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韜晦

作者: 雨森 夜宵

「ねぇーマオちーん」

「何」

 どうせ死にたくなったか何かだろう、とタイツをたぐりながら思う。

「死にたくなってきちゃったぁ」

 案の定だった。

 部屋の反対側、螢はまだロフトベッドから降りてきていない。何もなければすぐに梯子を降りてきているはずだった。だからこうしてぐずぐずと布団の中にいるのは体調が悪いか、或いは大抵の場合、生きるのに乗り気でない時だ。

「勝手に死んでなさい」

 ドールハウスのようなベッド下の空間を見るとはなしに眺めながら私は言った。椅子は机から随分離れたところに放置されているのに、机の上のファイル類は律儀に色順でまとまっているのが螢らしい。

「えぇ? 勝手にシンドバッド?」

 間の抜けた言葉に苛立って顔を上げると、ロフトベッドのカーテンが僅かばかり開いた。その隙間から、寝起きの螢の、青白いとさえ言っていいような顔が覗いた。目が合うと、切れ長の両目がさらに細まる。どこか力ない様子で下がった目尻の陰影に、ああ、空元気だな、とすぐ推測できる程度の付き合いではあった。多少イラっとしても、直接それをぶつけてしまう訳にはいかない。初めの頃は自分で抑え込まなければいけなかったのに、今となってはもう、苛立ちそのものがひとりでに、何か諦めにも似た感覚に変化するようになった。

「……殺すわよ?」

「願ったり叶ったりですん」

「冗談。大して死にたくもないくせにそんなこと言わないで」

「えー、そんな殺生な」

 にゅふふ、と笑う螢はしゃっとカーテンを閉めた。私がタイツを際どいところまで持ってきていたからだろう。女の子同士、別に見られたってどうということはないのに、と思う。勿論見られたいわけでもない。でもそこまで律儀にカーテンを閉めることもないんじゃないか。いや、いいけれど。凝視されるよりは余程。爪を立てないように気をつけながら指をかけて、するすると腰まで引き上げる。スカートの裾を元に戻して手で払う。

「いいよ」

「ん」

 これまた律儀にしゃっとカーテンが開く。よいしょ、と無意味な声を上げながら、ベッドの下の椅子に腰掛けた。小学生の学習机についてくるような椅子だけれど、これでなかなか悪くない。カーテンの隙間の顔から視線を下ろすと、向かいの机の上に畳まれたままの洗濯物が積んであった。

「螢、もう着替えたの?」

「んにゃ。とってもパジャマですな」

「今日二限あるでしょうに」

 螢の時間割は私のものとかなり被っている。私の時間割を半分ほどに間引いたような時間割だ。水曜日に限っては丸ごと被っているから、いつの間にか螢を引きずり出すのも私のルーティンのうちに組み込まれてしまった。でもそれもやっぱり、悪い気はしない。脱いで机の上に置いておいたパジャマを畳んでいく。

「あるよぉ」

 へにゃっとした声が返ってくる。

「あと、三限の課題は?」

「うーん。どうだったかなー」

「それはやってない時の声」

「あらぁ、バレた」

「馬鹿言ってないで早く降りてきなさいよ」

 んぇー、とあからさまに面倒臭がっている雰囲気が伝わってくる。頭をぶつけないように気をつけながらベッドの下を出て、畳み終えたそれを、カーテンの隙間から枕の脇に放った。軽い音がする。

「おふとんが離してくれなーい」

「つべこべ言わない」

「マオちーん」

「何よ」

「今日一日くらいここでゴロゴロしてたってさあ、バチは当たらないと思わない?」

「絶交されたいの?」

「わあ、はい、今降りますすぐ降りまーす」

 そう言った割には何も物音のしないまま数分が過ぎ、ようやく螢の足が梯子段にかかった頃には教科書の詰め替えが終わっていた。螢はゆっくりと伸びをした。ぼんやりと目をこすりながら、廊下へ出ていく。

「パンと目玉焼きでよろしいかー?」

「いいわよ」

「スープは?」

「何があるの?」

「コーンポタージュと、かぼちゃのと、あとたまごスープだなー。あ、お味噌汁も作れるぞ」

「具は?」

「わかめとおじゃが」

「じゃあお味噌汁がいいかな」

「りょーかいしましたん」

 螢の味噌汁は本当に美味しい。材料は別段特別なものを集めたわけでもないし、調理工程もむしろシンプルなものと言っていい。それなのに、私のものとは全然味が違う。一体何が違うのか分からない。気持ちじゃよ気持ち、と螢はおどけて言う。それがどういうことなのか、それもよく分からない。美味しく作ろうと思っていないわけではないのだけれど。キッチンからはピーラーの音がしてくる。コンロに火が入る。二口のコンロにこだわったのは螢だった。要領が悪くてひとつひとつが遅いから、同時にやらないととてつもなく時間がかかると言う。螢の話はどれも同じように分からない。同時に何か出来る方が余程要領がいいのではないか。ひとつずつしか進めてゆけない私の方がどうしたって。

「マオちーん」

 螢はほとんど呟くように言って、少し自嘲気味にふふんと笑った。

「何よ」

「やっぱり今日、行かなくてもいいかなあ」

「行かなかったらますます落ち込むでしょうに」

「うん。そうなんだけどさ。でもさあ。本当に行きたくないしさあ。今日は無理だよう」

 とん、とん、と包丁がまな板に触れる。その音は随分と大きく間隔をあけていた。その妙に間延びしたリズムが苛立ちを呼ぶ。苛立ちのうちに消してしまわねばならない。これが怒りに変化すると、私は歯止めがかからなくなってしまう。

「なんで無理なの?」

「ほぇ?」

「なんで無理なのって訊いたの」

「なんで、ねえ。うーん。なんでかなあ。なんとなくなんだよなあ」

「それじゃ分からないでしょうに」

「それが分かったらねえ。自力でどうにかして、大学にだって行けるんだなあ。これが」

 ぴきり、と私の中で音がした。

「どうして分からないのよ」

「んんー。それも分かんないなあ。本人の与り知らないところで、そういうのは回ってるんだよ」

「そんなわけないでしょ」

「あるよお」

「ない」

 勢い任せに立ち上がる。

 ない。そんなもの。あってたまるか。

 螢の感情の浮き沈みが激しいのは分かっている。だけどそれは、端的に言ってサボり癖に過ぎない。だからこそ、そんなものに流されずに強く生きていかなければならないのだ。振り回されて余計に落ち込むくらいなら、尚の事。そんなものに従ってはいけない。その方が螢にはいいのだ。そう思う。自分を制御することを螢は学ばなくちゃならない。私が螢と一緒に住もうと思ったのは、そういう理由もあった。勿論経済的な問題もあったけれど、一番大きな理由は螢を一人にできないと思ったからだ。

 寮に入ってもサボり癖の抜けなかった螢が、一人暮らしでうまく生きていけるとは思えなかった。自分の怠慢で親に通わせてもらっている大学も卒業できなかったら、螢は何と言い訳するのだろう。

「あーるー」

「ないの」

 ぴしゃりと言うと、螢は何も返してこなかった。こんこん、かしゃり、と卵の割れる音がする。螢と背中合わせに立って、洗濯機に諸々の洗剤を入れていく。

「あったとしても、大学に行かなければ余計に落ち込むのは分かりきってるんだから。ちょっとくらい無理したって、講義には出るの。それがあなたのやるべきことだし、そうした方が結果的にいいの、自分で分かってるでしょう?」

「んー。まあねえ」

「じゃあ行きましょう」

「えー」

「行くの」

「……しょーがないにゃー」

 チン、とトースターが軽やかな音を立てた。

「おっと、ちょっとお待ちよトーストちゃん」

 皿はいつも事前に出してある。螢は卵の乗ったフライパンを少し揺すってから、その皿の上へパンを置いた。味噌汁のいい匂いがする。洗濯機の蓋を閉めてスイッチを押す。電子音のメロディーを聞きながら、二台のロフトベッドの間に簡易テーブルを置いた。ちゅんちゅん、と窓の外に鳥が鳴いている。テーブルを蹴飛ばさないようにベランダへ出て、置きっぱなしにしてある二リットルのペットボトルから水をやった。レモンと、バジル。勿論食べる。ちょっとした贅沢をするのにいい。レモンに至っては年に一つ食べられればいい方だけど、それで螢が作るマーマレードは私の大好物だ。パンに塗っても美味しいし、ヨーグルトに乗せてもいい。紅茶に入れてもいい。でも、もう少し寒くならないと実はつかない。

「お味噌汁だけちょっと待っててねえ」

 パンの皿は既にテーブルの上にあった。螢の分には、パンの上にそのまま目玉焼きが乗っている。螢は私の分の目玉焼きの皿を運んでくると、またキッチンへ戻っていった。それを見ているだけというのも気が引けるのだが、何しろ部屋が狭い。二人で同じ動線上を歩くと却って危ないのだった。戻ってきた螢の手に、湯呑が二つと、急須。ふわりと緑茶の香りが膨れて、テーブルの上、螢と私の間で弾けた。温かな、優しい空間。

「よーし、いただきまーす」

「いただきます」

 しっかり手を合わせてから、バターのケースを開けた。隅々まで念入りにそれを伸ばしていく。螢は目玉焼きの上に何箇所か箸で穴を開け、その上から醤油をひと回しした。最初見た時は本当に驚いた。焼き加減でも確認しているのかと思ったら、醤油が卵の上を流れ落ちないようにそうするのだと言う。確かに合理的ではあるけれど、なかなか斬新なことをする。螢は卵をパンで包むように折りたたんで、ぱくりとかじった。バターの香りの向こうから醤油の匂いが漂ってくる。私はバタートーストを単品で、目玉焼きは塩だけで食べてしまう。少し油で重たくなる口の中を、緑茶で洗うようにしてその香りを楽しむ。

