表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
それでも朝日は昇る  作者: 柴崎桜衣
第三章 カティスとベリンダ
24/153

3章1節

第3章  カティスとベリンダ ―大陸統一暦998年―

 道を進むに連れ、だんだんとその匂いが強くなってくる。鼻をくすぐる、少し生臭いような、つんとした匂い。

 はっと思い当たって、カイルワーンは知らず口にする。

「そうか、これが潮の匂いか」

「お前、海は初めてか?」

 カイルワーンのそんな呟きに、カティスが聞く。

「ああ。ずっと内陸で育ってきたから」

「俺は港町育ちだからなあ。潮の匂いをかぐと、ああ帰ってきたんだなって気がする」

 んん、と伸びをしながら少し先を歩く長身を見上げながら、カイルワーンは内心で途方に暮れていた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう、と――。

 事の顛末を語るには、二日ほど戻ることになる。

 ぱちぱちという木がはぜる音に、カイルワーンは意識を取り戻した――意識を取り戻してやっと、自分が気を失っていたことに気づいた。

 目に映るのは、葉を繁らせた梢の重なりと、暮れようとする暗い空。

 ゆっくりと身を起こすと、焚き火の向こうで佇んでいた青年と目が合った。

 ああ、そうか。自分はあまりの衝撃に恐慌を起こして、昏倒したのか。我が身に起こったことを、カイルワーンはようやく理解した。

 この目の前の現実は、あまりにも衝撃が大きすぎる。

「落ち着いたか? 気分はどうだ?」

 自分に問う青年を見つめながら、カイルワーンは心底困り果てていた。

 やはり目の前にいるこの男は、王位に就く前のカティス・ロクサーヌなのか。

 だとしたら、こんな伝説の存在に、一体どう反応したらいいのだろう? どう話せばいいのだろう?

 そして、彼が本当にカティスならば。自分がカティスに出会ったということ、それが意味するところは――。

「俺の言うことが判るか?」

 動揺はちっとも治まらない。けれども、いつまでも黙っているわけにもいかない。小さく頷いて、カイルワーンは意を決して口を開いた。

「助けて、もらったんだよな。ありがとう」

「ちゃんと喋れるし、言葉も通じるんだな。これで外国語でも話されたらどうしようかと思った」

 よかったよかった、と大仰に安堵するカティスに、カイルワーンも苦笑をもらした。

「俺はカティスだ。お前は?」

 問われて、カイルワーンは一瞬躊躇した。

 自分が今ここで名乗る、そのことは歴史の中で大きな意味は持ちはしないか?

