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それでも朝日は昇る  作者: 柴崎桜衣
第七章 沈みゆく船
75/153

7章4節

 アイラシェールは未来を知る者であったが、それは彼女がこの時間における全知全能を意味しはしない。

 時間は彼女の手の届かない場所でも流れており、事態は彼女の関知し得ない場所でも動いていた。そしてそのことに彼女が気づいた頃には、すでに事態は手遅れとなっていた。

「この天候では、本年度の麦の収穫も絶望的です。手遅れになる前に、一刻も早い対応が必要かと存じます」

 枢密会議で発言したフィリスに、ラディアンス伯は口許に意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「それもアレックス侯妃の預言か? 元帥」

「ラディアンス伯、何が仰りたいのですか?」

「カリネラ山の噴火が終われば、雲も晴れるだろうし降灰もやむだろう。まだ凶作と断定するには早すぎる時期だ。それなのにアレックス侯妃は凶作と決めてかかり、飢饉対策を急げと貴卿や陛下をせき立てる。それはなぜだ、と聞きたいわけだ」

 つまり、とラディアンス伯は、ことさら芝居ががった口調で告げる。

「アレックス侯妃は、今年が昨年同様凶作であることが、もはや判っているのだろう。以前のディリゲントの件といい、今回のカリネラ山の噴火といい、アレックス侯妃は何もかもお見通しだったようだから」

 ラディアンス伯の言葉は、広間にざわめきをもたらした。玉座につき、動揺の走る円卓を眺め下ろしていた王は、やがてさもおかしそうに笑った。

 それは緊迫した場を歪めて響く。

「面白い意見だな、エルムショーン。それならばお前は、アレックスは預言者であると言いたいわけだ」

「陛下、ですから――」

「預言者が為政者となれば、これほど楽なことはあるまいな。対応を誤ることは、万に一つもないだろうからな」

 そう言うウェンロック王の口調がどこか皮肉げに聞こえて、フィリスやバルカロール侯爵は不思議に思う。

 ウェンロック王は、ラディアンス伯の言葉を聞いて、腹の底で本当は何を思ったのだろう?

「エルフルト、その件はお前に任せる。アレックスと具体策を検討して、決めるといい。後で書面を余のところによこせ」

 突然お鉢を預けられた格好になったバルカロール侯爵は、一瞬面食らい、だがすぐ畏まって了承の返答をする。だがこの事態に、座が黙っているはずがない。

「しかし陛下、そのような大事を一個人に任せるとは、枢密会議を侮辱する行いであらせられます!」

「古来より、政治に女が関与することはろくな結果を生んでおりませぬ。たかが侯妃が国政に口を出すこと自体不届き千万だというのに、かかる大事をお預けになるなど、言語道断でございます」

「やかましい。一体この場の誰が王なのか、お前らは本当に判っているのか?」

 この一言に、広間はしんと静まり返った。そしてこの言葉が、鋭く現状をえぐりだして表したものであることに、その場に居合わせた誰もが気づかされた。

 ただそれに対してどう思い、それ故どう行動するかは、人によりまちまちであるのだが。

「そろそろ、二侯とも動きだすかな」

 近衛騎士団で枢密会議に参加できるのは、国軍元帥であるフィリスと男爵位をすでに持つバーナビーだけだ。使い慣れた『黒真珠の間』に団員を集めて会議の経過を明かすフィリスに、彼の片腕二人は緊張した面持ちを見せた。

 ディリゲントから三ヶ月。もはやお互いの出方を伺い、機を見る余裕は二侯ともにないはずだ。今日の王の一言は、そんな彼らをひどく刺激するものだ。

 彼らはあの一言で考えただろう。たとえどれほど自分たちが権勢を誇ろうとも、大部分の貴族の臣従の確約を得ようとも、それでも今の王はウェンロック王だ。未来には王になれるとしても、今の王は彼らではない。

「現状が続けば、二侯に従う貴族は動揺するでしょう。バルカロール侯、ジェルカノディール公、ドランブル侯が同盟を結んだというだけでそれは動揺に値するのに、そこに王が相乗りしているというのならば、寄るべき大樹としては二侯よりむしろ磐石でしょう」