「んまー」

 へにゃ、と螢は頬を緩ませた。

「美味しいもの食べるとさあ、ちょっと生きていこうって気になるよね」

「そうかしら」

「あー、別に死にたくもない時は思わんかもなあ。確かに」

「幸せだなとは思わなくもないけれど」

「あ、それそれ。そんなとこ」

 そーんなーとっこー、とリズムをつけて螢は繰り返した。

「それで、宿題はどうするの?」

「おっ、すっかり忘れておった」

「思い出したからにはやるでしょう?」

「んーまあねえ。でもさあ、昼休みの五十分があれば終わる気しない?」

「それはそうね」

 三限の課題とは言っても、教科書を数ページ読んで疑問点を三つ出すだけのものだった。とはいえ、その場でぱっと問いが出るタイプならいいだろうけれど、螢はそれにかなり時間のかかるタイプだ。いつも講義の終わった後、もっとかかる時にはここへ帰ってきて夕飯を作りながら、私にぽろっと訊いてきたりする。それはどう控えめに見ても、螢のためになることではなかった。

「というか、もうそんなに時間ないじゃんな?」

 螢の視線の先には、私の机の上の置き時計があった。ここから大学までは歩いて十数分といったところだ。とはいえ、あまりゆっくりともしていられない。

「あらほんと」

「お味噌汁、どうしよっか?」

「食べたい」

「ですよねー、せっかく作ったしねえ」

 うんうん、と頷いて、螢はキッチンへ戻っていった。食べかけのパンは半分ほど。それがゆっくりと開いていくさまを何の気なしに見ていると、どことなく開花の様子を早回しにした映像に似ていた。ゆっくりと開いたパン、白身、その中心に少しピンクを帯びた黄身。その全体に穴が開けられて、醤油が斑に散っている。萎れた色を纏ったそれはどう見ても美しくはなかった。まるで虫に食われたようでさえあった。でもこれが美味しいんだろうな、とも思う。バランスよく醤油のしょっぱさが散らされた目玉焼きとパン。それを更に、食べやすいように半分に折る。

「はい、どうじょー」

「ありがとう」

 受け取ったお椀から立ち上る匂いは全身の結び目を緩ませるようだった。吸って吐けば、緊張も不安も崩れて流れ去るような。拾い上げたじゃがいもは、噛むとしゃくしゃくといい音を立てた。ほくほくしているのも嫌いではないけれど、味噌汁のじゃがいもはしゃくしゃくであってほしい。私が随分と前に言ったことを、螢はずっと覚えていてくれる。

「おー、案外いいしゃくしゃくっぷりじゃんなー」

「そうね」

「んまー」

 ぱくぱくとじゃがいもを放り込むその顔は随分楽しげで、さっきまで死にたいだの大学に行きたくないだのと口走っていたとは思えない。これも空元気なのだろうな、とは思う。でも、時々信じられなくなる。もしかして死にたいと言うのは螢なりの冗談か何かなのだろうか、とか。実際には別に、死にたくも大学へ行きたくなくもないんじゃないか、とか。私がこうしてそばにいるから甘えようとしているだけなんじゃないかとか。実際に、こうして私が誘えば螢は必ず講義に出た。騒ぐほどのことでもないんじゃないか、と思ってしまうことがなくはない。通院しているわけでもないし、薬を飲んでいるわけでもない。こんなに気を遣っているのが馬鹿らしくなる。

 余程、怠惰なだけなのではないか?

 気を逸らそうとでもするように、洗濯機がチープな電子音を鳴らす。

「今日はよく乾きそうね」

「ね。最近雨続きだったからなー」

「シーツも洗えば良かった」

「んあー、確かに。ま、今日から一週間はそんなに天気悪くないんでしょ?」

「そうみたいね。じゃあ明日にしましょうか」

「がってん承知の助」

「何それ」

 思わずふふっと笑いを漏らすと、螢は何故か、少し安堵した様子で微笑んだ。

 朝ご飯を食べ終えると、まず洗濯物を干す。その間に螢が食器を洗い、弁当用の白米を用意して、着替える。とはいえどれもふたり分しかないのだから、そう時間がかかるわけではない。問題はその後だった。何しろ螢は、化粧が壊滅的に下手なのだ。

 朝ご飯に使ったテーブルをそのまま使って、螢と向かい合う。

「まずはー、化粧水」

「正解」

「いぇーい」

 毎日のように繰り返される会話だが、これも最初は間違えていたのだから洒落にならない。ぴちゃぴちゃと音を立てて滴り落ちるそれを、まんべんなく顔中に馴染ませる。料理について自分で言っていた通り、螢はマルチタスクに強い一方で、ひとつのことを片付けるのに時間がかかる。料理は並行して進めることができても、化粧はひとつひとつやっていくしかない。そのせいか、下手をするとベースメイクだけでも三十分近くかかる。気にしすぎるのだろう、と思う。几帳面なのだ。今だって、既に化粧水がしっかりと馴染んだ肌の上を、何度も何度も細かく叩いている。

「螢、もういいと思うわ」

「え、ホント?」

「もう十分よ」

「あらぁ、じゃあ早く次行かないとじゃんなー。化粧下地!」

「の前に保湿クリーム」

「そうでした」

 目の前にあったクリームの容器を螢の前に置くと、こん、と音がした。

「せんきゅーせんきゅー」

「出し過ぎないようにね」

「分かってやすぜえ」

 真剣に容器を傾けた螢は結局、明らかに顔面の半分くらいしか塗れなさそうな量を手のひらに乗せていた。ここに足させると面倒なことになるのでもう言うのをやめておいた。容器の蓋を閉め、擦り合わせた両手を頬に置く。少し爪が伸びているのが気になった。

「多分、今の量でもう一回出すとちょうど」

「ありゃん、そんなに少なかった?」

「そんなに少なかった」

「むー。難しいですな」

 ぺたぺたと、顔の下半分にそれを伸ばしている。私は下地を塗り終えた手を軽くティッシュで拭いた。テーブルの中央に置いてある鏡をひとつ、少し自分の方へ引き寄せて、リキッドファンデーションを伸ばしていく。

「ねー、マオちーん」

「何よ」

「化粧ってさあ、何のためにすんの?」

 始まったな、と思う。何のためにという螢の質問は、大抵がめんどくさいと感じた時に発せられる。

「見栄えよくするためでしょう」

「じゃあさあ、なんで見栄えよくすんの?」

「その方が何かと得だからじゃないの」

「うーん。でもそれってさあ、お金ほしさに人を騙す、みたいなのとどう違うのん?」

「詐欺だって言いたいの?」

「ん、まあそんなとこだなあ」

「分からなくはないけれど。あと、それもう充分塗れてる」

「およよ」

 ファンデーション用のブラシを置きがてら、クリームの容器と下地の容器を入れ替える。鏡で確認しながら眉毛を少し書き足す。左の眉尻に小さなニキビができていた。また気付かないうちに触っていたのだろうかと思うと、気が重い。

「せんきゅーせんきゅー」

「じゃあさ」

「うん。なんぞ?」

「すっぴんで外に出た方がいいと思ってるの?」

「うん」

「どうして?」

「だってさあ、男の人ってお化粧しないじゃんな?」

「それはそうだけれど」

「そいたらさ、化粧要らなくないすか?」

「そういうわけにもいかないでしょうよ」

「なーんでよー」

 眉間にしわを寄せた螢の前にファンデーションを置いてやると、それでも素直にブラシを手に取る。

「女性は化粧をするものと決まってるから」

「そんなこと誰が決めたんじゃあ」

「知らないわよ。古くから女性はそうしてきたのだし、そうするべきなの。世界中のほとんどの人はそれを知っているし、きっと日本の大人は全員知っているでしょうね」

「うーん。でもさあ。昔からそうしてきたって知っているからって、やらなきゃいけないわけじゃないじゃんな?」

「そうね。根源的には」

「根源的には?」

「そう。ちょっと動かないで」

 きゅっと首を傾げた螢の、眉の上に固まったファンデーションを指で取ってやる。

「もう一回ちゃんと伸ばして」

「ほいほーい」

「実際には、というより理屈としては、メイクなんかしなくたって生きていける。確かにね。でもみんながそれを当たり前に思っているとなると話は別」

「ほうほう?」

「みんなそうするべきだと知っているということはつまり、みんなそうして当たり前だと知っているということに繋がる。それをしないのは、結局どういう理由であれ、やるべきことのできない人とみなされておしまいでしょう」

「ええー。でもさあ、それはさあ、そうやって思ってるみんなの方が間違いじゃないのん?」

「そう。あなたが今すぐ全国の大人たちを説得して納得させられるならそうするといいわ」

「うわー、無理」

「それに、実際化粧をするのが面倒なだけなんでしょう?」

「あーまあねえ」

 ふにゃんと笑ったその顔はいつもの通り含みのあるもので、また少しイラッとくる。この子はそういう性格なのだと思っても、やはり処理しきれない欠片のようなものがそこに残っている。

「それならつべこべ言わずにやりなさいよ」

「仕方ないにゃー。……よし。ファンデーションどうですか師匠」

「生え際だけもうちょっとしっかり伸ばして」

「あいあい」

 螢が生え際を丁寧になぞっている間に、私はアイシャドウを塗り終え、アイラインを引き、手早くビューラーをかけていく。両目のそれが終わっても、螢はまだ生え際をなぞっていた。

「もういいでしょう、十分よ」

「おっけー」

 へらへらと、螢はブラシをテーブルに置いた。

「眉毛だけ描いておいて。軽くなぞるだけでいいから」

「ほいほーい」

 ちょうど私がチークを塗り終えるのと、螢が眉毛を見せてきたのが同時だった。当たり前だがはみ出したりはしていない。基本は器用なのだ。遅いだけで。だから結果的に雑になってしまうのだけど、それでも私が手伝ってやった方が。

「いいよ」

「いぇーい」

 何倍も早く済む。

「目、閉じて」

「うむ」

 ふっと、螢は目を閉じる。

 何故かその瞬間、螢の顔からは感情らしい感情が消えてなくなるのだった。口角の微笑みも、頬の緊張も、目元の陰影も、全てがするりと解けてどこかへ行ってしまう。化粧水と乳液とファンデーションを、神経質なほど丁寧に塗り重ねた石膏の像のような顔。何かを押し殺しているというよりも、そもそも何もない、そんな顔。だというのにそれは、螢の見せるどんな顔よりも美しかった。手に取った筆やブラシが吸い寄せられるように肌に触れ、まるで隠されていた色を、線を、暴き出すようになぞってゆく。

