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それでも朝日は昇る  作者: 柴崎桜衣
第十章 戦野に舞い降りたる者
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10章6節

 陣営の最後方に、その一角はある。どの陣営にも与せず、中立を貫きながら商売をしていた者たち――レーゲンスベルグからやってきた商人たちの宿営地が。

 その一角、他の者たちと何ら変わらぬ質素な天幕の前。赤い火が盛んに熾る竈を、カティスとカイルワーンは囲む。

 日も完全に落ち、満天の星と月が光を投げ下ろしていた。

「それにしても、久しぶりだね。この一ヶ月、どうだった?」

「……長かった」

 少しばかりふてくされたようにもらすカティスに、カイルワーンは鍋の中身をかき回しながら笑った。

「お前の方こそ、体の具合はどうだ。一月も野宿してたんだ。疲れただろう?」

「野宿といっても、ちゃんと天幕の中で寝られてたんだ。どこに行っても、周りの人たちが気をつかってくれたから、楽をさせてもらったと思うよ。……それに」

 カイルワーンの黒い目が、暗く光る。

「今この時に、倒れてなんかいられない。もたせてみせるさ」

 その言葉に、カティスは顔をしかめたものの、敢えて何も言わなかった。

 5月1日の早朝、それぞれの自宅を引き払った二人は、アンナ・リヴィアを連れてレーゲンスベルグの上屋敷街に移った。そこはフロリックがカイルワーンのために用意していた邸宅で、すぐさまそこは二人の『計画』の前線基地となった。

 カイルワーンやカティスと縁がある者はそこに全て集まり、それぞれが口裏を合わせた。そして己の役割を果たすべく、ある者は旅立ち、ある者はカティスと共にレーゲンスベルグで準備に入り、ある者はカイルワーンと共にこの戦場に赴いた。

 そして約束の6月1日。カイルワーンとレーゲンスベルグの者たちが整えた舞台に、満を持してカティスが登り、そして今の瞬間を迎える。

「それにしたってお前、よくも恥ずかしくもなくこんな計画を立てたな」

 苦笑と照れを半分に混ぜ、カティスは言った。だがその言葉にも、カイルワーンは動じない。

「最初に僕は言ったろう? 僕は君に、英雄になってくれなんて言っていない。僕は君に、英雄を演じろと、そう言ったはずだ」

 それは率直なカイルワーンの本心で、伝説の真実だ。

 ここには真実など――弱く心に傷を負った、本当の自分たちなど必要ではないことを、誰よりも彼が一番よく知っている。

 必要とされるものが己の真実の姿でないのならば、演じるより他にどんな手段がある。

 この広い戦野いくさのは――世界は、彼らにとってはもはや舞台だ。

「お互い、猫をかぶるのは得意なはずだ。いい加減、覚悟を決めろ」

 温まった芋団子を盛大に皿に盛ると、カティスに差し出す。熱く甘いそれを喜んで頬張る彼に、カイルワーンは問いかける。

「それで、君の一月の成果はどうだい。竜騎兵の練兵は?」

「上々だ。あそこまで行けば、実戦でも使い物になる」

「フロリックさんたちの方は?」

「あれだけ機を見るのに聡い商人のあいつらが、この一生に一度の大取引を前に、手抜かりがあるわけないだろう。おそらくは明日か明後日には、仕掛けてくるはずだ」

 カティスのよりも遥かに少なく盛った自分の皿から、それでも確かに団子を口に運ぶカイルワーンに、カティスはしみじみともらす。

「それにしても、リーベンが泣いてたぞ。いくら演技だからって――俺が止めに入ると判っていたって、お前相手に剣を抜くなんて怖いこと、なんでしなければならないんだって」

「だから彼が誤って報復を受けないよう、あの時レーゲンスベルグの事情を知っている連中だけで、周囲を取り込んでもらったんじゃないか」

「だから、そうじゃなくってな、カイル」

「判ってるよ、君の言いたいことくらい。……彼には、嫌な役回りをさせた」

 今この地に集った者たちの中で、一体どれほどが、全てが仕組まれたことであったことを――芝居だったのだと気づいているだろうか。

 カティス登場の瞬間のためにただ一人、レーゲンスベルグ傭兵団の本隊とは別行動を取ってもらった傭兵、リーベン・ジベールは、事の後――カティスが諸侯たちと対決している最中、カイルワーンに別れを告げに来た。