 リワードの分析に、フィリスは頷く。

 ウェンロック王がもし後継指名をすれば、血筋が二侯より遠いその指名者はただちに王位に就くことはできないだろうが、選定会議で最も有力な候補者となる。そしてそれが大所領と軍事力を持つ有力貴族ならば、血縁のみを拠り所とする二侯にとっては不利だ。

 ラディアンス伯、フレンシャム侯ともに抱える弱点は、その所領の規模が決して大きくないことだ。それはすなわち単独で行動できるだけの軍事力がないことを意味する。だからこそ二侯は引き立てを餌に、派閥を形成せざるを得なかったのだ。

 誰もが口にはしない。しかし、誰もが判っている。この宮廷闘争の最後に行き着くところが、内戦でしかないことを。実際に開戦するかどうかはともかく、最終的に勝敗を決するものは、争う者たちの勢力――軍事力なのだということを。

「二侯は決して離反者を出すわけにはいかない。だとすれば、どういう行動に出る?」

「一番は、我々を切り崩しにかかること。我々が烏合の衆であることもまた現実ですから。ですが、大貴族の面子故に結束した侯爵たちを、格下である二侯で懐柔できるとは思えません」

「だから、アレックス侯妃を貶めにかかる。切り崩すとすればそこしかない。侯妃と王の間に不和が生じれば、二侯としては万々歳だ。だが、陛下が侯爵たちの勢力に依存する以上、陛下は侯妃をないがしろにすることはない。そのことを二侯も判っている」

「だとすれば」

「考えられることは、一つだ」

 フィリスは剣の柄に手を触れた。その行為の示唆するところに、団員たちは息を呑んだ。

「隊を三分する。エスター、リワード、二隊と三隊はお前たちがそれぞれ指揮を取れ。近衛の名にかけて、何としてでも陰謀を阻止しろ」

「はっ」

 部下たちに指示を下し、それぞれの持ち場に散っていく様を見送った後、フィリスは人目を避け、一人で王宮を渡っていく。普段ならば決して足を向けることのない、後宮の北方区画。回廊の物陰に身を潜ませて、その時を待つ。

 深夜過ぎ。城内で催されていた様々な夜会のどれもお開きとなり、貴族たちが退出する頃合い。人目を忍ぶように足音を殺して歩く青年に、フィリスは声をかけた。

「ソムブレイル子爵」

 物陰から聞こえてきた突然の声に、子爵ははっと立ち止まる。暗がりですら浮き上がるような影に、顔をしかめた。

「……フィリス卿。どうしてこんな時間に、こんな場所に」

「それは私の台詞でもあるのですが。こんな時刻に公妃のところで、何をしていらしたんです?」

 フィリスの言葉は、問いかけではなかった。判りきった問いは、揶揄であり脅しでしかない。

 エヴァリン公妃一の騎士と呼ばれるソムブレイル子爵が、彼女の愛人であることは宮廷内では公然の秘密だ。

「人目を忍ぶくらいなら、襟が高い服を着るくらいなさったらどうです? 首筋に、証拠が残っていますよ」

「貴卿は私をからかうために、こんなところで待ち構えていたのか? それとも陛下に証拠でも掴んでこいと命じられたのか? まったく、それが国軍元帥のすることか」

「それこそまさかですよ。私は貴方にお話ししたい――いや、お聞きしたいことがあったので、失礼を承知でこんなところでお待ちしておりました。私と貴方では、どんな時間にどんな場所で会っても他人の目に触れてしまうのでね」