螢がもう二度と目を開けなければいいのかもしれない、とふと思う。目を閉じている間、螢は微動だにしない。口を開くこともない。そういうのがいいのかもしれない。例えば、今こうして螢の瞼の縁に少しだけ青みがかったアイラインを入れているこの瞬間が何倍にも何倍にも引き伸ばされたなら、それはなかなか素敵なことなのかもしれない。アイラインが乾くまでの間に、軽くチークを重ねる。かなり白い肌の螢はチークを入れないと今にも倒れそうに見える。額、鼻筋、顎にも薄く同じ色を入れて。その頃にはアイラインも大体乾いて、目を開けても構わない頃合だ。

「いいよ、開けて」

 眠りから覚めるように、螢はゆっくりと、目を開ける。ぱたり、と瞬きをする。そしてもう一度目を開ける時に、例のごとくふにゃりと笑うのだった。

「……問題なし?」

「問題なし。あと口紅は自分で」

「あーい」

 口紅を手に取る様子はもう、いつも通りの螢だった。


    *   *   *


 ベランダの外、見上げた空は雨の気配を含んで重い。

「ねぇーマオちーん」

「何よ」

 どうせ死にたくなってきたんだろう、と思った。それでもここ最近、螢の口から死にたいという言葉が飛び出したのを聞いた記憶はない。意識的に抑えているのか、何らかの峠を越したのか、詳しいことはよく分からない。それでもイライラの原因が減ったこと自体は喜ばしかった。寝起きの呼びかけに続く「死にたい」は私をひどく苛立たせる。それでも、どこか懐かしいような、ほっとするような感じがするのは、なんだろう。

「今日さあ、大学行かなくていいかなあ」

 やはりか、と内心で奇妙なため息をついた。呆れたような。嬉しいような。

「面倒くさいだけなら行きなさい」

「うん。そうだねえ……」

 明らかに歯切れの悪い返答が引っかかる。いくらゆっくりと間延びした喋り方をするとはいえ、変に口ごもるようなことはあまりなかったような気がした。見上げた視線の先、カーテンは僅かに開いているものの、そこに螢の顔は見えなかった。

「どうかしたの?」

「んえ?」

「調子悪い?」

「あー、まあ、調子悪いってほどでもないんだけどなー」

「何よ。程度によらず不調は不調でしょうに」

「まあねえ、そうなんだけど。でも、そんなでもないんだよう。頭が痛いだけ」

 時々、螢は頭痛にやられて動けなくなることがあった。原因は定かでないものの、一日寝込んでおけば割にけろりと治るタイプのものだということは知っている。

「熱は?」

「ないとおもーう」

「他は大丈夫なの?」

「うん。気持ち悪くもないし、お腹痛いとかもないんだなー」

「そう」

 朝ご飯を作らなければ、と思う。幸か不幸か、この天気のせいで洗濯の手間は省けたからさして問題ではないだろう。

「動ける?」

「もうしばらくじっとしてたら出来ると思うでよ」

「ご飯は自分で食べられる?」

「大丈夫ー。お腹すいたら適当に食べるよう」

「分かった。講義のレジュメは貰ってきてあげるから、ゆっくり寝てなさい」

「うん。そうするー」

 しゅるりと、カーテンが閉まった。少し息を止めると、静かな、押し殺したような呼吸が、カーテンの向こう側から聞こえていた。ベーコンとほうれん草をバターで炒め、コーンポタージュとトーストとそれで朝ご飯にした。皿に移した炒め物の残りにラップをかけて、冷めるまでの時間でレモンとバジルに水をやり、冷凍の白米をひとつ温める。大学の食堂でおかずだけを頼み、持っていった白米と合わせて昼食にするのが習慣になっていた。そろそろストックが切れそうなことを確認して、冷蔵庫に貼り付けたホワイトボードに「冷凍ご飯のストック」とメモを取る。螢の体調が早めに戻れば、或いは私が帰宅するまでに消えているかもしれない。他に「ティッシュ」「食器用洗剤の予備」とメモがあるのは螢の字だった。こっちは私が買ってきた方が好都合だろう。携帯で写真を撮って保存し、いつもより遥かに短い時間で化粧を終えて、出しっぱなしにしていた炒め物を冷蔵庫へ仕舞った。

「行ってくる」

 んー、と曖昧な答えが返ってくる。

「余りが冷蔵庫に入ってるから適当に食べて」

「うん。……」

 うん、の後に何かを言ったようだったけれど、何と言ったのかは上手く聞き取れなかった。少し気になったものの、そのまま眠ってしまったのかもしれないと思って、聞き返すのをやめた。部屋から出て外から鍵をかける。螢を部屋に閉じ込めているような感じがして、少し後ろめたいような気がする。勿論鍵を閉めねばならないということはよく分かっているのだけど。

 マンションを出てから、聞き取れなかった言葉は「すまんなあ」だったのではないかという気がしてきた。そして多分、その通りだった。


    *   *   *


「ただいま」

 部屋の中は真っ暗で、その上返事はなかった。玄関、廊下、と順に明かりをつけながら部屋へ戻る。カーテンは閉まったままだった。耳を澄ますとやはり、あの押し殺したような呼吸が聞こえてくる。

「ちょっと失礼」

 梯子にそっと足をかけてカーテンの隙間から覗き込むと、布団をしっかり首までかけた螢が寝息を立てていた。朝から寝続けているのだろうか、と不安になったものの、キッチンのゴミ箱にはくしゃくしゃになったラップが捨てられていて、炒め物を移した皿と螢の箸とが食器かごに干されていた。ひとまず食べるには食べられたのだと思うと少し安心した。買ってきたスポーツドリンクとゼリーとは備蓄用になるかもしれない。ティッシュと食器用洗剤を納戸に戻して、食料品を冷蔵庫へ仕舞い込む。そこに残されたメモは朝に見たものと全く同じで、「冷凍ご飯のストック」だけを残して消した。

「んんー」

 伸びをするような声がした。

「螢?」

「あーぁい?」

 カーテンがするりと開いて、螢の心なしか青ざめた顔が覗いた。

「おー、おかえりい」

「あなたちゃんと寝たの?」

「めーっさ寝たけども」

「それにしては顔色ひどいわよ」

「およ、そうかね?」

 ぺち、と片手を頬に当てて、螢は首を傾げた。

「熱のある感じとかはしないんじゃがのー」

「食欲は?」

「なくはー、ない」

「ゼリーとスポーツドリンクは買ってきたけれど」

「お、ゼリーは食べるぞい」

「じゃあ降りてらっしゃい」

「おーっけー、降りますですよん」

 ひゅっと顔が引っ込んで、入れ代わりに真っ白な脚が二本突き出した。

「何があるー?」

「ぶどうとみかん、グレープフルーツ」

「みかん!」

「みかんね」

「うん」

 パジャマの上に長袖のカーディガンを羽織って、螢はゆっくりと降りてきた。出しっぱなしだったテーブルの上にゼリーとスプーンを出してやる。螢の分はみかん、私の分はグレープフルーツにした。最初はご飯を食べようという気もしていたけれど、ゼリーを見るとこれで事足りるのではないかと思えてくる。

「およ、マオちんもゼリーなん?」

「そうよ。なんだかめんどくさくなっちゃった」

「ありゃー。まあたまには、こういうのもねえ」

「そうね」

「うむうむ。よーし、いただきまーす」

 べりっとふたを開けると、透き通った淡い黄色のゼリーにごろごろとナタデココが沈んでいた。果肉が入っていないのは少し残念だったものの、この手のゼリーには正直目がない。口に流し入れると、甘酸っぱいような微かに苦いような、絶妙な味がする。つるりと流れるゼリーの冷たさの中で、ナタデココを噛んだ時のきゅっとした感触と、滲み出る甘さがたまらない。絶妙なチープさもご愛嬌の幸せだ。

「みっかんー。うまー」

 もきゅもきゅとみかんを咀嚼しながら螢は言った。そのペースから察するに、食欲がなくはないというのは本当らしかった。

「マオちーん」

「何よ」

「化粧の話したの、覚えてる?」

「化粧?」

「女の人が化粧をしなくちゃいけないのは、みんなそうして当たり前だと思ってるからだって。ちょっと前にしてた話」

「ああ、あれね」

 二十日前はちょっと前ではないと思うけれど、言うのも面倒な気がした。

「あれさあ」

「うん」

「……マオちんはさあ」

「何よ」

「お化粧するとキレイになるじゃん?」

「まあ、しないよりは」

「でもさあ。マオちんは性格もいいし、元々キレイなわけだよなあ」

 螢はいつになく神妙な顔をして私を見つめていた。ぶわっと、顔に熱が昇ってくる。

「何よ急に」

「……褒めてるんじゃよ」

 にまあ、と表情を崩したその様子が、どこか虚ろに見えた。

「やめなさいよ、気持ち悪い」

「えぇー、折角褒めてんのにー?」

「普段そんなことひとつも言わないじゃない」

「そりゃねえ。言う流れにならないと言わんでしょ」

「今は何の流れよ」

 ゼリーを口に入れて、螢はふっと真顔に戻った。

「……だからさあ。マオちんは元々キレイで、それを化粧で際立たせるわけじゃんな?」

 うっかりナタデココを飲み込んでしまって随分とひどく噎せた。

「おうなんや、どうした」

「噎せたのよ」

 なんて当たり前のことを言っているんだろうと思う。

「というか、だからそんなことないでしょうって」

「じゃーあー、ひとまずそうだと仮定すんじゃん?」

「仮定ね?」

「うん。仮定すんの。そしたらさ、マオちんは嘘をついてないってことになるでしょ。元々持ってるものをよく見えるようにしてるだけなんだもんさ」

「そうね」

「うん。でもさあ例えばものすごーく性格悪くて、顔もあんまり綺麗じゃない人が、ものすごーくキレイで素敵に見えるようなメイクをするとするわけ」

「仮定ね」

「そう、仮定すんの。そしたら、その人は他人を騙してるってことに、ならん?」

 どういうことだろう、と私は首をかしげた。螢は何を気にしているのだろう。

「ならないと思うけれど」

「なんで?」

「だって、騙そうとしてないもの」

「んー、でもさあ、でもさあ、騙そうとしてないって言ってもさあ、相手が騙されたーって思ったら、騙してるっていう判定にならん?」

「じゃあ訊くけれど、化粧をした状態で綺麗だなあと思った人が後から化粧を落として物凄い不細工だったとして、騙されたって思う?」

「うーん、思わないけど……」

「じゃあいいじゃない」

「でも、思う人もいるかもしれないじゃん?」

「その時は謝ればいいわよ」

「んー、でも、じゃあ化粧する本人が騙してるって思ったらさあ……」

「それは間違ってるんだからそう思わなければいいだけよ」

「そうかなあ」

「そうよ。わざわざ傷つく方がおかしいのよ」

「……そっか。そうかもなあ」

 ふんふん、と意味深げに頷いて、螢はゼリーを食べる作業に戻っていった。アイラインを入れる時の、螢の閉じた目を思い出す。呼吸さえ感じさせない彫刻のような顔、球体をまざまざと感じさせる瞼の曲線。そのあるべき場所に黒を差し入れていく時の、血管の中に微炭酸の流れるような感覚。ぴりりとした緊張と吸い寄せられる筆先、艶かしく濡れた黒に浮かび上がる螢の瞼の縁。その下の、もっと深い黒を湛えた瞳。

