する格好になったわけだ」

「そして逃げ出そうにも、唯一の出口でリワードがマリーとにらめっこ中。完全に膠着してしまったというのが、現状」

 侯爵とベリンダの説明に、アイラシェールは言葉が出てこなかった。様々な思いが浮かんでは消え、そしてまた浮かび……やがて口から漏れだしたのは、ただ一つの率直な疑問。

「どうして……一人で逃げてくださらなかったのですか」

 もし侯爵が自分を置き捨てれば、後宮のこの部屋でなく城外まで脱出できたはずだ。そして自分が今どれほどの窮地に――生命の危機にさらされているのか、彼にだって判っていたはずだ。それなのに彼はどうして、自分になどかかずらったというのか。

「君の言いたいことは判る。だが、君を見捨てるには――君をただの道具と置き捨てていくには、私は君とあまりにも深く関わりすぎた」

 バルカロール侯爵は、苦笑じみた頼りなげな笑みを浮かべた。それは毅然としている普段の彼からは想像もつかないもので、アイラシェールはとても不思議に感じた。

 そして、彼の言葉も。

「アレックス――いや、アイラシェール、私は確かに君を金で買った。いや君は自分の意志で来たと言うかもしれないし、そこには様々な事情や思惑はあるのだろうが、現実的にはそういうことだ。その対価の分だけ君は私やバルカロール侯爵家に尽くす義務があるだろうが、だからといってそれは私が君に何をしてもいいということにはならないだろう」

「侯爵様、それは……」

「私にだって、君にひどい役目を押しつけたのだという自覚はあるのだよ。若く美しく、才気にあふれた君が、老いたあの王の寵妃になるということが、どんなにむごいことであったのか、私にだって判っている。判っていて、それでも私は君を王に差し出した。そうして君の未来を摘んだ。――判っているだろう? 私は己の娘ですら負わせたくなくて避けた役目を、君に押しつけた」

「そんなことを仰られても、ロスマリン様はまだお小さいのですもの。陛下のお側に上がることなどできますまい」

 バルカロール侯爵夫妻には、娘が一人いる。今年で十になるその娘、ロスマリンとアイラシェールは、女官としてアルベルティーヌ城に上がる前、モリノーで短い時を過ごした。

 ロスマリンはアイラシェールの容貌を意に介することなく、アイラシェール姉様とさえ呼んで慕った。アルベルティーヌに出立する日、泣いてドレスの裾にしがみついた様を、今でもアイラシェールはまざまざと思い出せる。

 掛け値なしに愛しいと思える、その小さな姿。それを思い起こして言うアイラシェールに、侯爵はかぶりを振った。

「そんな仮定は無意味だろう。どんな理由をつけても、私が君にしたことは変わらない」

 自嘲が浮かぶ相貌に、アイラシェールは困惑した。

 領主として、自領の民に責任を負う者として、その責任を全うすることこそが全てに優先すると語ったのは、彼ではなかったか。

 そのために自分を後宮に送り込むのだと、そう語ったのは。

 ふと見れば、寝室にベリンダの姿はない。侯爵と二人きりになったのを確かめて、その疑問をぶつけるアイラシェールに、侯爵は小さく笑った。

「言ったろう? 私は君と深く関わりすぎたと」

 道に迷ってしまった己を彼は嗤う。けれどもそこに悔いはない。

「私もまた、君に惹かれてしまったのだろう。だから悪いことをしたと思うし、それを悔やむ――王になどくれてやるんじゃなかったと」

 何も言えないアイラシェールに、侯爵はとどめをさす言葉を口にした。

「一緒に、モリノーに帰らないか?」

「侯爵様……」

「君はもう十分すぎるほど、侯爵家のために働いてくれた。それにもう事態は、止めることも変えることもできないところまで来た。だから、もういい。もう十分だ。あとは君のしたいようにすればいい。だが、もしよければ、私と一緒にモリノーに帰らないか? 私の城で……そうだな、ロスマリンの家庭教師でもしてくれるといい。あの子も喜ぶだろうし、君以上の教師はこのアルバ全土を探してもいないだろう」

 この状況で、二人でどうやって脱出するというのだ、そんな呑気な――思わないでもなかった。けれども、今問題とされるべきなのは、そういうことではなくて。

「よく今まで頑張ってくれた。ありがとう」

 伸ばされた手が優しく髪を撫で、それはアイラシェールの中の堰を切る。

 ぽろぽろ、と音さえたてるようにこぼれ落ちる大粒の涙に、バルカロール侯爵は一瞬困惑したような顔をして、やがて優しく微笑んだ。

「私は……私は何もできなかった……何も……何も……」

 しゃくりあげながら、それでも言い募るアイラシェールに首を振ると、侯爵は無言で抱き寄せた。

 包み込まれた腕の中は思いがけず広く、ことんと落ちるような安心感があって、アイラシェールはたまらずその胸元を強く握りしめる。

 男性に抱き寄せられたことは、初めてではない。だがこんなにも落ち着いたことは、一度だってなかった。誰よりも思いを寄せるカイルワーンの時ですら、こんな感情は抱かなかった。

 なだめるように、慰めるように背中を、髪をなぜる手。涙でぼやける視界を上げれば、ぼんやりと像が重なった。

 それは遠い遠い、微かな記憶の中にいる人。

 それは本当にたった一度だけ。何の前触れもなく塔を訪れて、無言で自分を抱き上げてくれた腕。

 金の髪。緑の目。整っている方といえる顔には、苦しみぬいた挙句に刻み込まれた、深い皺が一筋あった。

 男性は何も言わず、泣きだしそうな、けれども間違いなく最大限自分に慈しみを伝えようとする優しい笑みを浮かべて、自分を見つめていた。

 新たな涙が頬を伝う。この目の前の男性は、面影を重ねるには失礼な年令ではある。でもそう、あのたった一度のあの時、彼は今の侯爵くらいの年令だったのだろう。

 会いたかった。もう一度でいいから会って、話がしたかった。

 己が生まれてきたことを詫びたかった。自分のためにかけた苦労を、苦悩を詫びたかった。その上で、国を滅ぼすほどの存在である自分を、それでも生かし守り続けてくれたことを、孤独にならぬよう心を砕いてくれたことを、心から感謝したかった。

 そして、そして。

 一度でいいから、声が聞きたかった。その声で、一言でいい、言ってほしかった。

 お前もまた、姉二人と同じように、愛しているのだと――。

 判っている。言葉にしてもらわなくても、痛いほど判っている。それでもなお、一度でいいからその声でその言葉を聞きたかった。

「……ちち、うえ……」

 微かな、かすれた呟きを、バルカロール侯爵は聞き逃さなかった。口許にはほんの少しだけ苦笑が浮かび……だが その声は、かえって彼の迷いを吹き消した。

 頬に寄せられた唇は、目蓋から涙の伝った跡を追い、柔らかく唇をふさぐ。

 頬を包み込んだ侯爵の指を、新たな涙の粒が濡らした。


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