 到って真摯に――むしろ沈んだ眼差しで自分を見るフィリスに、ソムブレイル子爵は戸惑った。

「アレックス侯妃の一の騎士である貴卿が、エヴァリン公妃にお仕えする私に、何の話があるというのだ」

「エヴァリン公妃を、一人の女性として愛しておられるのかと、そうお聞きしたい」

 問いかけは、敵の立場であるフィリスが発するには、あまりにも素っ頓狂なものだった。

「……フィリス卿?」

 目を丸くしたソムブレイル子爵に、フィリスは表情を変えずに続ける。

「愛する人が不能の王のものであることに、この偽りの籠の中に閉じ込められていることに、貴方は何も感じてはおられないのか」

「貴卿は……まさか」

「私はアレックス侯妃を愛している」

 本人にさえいまだしていない愛の告白を、ためらうことなく敵に真っ先にして、フィリスは苦笑する。

「私は貴方と同じ立場の人間だ。愛しい人を王の虚栄のために縛られて、逢瀬を重ねることすら人目を避けなければならない。こんなことをいつまで続けなければならないのか、いつになったら終わるのか、貴方はそう思うことはないのかと」

「……貴卿は、何が言いたい」

 フィリスが何事かを唆そうとしていることに、ソムブレイル子爵は気づいた。だがその誘いは、彼にはとても甘美だった。

 背筋を、寒気が走る。

「別に。ただ、私はこのどこにも行きようのない思いをどうしたらいいのか、同じ立場に立たされている貴方がどうされるのか、聞いてみたかっただけなのですよ」

 ソムブレイル子爵は、フィリスの言葉に危険を覚えた。真実か、罠か、その見分けがつかない。

 無論、罠と切り捨ててしまうのは簡単だった。けれどもフィリスが語る言葉は、子爵の本心を刺激してやまない。

「我々は、あと何年、何十年待てばいいというのですか。愛しいあの方を自由にするのに、待つ以外の手立てはないというのですか」

 答えは判っている。フィリスが暗に告げることは、まさにそれ。

 だがそれを、ウェンロック王を拠り所とする第三勢力の中心人物であるフィリスが示唆することに、ソムブレイル子爵は戸惑わずにはいられない。

 立ち尽くす子爵に、フィリスは歩み寄った。肩が触れ合いそうなほどの近さで、声をひそめて呟く。

「明後日、ルナ・シェーナ王妃主催の夜会があります。近衛騎士の大部分が給仕などに駆り出され、『桜貝の間』に集められて離れられなくなる」

「それは……」

「それにしても、子爵はお強い。あの騎槍大会の決勝戦で、私が貴方に勝利できたのは、紙一重――時の運以外の何物でもない。エスカペードの下賜を貴方が受けられていても、何の不思議もなかった。もう一度戦ったところで、私ですら勝てるかどうか」

 突然の話題の転換も、一本の線でつながっていた。もうここまで来れば、フィリスが使嗾するところは明白だ。

「警備に当たる兵士の交代時間は、十一時。引継は詰め所で行われるために、一瞬の隙があります」

 それだけ言い残し、悠然と立ち去っていくフィリスを、ただ呆然とソムブレイル子爵は見送る。彼の残した言葉の数々が脳裏を巡り、動くことができない。

 最も王に忠実な臣下であるとされてきた彼が、今言ったことは何だ。

 耳元でささやかれた言葉が、子爵の脳裏を回り――そして、二日後。

 午後十一時。ウェンロック王の寝所の扉が、勢いよく開けられた。

「貴様らっ」

 狼狽するウェンロック王に、一団の男が殺到する。

「お命頂戴!」

 覆面で顔を隠した男たちは、手にした剣を振り上げ――。

 きん、という剣の打ち合う鋭い金属音が響きわたり、侵入者は狼狽する。

 待ち構えていたかのように剣を抜き、侵入者と王の間に割って入ったのは。

「陛下、奥へ!」

 鋭い声が王をせき立て、そして灰色の目は侵入者を見てなぜか笑う。

「フィリス・バイド……貴様」

 聖剣エスカペードで己の剣と切り結ぶフィリスに、侵入者の声は憤怒に震えた。

「この、卑怯者!」

 侵入者の叫びに、フィリスは微塵も動揺しなかった。端麗な顔に薄ら笑いすら浮かべ、握った柄に力を込める。剣が剣をはじく鈍い音がし、それだけで力負けした侵入者の刃は流され、体勢を崩して一歩あとずさった。