 おそらく確定的な、自分にある可能性。その推測に間違いはないのか? 正しいのか? カイルワーンは、考えてしまう。

 だがそれでも。

「……カイルワーン。親しい人たちは、カイルって呼ぶ」

「まだ小さいのに、親はどうした? どうしてこんなところで独りで倒れてた?」

「一応これでも、十九なんだが……」

 言われても仕方ないのは判っているのだが、ささやかな矜恃を傷つけられて、カイルワーンは呟く。そんな彼に、カティスは唖然とした。

「こんなに小さくて細っこいのにか!」

「君みたいな偉丈夫でなくて、悪かったね。一応気にしてるんだぞ、これでも」

 カティス王の伝承は、肖像は、一片の偽りも誇張もない。それをカイルワーンはしみじみ思い知った。

 上背はカイルワーンと頭半分違うほどに高く、筋肉が無駄なく鍛え上げられ、見事なまでに均整が取れているのが判る。

 カイルワーンの身体的劣等感を、あますところなく刺激してやまない体格だ。

「それはすまなかったな。だが、体はもちっと鍛えた方がいいと思うぞ、俺は」

「世の中には得手不得手ってものがあるだろうが。この僕に多少の筋肉つけたところで、どれほどのことができるって言うんだ」

「ま、確かに」

「納得するなっ!」

 癪にさわって叫ぶカイルワーンに、カティスは声を上げて笑う。

「面白い奴だな、お前」

「………………」

 沈黙したカイルワーンに、ふと表情を引き締めて、カティスは再び問う。

「話を戻すぞ。どうしてこんなところで倒れてた? 見たところ外傷はないが、誰かに襲われたのか?」

「そういうことじゃない。ないんだか……実際には、僕にもよく判らない」

「……は?」

 この言葉はカイルワーンの正直な内心だった。

 時間を越えることができるなどと、信じてはいなかった。あの一刻に起こったことが何だったのか、実のところよく判っていない。けれども止める間も、何を語る間も、無論事態を理解する間もなく、あの部屋からアイラシェールは消えた。

 独り残された部屋で、色々なことを考えた。だが、もしアイラシェールが彼女が望んだとおり998年に消えたというのなら、自分にできたことは同じ時に自分も行くと願う――行けると信じる、ただそれだけで。

 その結果が、この事態。

 悪い夢だと思いたかった。

 だがすべてが悪い夢だと現実を否定することは、あまりにも悪い夢過ぎて――そう、このことによって辻褄が合ってしまう、納得できてしまう『謎』があまりにも歴史にはありすぎて、カイルワーンにはできないのだ。

 けれども今はそれよりも。

「多分言っても信じてはもらえないだろうから、詳しい説明はしない。だけど……そう、僕たちは仕えていた王朝が滅んで、国を追われて、遠くに逃げようとしてたんだ」

「僕たち?」

「見かけなかったか? 女の子だ。栗色の髪と――染めが落ちていればもしかしたら白になっているかもしれない、そんな髪と赤い目をした、小柄な女の子だ。年は十七で、背が僕より少し低くて、かなり細めだ」

「髪が白くて、目が赤い? そんな人間いるのか」

「生まれつきの病気だ。体の中で色の素になる物質が作れない。ただそれだけの、異常だ」

 ただそれだけのことなのに――カイルワーンは暗く沈む。

「はぐれたのか?」

「……おそらくは」

 時の鏡は、アイラシェールと自分を同じ『時』に運んでくれたのか。たとえそうだとしても、場所としてどれくらい離れたのか。簡単に確かめる術はない。

 けれども。

「どうして彼女とはぐれたのか、どうして僕がこんなところに倒れていたのか、それは説明できないというか、僕にもよく判らない。それ以前に、そもそもここはどこなんだ?」

「アルバの地理は判るか? ここは中央陸路から分岐した、レーゲンスベルグ街道だ。ノアゼットから北上して、アルベルティーヌの手前から西に入って海に出る」

「……の割りには、山の中だな」

 レーゲンスベルグ街道は、南部から港町に入る主要な街道だ。いくら二百年前だからといって、こんなに山の中のはずがない。

「そりゃそうだ。ここはかなり街道からそれて、山の中に入ってきたところだからな。感謝しろよ。俺が見つけなければ、お前は今頃熊に頭からかじられてたところだ」

「……じゃあ何でそんなところに、君は来たんだよ」

「仕方ないだろ? 土産の一つも用意して帰らないと」

 一瞬、カイルワーンはカティスが何を言っているのかが判らなかった。

「はあ?」

「仕事も片づいて、ようやく家に帰れるっていうのに、おふくろに土産の一つもなしじゃあんまりだろ? 買って帰るにも、今回の仕事はどうも払いが悪くてな。春になるところだし、何か採れるものでもないかと思って山の中に入ってみたら、代わりにお前が転がっていたと。おかげで手ぶらのご帰還だ」

「…………」

 頭の中に思い描いていた『英雄王』との落差にカイルワーンが苦しんでいると、不意にカティスは立ち上がった。太くて長い枝二本の先に灯をともし、一本をカイルワーンに手渡す。

