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それでも朝日は昇る  作者: 柴崎桜衣
第六章 二人の預言者
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6章5節

 訪れてきた人たちを全て送り出し、ようやく独りになった時には、夜半をすぎていた。

 アンナ・リヴィアは自分の椅子に腰を下ろすと、頬杖をついて深いため息をついた。

 目の前には、椅子がもう一つある。自分の腹を痛めたたった一人の息子。彼がそこに座ることは、もうない。ほぼ確定的な事実が、彼女を打ちのめした。

 何のためだったんだろう――そう呟く。

 自分が城を出たのは――そしてカティスを産んだのは、何のためだったのだろう。

 それはこんなにも早く、こんな悲惨な形で死なせるためだったのだろうか。

 城を出たのも、実家の両親の援助を拒んだのも、カティスのためを――カティスの将来を思ってのことだった。そのためなら、どんな貧しい暮らしも、後ろ指さされる境遇も、耐えられると思った。

 だが、その結果がこれだ。当のカティスは金を稼ぐために傭兵になり、そのために戦場で無残な死を遂げた。

 アンナ・リヴィアの脳裏を、不意に過去の情景がよぎる。

『お袋、これ』

 机の上に、膨れた革袋が置かれた。金属がこすれあう澄んだ音に、その中身が金貨であることは容易に読み取れた。

『カティス、これは?』

 問いかけた自分に、カティスは照れくさそうに笑った。

『生活費の足しにしろよ』

 忘れもしない。あれは初めてカティスが傭兵で稼ぎを得、帰ってきた時のことだ。

 袋をのぞいて、中に詰まった金貨の量に目を丸くした。その額は、同じ期間の働きならば、腕のいい職人に匹敵するだろう。

『こんな大金、受け取れないわよ』

『いいって。俺の分は、ちゃんと抜いたから』

 自分には、手の中の金貨が重かった。それを得るために、カティスが戦場で売り払ったものが――犠牲にしたものが判っていたから。

 とても受け取れなかった。

『あなたが苦労して稼いできたお金だもの。ほしいものだってあるだろうし、遊びにだっていきたいでしょう? 今までお金がなくて、沢山のことを我慢させてきたんだもの。無理しないで、自分の使いたいことに使いなさいよ』