 彼は人目を避けてここを脱出し、レーゲンスベルグに戻る手筈になっている。

「本当に君には、嫌な役をさせたね。本当は君だって、ブレイリーたちと一緒に行きたかっただろうに」

「この役もまた必要だったんだ。気づかうには及ばないよ」

「今から本隊に合流するのは無理だ。前からの打ち合わせ通り、君はレーゲンスベルグに戻ったらすぐ、残留の防衛部隊の指揮を取ってくれ。傭兵団の主だった者たちも、ギルドの主要人員もレーゲンスベルグを空ける今、街の防衛と統制が最大の問題だから」

 承ったとばかりに力強く頷いて、リーベンはふと寂しそうに顔を曇らせた。

 誰もが判っているように、これが今生の別れであることを、彼もまた判っている。

「カイルワーン、カティスに伝えてくれないか」

 万感の思いを込めて託された伝言を、カイルワーンはカティスに伝える。

「今までありがとう、と。ただそれだけを伝えてくれと」

 自分たちが捨てたもの。本当は一番大切だったのに、それなのに捨てなければならなかったもの。それが胸に迫って、カティスとカイルワーンはしんみりと視線を落とす。

 そんな彼らの心を現実に引きもどしたのは、近づいてきた足音。

「食事中に失礼する」

 努めて冷静に告げられた声は、二人とも聞き覚えがあった。

「僕たちを最初に訪れるのは君だろうと思ってたけど、やっぱりそうだったね、バルカロール侯爵」

 嘘か本心なのか判断のつけづらい笑顔で、カイルワーンはバルカロール侯爵を迎えた。

「時間を、もらえるだろうか」

「それはカティスだろうか? それとも僕?」

「まずは君に――賢者カイルワーン」

「ご指名だ、カイル。行ってこい」

 団子を片づけながらのカティスの言葉に、カイルワーンは苦笑を浮かべて立ち上がる。

「侯爵の宿営まで出向いた方がいいだろうか。それとも、ここで? 先日も今も、わざわざ出向かせてしまったんだ。その代わりと言ってはなんだが、侯爵の意向に沿おう」

「それでは、我が宿営までお越し願えるか」

「承った」

 そうしてカイルワーンはカティスを一人残し、バルカロール侯爵の天幕に招かれる。

 侯爵の天幕は他の者のものと比べれば大分質素であるが、それでもアルバの大貴族にふさわしい設いとなっている。それに臆することもなく、悠然としているカイルワーンに、侯爵は彼が上流階級の出であることを察した。そしてそれは、モリノーの娼館に埋もれていたアイラシェールにも感じさせられたこと。

 だが――侯爵は内心で呟いた。その謎も何もかも、今全てが解ける。

「戦場で茶が飲めるなんて、思わなかった。ありがとう」

 出された紅茶を疑うこともなく口に運ぶカイルワーンに、侯爵は遂に切り出した。

「君はあの時、再会した時には全て話してくれると、そう約束した」

 切迫した表情で――もはや堪えきれぬといった態で、侯爵はカイルワーンに迫る。

「君は、そしてアイラシェールは、一体何者なんだ」

「僕は彼女と共に育てられた者。白子に生まれついてしまったばかりに、先王朝を滅ぼした魔女の生まれ変わりと見なされ、王宮の片隅に幽閉されていた王女と、その友人、侍従として十四年、共に暮らし、共に生きてきた者だ」