「……これは?」

「決まってるだろう? お前の連れを探すぞ」

 突然の言葉に驚いているカイルワーンに、カティスは至って真面目な表情で答えた。

「何が起こったにせよ、倒れる前までに近くにいたのなら、今も近くにいないとは限らない。日が暮れるまで、取り敢えず手分けして探してみよう」

 無言で頷くカイルワーンに、カティスは問う。

「それで、その子の名は?」

「……アイラシェールだ」

 それから日が暮れるまで、二人は山中を探し回ったが、アイラシェールの手がかりは、何も見つからなかった。

「どうする?」

 夜の闇の中、焚き火を前にしながらカティスは問う。

「どうするって?」

「国から逃げてきたって言ってたよな。行く当てはあるのか? これからどうする?」

 カイルワーンは膝を抱えて、考え込んでしまった。そうして、自分には何もないのだということを、あらためて実感した。

 行く当ても、頼れるものも、何一つ。

 それでも、やらなければならないことだけは、はっきりしている。

「行く当ても何も、僕にはない。それでも僕はどうしても、アイラシェールを見つけなければならない。それだけは」

「それほど、大事な相手か?」

 カティスがこの時からかうようであったのなら、カイルワーンは彼に怒り出していたかもしれない。けれどもこの時の彼は、真摯で、どこか寂しそう――羨ましそうだったから、カイルワーンはただ静かに頷いた。

 そんな彼に、カティスは言う。

「なら俺と一緒に来るか? レーゲンスベルグに」

「君、と?」

「人探しなら、大きな街の方が何かと都合がいい。そりゃアルベルティーヌの方がでかいにはでかいが、レーゲンスベルグは人の出入りが激しいからな。情報を集めるなら、悪くないところだ。それにレーゲンスベルグなら、俺のつてがあるからな。手助けできる」

 どうだ? と聞いてくるカティスに、カイルワーンはしばらく考え込んだ。そして言った言葉が。

「……お人好し」

「あ?」

「どうしてそこまで今会ったばかりの他人に入れ込む」

「迷ってるお子様を放っておけないじゃないか」

「僕はもう十九だと、何回言ったっ!」

 思わず怒鳴りつけてしまうカイルワーンに、カティスは声を上げて笑うと言った。

「それでどうするんだ? 行くのか、行かないのか?」

 はぐらかされた、と思いつつも、返答を迫られてカイルワーンは悩む。自分の一挙一動にこんなに思い悩んだことは、今まで一度もなかった。

 本当に自分はカティスといていいのだろうか? このままいったら、取り返しのつかないことが起こるんじゃないだろうか? 自分の存在が、歴史を変えてしまわないだろうか?

