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それでも朝日は昇る  作者: 柴崎桜衣
第三章 カティスとベリンダ
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3章8節

 柔らかく滑らかな光沢を放つ色とりどりの絹地。普段ではお目にかかれない高価な布の数々に、楽屋に入ってきた一座の踊り手たちは歓声を上げた。

「素敵素敵!」

「ソニア姐さん、頑張ったのね」

「そうよ。だから、夏至祭の舞台では衣装が恥ずかしくないよう頑張ってちょうだい」

 ソニアは広げた生地を再び軸に巻きながら、女性たちにそう言った。

 大陸暦998年6月。季節は初夏に入り、間もなく夏至を迎えようとしている。アイラシェールが時を越えてこの時代に辿り着いてから、三ヶ月がすぎようとしていた。

 アルバ国北部の大都市・モリノーは、年に一度の夏至祭に向けて沸き返っていた。

 一年で最も昼が長いこの一日とその前後一週間、人々は夜通しお祭り騒ぎを楽しむ。街路にはいつにも増して多くの露店が建ち並び、また領主館や富豪からは酒や食べ物がふんだんに振る舞われ、近隣の町や村から「この日ばかりは」と人々が繰り出してくる。

 芸人にとって、この一週間は年に一度の大舞台だ。広場という広場、空き地という空き地に仮設の舞台が作られ、自慢の芸を披露する。また広い場所を確保するだけの力のない者も、辻や街路の片隅でささやかな興行を行い、それに見合った稼ぎを上げる。

 モリノーに本拠を置く者も、そうでもない者も、この時ばかりは一時に集って己が芸を競う。人々は幾つも舞台を回っては、気に入った一座や芸人に祝儀を上げる。この一週間の上がりは桁違いで、またこの夏至祭の舞台で名を上げた芸人は数知れない。そのためどの一座とも、夏至祭に賭ける意気込みは半端ではなかった。

 アイラシェールが身を寄せるモントアーレ一座も、勿論例外ではない。

「ああ、もう動かないで。待ち針刺しちゃうよ」

 アイラシェールは何種類もの布を代わる代わるベリンダの体に当てながら、加減をみては待ち針を差していく。楽屋は仮縫いの真っ最中だ。

 今年の夏至祭に際して、座長のソニアは一座全員の衣装を新調することにした。それは彼女のただならぬ意気込みを表していた。

 かくしてアイラシェールは、祭を前に衣装の制作にかかりきりになった。だがそれは、彼女が思っていたほどに苦痛な作業ではなかった。

 アイラシェールとソニアで型を決めたその衣装は、何枚も薄い絹地が重ねられ、動くたびにふわふわと揺れる。それは軽い羽根のようで、重ね合わされた布は美しい色合いを見せた。

 できあがった衣装は、二人の予想以上に舞台に映えた。一着、また一着と仕上げ、仕上がりを眺めるのは自分でも驚くほど楽しい作業だった。全員分を仕立て上げ、それを身につけての最初の稽古の時に、アイラシェールは自分の仕事をやり遂げた充実感を、確かに感じた。

 それは、アイラシェールにとって初めての体験だった。自分が何かをし、それが紛れもなく誰かの役に立ったことを――意味があったことを、卑下することなく実感できた。それがどれほどの充足を心に与えるものかを。

 街は祭に向かって慌ただしい喧騒に包まれ、全てが浮かれていた。今年の舞台は、きっとよいものになる――一座には活気が満ちた。

「祭の舞台がはねたら、遊びに行こうね」

「それで、甘いもの食べるんでしょう?」

「そうそう」

 ベリンダとアイラシェールの二人は、顔を見合わせてそんなことを言い、笑いあう。

 その一時は、アイラシェールにおいてモントアーレ一座での最も楽しい時間となった。だがそれは、思いもかけない形で終焉を迎えることとなる。

 夏至祭まであと一週間。祭の準備がほぼ整った日の昼下がり。いつものように『長春花』の自室で売上げ計算をしていたアイラシェールは、けたたましい物音と、女性たちの悲鳴を聞いた。

 慌てて階下に降りると、その騒ぎは楽屋で起こっているようだった。

「どうしたの?」

 アイラシェールは一番手近にいたローラに問いかけると、彼女は蒼白な顔を向けた。

「マチルダ姐さんが、棚の上から箱を取ろうとして……そうしたら踏み台が」

 楽屋の中はひどい有り様だった。物入れに入っていたのであろう小間物が散乱し、踏み台の足は無残に折れていた。そして床に倒れ、一座の他の女性たちに介抱されているのは、問題のマチルダと、もう一人――。

「マチルダ、ソニア!」

 アイラシェールが駆け寄ると、ソニアはうっすらと目を開けた。彼女が右手を左手で隠しているのを見て取って、アイラシェールは嫌な予感に駆られた。

「マチルダ姐さんが落ちてくるのを見て、ソニア姐さん、受け止めようとしたの」

 一座の女性の言葉に、アイラシェールは頷いた。反射的に手を出したものの、女性の力では受け止められるものではない。ソニアはマチルダに押しつぶされる格好となったのであろう。