 その瞬間、侵入者は目の前の人物との力量差を感じた。そして、フィリスがそれを判っていたからこそ、己をこんな罠にかけたのだということも。

 当然侵入者――ソムブレイル子爵はフィリスのあの時の言葉を、額面どおりに受け取ったわけではない。何かの罠である可能性を当然考えた。

 だが、それでも今踏み込んだのは、ウェンロック王の在室が確かめられたからだ。

 自分たちをはめるための罠ならば、フィリスは自分たちの命綱である王を安全な場所に移すだろう。しかし、彼はそれをしなかった。

 よもや王を、自分たちを罠にかけるための餌にはすまい。そう思ったのだ。

 だが、現実は――。

 ひゅん、と風を切る音がした、とソムブレイル子爵は思った。音をたてて無造作に振り下ろされた刃は、呆気なく彼の胸を切り裂く。

 崩れ落ちた彼の首筋に、とどめと下ろされた容赦ない剣の切っ先。床石を剣が食む嫌な音が響く。

 他の侵入者たちも、間髪入れずに寝所になだれ込んできた近衛騎士たちに討ち取られ、部屋には躯の山が築かれた。

「……フィリス」

 事態が落ち着いたと察して、逃げ込んだ奥の部屋から現れたウェンロック王は、険しい顔つきでフィリスを睨む。

「お騒がせいたしました、陛下。賊は討ち取りましたので、どうぞ今日のところは別室でお休みください」

 エスカペードの血糊を払い、鞘に収めながら、到って変わらぬ口調でフィリスはウェンロック王に告げる。

「いやに手回しがいいな。まるで、待ち構えていたかのようだ」

「無論、待ち構えておりましたよ。そろそろ誰かが、陛下や侯妃を害そうという邪念を抱いても、不思議ではないと思っておりましたから。だからこそ私自らが陛下の護衛についていたのでありますし、アレックス侯妃にも同様の警護をつけてあります」

「それだけか?」

「陛下は、何が仰りたいのですか?」

 敢えてフィリスは、ウェンロック王にそう問うた。灰色の目に浮かぶのは、険しい眼差し――その言葉は、その眼差しは、明らかに王を脅していた。

 王はぐっと詰まり、そこで初めて気づいた。

 側近と、忠臣と信じてきた相手にすら、脅される己の立場というものに。

 だがそれは、何のためだというのか。

「フィリス、答えろ」

 怒りに満ちた声が、ウェンロック王の抱いている猜疑を表している。そのことをフィリスは悟っていたが、何一つ悪びれる風もなく、胸を張って王に向かう。そんな彼に、王は激しい声で問いかけた。

「今ここで起こったことが何なのかは、敢えて問わない。だが、一つだけ偽らずに答えろ。お前の仕える相手は、誰だ。余か、それともアレックスか。お前が最も守らなければと思う者は、誰だ」

「私が守りたいのは――この国です」

 一瞬の惑いの後、答えを口にしたフィリスに、ウェンロック王は沈黙した。

 握りしめた拳が、わなわなと震えていた。

 同じ頃、『桜貝の間』で行われていたルナ・シェーナ王妃主催の夜会もまた、たけなわとなっていた。

 彼女の故国サフラノの使節を迎え、王妃は上機嫌だった。林檎酒で赤くなった頬を隠そうともせず、高座よりアイラシェールに声をかける。

「アレックス侯妃。差し支えなければ宮廷一の楽の音を、使節の一行に披露してはもらえないかしら」

「もったいないお言葉にございます、王妃殿下」

 アイラシェールが傍らのベリンダに目配せをすると、彼女は控えの間からリュートを二本携えてくる。一本は今や楽士と認められたベリンダのもの。そして今一本は、王から下された国宝級の逸品。アイラシェールの愛器だ。

 黒のドレスに、琥珀の首飾り。髪や目の色と同じ装いを凝らしたベリンダの姿に、広間からため息と期待を込めた歓声が上がった。アレックス侯妃とその侍女のリュート演奏は、その楽の音のみならず、絶えず人の注目を集める見物だった。