「王女……」

 遂に明かされた彼女の身の上は、侯爵を驚かせると共に納得もさせた。だがその一瞬後に、侯爵は事態の不整合に――さらに増してしまった疑問に気づく。

「彼女の姓も、ロクサーヌだ。カティス殿下と同じ――これはどういうことだ」

「理屈が合わない、そう言いたいんだろう? もっともだ。この時代に、ロクサーヌを名乗る王家なんて存在しない。カティスが即位するまではね」

 にやり、と意地悪く笑うカイルワーンは、侯爵にたやすく真実を明かす。

「アイラは、カティスの子孫だよ。カティスから始まるロクサーヌ王家の正統の血を引く、紛れもないアルバ王女だ」

「それは……それでは、アイラシェールと君は、未来の人間だと? そんな不条理な!」

「信じてくれなくていいよ。信じてほしいとも思っていない。不条理だと一番思っているのは、何の因果か時を越えてしまった僕自身なんだし。だけど侯爵」

 切なげな――どこか恨むような、暗い表情をカイルワーンは見せた。

「大陸統一暦1217年までの記憶を――歴史を全て知る、僕とアイラシェールという存在は、この大陸統一暦1000年に確かに存在している。そのことだけは、揺るぎない事実なんだよ――どんな否定したいと思ったところでね」

 一つ二つ、当ててみせようか――熱い茶を口に運びながら、カイルワーンは挑むように言った。

「君は十三歳の時、落馬して左足に怪我をしているね。不注意からのことで、不名誉として身内しか知らないことだが、冬になればその傷が疼くんじゃなかったかな」

「なっ……」

「ご息女のロスマリン嬢が生まれた時は気が気でなくて、書斎の中を何周もぐるぐる回ってしまったと。生まれたのが男子でなかったことを、夫人も周囲も残念がって――五体無事に生まれてきてくれただけで自分はとても嬉しかったのに、周囲の雰囲気がそうだから、決してそれを口に出せなかったと――君はそう、日記に書いていなかったかい?」

 唖然とする侯爵に、くすくす、とカイルワーンは悪戯っぽく笑う。

「僕の時代になれば、二百年前の革命の立役者の一人、バルカロール侯爵エルフルトの日記は公開されている。この時代が専門だった歴史学者の息子である僕が、それを読んでいても何にも不思議じゃないだろう?」

「そんな……馬鹿な……」

 信じられない、と感情は叫んでいた。けれども、目の前に突きつけられた証拠が、侯爵を揺さぶる。

 カイルワーンの言葉を信じれば、謎の整合性が合う。

 あの最後の日、アイラシェールが残した言葉。その意味するところ。

 長い沈黙の中で、それを取り出し、反芻し、咀嚼し、やがて侯爵は沈痛な表情で呻いた。

「……彼女が預言者であったということは、そういうことだったのだな」

 カイルワーンは、声もなく頷く。

「己の人生は――人間の一生は全て決まっていると、自分は己の運命を全て知っているのだと……それは、こういうことなのか? 賢者よ。今ここで、私や君やカティス殿下が、彼女を簒奪者として攻め滅ぼすから――それが史実として残るから……」

「彼女はカティスの子孫だ。つまりはカティスが王として立たなければ生まれてこれない。だがあいつは、この戦乱なくしては――『赤い魔女』なくしては、王として立つことはできない。つまり彼女は、ここで僕たちに殺されなければ、生まれてくることもできない――そういう運命を背負っていたんだ」

 それはあまりにも、過酷な運命。

「そんな……」

「そのことに気づいた時、彼女はどんな思いをしたんだろう? 彼女は己の運命を悟った時、どれほど苦しんだんだろう? 多分それは、僕らなんかが量り知れるものじゃないんだ」

 我がことのように――我がこと以上に苦しそうに、顔を歪めて呻くカイルワーンに、彼の内心を侯爵は正しく理解した。

「君は、彼女を愛していたんだな」

「彼女に代えられるものなど、この世にはないと思って生きてきた。彼女のためならば、世界の全てを敵に回しても構わないと思っていた。だが彼女を追ってこの時代に辿り着き、カティスに出会った瞬間、全てを悟った――彼女を殺すことで英雄と讃えられる、賢者としての運命を。己のこれからの人生に起こる、全てを」

 この時バルカロール侯爵は、二人の預言者の真実を、その苦悩を知った。

 魔女と罵られ、賢者と讃えられる、正反対の運命に連なっているように見える二人の、全く等しい慟哭を。

「侯爵、運命は決して変えられない。僕も、アイラシェールも、カティスも……そして君も。だから僕たちはここに来て、君もまたここにいて僕とこうして話をしている」

 切なそうに告げるカイルワーンを、侯爵は食い入るように見つめた。

「カティスがレーゲンスベルグで告げたこと、あれは本当に、カティスの正直な気持ちだったんだろう。カティスは本当に、王になんてなりたくなかったんだ。だが、彼はここに来た――己に定められた運命の通りに。彼もまた、逆らえなかった。王位継承戦争で犠牲になる幾万の命の重さに、その悲痛を背負って生きていくことに耐えられなかった。だから彼は、王の道を選んだ――それしか選べない、たった一つしかない選択肢を、天に定められた通りに」