 あの化粧は嘘だろうか。

 浮かんだ疑念を振り払う。いや、違う。決して。嘘なんかじゃない。あれは嘘なんかじゃない。人を騙すようなものじゃない。あれはただ、螢の、螢という存在の核にあるものが、自然に滲み出てきただけなのだ。化粧をした後の螢の顔こそが、彼女本来の美しさをそこに浮かび上がらせている。

「螢」

「んん?」

「螢の化粧は詐欺なんかじゃないわよ」

 ぱちり、と螢は瞬きをした。それから、ゆっくりと笑った。

「……そうかね」

「そうよ。あなたの化粧は嘘なんかじゃないし、自分を偽るようなものでもないわ」

「……うん。そっか。そうなのかあ」

「そうよ」

「うん」

 ナタデココをもうひとつ、奥歯で噛み締める。


    *   *   *


 熱い。

「マオちーん」

「……何よ」

「はいお邪魔ー」

 布団から出ないまま、脇の下に体温計を挟んで十数秒。むっと熱のこもった布団からそっと足先だけを出すと、それはそれで急に寒くなるのだから厄介だった。目から上だけがもやもやと熱く、胸のあたりが少し寒い。螢は梯子の上にひょっこり顔を出して、体温計が鳴るのを待っていた。マルチタスクを得意とする螢だが、こういう時には犬のようにじっとして離れない。体温計を私に差し出した後でひとまずベランダのカーテンを開け、ドアの郵便受けを確認し、何も持たずに戻ってきてそこに顔を出したのだった。

「お熱はどんなじゃー?」

「まだ測れてないわよ」

「うにい。はよう。はよう」

「急かしたって変わらないんだから静かにしてて。頭に響く」

「あ、ごめん」

 揺れる頭の中に辟易していると、布越しでくぐもった体温計の音がした。

「お。なんぼじゃ」

 デジタルで表示されている数字をそのまま読み上げる。

「……三十八度三分」

「ひゃー、高熱でねーかよ」

 確かに高熱なのだが、布団の中で測っている影響はあるだろうな、とどこかふわふわしたまま考える。そっと目を閉じて、握ったままだったケースにそれをしまう。

「まあ何にせよ、螢が休む必要はないわね」

「んえっ」

 分かりやすく動揺した声が聞こえて、思わず吹き出しそうになった。あまりにも予想通りだ。

「えー……でもー、三十八度超えてる人を一人にするのは少々不安といいますかー……」

「いいから。というか、余程講義出てくれた方が安心なの」

「うーん、そう?」

「そう。ついでに買い物してきてくれたらもっと助かるの」

「あ、そう?」

「そうよ。いいから身支度しなさいって」

「うむ。了解了解ー」

 比較的素直に螢は応じた。

「マオちんもっかい寝るでしょ?」

「そうね。多分」

「ん。分かった」

 螢が黙って諸々の雑事をこなしていくのを、私はうつらうつらしながら聞いていた。ほんわりとした味噌の匂いが、どことなく奇妙なものを伴って鼻を抜けていく。嗅いだ瞬間、目の前に芥子色の何かが漂うような感じがした。それが何の色かはよく分からなかった。少なくとも芥子の匂いではない。そういうツンとした、蛍光色のような匂いではなく、もっと重たい色合いの黄。それが何なのか考えようとしても頭が上手く回らない。熱の見せた何かなのだろう、とひとまずは納得することにした。

「卵焼きしまっとくね」

「うん」

 卵焼きの色かもしれない、と言われてぼんやり思う。焦げ目のほとんどない卵焼きの色。祖母の卵焼きの色だ。母方の祖母は甘ったるい卵焼きを作る人で、私はそれがどうしても苦手だった。甘いものを口にするとすぐお腹がいっぱいになってしまうから、ふた切れも食べれば他のものが食べられなくなってしまうのに、祖父は食事を残すことをよしとしなかった。甘い卵焼きを、最初から嫌いだったんじゃない。そうして無理やり口に詰め込んでいくうちに、いつの間にか嫌いになっていた。初めてしょっぱい卵焼きを食べたのは螢の作った朝ご飯でだった。今でも覚えている。あのしょっぱさで私は呪縛を解かれたのだった。卵焼きではなく甘い卵焼きが、それも嫌いなのではなく沢山食べられないというだけだと螢は教えてくれた。

 いつだって、螢はどこかで真実を捉えている。提示されたその断片を私は拾う。断片のつなげ方を私は間違える。でも繋げずにはいられない。秩序のないものは苦手だ。どんなものにでも秩序はなければならない、そう思うけれど、時々そのあり方に、言いようのない不安を覚える瞬間もある。

 螢は……。

「マオちん忘れてたよう」

「んー?」

「はい、お邪魔」

 なんだろうと思って待っていると、螢が梯子の上からひょいと顔を出した。そのままベッドへ上がってくるのに少し道を開けてやると、その手に熱冷ましを摘んでいるのが分かった。そうかストックがあったな、とぼんやり思う。

「はい、目閉じてー」

 言われた通りに目を閉じると、フィルムを取る微かな音の後、螢の冷たい手が額にくっついた前髪をどかした。びっくりするほど冷たい手だった。それがどかされると、入れ替わりにこれも恐ろしく冷たい熱冷ましが乗せられる。あまりにも冷たくて、頭の後ろの方が却って痛くなるような感じさえした。

「あい、終わり」

「ありがとう」

「いいのよいいのよー。だーってさあ、困った時はお互い様じゃんなー」

 そんなことを言いながらすたすた梯子を降りていくと、下から手だけを伸ばしてカーテンを閉めた。

「おやすみー」

「うん」

 応えて、そのまま目を閉じた。


    *   *   *


 ――眠っていたらしい。

 モスグリーンのカーテン越しに照らされる天井は薄暗い。日も高いのだろう。手探りでつけた携帯の画面は十三時四十分を表示していた。六時間も寝たのかと思うと急に頭が重たくなってきて、そういえば螢が出かけるのを聞かなかったなと思う。携帯を置いた手に固いものが当たって、何かと思ったら体温計だった。起きたついでに測っておこうと、開いた脇が汗で湿っていた。浮かせたままの右手に蓄積していくだるさが体調不良を訴えてくる。ふっと、吸い込んだ空気の中に味噌汁と、更にそのどこかに芥子色が香った。卵焼きの色か、と思う。結局それが何の匂いなのか、今考えても分からなかった。嗅げば嗅ぐほど、単なる味噌汁の匂いと変わらない。でも、確かに何かが香る。自分の熱がそれを生み出しているのだろう。無意味な白昼夢だ。

 くぐもった電子音に体温計を取り上げると、三十七度七分だった。数字としては少し下がったものの、体調の感じは変わらない。できることならこのまま寝続けたいところだった。でもそう思った途端、今度は喉の奥に何かが張り付いたような感覚に気付いた。渇きだった。水分不足は流石に危ないと身を起こすと、思ったよりは体が動くようになっているのが分かる。カーテンを開けた。昼過ぎの、なんとなく気怠い雰囲気を含んだ空間だった。

「昼かあ……」

 分かりきったことをわざわざ口に出して、もぞもぞとベッドから這い出た。スポーツドリンクの粉末は流しの下に置いてあるはずだった。一段一段慎重に梯子を降りていくと、やはり少しだけ身体が覚束無い。全ての感覚が皮膚の一センチ内側に潜り込んだような、それに近い違和感が残っていた。テーブルは片付けられていたし、ベランダの洗濯物はシルエットになってレースのカーテンに揺れていた。部屋の中心に立ったまま、思わずついた溜め息が熱い。どうも私の仕事は全てこなされているらしい。日頃ぼんやりしていても、こういうところで螢は真面目で、律儀だ。それがどうしてああなのだろう、と思わずにいられない。

 もっと上手くできるのに。

 螢はもっと、器用に要領よく、なんでも上手にこなすことができる。そうできるならそうするべきだ。そうしなければならない。そうしないなら、多分、息をしてはいけない。何かをするために人は生まれてきて、生きていくのだから。すべきこともせずに生きていくなんて、おかしい。私だって、螢より、出来が悪い、料理だってなんだって、螢よりできない。でも、出来なくても、そこで自分のなすべきことだけは、ちゃんとこなしているつもりだ。私にできることは、私のするべきことは、全部、全部こなしているから、ここでこうして、熱を出した時に休むことが出来る。それを許してもらえる。そうなっている、そうだ、世の中はそうやって回っているし、私はその中で、辛うじて許されながら生きている。辛うじて……。

 ああ、違う。今は取り敢えず、スポーツドリンクを取りに行かないといけないんだった。

 流しの下の戸棚には、非常用の水が四リットルと、調味料と酒の瓶が並んでいる。そこに、スポーツドリンクの粉末を箱のまま置いていた。風邪を引く度他方が買ってくるとなると、実際に必要なタイミングには間に合わない。それを気にした螢がいつぞやふらりと買ってきてから、これを重宝している。ひと袋取り出し、大きなマグカップに半分を入れる。細かな粒子が舞い上がるのを軽く手で払って水を入れた。このサイズだと、半分の粉末で普通に水を入れるとちょうどいい濃さになる。洗い物を置くかごにティースプーンが入っていた。紅茶でも飲んだのだろうか。それを取り上げて、マグカップの中身をぐるぐるかき混ぜる。流石に常温ではあったけれど、飲み下せばじゅんと音を立てて染み込んでいくような気がした。胃まで下りることなく途中で染み込んで消えてしまう。一口、二口と飲み込む度、身体の内側を伝う感覚を消えるまで追った。それは油断をするとすぐに見失ってしまう。掴みどころのない霧のようなものが、さっと広がって、薄れて消える。立ったまま水を飲むのも気だるくなってきて、ゆっくりとその場に座り込んだ。もたれかかった戸棚がほんの僅かに軋む。味気ないクリーム色の壁紙をぼんやり眺めながら、ぬるいスポーツドリンクを飲んだ。飲みながらふとベランダの方を見ると、差し込む光はほとんどないにもかかわらず、窓の外は真っ白に光を湛えていた。