「ソニア、隠してないで見せて」

 アイラシェールの強い言葉に、渋々ソニアは左手を放した。その瞬間、アイラシェールはああ、とうめき声を上げてしまった。

 中指と人指し指が、普段の倍の太さにまで腫れ上がってしまっている。

 これは突き指、という段階ではない。間違いなく折れているだろう――そう断を下して、アイラシェールは暗澹たる思いにとらわれた。そしてそれは一座の誰にとっても同じで。

 それが他の誰でもなく、ソニアであったということは、あまりにも大きな意味を持っていた。

 その夜、舞台を休演して、女性たちは話し合いを持った。彼女たちはすぐにでも、一つの結論を出さなければならなくなったのである。

 夏至祭の舞台を、諦めるか、否か――。

「夏至祭の舞台に穴を開けるなんて、できないことよ。それをしたらお客が離れていってしまう。夏至祭の上がりがないことより、普段の興行に障りが出ることの方が問題よ」

「せっかく舞台が上向きになってきたって言うのに……」

「だけど、ソニア姐さんなしの舞台は無理よ! リュートなしでどうやって踊れっていうの?」

「踊れないことはないでしょうけど、無残な結果になるのは火を見るより明らかね」

「ベリンダ、あなたでは代役は無理?」

 当然の問いかけに、ベリンダはとんでもない、とばかりに首を振った。

「あたしで務められるのなら、喜んでそうしたい。だけど今のあたしの腕前じゃ、舞台を壊すことにしかならないと思う。あたしのリュートがその程度だってこと、聞いてる姐さんたちが一番よく判ってるでしょう?」

 議論は空回りをし、全くの平行線を辿った。本当は誰にも判っていた。この議論に、答えなんて出てこないことを。中途半端な舞台しかできない自分たちでは、夏至祭を諦めるしかないことを。

 ただそれを認めることが、誰にもできない。だからその決断を下す時を、一刻でも先のばしにしたいことを。

「悔しいよう……ここまで頑張ってきたのに」

 誰かが震える声でぽつり、と洩らした時、小さな声が部屋に上がった。

「私が、弾く」

 その声は、議論に加わらず、部屋の隅で女性たちのやり取りをずっと見つめていた少女から上がった。一同の視線を感じ、アイラシェールは毅然と顔を上げて、告げる。

「私が舞台に上がる」

 ソニアの怪我を見てからずっと考えていたことを、ついに彼女は口にした。

 もうその結論しかないことは、アイラシェールには判っていたのだ。

 だが。

「駄目! それだけは駄目!」

「そうしたら、もうあたしらはアイラを隠しておけないよ!」

「舞台に上がるだけならいい。だけどそうしたら、必ずアイラを指名してくる客が出てくる。そうなれば、断れないよ」

「あたしたち、それだけは嫌なのよ」

 一斉の反論にも、アイラシェールは動じない。声がやむのを待って、静かに言う。

「だったら、他にどんな方法があるの? 夏至祭を諦めるの?」

 その言葉に、一同は沈黙せざるを得なかった。もう誰にも、他に方法がないことは判っていたのだ。

 そして夏至祭の舞台を諦めることもまた、できないことで――。

 こうしてアイラシェールの一言で、方針は定まった。

「それで本当にいいのね?」

 翌日、自分の寝室を訪れて報告をしたアイラシェールに、ソニアはただそう言った。その目に浮かぶ悲痛な色と、言葉に潜んだ求められている覚悟を全て読みとって、それでもアイラシェールは頷く。

 夏至祭まで一週間。一座はそれまで舞台を休演し、準備に当てることにした。アイラシェールの衣装も急いで仕立てなければならず――アイラシェールの体の寸法は、他の女性たちと共用できないほど差があった――また、アイラシェール自身の練習時間も必要だった。

 また忙しくなった理由は、これだけではなかった。伴奏者となったアイラシェールが、こんな提案をしたからである。

「ベリンダを踊り手から外して、伴奏の方に寄こしてくれないかな?」

 この言葉に、一番仰天したのは当のベリンダである。

「ちょっとアイラ、あたしの腕前は師匠のあんたが一番よく知ってるでしょ!」

「うん。私も主線弾けとは言わない。だけど、リズムに合わせての和音の繰り返しなら、もう十分聞くに堪える腕前よ。できるでしょ?」

「アイラ……」

「師匠の言うことを信じなさい。独奏と合奏じゃ、華やかさが全然違う。こっちの方が、絶対よい演奏になるんだから」

 こうして残り一週間、アイラシェールとベリンダは猛特訓を重ね、そしてその日が来た。

 アイラシェールは『長春花』の楽屋でベリンダたちに化粧を施してもらい、長い髪を結い上げてもらう。白と若草色を基調としたドレスを身にまとい、リュートを手にして立ったアイラシェールに、女性たちは感嘆のため息をついた。

「アイラ……」

 万感の思いを込めて、ベリンダは呟く。それは一座の女性たち全ての思いだった。

「あんたが上等のドレスや宝石で身を飾ったら、どんなに綺麗なんだろう……」

 アイラシェールはそのベリンダの言葉に、知らず苦笑をしていた。

 父王クレメンタインは、アイラシェールに様々なものを贈ってくれた。絹の素晴らしいドレス、宝石や鳥の羽根、べっ甲などで作られた沢山の飾り物。踵の高い、しゃれた靴。そんな沢山のもの――それは不遇な生活を送る彼女への罪滅ぼしなのか、それともオフェリアが『自分たちと差別するな』と言うからなのか、それは判らない。けれども、それを受け取るたび、アイラシェールは歯がゆい思いを感じていた。

 塔で暮らす自分には、それらは全て無駄に思えた。華やかな舞踏会や夜会に無縁な生活を送る自分に――否、他人の目に触れることさえない自分に、どうして己を飾る必要があろう。美しく装う必要があろう。そうずっと、思ってきたのに。

 過去に来て、たった三ヶ月しかたっていないのに。あの日々は、あまりに遠くなって、記憶の中で霞むばかり。

 自分はこれからどこに行くのだろう――リュートを手に、アイラシェールは遠くを見た。今日舞台に上がること、それが自分の生活を大きく変えてしまうだろうことを、もう彼女は疑わない。

 それを思うと、微かに体が震える。それでも彼女は、舞台に上がるよりほかない。

 モリノーの街は、日没を迎えて、いよいよ熱気に包まれていた。


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