 白い髪、赤い目、雪のように透る白い肌の侯妃と、黒い髪、琥珀の目、異国の褐色の肌の侍女が並び、リュートを奏でる様は、一枚の絵画を見るようだと評され、賛辞が絶えることがない。

 ベリンダとアイラシェールは奥舞台に席を取り、音を合わせる。一弦が振るえ、緩やかな調子で流れだすアイラシェールの旋律に、広間がしんと静まり返った。ベリンダの旋律はアイラシェールを追いかけ、やがてぴたりと重なって和音を成す。

 十六小節、主題が一回りした時、下手に座るベリンダが大きく息を吸い込んだ。唇からあふれる歌声は、伸びやかに響いて広間を満たす。

 悲恋をつづった歌が、しめやかにリュートの音に重なる。三つの響きは広間を渡り、夜会に出席した者たちの多くが目を閉じ、耳に神経を傾け――だが。

 突然、その調べは無粋な音にかき消された。

 椅子をひっくり返し、投げ出された何かが床にぶつかる大きな音。

「アイラッ!」

 叫んでいたのはベリンダだった。血相を変え、手にしていたリュートを放り出し、自分に飛びかかってきたのは。

 床に押し倒された瞬間にやっと、アイラシェールは何が起こったのか察した。奥舞台の緞帳の陰、自分の背後から忍び寄ってきた人影が、何かを振りかざしたのを。

 それを見て取ったベリンダが咄嗟に自分に飛びかかったため、最初の一撃をかわすことができたことを。

「ベリンダ!」

 だが、床に転がった二人は動けず、襲撃者の第二撃が交わせない。白刃が灯火を受けてきらめき、軌跡を描いて振り下ろされようとしたその時。

 近衛騎士団員の証である緋色のマントを翻して、アイラシェールと襲撃者の間に割って入ったのは――。

「エスター!」

 団長であるフィリスに次ぐ剣の腕前の持ち主。そう讃えられる近衛騎士団副長、エスター・メイランロールは襲撃者に当て身を食らわせ、アイラシェールたちから引き離すと、素早く腰から剣を引き抜いた。

 振り上げた剣は襲撃者のそれを後方へ弾き飛ばし、間髪を入れずに構え直され利き手を襲う。全ての戦力を削がれた襲撃者を、他の団員が取り押さえ、これで数拍。

 アイラシェールにとっては、一瞬の出来事だった。

「侯妃、お怪我はありませんでしたか?」

 腰に剣を収め、金の髪を揺らしながら、エスターは跪いてアイラシェールに手を差し伸べる。動揺の収まらないアイラシェールは、漂白された顔のまま、ただ小さく頷いた。

「……ありがとう。助けていただいて」

「私も貴女の騎士の一人です。貴女をお守りするのは当然のこと。礼には及びません。いや、むしろ、貴女をお守りする役目を果たせた幸運を、神に感謝したいくらいです」

 くすり、とエスターは笑った。

「本当はこの役目こそ、団長がしたかったはずなんでしょうけど」

 この言葉に、アイラシェールはようやく事態が呑み込めてきた。エスターたちが駆けつけて自分を救ってくれたのは、決して偶然でも幸運でもないのだということに。

 そうして考えてみれば、近衛騎士団は今日の夜会に大多数が動員されるはずだったのに、団長・副長二人を始めとして、主だった者たちの姿が見えない。

「……それでは、貴女は私の護衛についていたのですか」

「不穏な気配がありましたから。念のためリワードがバルカロール侯爵方の護衛にあたっておりますが、まず狙われると思われるのは」

「陛下か、私ですね。――フィリスは、陛下?」

 エスターは頷くと、アイラシェールを促す。

「お部屋までお送りします。今宵はひとまず、もうお引き取りになられた方がよろしいかと存じます」

「エスター」

 不意の厳しい声音に、エスターはアイラシェールを見た。動揺から立ち直り、いつもの冷静さを取り戻した彼女は、何かを懸念する険しい表情で告げた。

「明日は貴方たちはこの件に関して、取り調べやら何やら、山のような公務をこなさなければならないだろうとは思います。ですが、フィリスやリワード――騎士団の主だった方々に、必ず伝えてください。必ず時間を作って私のところに来るように、と」