 布団と枕を干そうか、と思った。

 この分なら洗濯物も既に乾いていておかしくない。多分。そういえば、と貼りっぱなしだった冷えピタを剥がした。それはかぴかぴに干からびて手の上で死んでいた。

「……よし」

 濯いだマグカップをかごに伏せてベランダへ出ると、日差しは暖かいものの、思ったよりも冷たい風が吹いていて体が震えた。とはいえ風そのものは乾いていて、布団を干しても大丈夫だろう、と思える。一番乾きにくいブラジャーがカラカラになっていることを確認してから、手当たり次第に部屋の中へ放り込んでいく。すぐに手がかじかんできて、布団を干したら確実に冷たくなるだろうとは思いつつ、何にせよ寝る時にはそう変わらないな、と考え直した。ひりつく喉の痛みがマシになっていれば、空調で部屋ごと温めてもいい。今の天気を見る限り、夜はかなり冷え込みそうだった。

 全部取り込み終えて、そういえばレモンとバジルに水をやっただろうか、と引き返したものの、昨日やったことを思い出して部屋に戻った。水をやりすぎると良くないと何かの本に書いてあった。螢がそれを覚えているかどうかはかなり微妙だが、普段の手入れは私に一任されているから、恐らく手は出していないだろう。それに、仮に螢が手を出していたところで、さほど致命的というわけでもない。まあいいか、と洗濯物を畳み終えて、それぞれ机の上に置く。螢の机の上にルーズリーフが置きっ放しになっていて、一体どうやってノートを取っているのかと不思議になった。今日はレジュメの配られない講義が確実にひとつある。何かの裏にでも取っているのだろうか。ルーズリーフの不在に気付いた螢の表情をぼんやり想像しつつ、自分の布団を取り敢えず全て下ろした。布団は今干す。毛布はそのままでいいとして、タオルケットとシーツと枕カバーはどうすべきか。取り替えておいて明日洗うのがいいかもしれない。流石に今日中に乾く保証がない。それに、その手の予備は常に一セットずつ用意して仕舞ってある。そう決めてしまうとなんだか少し頭も軽くなったような気がして、自分のベッドのそれらをすっかり外して洗濯かごに放り込んでから、螢のベッドを見上げた。

「……やりましょうか」

 何気なく口に出してみてから、こうして螢の布団を干そうと思うのは初めてだなと思った。普段なら朝起きた段階で決めて、布団を下ろしておいてもらう。それを干すこと自体は私の仕事だったが、螢のベッドに上がるのは初めてだった。なんとなく、互いに立ち入らないようにしている領域というのがある。ベッドはその最たるもので、梯子に足をかける時には思わず「ちょっと失礼」「どうぞ」というやりとりをするような、そういう領域だ。入っていいものかどうか、少し躊躇わずにはいられない。それでもやはり、自分の布団だけを干すというのは少々いじめじみたものを感じる。別に布団を干すだけなのだから何も害はないだろうと、どこか強引に納得して梯子に足をかける。

「――ちょっと失礼」

 それでも言わなければならないような気がした。

 モスグリーンのカーテンを開けると、ほんの少しだけ違った空気が鼻を抜けていった。別に何というほどのものでもないが、何か、どこかが違う。住処というのはこういうものなのだろうかと、ぼんやり思った。人の帰ってくる場所、その人専用の場所というのはこういうものなのかもしれない。私のベッドも同じような独特さを持っているのだろうか。今度、螢に訊いてみようか。

 掛け布団の類いと枕とを下へ放り落とし、敷布団をどかすと、ちょうど枕の真下に来る位置に平たい黒のポーチが置いてあった。螢が生理用品を入れているのがこんなポーチだったと思いつつ、それを敷布団の下に仕舞っておく意味が分からない。中途半端にずり落ちていく敷布団をそのまま下へ落として、ポーチを手に取った。明らかに想定したようなものではない、硬い感触が中にあった。

 放っておこうか。

 そう思いながらも、手の方が先にジッパーを開けていた。

 一番上にはポケットティッシュが入っていた。安っぽい、駅前なんかで配っているありふれたティッシュが、中身を覆い隠すように置かれている。でもそれは明らかに、さっき布越しに触れた硬い感触ではなかった。覆い隠す、と今浮かんだイメージに嫌な予感がする。明らかに隠しているものを開けるのもどうなんだろう。少し躊躇って、結局開けてしまうことにした。元通りにしておけばいい。螢に何か言われたら、開けなかったと言えばいいだけの話だ。ティッシュを袋ごと引っ張り出してどけた。白いものがいくつか入っていた。ひとつ引っ張り出してみると、丁寧に折りたたまれたティッシュが何か細いテープでぐるぐる巻きにされていた。サージカルテープか何かだろうと思った直後、小さな濃い茶色の染みがテープの下についていることに気付いた。それはテープに沿うように、点々と、まっすぐ伸びていた。傷だろうか。血を拭ったなら分かるとして、染みのついたティッシュを布団の下に隠す必要がどこにあるのだろう。首を傾げながらポーチの中のティッシュをつまみ出していくと、予想通り箱に入ったサージカルテープが出てきた。更にその下から、彫刻刀のような形をした刃物が現れて、先程の硬い感触はこれだろうと思う。白いプラスチックの柄に鋭い切っ先の刃が金具で固定されていて、その上に鉛筆に付けるようなキャップが被せられていた。まさかとキャップを外して見てみると、刃の部分は当たり前のように鋭く光を反射した。よく切れそうな、人の皮膚くらいは簡単に切り裂いてしまえそうな刃。

 祈るような思いで、テープに巻かれたティッシュをつまみ上げて開いた。

 明らかに事故の怪我ではない、平行に伸びた血の線が、かちかちに固まってそこにあった。挟み込まれていたのは替刃で、取り付けられているものとは逆に光をそこまで反射しなかった。曇っているようにも見えた。うっすらと錆び付いているのだと分かるまでは一瞬だった。全てが繋がるのに、時間はかからなかった。

「何、これ」

 気付けば間の抜けた言葉がこぼれ落ちていた。

 刃物で自分を傷つけることに、名前が与えられているのは知っている。そういうことをする人が実際にいることも知っている。でも、何故。どうして。そんなことをする必要はどこにある。それに、手首を気にするような素振りなんて、見たことがない。何かに血が付いているのも見たことがない。洗濯は私の仕事だけれど、そんなの一度も見たことがない。

 いつから。いつからこんなことを。何のために。どうして。

「嘘でしょう?」

 死にたくなってきちゃったあ、と言う螢の、影を帯びて垂れ下がった目尻を思い出す。

 あれを最後に聞いたのはいつだったか。蛍が死にたいと言わなくなったのはいつからだろうか。これを始めたから、言わなくなったのか。でも、言わなくなってからの方が明らかに調子は良さそうだった。大学にも不平をこぼさず行くようになった。頭痛で休むことも少なくなった。それと、この行為とが、どう関係しているのか。まさか、これが好調の理由だったなんてことは。

 ありえない。もしそうだったとしても、そんな方法で調子を良くするなんてそんなの、おかしい。そんなことするべきじゃない。間違ってる。やめてもらわないと困る。私の気分が悪くなるだけじゃない。螢自身にとってもよくない。確実に。

 ぎゅっと、血のついたティッシュを握りこむ。やめさせなくちゃいけない。そうするべきなんだ。うろたえている場合じゃない。螢が間違えても、私は、正しくないといけない。正しい方へ彼女を、引っ張っていかなくてはならない。

 ポーチの中へ全てを戻して、元の位置へ置き直す。まず、布団を干さなくてはならない。喉の調子は相変わらず悪かったけれど、じっとしていることもできなかった。動いている方が気が紛れる。少なくとも今目を閉じたら、瞼の裏にあの錆色の線が浮かんでしまう。眠れないだろう。ほぼ間違いなく、確実に。だったら余程、動いていた方がいい。

 ――死にたくなってきちゃったあ。

 まとわりつく螢の声を振り払うようにベランダへ出ると、呆れるほどに眩しい秋の昼下がりだった。手をかじかませるほどの冷たい風も、嘘のように鳴りを潜めていた。いつもと変わらない日だった。私だけが螢の歪みを知っていた。

 泣きたくなった。


    *   *   *


 鍵の差し込まれる小さな音で目が覚めた。布団を取り込んで、その上へ倒れこんで、そのまま微睡んでいたらしい。休んだ感じはしなかった。眠ったという記憶もなかった。ただ天井を見つめたまま、どう切り出そうか、どう切り出そうか、とその問いばかりがぐるぐると浮かんでは消えて、そのくせ解決策らしきものはひとつも思いつかなかった。螢はそれを隠したいのだということと、あんなやり方は間違っているのだということばかりが揺れていた。部屋の中は既に夜の暗さだった。がしゃりとドアの開く音に、ほとんど恐怖と言っていいような悪寒がする。

「ただいまあ」

 いつもより抑えた挨拶の後で、扉が閉まり、廊下の電気が点いた。来ないでほしい、と唐突に思った。何もかもここで止まればいいとさえ思われた。今日という日が来たのが間違いだったのだ。もうこれ以上、今日という日を先に進めてはいけないのではないか。でも、そうだとしても、このままでは螢が……。

 ぱちり、と部屋の電気がついた。

「んっ」

 シーリングライトの光をまともに受けて、思わず腕を目の上に置いた。

「おお? ……ああ、ごめんよう」

 目はつぶっていたものの、螢が全てを見てとったであろうことは分かった。そこには明らかな間と、血の気の引くような動揺とがあった。引き返せなくなったのだと、血の色の瞼の裏を眺めながら思った。