「賢者……」

「侯爵、君がアイラシェールのことを、どう思っていたのか、僕には判らない。君もまた彼女を一人の女性として愛していたのか、それとも娘のように思っていたのか――でも君の態度から、君が彼女のことを憎からず思っていたことだけは判る。それでも君は、彼女を見捨てた。君は全てを――妻子と、領地と領民と、己に課せられた責任を投げ捨ててまで、彼女を選ぶことができなかった」

 返す言葉もなく、悄然とする侯爵に、カイルワーンは共感をもって首を横に振る。

「ああ、違うよ。僕はそのことを責めたいんじゃない。僕が言いたいのは、それが君の運命だということだ。決して選ぶことのできない、定められた君の運命だ――バルカロール侯爵としての、君のね」

 カイルワーンが侯爵を見るその目は、憐れみにあふれていた。

「僕は、君が侯爵であるということが、人が羨むほどに全てにおいて幸せなことだとは思わない。独りで領地と領民を背負うことは、大変なことだろう? バルカロール侯爵であることで――侯爵家の長子に生まれたことで、君が諦めたことも沢山あるだろう? それでも君は、定めに抗わず、課せられた責任を全うしてきた。……君が望んで、選んで、バルカロール侯爵家の長子として生まれてきたわけではないのにね」

 ずきり、と胸の奥が痛むのを、侯爵は感じた。それは今まで誰一人彼に向けてくれることのなかった類の言葉。

 彼自身すら考えもしなかった、慰めの言葉。

「君は己の運命に抗わなかったことを、己の選択だというだろう。己の望みに――捨てられない己の本心に従って選んだことだと。だが、そう思う心そのものが、運命なんだ。君が侯爵領と領民を守りたいと思う気持ち、カティスが国民を見捨てられないと思う気持ち、そして僕がアイラにもう一度会いたいと願うこの気持ちこそが、僕たちを運命に縛りつける鎖に他ならない。……逆らえない。決して人は、己の望みそのものに逆らうことはできない」

 そしてカイルワーンは、その絶望の言葉を、侯爵に告げる。

「僕たちは――いいや、人は全て、天の繰り人形だ。己の望んだように生きているように見えて、己で選んでいるように見えて、実は全て定めの通りに踊らされているだけの、ただの人形にすぎないんだ」

 そんな――声を上げたかった。感情の奥深いところが、痛みに声を上げて、その言葉を否定したがった。けれども、その声が、出ない。

 諦観をもって、その絶望の言葉を口にした青年に、侯爵は恐れを抱く。

「どうして……そんなことを口にできるんだ。どうしてそんなことを受け入れて、生きていくことができるんだ。そんなあんまりなことを、どうして受け入れて生きていくことができるんだ」

「だから、死のうと思ったよ。一度や二度じゃなく、何度も。絶望した。もう沢山だと思った。錯乱して、幻覚も見て、地獄の入口まで行ってきたよ。それでも死ねないんだ。死ぬことを定められていない時間で、人は死ぬことはできないんだ」

 死のうと願い、その寸前までいった自分のその心を救い、運命に縛りつけた力。温かくこの上なく嬉しく、そして呪わしいカティスの思い。その全てが、運命の定めの中。

 自分は死ねない。定められたその瞬間まで、どれほど望んでもおそらくは愛しい人たちが自分を救い続け、その結果おそらく自分は生を選ぶ。

 それが、この運命の仕組みだ。

「侯爵、人は誰一人、この舞台の上から――人生という舞台の上から、降りることはできないんだ。己に与えられた脚本が、最後の一行――死という一行に辿り着くまでは、誰一人与えられた役を演じることを、やめることはできないんだ。その役がたとえ、悪人であったとしても、英雄であったとしても、それがどれほど己の望まぬ役回りであったとしても、変えることも降りることもできない。それが人生――それが運命なんだ」