「……判りました」

 アイラシェールの言葉は、有無を言わさぬものがあった。そしてそれは、穏やかで物静かと評される彼女には珍しいもので。

 否が応にもエスターは、明日のサロンの嵐を予感させられた。

 そしてその結果。

 ぱしん、という鋭い音が響きわたり、騎士団員たちは身をすくませることとなる。

 アイラシェールは訪れたフィリスたちから、三つの隊が昨日あげた成果や、その後の成り行きなどの説明を受けた後に、険しい表情で問いかけた。

「どうして、ソムブレイル子爵を殺したのです。貴方の腕ならば、殺さずとも取り押さえることはできたはず。それなのに、貴方は問答無用で切り殺した」

「それを侯妃がお気にする理由は?」

「貴方には、子爵が生きていては困る理由があったのではないですか」

 アイラシェールの言葉は、誰もが息を殺し、固唾を呑むその場に重苦しく響く。

「フィリス卿、私にはどうしても貴方たちの行動が、できすぎている気がしてならないのです」

「それはどういう意味です?」

 何ら表情を変えず、聞き返すフィリスにアイラシェールはかちんときた。

「貴方たちには――貴方には、昨日のあの時間に、陛下や私の暗殺に誰かが動くことが判っていたのではありませんか」

「その通りです。確かに私は、子爵の陰謀の計画を、事前に入手していました。だからこそ、陰謀を未遂で防げたのではないですか」

 なおも悠然としているフィリスに、アイラシェールはさらに言い募る。

「なぜ、判っていたのです。それは貴方が……貴方が、子爵を教唆したからではないのですか。だから貴方は、子爵に殺した。口を封じるために」

 アイラシェールの言葉は、座にざわめきをもたらした。しかしそれにさえも動じず、フィリスは悠然と告げた。

「そうだと言ったら、どうなさいます」

 次の瞬間、アイラシェールはフィリスに歩み寄ると、無言で彼の頬を引っぱたいた。

「貴婦人のなされることではありませんよ、侯妃」

「それでは貴方のやったことが、騎士の行いだとでも言うのですか」

 怒りに震える声で言い返すアイラシェールに、フィリスは叩かれた頬を手の甲で軽く押さえながら、背後の団員たちに告げた。

「お前たちは下がれ。侯妃と二人きりで話がしたい」

「しかし」

「フィリス」

「私の命令が聞けないか?」

 アイラシェールとフィリスに挟まれ、しばし惑っていた団員たちは、結局フィリスの言葉に従った。広い部屋に残された互いの息づかいさえ聞こえてきそうな静寂に、アイラシェールはしばし瞑目すると、やがて口火を切った。

「貴方は私を魔女にするのですか」

 目尻に涙さえ浮かべて、アイラシェールは叫ぶ。

「貴方の行いは、必ず私の元に還ってきます。身分の低い女が王に取り入り、国政を乱し、私利私欲のために臣下を謀略にかけて殺した――貴方の行いは、私をそういう存在にするものです。どうして貴方はそこまでして――主君たる陛下の命を危険にさらしてまで、政敵を陥れなくてはならないのですか」

「実践の伴わない理想はただの言葉遊びだと、そう私に仰られたのは、貴女だ」

 先程までとは打って変わった切実な声が響いて、アイラシェールは自分より高いところにあるフィリスの顔を見上げた。そこには、確かに苦吟が見られた。

「貴女にだってもう判っておられるはずだ。この国は沈みかけている」

「フィリス……」

「財政は破綻し、借金の額は膨らむ一方。それなのに宮廷や貴族の奢侈と不正が堂々とまかり通る。そのかたわらで国民は飢え、病に倒れ、犯罪が横行しているのに、何の施策も救済もなく、ただ行われているのは権力争い――醜い足の引っ張りあいだけだ。そのいい例が、先日のディリゲントでしょう。他国の侵略を前にしてさえ争い、愚かにも兵力を割り、民と国を守る責務すら放棄した。戦地となった土地で踏みにじられる民のことなど、微塵も考えられていない」