「……にしても随分盛大にベッドから落ちなすったなあ」

 おどけたように螢が言って、私の口から出たのは乾ききった笑い声だった。

「違う。干したのよ」

「ええー、なーんでお仕事すんのさ。もう元気になったんならいいけどまだ一日でしょーに」

「いいの」

「よーかない。ほれ、お粥作ったるからちゃあんと布団敷いて、食べたら寝れ」

「あのポーチは何なの」

 腕で光を遮ったまま、その言葉は突然どこからか飛び出していた。

「……なんて?」

 あくまでも笑いを含んだその返しが、奇妙なくらい私を苛立たせた。

「あのポーチ。中身も見た。……あなた、手首切ってるでしょう」

「……まあ、手首じゃないけど。時々ちょびっとなー」

 へらっと、螢が言う。反射的に俯せになって見ると、螢は炊飯器から釜を外そうとしているところだった。その口元に張り付いたような薄笑いが、余計に神経を逆撫でした。

「手首じゃなければいいとかちょびっとならいいってもんじゃないでしょう、あなた何を考えてるの?」

「んー」

「なんでそんなことするのかって訊いてるの」

「うん」

 螢は一切こっちを見ないまま、コンロ下の引き戸棚を開けて米を釜へ入れていた。あの薄笑いを消さないまま。私は上体を起こしてその場に座り直した。

「ちょっとこっち来て。真剣に話をして」

「うん、ちょっと待ってな、炊飯器セットしたら――」

「そんなのどうでもいいから来なさいっ」

 ぴくり、と螢の動きが止まった。大きくはないのに驚く程耳障りな溜め息をついて、螢は私にちらと視線を投げかけ、そしてすぐに外した。釜をその場に置いて、部屋の入口まで来るとそこへ体をもたせかけた。

「なあに」

「座りなさい」

「いいじゃんここで」

「よくない」

「そんなに変わるわけじゃないっしょ」

「うるさい、いいから座りなさい」

 螢は私の膝頭の辺りをじっと見つめて、暫くそこに佇んでいた。

「座って」

 数瞬の間の後、螢はその場に胡座をかいて座った。あの薄笑いは完全に消え去って、代わりに、心底つまらなさそうな色がそこに浮かんでいた。付き合わされている、とでも言いたげなその表情が、憎い。

「なんであんなことしたの」

「なんでって、何さ」

「何のためにあんなことしたのかって訊いてるのよ」

「さあ。なんでかなあ」

 螢は、胡座をかいた自分の左膝に向かって話しかけているようだった。意地でも目を合わせたくはないらしかった。

「ふざけてるの?」

「いんや、ふざけてなんかないよ」

「じゃあ答えなさいよ、何のためにあんなことしたの」

「……あのさあ」

 螢は目を閉じ、退屈そうに人差し指の先で頭を掻いた。

「昔、マオちんに言ったことがあるでしょ」

「何を。死にたいってこと」

「ちーがうよ。それの原因。なんで死にたくなっちゃうのかって、その原因とか理由みたいなものは自分の外側にあるんだー、ってこと」

「それが何よ」

「何っていうか、そういうことなんだな」

「はぐらかさないで」

「はぐらかしてない」

 螢の声に初めて苛立ちがこもった。

「じゃあなんなのよ」

「だーから、分かんないんだよ。どうしてそうなっちゃうのか。分かってたらさ、そんな苦労しないよ。分かんないから困るの」

「分かんないことなんかあるわけないでしょう」

「あるのー。そういうのがあるんだよう」

「ない、そんなの絶対ありえない」

「あたしにはあるの」

「ない」

「あるんだよっ」

 螢は、吼えた。ぎろり、とあまりにも暗い、憎々しげな眼差しを螢は私に向けた。

「……ねえ」

 それから、ふっと力の抜けるように、口の端だけを吊り上げて笑った。

「あんたに何が分かるの? あたしのこと、何が分かるって言うの?」

 ゆっくりと、どこまでも落ち着いた調子で螢は繰り返した。無機質なくらいの部屋の明るさが、急に気持ち悪いくらい歪んで見えた。螢が私を、拒んでいる。熱に火照ったこめかみに氷のような温度が刺さった。気付けば顎に力が入って、もう、心の中がぼろぼろと崩れて落ちていく。

「螢……」

 自分でもびっくりするほど情けない声が出て、途端に螢がふっと真顔に戻った。

「……ああ、ごめんよう。ちょっとテンションが上がっただな」

 俯き気味に膝を見つめて、螢は寂しげに微笑んだ。いつの間にか関節の浮き出るほどに握っていた両の手を、私はそっと解いた。解いたら、どうしようもなく、泣きたくなってきた。何を間違えたのだろう、と思った。一体私は、何を間違ってしまったのだろう。

「ま、とにかく。自分にはどうにもできないところでそういうのは回ってるんよ。こっちが何かして、それでどうにかなるってもんじゃないってこと」

「……認めない」

「ん。いいよ、認めなくって。言い訳だと思って聞いてくれればええよ」

「言い訳なんか聞きたくない」

「…………ん。そか」

 螢は少し笑うように言って、すっと立ち上がった。その仕草がどこか余裕を持ったものに見えて、ピンと張ったアキレス腱が憎らしく見えた。

「話は終わってないから」

 ぴたりと立ち止まって、螢は振り向いた。

「続きは元気になったらな」

 その言葉は正しかった。正しかったから、だからこそ私は何も言えなかった。ただ、溢れそうになる涙を飲み込むので、震えそうになる声を押さえ込むだけで、精一杯だった。

「というか、まずはご飯食べてからだなー」

「要らない」

「……風邪なんだから、なんかちょびっとでもさ――」

「要らないって言ってるでしょっ」

 思わず怒鳴ってしまって、私は自分の声の圧に動けなかった。どこか遠くから救急車のサイレンが聞こえていた。それはすぐに夜の静けさに溶けて、聞こえなくなった。

「……そっかあ。んじゃあ、外で食べてくる。いい?」

 私は俯いたまま、何も言わなかった。螢はせっかく脱いだブーツをもう一度履き直して、投げ捨てられたように置かれていたリュックも背負い直して、出て行った。外廊下を螢のヒールが踏む音がいくつもしないうちに、涙がぼろぼろ溢れてきて、私は布団の上に突っ伏した。なんでこんなことになるんだろう。何を間違えてしまったのだろう。でも、でも、今間違えているのは。今間違えているのは、螢の方だ。でも螢に間違えさせたのは、私かもしれない。でも私、何も、何も間違えたなんて思えない。何も間違ってない。なんで。どうして。こんなこと、間違ってる。螢の間違いで私が苦しめられている。螢が間違えなければ私は苦しまなかった。なんで、どうして、あのバカ。どうして間違えたの。それさえなければ、それさえなければ……。


     *   *   *


 何の因果か体調は急激に戻って、翌日には微熱だけが残っていた。それでよかったのかもしれない。この状況で世話を焼かれるのは辛いものがある。

 事実、螢は随分口数を減らしていたし、私はほとんど口を利かなかった。ふにゃっとした微笑みだけは相変わらず貼り付けていたものの、「マオちーん」という呼びかけはここ数日聞いていない。当たり前だな、と思う。私は螢の隠していたものを覗き見たのだし、螢はそもそも傷ついている。余程、今までなんの歪みも出なかったことの方がおかしいのだ。

 螢が死にたいと言うことがそれだったのかもしれない。

 何事もなかったのではなく、既にあれが何事かだったのかもしれない。私が捕まえそこねてきただけなのかもしれない。でも、それにしても、螢は何も語ろうとしなかった。不自然なくらい口を閉ざしていた。その一方で、螢は淡々と傷を増やした。黒のタイツに短い丈のズボンとロングブーツという定番の服装を見ていて、右の太ももに不自然な盛り上がりがあるのを見つけてからだった。それは四角く、いびつな表面をしていた。

「そこ、何かにぶつけた?」

「うん?」

「そこ。太もものところ」

「あー」

 私の視線を汲み取った螢は自嘲気味に笑って、それであのポーチの中にあった血まみれのティッシュの意味が分かったのだった。服に血がつかないように、ティッシュを重ねて、サージカルテープで貼り付けている。

「……また切ってるの」

「んー。そうねえ」

「やめて」

「んー。やめれたらね」

 へらへらと螢は言う。自然と、声が苛立ちを帯びる。

「やめれたらじゃなくて、やめるのよ。やめようとしてないだけでしょう、どうせ」

「いやいや、だからさあ」

 私が声を荒げると、螢はため息をつくように言う。

「そういうことじゃないんだよ。どうしようもないんだって言ってんやんけ」

「どうしようもないことなんかないし、あなたのそれはやめなきゃいけないことなの。自分で分からないの、このままじゃいけないって」

「うーん。まあねえ。分かるよ。なんとなくさあ」

「それでなんでやるのよ」

「だから、分かんないの。なんでそうなるのかはあたしも知らんの」

「分からないならせめてやらないように努力してよ、それもできないわけ?」

「してる」

「足りない」

「精一杯なんだよう」

「いや、もっとできる」

「……ああ、そう」

 ありったけの諦念を煮詰めたみたいな螢の「そう」が会話の終わりだった。「そう」の後、螢は何を言っても曖昧な声しか返さない。それは螢にとってのシャッターのようなものかもしれなかった。こちらからの呼び掛けを、螢は途中で遮ってしまう。それ以上の領域に踏み込むことを螢は許さない。そしてその領域に間違いがある。そんなことは私にだって分かる。分かってはいるものの、螢が解決を拒んでいるとしか私には思えなかった。彼女はあれをやめたくないのだとしか考えられない。だとしたらやはり、何故そんなことに執着するのか分からない。それにどんな意味があるというのか。そんなことをされるくらいなら余程、死にたいと愚痴をこぼされる方がマシだった。

 結局その膠着状態は数日なんかで済むわけもなく、私はどんどん、何もかもが嫌になってきているのだった。そういうことをする螢も嫌いだし、螢を嫌いになっていく自分も嫌いだった。何一つ収まりがつきそうにない。螢を見る度、私は自然と彼女の傷を探した。傷を覆い隠すティッシュの、不自然な四角い盛り上がりを探した。あれば問いただした。なければ後でまた探した。その繰り返しが私の日常になった。