 泣き出しそうに潤んだ瞳が、共感と同情と孤高をたたえて、侯爵を見た。

「それでも人は、生きていかなければならないんだ」

 勝てない。この時、侯爵は心の底からそう思った。

 人間として格が違う。

 体が震えてくるのを感じた。それはもう恐れではない。言うなれば、畏れだ。

 熱が、全身を駆けめぐる。

「聞かなければよかったと思っただろう? 知らない方が幸福なんだ、こんなこと。……こんな思いをするのは、僕とカティスと、アイラだけで十分なんだ。だけど、これを君に話したのは、ささやかな意趣返しだ」

 立ちあがり、帰り支度をしながら、カイルワーンは自嘲気味に笑って告げた。

「君はアイラを抱いたのか?」

「……それは」

「そうだとしても、それを恨む気はないよ。責める気もね。機会はいくらでもあったのに、できなかった僕が臆病なだけで。……だけど、羨ましいとは思う。だからこれはその憂さ晴らしだ。……でも、いいだろう? 聞きたがったのは君だ。君は己に運命が存在することは知っても、その中身を――自分がこれからどうなっていくのかを、知らない」

 己の全ての運命を知る者は、そう言って嗤うと、天幕の外に出た。

 そこは、降るような星空。

「一つ、お聞きしてもよろしいか?」

 彼を追い、天幕を出てきた侯爵は、カイルワーンに問いかけた。その口調が、微妙に改まったのを感じたが、それでも彼は追求せずに振り返る。

「何だろう?」

「貴方は、天使なのか?」

 突然の問いかけに、カイルワーンは苦笑いを浮かべた。

 否定するのはたやすい。だけど。

「そんなもので生まれた覚えはないんだけどね。だけど」

 神がおわすという――彼自身が呪ってやまない、神の国のあるという天空を遥か見上げ、カイルワーンは静かに告げた。

「僕をこの時代に送り込んだ者が――僕をこの運命に選んだ者が、もし本当に存在するのならば……それが神というのならば、確かに僕は、天使なのかもしれない」

 それが、繰り人形であるという意味ならば。そう思い、カイルワーンは瞑目した。

 天国は知らない。地獄もまた。神の姿も見たことはないし、その恩寵もまた信じられはしない。

 けれども自分はこの地上に生まれてきた。確かに生まれてきた。それ以外に意味のあることは、カイルワーンにはなかった。

 その時、衣擦れの音がした。膝を折り、頭を垂れた侯爵に、カイルワーンは驚きの声を上げる。

「何の真似なんだ? 侯爵」

「ようやく、私は真の主君たる方に巡り合えたようだ」

 声は喜びに満ちながらも、どこか諦観が感じられた。腰の剣を外し、握りしめながら、侯爵は畏怖と憧憬に満ちた眼差しで、十六歳も年下の青年を見上げる。

「我が忠誠と領地と領民、その全てをこの剣とともにお受け取りください――我が君」

 捧げられた騎士の礼。差し出される剣に、カイルワーンは戸惑う。

「君が忠誠を捧げるべきなのは、僕じゃなくてカティスだろう」

「だからこそ、貴方に捧げるのです。この剣は、王権と運命の苦痛を等分に分かつ貴方たち双方に捧げられるもの――決して、王だから膝を折ったのでは、忠誠を誓ったのではないことをお汲み取りいただきたい」

「侯爵……」

「どうか私を、貴方たちの臣の列にお加えください」

 強い眼差しに気押されていたカイルワーンは、しばらく逡巡していたが、やがて小さく笑った。

 これもまた、一つの運命だと悟って。

 差し延べられた手が剣を握り、どこか弾んだ声が力強く響く。

「許す。僕たちの臣の列に加われ」

「ありがたき幸せにございます」

「こき使うぞ、覚悟しろ」

「それこそ、望むところでしょう?」

 立ちあがり、不敵に笑う侯爵に、カイルワーンも笑い返した。

 かくして大陸統一暦1000年6月1日、運命は定められた軌道通りに、着々と歩みを進める。

 それぞれの者の思いを、心を、すべて呑み込んで。


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