 フィリスの告げることは、確かに真実だ。この国がすでに退っぴきならないところまで追い込まれていることは、アイラシェールとて判っている。

 だが、だからといって、フィリスの行いを正当化はできない。

「このままでは、何もできない。私はただ漫然と国が沈んでいくのを見ていることはできない」

「だから政敵を謀略にかけて失墜させ、挙句に殺すのですか」

「奇麗事を言って、ためらっているだけでは、言葉遊びと何ら変わらない」

 アイラシェールを甘いと切って捨て、フィリスは厳しく告げる。

「美しく正しく円満に理想を叶えられる術があるのならば、とうにやっている。汚れ、罵られ、憎まれたとしても、それでも民が救えるのならば実行に移すのが為政者の責任ではないのですか」

 フィリスの言葉は、一側面においては真実ではある。アイラシェールは沈黙し、内心で呟かずにはいられなかった。

 ここまで覚悟を決めている相手を、どうやって止めることができよう?

「貴女は何も知らなくていい、アレックス侯妃」

 不意にフィリスの声に、切なさがあふれた。

「私は貴女をお守りすると誓った。だから貴女の前に立ちふさがるもの全てを、私は斬って捨てる。だがそれは、貴女の責任ではない。何一つ、貴女には関わり合いのないことだ。貴女は何を問われても、何を責められても、何も気づいていないふりをしていればいい」

「だけどそれで済まされる問題では――」

 言葉は中途で遮られた。不意に延ばされた手はたやすくアイラシェールを捕らえ、広い腕の檻の中に閉じ込める。

「フィリス……何を……」

「この国を救えるのは、貴女だけだ。貴女のためならば私は何をしても構わない」

 強く抱きすくめられて、身動きのできないアイラシェールの耳元で、ささやかれる言葉。

 アイラシェールが考えないようにしていた、恐れていた言葉。

「貴女を、愛しています」

 その言葉は、アイラシェールの思考を白紙にする。

「……放して」

「私の思い、受け取ってはいただけませんか」

 その瞬間、頭の中で一本線が切れたような、そんな錯覚をアイラシェールは感じた。

 かっと頭に血が上り、腕は渾身の力でフィリスを突き飛ばす。鼓動の高鳴る胸を押さえ、アイラシェールは有らん限りの声で叫んでいた。

「貴方に一体何が判るというの!」

 全身全霊の叫びにも、フィリスは動じない。怒りにふるえるアイラシェールはしばらく無言で眺めやって、そして一言言い残して立ち去った。

「いつか、判ってもらえるものと信じております」

 ぱたん、と扉が閉まる音を聞き遂げて、アイラシェールは広間の床に崩れこんだ。

 腕が、体が、がくがくと震えてくるのが判った。

 駄目だ、駄目だ、駄目だ。耳の奥で、ただ一つの言葉が空回する。

 これ以上、フィリスを暴走させては駄目だ。

 けれども駄目だ。何をしても、何を言っても、フィリスを止めることなんてできない。

「どうしたらいいのよ……どうしたら」

 一方アイラシェールの部屋を出たフィリスは、城の片隅に赴く。死体置き場に安置されている何体かの遺骸を見つめ、ぽつりと呟いた。

 その粗末な部屋で動くものは、彼以外何もない。

「子爵……本当は私は、貴方が羨ましいのかもしれない」

 剣帯から鞘ごとエスカペードを外し、両手で強く握りしめながら、物言わぬ死体に語りかける。

「どうして貴方ご自身が来たのです? 私は貴方が誘いにのっても、自身で来られるほど馬鹿じゃないと思っていたのに」

 問いかけの答えは当然なく、そしてフィリス自身実のところその答えは判っていた。

 追いつめられた者の、待てなかった者の、その気持ち。

「貴方は私を恨んでいるだろうけれども、一つだけ覚えておいてください。貴方に言ったことは、決して嘘ではないのですよ、子爵」

 剣を握りしめる手に、力がこもる。

「嘘ではないのですよ、決して」

 そしてこの件で、ウェンロック王とフィリスの信頼関係は、完全に崩壊した。


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