気付けば、螢は自分で化粧をするようになっていた。アイラインもいつの間にか綺麗に引けるようになっていて、時間も随分早くなった。家を出る時間も別々になった。螢の方が先に出ていく。講義で隣に座ることもない。それでも講義の最後になると、退室していく螢の背中が必ずどこかにあった。サークルの後輩らしき女の子と談笑しながら歩いていくのも見た。随分と楽しそうな笑い声が聞こえてきて、少しだけ寂しくなるのを振り払ったりした。生活だけ見れば、螢は前よりも確実に「真面目で立派な」ものを送っていた。それがあの血まみれのティッシュの山を土台にして成り立っているのだと誰が知っているのだろう。螢が決して素脚を見せようとしない理由を誰が知っているのだろう。あの子を救ってあげられるのは私だけなのだろう。きっと。今は。

 土曜日の昼、サークルの練習でいない螢のベッドに私はもう一度上がり、そこに溜まっていたティッシュを全部ゴミ箱へ入れた。サージカルテープは救急箱に突っ込み、あの白い柄のカッターは、どうしていいか分からなくなって、ポケットに無理やり押し込んで出かけた。買い物がてら歩き回りながら捨て場所を探したけれど、変に身近なところに捨てると自力で戻ってくるのではないかという気がした。螢の何かがそれを呼び寄せるのではないかと思われた。螢が探しそうもないところへ捨てなければならなかった。延々歩き回った後でようやく、帰りに通りがかったコンビニのゴミ箱に捨てた。ゴミだけ捨てて帰るのも悪い気がして、牛乳を一リットル買い足してから、店の外のゴミ箱に捨てた。コンビニのゴミ箱なら、きっと大丈夫だ。根拠はないが、そう思えた。

 ブランドカラーで塗られたゴミ箱の、四角い口へ放り込むと、奥の方でかしゃりと軽い音だけがした。なんだ、そんなに軽いのか、あんなに深刻そうな顔をしてこんなに軽いものなのか、と思うと妙に腹が立ってきて、余程粉々に砕いてやればよかったと後悔さえした。もしかしてあのカッターそのものが螢を苦しめていたのだろうか。螢の苦しみに対してカッターが用いられたのではなく、カッターそのものが螢の苦しみの結晶や象徴のようなものだったのではないか。だったら尚の事粉々にしてやらなくてはならなかった。もう二度と螢の前に現れないように。でもともかくこれで、螢は当面あれをやることはないだろう。道具がないこと以上に、これほど明確な拒否の姿勢を示されて無視できる螢ではない。今までだっていつも私の主張が通ってきたのだ。今回もそうなればいい。そしてそのまま、二度とやらなくなればいい。そう思った。帰ってきた螢は何も言わなかった。何かが終わったのかもしれないと私は思った。


 でも、螢はまたそれをした。


 確かに暫くの間は何も起こらなかった。何も起こらなかったというのは螢がその行為に走らなかったということだけで、明らかに口数が減ったし、明らかに苛立っていたし、明らかに疲れた顔をしていた。話しかければ返事もするし、微笑みさえする。それでも、そうした反応の全てはどこか空虚で、本来あるべきはずのものを欠いた状態で私の前に提示されていた。ある日、唐突にそれが変わって、それまでの塞ぎ方に比べて格段に大げさなリアクションを取るようになった。意味のない相槌と感情のない笑い声が、気怠げな調子に反して増えた。そんな空回りの仕方は私があれに気付く前の螢の様子に通ずるものがあって、まさかと思って見てみれば、案の定あのポーチの中に血のついたティッシュが入っていた。テープのついている面には小さな点として見える程度だったそれが、はっきりと幅を持った線として浮かび上がっていた。螢のそれは明らかに悪化していた。

 カッターを捨てたのがいけなかった?

 ふとそう思ってすぐに打ち消した。そもそも、どこかよそに原因があってそんなことをしているのだ。カッターを捨てたくらいでそうなるようなものではない。私自身の読みが、あまりにも甘かった。螢の中の何かがまだ解決されていないのだ。そしてつまりは螢自身が、真剣にそれをやめようとしていない。もう一度説明して、分からせてあげなければならない。それは間違った解決方法で、他にやりようがいくつもあるはずで、それを螢自身が積極的に選び取ろうとしていないからうまくいかないだけなのだと。これは選択ではなくて、もうそうするべきだということがはっきりと決まっているような事柄なのだ。

なんであっても螢はあれをやめなければならない。私は、やめさせなければならない。


    *   *   *


 その日も相変わらず、螢の黒タイツの太ももに四角い膨らみがあった。しかも右にも左にも同じような膨らみがあって、そこにあの錆色の染みが見えるような気がして、私は思わずしゃがみこみ、螢のその膨らみを両手で押さえるようにして螢の太ももを掴んでいた。随分細く見えるのに、それは筋肉の硬さをはっきりと主張していた。その上にティッシュのがさつく感触が、サージカルテープで歪に固定されていた。

「……なんよ」

 まるでせせら笑うように螢は言った。

「あなた、またやってるの」

「言ったじゃんな、自分でどうにかできるもんでもないんだーってさあ」

「直す気ないんでしょう」

「何を?」

「こ、れ、を、よ」

 むんずと掴んだ両手を震わせると、螢は僅かによろめいて後ろに下がった。私はそれを離しはしなかった。

「触んないで」

「なんでよ。痛いから?」

「違うよう」

「ここに傷があるからでしょう、ここに、ねえ」

「離して……っ」

 螢は両脚を捻るようにして私の手を引き剥がした。数歩下がって、螢は私の掴んでいたところにそっと手を乗せた。私を睨みつけるその両目に冷たい嫌悪の色が揺れていた。それでも、私の視線を受け止めた瞬間、螢はふいと顔を背けてしまう。自分の非を認めるようなその仕草が、もう、決壊寸前だった私の怒りに火をつける。

「馬鹿! どうして直そうとしないのよ!」

「何を」

 白々しい惚け。

「自傷よ!」

 ぐっと螢の全身が張り詰める。この単語を口にしたのは初めてかもしれない、とどこかで思った。

「あんたは異常なの。直さなきゃいけないようなことをしてるのよ。なんで分かんないの?」

「分かってるよう」

「違う、分かってない、全然分かってない、何一つ分かってない!」

 勢い任せに立ち上がってもまだ、螢は私の顔を見ようとすらしなかった。

「何にも分かってないじゃない! 分かる気もないんでしょう! 自分が何をしてるのかも、それを私がどう思ってるのかも、何一つ――」

「分かってるっ」

 頑なに、頑なにこちらを見ない螢が、一周回って憎い。

「……ああそう」

 螢は分かっていない。だから教えてあげる。私の気持ち。

 踵を返して、机の上に置いてある自分の文具入れを漁る。黄色い、ありふれた形状のカッターを握り締めて、ぎちぎちと、ありったけの刃を出しながら戻る。微動だにしなかった螢の視線は、その鋭い刃先をじっと見つめていた。

「私にはあんたの気持ちは分からないわ。でも、あんたのしてることは分かる」

 右手に持ったそれを、左腕の内側、肘に近いところへ当てて。

「――こういうことよ」

 すう、と引いた。

 ぴりりとする感触、まるで傷口が刃に吸い付くようにして引き攣れている。痛みがあって、傷もあるはずなのに、引ききってもなお見た目には分からなかった。ただ紙で切ったようなむず痒さばかりがそこに存在していた。

「痛い」

 思わず呟いてから窺うと、螢はじっと私の腕を、そこにあるはずの傷の辺りを凝視したまま、凍りついたように動きを止めていた。

「全然血が出ないわね。やり方が違うのかしら。ねえ、螢教えて。どうやるの?」

 螢は何も言わない。

「ねえ。もっと強く押し付ければいいのかしら。こう?」

 先程の傷の、もう一センチほど指先側に刃を当てる。ぎゅっと刃を押さえつけると一度目よりも滑りが悪く、痛みは強く、ほんの少し引いただけで私はやめてしまった。

「痛っ」

 それでもやはり、見た目には分からない。一方でひとつ目の傷の上には、小さな血の雫がゆっくりと浮き上がりはじめていた。重ねたティッシュの裏まで染みるには、明らかに足りない量の血の雫が。

「ああ、なんだ。ちゃんと傷になってるのね。でもこんなもんじゃなかったでしょう。あんたのティッシュの血はこんなもんじゃなかった。そうでしょ螢。何が違うの」

 螢の眉間にぎゅっと皺が寄っていくのを、私は見つめていた。

「カッターがいけないのかしら。あの白いカッター、もっとよく切れそうだったもんね。それとももっと、同じところを何度も切ればいいの? ねえ、螢」

「……やめなよ、そんなこと」

「どうしてやめなきゃいけないの?」

 嘲笑うような響きが自分の言葉に含まれているのを、私は感じていた。

「だってどうしようもないのよ。なんでこんなことをするのか、自分でも分からないんだもの。やめようがないのよ」

 螢の顔が軋むように歪んでいくのを、私は見ていた。その表情が何なのかは分からない。ただ、螢が明らかに苦しんでいるのは、私にも分かった。それでいいと思った。

 私の苦しみを味わって、螢。分かって。分かったら、やめて。

「やらないように努力もしてるのよ。精一杯。でも、それでもどうしようもないの。やめられないの。でも、螢の気持ちも分かる。でもやめられないの」

「やめて、それ」

「……まだ、私の気持ちは分かってたって言う?」

 螢は、何も言わなかった。むっつりと黙り込んで、眉間に深々と皺を寄せて、肯定も否定もしなかった。

「何とか言いなさいよ!」

「……麻央には分からないよ」

 ぽつりと、螢は言った。

「何がよ」

「あたしのこと」

「誤魔化さないで、あんたが私のことを分かってるのかどうか聞いてるの」

「うん。分かってるよ」

 へら、と螢は笑う。絶句した私の目を、まっすぐに見据えて。

「マオちんのことなら分かるよ。だって分かりやすいもん。あたしのこと心配して、傷ついてるんでしょ。あたしが、マオちんごめんね、もう自分のこと傷つけたりしないからねって、泣いて見せればいいんでしょ?」