『でも』

『母さんのことなら、何とでもなるから。いいの』

『無理するなよ』

『いいって言ってるでしょ。自分の稼ぎくらい、好きに使いなさいよ』

 にっこり笑って、自分のより大きくなった手に革袋を握らせる。

 慮ったつもりだった。優しい理解ある母親をしたつもりだった。

 けれども、カティスは手の中の金貨をしばし眺めやった後、不意に笑った。

 明らかに、自分を嘲笑っていた。

『判った。俺が悪かった。そりゃ、人殺しをして稼いできた汚い金は、受け取れないよな』

 その一言は、まるで冷水を浴びせかけられたような気がした。

 血の気が、一気に引いた。

『違うの、違うのカティス!』

 どんなに否定しても、もう遅かった。カティスは手の中で金貨の袋を弄び、自分に笑いかけた。

 それは弱音も本心も押し隠す、いつもの作り笑いだ。

『困らせてごめんな。もう無理言わないからさ、勘弁してよ』

 言い残して、足早に去っていく背中を止められなかった。ただ独り取り残された後、己の犯した過ちが身に迫った。

 受け取ってやればよかったのだ。受け取って、『ありがとう。助かるわ』と言ってやればよかったのだ。

 否定してはいけない――あの日からずっと、肝に銘じてきたというのに。

 裕福だけが、地位だけが、きらびやかな生活だけが幸せだとは思わない。そう思ってきたし、今だってそう思う。けれども。

 これが――この結末が、幸せだというのか。

 己が存在することすら責め、一かけらも救われることなく死なすことが。

 もう判らない。どうすればよかったのか。

「アンナ・リヴィア、開けてくれる? 両手がふさがってるんだ」

 不意に家の外から、声が聞こえた。馴染み深いその声音に、アンナ・リヴィアは弾かれたように立ち上がって扉を開ける。

 そこにはカップを両手に持った、カイルワーンが立っていた。

 顔色はよくない。けれども、気丈な笑みを浮かべて、アンナ・リヴィアに問う。

「珍しく灯が点いてたんで、起きてたんだと思ってね。ココアを淹れたんだ。飲まない?」

「ありがとう」

 カイルワーンの気遣いを、アンナ・リヴィアは心の底から嬉しく思った。それと同時に、悲しくもあった。

 目の前の少年は、彼女の息子の心に刻まれた傷を思い起こさせる。

 カップを食卓に置き、アンナ・リヴィアはカティスの椅子をカイルワーンに勧めた。

 彼の作るココアという飲み物は、とろりと甘くて、それだけで幸せな気分になる、と彼女は思う。けれども今日は、そこまで気分は高揚しないだろう。

 それでも、しばしの沈黙の後、アンナ・リヴィアは口を開いた。

 彼とこうして真正面で言葉を交わすのも、これが最後かもしれない、そう思ったのだ。

「カイルワーン、どうしてカティスがあなたに、あんなにも世話を焼いたのか――どうしてあなただけには素の自分をさらけ出すようになったのか、判る?」

 アンナ・リヴィアの突然の言葉に、カイルワーンはしばし悩んだ挙句、小さく首を横に振った。

 それはカイルワーンの心の中に常にあった、答えの出ない疑問だった。

「あなたも薄々気づいているかもしれないけれど、あなたとカティスはとてもよく似ている。それは、あなたたちの心の一番深いところ――根底にあるものが、同じだからなのよ」

 カイルワーンは答えなかった。ただその顔が、強張る。

「多分カティスは、同じ思いを――痛みを抱えているあなたならば、自分の痛みを、苦しみを理解してもらえるだろうと直感した。だからそばにいたがった。あなたのことを知りたがったし、他の人間よりもずっと深く関わりたいと思った。そして、己の痛みを、苦しみを、理解してほしいと願った」

「…………それは――その根底にあるもの、とは」

 聞くのが怖かった。けれども聞かずにはおれなかったカイルワーンに、静かにアンナ・リヴィアは告げた。

「自己否定」

 ただの一言で告げられ、カイルワーンは硬直した。真っ青な顔になった彼に、アンナ・リヴィアは憐れみに満ちた眼差しを向けた。

「この世に己が存在していることさえ罪に感じる、己が生きていることさえ責める。己の何もかもが許せない。そういう人間よ、あなたもカティスも――違って?」

 重苦しい沈黙が――カイルワーンの微かに乱れた息づかいさえ聞こえるほどの静寂が、答えだった。そんな彼に、アンナ・リヴィアは努めて穏やかに続ける。

「あなたたちに何一つ罪はない。確かにあなたたちが己を否定することになったきっかけは、他人よ。けれどもその謂われなき暴虐を、あなたたちは受け入れてしまった。突っぱねることもできずに、己で認めて受け入れて、心の一番深いところに刻み込んでしまった。だから自己否定なの。自分の価値も、存在意義も、何もかもを否定したのは、そして否定し続けるのは他人じゃない。自分なのよ」

 カイルワーンは何も言えない。泣き出しそうな悲愴な顔を真っ直ぐに受け止めようと、アンナ・リヴィアは顔を上げる。

「だからあなたたちは、他人を信じない。己の価値を認めないから――他人にどれほど自分が影響を与えているのか、どれほどのことを他人にしているのか、それを認めようとしないから。だから他人が向ける信頼も、尊敬も、愛情も、どこか疑ってかかる――自分がそれらを向けられるに値するほどの人間であることを、認められないから。だからあなたたちは、自分を鎧って嘘をつく。素の自分が、他人に好意を抱かれるものだと認められないから、自分が考える『理想像』を演じる」

 ふう、とアンナ・リヴィアは小さくため息をついた。

「それでもカティスは、苦しかったんだろうと思う。気さくで楽天的な傭兵を演じて、沢山の人に囲まれて慕ってもらっても、どこかその人たちを信じられない自分が。そして本当の自分をさらけ出せないことが――苦しいことを、苦しいとさえ言えないことが」

「……アンナ・リヴィア」

「なに?」

「あなたは、どこまで知っているんだ。僕の、過去に何があったのか」

「何も。そして、それを聞く気もないわ。あなたが話したい――話すことで消化したいと言うのなら別だけれども、言いたくないことを聞き出すつもりはないの。けれど、私はカティスの母親を二十五年もやってきて、あの子をつぶさに見てきたから、あなたがあの子と同じ心の欠損を抱えていることは、判ったのよ」

 ふとアンナ・リヴィアは寂しそうに目を細めた。

「私はカティスに、あなたという子を得て、どれほど幸せだったのか伝えたかった。判ってほしかった。そのためなら何をしてもいいと思って……でもそれは、ことごとく裏目に出た。私がカティスをあそこまで追いつめたのだということを、さっき実感していたの」