 色々な思いが脳裏をかすめた。だが、結論はやはり一つしかなかった。

 かくして二人は連れ立ってレーゲンスベルグに向かうことになり、二日。

 待っていたのは、黄色い歓声だった。

「きゃあああっ! お帰りなさいっ!」

「無事で何よりだったわ、カティス!」

「お仕事、お疲れさまでした!」

 レーゲンスベルグの街中に入って数歩。あっと言う間にカティスは、幾人もの女性たちに取り込まれた。

「ただいま、みんな。元気そうで何より。俺がいない間、変わりなかったか?」

「寂しかったに決まってますわ、ねえ、みんな」

「ええ、そうよ! カティスが怪我でもしていないかと、心配で眠れませんでしたわ」

 わいのわいの、きゃいのきゃいのと大騒ぎする女性の一団と、それににこやかに応対するカティスの姿に、カイルワーンは呆気にとられた。

 まあこの容姿なら、黙っていたところで女性が放っておくまい。そうは思うカイルワーンだったが、騒ぎがどんどん大きくなっていくのを見るにつけ、だんだん腹が立ってきた。

「心配かけてごめんな。その分ちゃんと埋め合わせするから」

「きっとよ!」

「約束ですからね!」

 ……こりゃしばらく終わらないぞ。もう放っておこう。そう思ってカイルワーンがその場を離れようと、無言で回れ右をした時、めざとくぶつけられる声。

「カイルワーン、どこ行く?」

「宿探し。早くしないと、日が暮れるだろうが」

「なに水臭いこと言ってるんだ。うちに来ればいいだろう」

 振り返り、心底不快そうに言ったカイルワーンに、カティスも負けず劣らず不快そうに言った。

 だが、なぜかささくれだってしまった気持ちを、カイルワーンはどうにもできず、苛々と言い捨ててしまう。

「僕はそこまで頼んだ覚えはない」

「なんだ、お前? なにいじけてるんだ? ははあ、お前この子たちに嫉妬してるな」

 冗談めかした言葉に、カイルワーンは頭の血管が切れそうだと思った。

「カティス、この人誰?」

 女性たちから上がった当然の問いに、カティスはにっこり笑って答える。

「俺の新しい恋人」

 この言葉に、ぷっつんと音を立ててカイルワーンの頭の中で血管が切れた。

 次の瞬間、カイルワーンの平手がカティスの頬に決まっていた。

「いってぇ。本当冗談通じない奴だな」

「冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろうが!」

 癇癪を起こしたように叫んで、カイルワーンはその場から走り出す。苛立って、この場にいることがとても居たたまれなくて、たまらなかった。

「おい、カイルワーン、待て!」

 カティスの制止も耳に入らなかった。走って、走って、走り疲れて立てなくなるまで走り続け、カイルワーンは地面にへたり込んだ。

 僕はこんなところで、一体何をしているんだ。苛立ちが、焦りが、胸をかき回してやまない。激しく鼓動を打つ胸を押さえて、カイルワーンは壁にもたれた。

 八つ当たりだったことは判っているのだ。カティスに悪いことをしたと。カティスは何も悪くないのだと。

 けれども胸の中に不安があった。わけの判らない、だけど心の中にわだかまり、自分をたまらなくさせる漠とした不安が。

 何をやっているんだ、僕は。早く、一刻も早くアイラを見つけなければ。早く、立ち上がって、探しにいかなければ――。

 なのに、足が立たない。呼吸がちっとも落ち着かない。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

 その時頭上から、柔らかな声音が降ってきた。答えられずにいると、うずくまる彼の目線に、青灰色の瞳が降りてきた。つい、と手を伸ばされた手が前髪をかきあげてふれ、その冷たさにカイルワーンはなぜかほっとする。

 その金色の髪も、柔らかな日を思わせる容姿も見覚えがあり、カイルワーンはその偶然に苦笑を禁じ得ない。

「アンナ・リヴィア母后……」

 カイルワーンの呟きに女性は顔を微かにしかめ、続いて駆け込んできた人影に、顔を上げた。

「カイルワーン! って……あれ、おふくろ? なんでここに」

 カティスはうずくまっているカイルワーンと、女性の姿に驚いて声を上げる。そんなカティスに女性――カティスの母親、アンナ・リヴィアは呆れたように言った。

「おや、どら息子。いつの間に帰ってきたの」

「今着いたところに決まってるだろ。それよりも」

「この子はお前の連れ?」

「ああ、でも……」

 訳が分からず言いよどむカティスにアンナ・リヴィアは歩み寄ると、いきなりその頭に鉄拳を見舞った。

「いてっ」

「今までなんで気づかなかったの! この子、ひどい熱じゃないの!」

「え……」

 絶句するカティスを置き去りにして、アンナ・リヴィアはカイルワーンの元に戻る。再び額に手を当て、申し訳なさそうに言った。

「あの馬鹿息子のことだから、全然気づいてなかったんでしょう? だからって、こんなになるまで我慢しちゃ駄目よ」

 優しく髪を撫でる手が、気づかわしげな表情が、不意にコーネリアに重なってカイルワーンは胸が詰まった。

 遥か遠くなってしまった、もういない人。

 不意に一粒涙がこぼれ落ちて、それでようやく気づいた。

 アイラシェールと別れ、過去に来て以来、どれほど恐かったのか。

 どれほど、心細かったのか……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