「違う!」

「それはさあ、今だから言えるんだよ。先にあたしがそうしてたら、多分マオちん、普通に騙されちゃうんだ。分かるよそのくらい。それで誤魔化せちゃうくらい、マオちんはまっすぐで、いいことと悪いことの区別がつく優等生なんだよ。だから、あたしのことは分かんないんだよ」

「それはっ」

「認めなよ、マオちん」

 螢の目だけが笑っていなかった。

「あたしはマオちんのこと分かるよ。間違ってるあたしを許せないけど、見捨てることもできなかった。ずっとそうだったの、あたし知ってたよ。間違ってるあたしを見捨てるんじゃなくて、間違ってないあたしにして、そうやってあたしのこと、助けようとしたんだ」

「そうよ。だって、昔のあなたはそんなことしなくたってやっていけてたもの。だったらその方がいいに決まってる、そうするべきなのよ、それをあなたは――」

「あのさあマオちん」

 ため息のような笑い声は乾ききっていた。

「あたしが間違ってるなんてこと、あたし自身が気付いてないとでも思ってたん?」

 螢の手が、細い太ももを鷲掴みにしていた。

「ねえ。あたしが、自分のこと正しいって思い込んでるって、そう思ってたん? あたしが、自分の非を認められないせいでこんなことになってるって、そう思ってたん?」

「そうじゃないわよ、あんただってどこかでは分かってるって思ってるの、だからこうやって説得しようとしてるんじゃない!」

「分かってればやめられるってもんじゃないんだって!」

 唾の飛ぶほどに強い語気で螢は言う。怒りに肩を震わせながら。

「分かってないのはそっちの方なんだよ。ねえ、あたしの状況なんて何一つ分かろうとしないじゃん。自分の正しい論理ばっかり振りかざしてあたしの言葉なんてひとっつも聞いてくれないし、自分の正しさであたしを叩きのめしてばかりであたしを助けようなんてひとっつも思っちゃいない。知らなかっただろうけど、あたしを一番苦しめてたの、麻央なんだよ。あたしずっと思ってたんだ、麻央がいなかったらあたし、もっとずっと、楽だった。全部全部、あたしが悪いの分かってるんだ、分かってるけど、でも麻央が、言わなかったら――」

 螢の言葉は途中から、食いしばった歯の隙間から搾り出すようなそれに変わっていた。喉の奥をこじ開けるように螢は言って、見開いた目からぼろぼろと涙をこぼして、言うべきことを見失った私の前でゆっくりと背筋を伸ばした。手の下に隠れていた四角の膨らみが再び私の視界に現れる。濡れた瞳で私を見据える螢の表情は、私にアイラインを引かせる時のそれによく似ていた。けれどその目は既に、鮮やかな漆黒のアイラインに縁取られている。私は螢のアイラインを引かなくなったのだと、その意識は唐突に私の心臓を鷲掴んだ。体温が急激に引いていく。顔も青ざめたのか、螢は一瞬、泣いているのに泣き出しそうな顔をして。

「……ごめん、ちょーっと言い過ぎたんな」

 ふにゃりと、口元を緩めて螢は笑った。大きく開いた目から落ちる涙は途切れない。

「大丈夫。あたし、もうマオちんのこと傷つけたりしないよ。マオちんの嫌なこと、しないから。……ふふっ。もう、自分のこと傷つけるの、やめるよ。ねえ、マオちん。大丈夫。もう全部やめちゃうよ。んふふっ。……うん、もう全部、痛いことも苦しいことも全部、やめちゃうからさあ。安心してよ。あたしもう全部、やめるよ。全部」

 合間合間に笑いを漏らしながら、螢は右手の甲を右目に当てた。強く押し当てたそれを、ぐっと真横に引き抜く。黒のアイラインは涙に滲んで、流星のように尾を引いた。あれほどはっきりとしていた螢の目の輪郭が、震えて、掠れて、歪む。螢は口を開けて笑った。これまでにないほど綺麗で、この上なく歪んだ顔で。

「そしたらマオちんは、正しいまんまで生きていけるんだもんなあ?」

 黒を帯びた涙が頬に淡く跡を残していく。そんな螢を前にして、私は、何もできなかった。ただ、目の前で笑う螢がどうしても、螢ではない何者かに見えて仕方なかった。私の知っている螢の輪郭を失った螢が、関節の浮くほど握り締めた拳で乱暴に化粧を剥ぎ取っていく……。


    *   *   *


 そんなことがあった。未だに思い出しては嫌になる。

 一か月前に螢はこの部屋を出ていった。引っ越すと言い出した螢を止めることはできなかったし、引っ越す先についていくのもおかしいと思った。どこに住むことにしたのかも遂に訊かなかった。訊けば答えてくれただろうとは思うけれど、それを知ったところで私は螢に何をすればいいのか、何と言っていいのか。未だに分からないままだった。分からないままだから、螢を見かけても何も言わないままでいる。

 この部屋を出たことを除けば、螢は今までと変わらずに過ごしているらしかった。少なくとも私の見ている限りでは、講義にもほとんど休むことなく出ている。今もその脚にあの四角い歪みがあるのか、私のいるところからではあまりにも遠くて分からない。でもきっとあるのだろう。彼女が問題なく日々を生きているのなら、その裏には間違いなくあの血のついたティッシュの山がある。螢が隠そうとしたものは、もしかすると殺そうとしたものは、今も螢の奥底に仕舞いこまれたままだ。螢のあり方は今でもまだ、正しくない。見かけだけはそれなりでも、その奥底が歪んでいるなら私は認めない。認めてはいけない。螢を許してはならない。螢はもっと、よいあり方ができるのだから。より正しくなれるなら、より正しくあるべきだ。ずっと、そう思ってきた。ずっとそう信じていた。今だってそれが間違いだなんて思わない。あの螢だって言っていた。私は、正しいままで生きていく。たとえ、螢を踏みにじっても。その傷を抉っても。だってそれが、正しいのだから。

 だけど、と思う。

 きっとこれは螢のためなんかじゃない。

 もう随分と寒くなって、レモンはひとつだけ実をつけた。私が作ったマーマレードはあまり美味しくなかった。螢が作るのと同じ方法、同じ材料で作っているはずなのに、苦味ばかりが際立ってパンにもヨーグルトにも合わない。紅茶に入れる分には辛うじて美味しいけれど、本当は緑茶の方が好きだった。たったひとつのレモンが、こうも食べ切るのに苦労するほど大きかったことはないと思う。何もかもが倍になった。ひとつずつしか物事のできない私には倍どころではないような気さえする。そうして圧迫される日々は過ぎ去るのも早い。その中で時折思考の隙間に過るのは、アイラインを入れる時の螢の目だった。彫刻のような顔、球体をまざまざと感じさせる瞼の曲線。

 苦いレモンティーを啜り、マグカップのそこに張り付いていたレモンピールを洗い流して、ローテーブルの上にメイク道具を並べていく。まずは化粧水。保湿クリーム。下地、ファンデーション。かつて螢がひとつひとつ繰り返していた声を頭の中に反芻しながら、自らの顔の上にそれらを重ねていく。

 螢がいなくなって、私は化粧が下手になった。クオリティは落ちていないはずなのに、何度鏡を見ても、自分の塗ったものが本当に正しいのか、分からない。アイシャドウも、アイラインも、チークも、果てはマスカラや口紅でさえ。馬鹿みたいに長い時間をかけて、これでいいのかと何度も問いながら塗り重ねた化粧は、結局のところ問題ないいつも通りのものだ。だというのに、私は出来上がった化粧を眺めて自問せずにいられない。

 これで、本当に正しいのだろうか?

 螢の瞼の縁にアイラインを入れていく時の、筆先が吸い寄せられていくような感覚はどこにも残っていなかった。螢と一緒にどこかへ行ってしまったのかもしれない。或いはあの日螢が目を拭い、涙に溶けたアイラインが流星のように尾を引いて歪んだ時、そこにあるべきものの輪郭までそうなってしまったのかもしれない。それは螢の化粧だけでなく、私自身の化粧についてもそうなのかもしれなかった。化粧は詐欺とどう違うのかと螢はいつだか訊いた。それは他人を騙すことにはならないのかと。あの日の私なら、それは違うとはっきり言い切ることができた。けれど、今は? そのことを思い出す度に、かつて私が知っていた確かなものはどこかへ消え失せてしまったのだという感覚が胸のどこかを撃ち抜くようで、その弾痕を抜ける隙間風を心細さと言うのだと、そればかりが私の中で理解される。

 振り払うように、アイシャドウのチップが肌をなでる感覚に集中する。小さなかけらでも落ちたのか目に鋭い痛みが走って、飛び出た涙をティッシュで吸い取った。落ち着いた頃にティッシュを握りつぶして、アイラインのキャップを開ける。螢の、緩く曲線を描く目元を思い出す。

 螢の中に隠れている美しい輪郭をなぞっていく、その時間が永遠に続けばいいと思ったことが何度もあった。もしかすると性的なものにも近いような興奮が、螢の化粧を仕上げる私の内側を満たしていた。全身の血に細かい泡の駆け抜けていくような感覚。吸い寄せられる筆先と濡羽色に浮かび上がる瞼の縁。螢の本質、その美しさ。だと、思っていたもの。でも、本当の螢は、きっとあの螢ではなかった。私が色づけした顔ではなく、手の甲でめちゃくちゃに掻き回されて歪んだ顔の方がきっと、本物の螢の顔だった。

じゃあ、私の描いたあの輪郭は嘘だったのだろうか。

 隠されていた本質なんてものは存在しなくて、私が描き出していたのはただ、私が欲しいと願った螢の顔だったのかもしれない。

 あれで、本当に正しかったのだろうか?

 次々に浮かび上がる思考を押し殺していく。それでも私は正しかったと、その思いで全てを塗り潰していく。間違っているのは螢の方だ。今でもまだ。血を流して贖われる正しさなんて、そんなもの、絶対におかしいのだ。だから、こんな不安など、塗り潰して見えなくしてしまえばいい。そうしなくては、ならない。鏡の向こうから石膏で固めたような自分の顔が見つめ返している。細めた目にアイラインの、刃のように尖った先端が触れる。これでいい、間違っていないと自分に言い聞かせながら、押し付けたそれをまっすぐ横に引く。

 濡れた輪郭は流星のように尾を引いて、ひどく歪んだ。


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