「それは……一体」

「カティスが己を否定するようになったのは、私のせいなのよ」

 それは懺悔にも似ていた。突っ込んでいいものか迷いながらも、だからカイルワーンは問いかけた。

「聞いてもいいかな」

「カティスに何があったのか?」

「……ああ」

「十歳の時よ。私が病気になったの」

 ぽつり、と呟くようにアンナ・リヴィアは話し始める。

「たちの悪い病気でね、一時は本当に危ないところまでいったの。でもその時本当に私、お金がなくてね。満足にお医者様にもかかれないし、薬も買えなかった。家で寝てるより、できることがなかった」

「それじゃあ、よくなるわけがない」

「その通りよ。結局はアイルさん――セプタードのお父さんとか、近所の方たちとかがお金を出し合ってくれてね、借金という形だけれども助けてくださったの。看病もしてもらったし、それでよくなったんだけど……お金の工面ができる前に――そのことを、アイルさんたちが持ちかけてくれる前に、カティスが消えたのよ」

「消えた? 十歳児が? 母親が重病で倒れている時に?」

 何もかもが不審で問いかけるカイルワーンに、アンナ・リヴィアは頷く。

「書き置きも何にもなかった。ただあの子がため込んでた、なけなしの小銭がなくなってた。近所の人たちが探してくれたんだけど、見つからなくて見つからなくて、私は病気よりよほどそっちのほうで具合が悪くなりそうだった」

 熱いココアを口に運んで、アンナ・リヴィアは続ける。

「カティスが戻ってきたのは、姿が見えなくなった三日あと。その頃には私も大分調子がよくなって、起き上がれるようになっていたけど、そこにふらっと戻ってきたの。みんな怒り心頭、アイルさんはカティスを吹っ飛ばしちゃったけど、私は何も言えなかった」

「……どうして。心配したんだろう? 怒って当然だろう?」

「だってね、あの子、真っ暗な顔をしていたんだもの」

 その時のカティスの顔を、今でもアンナ・リヴィアはまざまざと思い出せる。

 浮かんでいた凄絶なまでに悲痛な顔色。そして、その意味するところ。

 カティスは自分を見上げて、ただ言った。

 『心配かけて、ごめん』と。

 とても静かで、力のない声だった。

 そんなカティスを、アンナ・リヴィアは抱きしめることしかできなかった。

 抱きしめて、泣くこと以外に、してやれることがなかった。

「その顔を見た瞬間、私には判ってしまったの。あの子がこの三日間、どこに行っていたのか。何を考え、何をしようとして、どこに行って、そしてそこでどんな思いをしてきたのか。薄汚れた身なりと、こさえてたささやかな怪我と、疲れきった絶望的に暗い顔が、答えを雄弁に語っていたんだもの」

 カイルワーンの脳裏に、入城式の日のカティスの言葉が甦った。

 この門は押そうが叩こうか、泣こうが喚こうが暴れようが、開きやしないんだ――。

 そしてそれを語った彼の、暗く濡れた眼差しのことを。

 おそらくその空白の三日、カティスが来ていた場所は、アルベルティーヌ城だ。

 それを確信した時、カイルワーンにはアンナ・リヴィアが語ろうとしていることが判った。そしてそれは身に覚えのある痛みを伴って、カイルワーンの胸をえぐる。

 カティスは十五年前、アルベルティーヌ城門の前で、何を考えたのだろうか。

 灯火にきらびやかに輝く城を遠くから眺めながら、何を思ったのだろうか。

 それはおそらくただ一つ。

 もしも――だ。

「それ以来、私はカティスが私も含めて、他人に弱音を吐いたり、不平不満を言うのを見たことがない。そしてそのうち、本心を全て己の内に呑み込むようになった。近所のおば様たちはカティスが強くなったとか、大人になったとか言ったけれども、私は泣きたかった。どうしてそうなったのか……あの時あの子は、己を――己の存在そのものを責めたのよ。そして己の価値の全てを、自分で否定したんだわ。だから泣き言を言うことすら、自分に許さなかった。辛いという権利すら己にはないのだと、そう己を責めて、苦しみも悲しみも、全部自分の中に呑み込んだ」

 あの日。あの遠い日。泣きながら自分たちが、己を責めた言葉は、ただ一つ。

 もしも、自分がいなければ。

 もしも、自分が生まれてこなければ――。

「お金や裕福な生活だけが、地位や名誉だけが幸せじゃない。再三言う通り、私はそう思ってるし、そのことをカティスに判ってほしいと思ってる。カティスという子を得て、私がどれほど幸せだったのかも。けれどもあの時、あの子は考えたでしょう。自分のせいで私がこんな貧しい暮らしに陥って、そのせいで満足にものも食べられず、医者にもかかれずに死んでいくのだと――私は死なずにすんだけど、それはたまたまよい隣人に恵まれたからであって、自分がそういう憂き目に私を追い込んだのだという思いは、カティスの中ではもう揺るぎはしないのでしょう。この現実の前には、どんなに幸福だと強弁しても無意味よ」

 楔のように胸に刺さっている言葉。思い出したくない、感じたくない一つの仮定。

 それをアンナ・リヴィアの物語はカイルワーンに突きつける。

 カティスの胸に十歳の時に刺さった思い。それは同じく等しく、自分にも刺さっている。だからアンナ・リヴィアは自分たちが似ていると告げるのだと、カイルワーンは彼女の言葉を認めた。

 アンナ・リヴィアの告げた言葉は、何一つ違うことなく正しい。

「カティスが『剣を習いたい』と言って、アイルさんのところに押しかけるようになったのは、その直後。聞いてなかったかもしれないけれども、セプタードのお父さんは名の知れた傭兵で、稼いだお金で『粉粧楼』を構えたのよ。馬鹿なことを考えるなと断られ、叩き出されても通いつめ……ついにはアイルさんの方が折れて、指導を受けているうちに、俺も俺もと言い出したのがブレイリーだったりウィミィだったりするんだけれども、まあそれはいいとして、アイルさんが昔言ってた。カティスみたいのは、戦場に出てはいけないって」

 憔悴し、血の気が失せているアンナ・リヴィアの顔が、泣きだしそうに歪んだ。

「カティスは自分で『俺は絶対死ねない』とか『命根性が汚い』と言ってて、それはそれで全て偽りではないのだろうけれども、生死を分けるぎりぎりの一瞬、心に否定の思いがきたすんじゃないかって。ぎりぎりの瞬間、あの子は『ああ、もういいや』って、自分の命を、人生を投げてしまうんじゃないかって。日常生活で自分の命を投げることは――自殺するのは、かえって大変な心の力がいるから難しいけれども、戦場ではそれはとても簡単なことだから――だからカティスはどんなに腕を磨いて、並び立つ者がいないほどの剣の使い手になっても、戦場のど真ん中でふと気を抜いて、そのために呆気なく死んでしまうのかもしれないって」

「アンナ・リヴィア……」

「私、カティスがどんな人生を選択してくれてもいいと思って産んだの。あの子が英雄になりたいのならそれもいい。一市民としてあまたの人の中に埋もれていくなら、それもいいと。ただあの子が、自分で望んだ道であるのならば――それを叶えるためならば、何を犠牲にしてもいいと思った。けれどもあの子は、私のために、己が存在することすら己で責めた。私に楽をさせたい、十五年前みたいな惨めな思いをしたくない、そのために望みもしない人殺しの道を選んだのよ。その挙句がこの結末よ。私は一体何をしてきたんだろうって思うわよ」

 もはや堪えきれない涙があふれだし、アンナ・リヴィアは顔を覆ってうつむいた。

「あの子は冷たい水に沈んだ時、何を思ったのかしら。こんな境遇に自分をたたき込んだ、私を恨んでくれたかしら。そうしてくれたらどれほどいいかと思うのに、目を閉じれば浮かんでくるのはあの子の疲れた笑い顔ばかり。もう疲れた、やっと楽になれるんだって、きっとあの子はそんな風に笑って死んでいくのよ。そういう子なのよ、カティスは」

 カティスが己を責めたように、アンナ・リヴィアも己を責める。はたはたと落ちる涙と震える声に、カイルワーンは意を決して告げた。

「アンナ・リヴィア。カティスは必ず帰ってくる」

「カイルワーン……?」

「希望的観測による気休めや、慰めではないんだ。実際、ブレイリーやウィミィ、カッセルたちに関しては、僕でも確たることは言えない。でも、カティスだけは別だ。あいつは必ず、五体無事でここに帰ってくる」

 それは希望ではない。推測でもない。カイルワーンにはむしろ絶望的ですらある現実だ。

 カティスは、必ず帰ってくる。

 そう、なぜならば。

 自分が『ディリゲントの悲劇』を、彼に教えてしまったのだから。

 己の意志という名の、定められた歴史のままに。



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