乙女ゲー異世界転生者(♂)は悪役令嬢を救いたい その百三十八
「ゆうかさま。確認なのですが、ゆうかさまが覚えたいのは格闘技ではなく、あくまで護身術で良いのですよね?」
「はい。人より強くなりたい……とかではないですね」
「そうですか。それは良かったです」
「良かったんですか?」
「ええ、護身術というのはあくまで身を守る術ですから、相手に勝つという意識があるとむしろ邪魔になりかねません。一番大事なのはそもそも争いに巻き込まれないようにすること、そして次に大事なのは逃げることです」
「な、なるほど……」
ちょっと技を教えてもらって終わりかと思ったら、意外にも伊戸はちゃんと教えてくれるつもりだったらしい。伊戸が教えてくれたのは護身術の心構え。
護身術の技は基本的に相手を制圧するのではなく、あくまで自分を守ることを目的にしていて、時間稼ぎの手段の一つでしかないこと。争いごとに巻き込まれないためには、夜に出歩いたりしない等の身を守るうえで基本的なことを守ること、そして時には相手の要求する金銭等を払ってしまうことで被害を最小限に止めること等を教わった。
伊戸の長い護身術の心構えの教授も終わり、いよいよ実践。素足になった後マットに乗って伊戸と向かい合う。
「では、まずゆうかさま。私に襲い掛かってきてください」
「襲い掛かる……」
実際に優花が技を受けてから、その技のかけ方を教えてくれるということだろう。
ただまあいきなり「襲い掛かれ」と言われてもピンとは来ない。ぱっと頭に浮かんだのは両手を頭の上に上げて「がおー」と熊のように威嚇する感じだが、それを望まれているわけでもないことはさすがにわかる。
「えーっと……具体的にはどうすれば良いんですか?」
結局伊戸に直接聞いてみることにすると、伊戸は少し考える素振りを見せた。伊戸も伊戸で『襲い掛かる』具体的なイメージをはっきりとはさせていなかったらしい。
「そうですね……例えば手を引こうとするとか、肩をつかもうとするとか、抱きつこうとするとかでしょうか?」
「なるほど、わかりました。それじゃあ……」
伊戸の指示通り、まずは伊戸の手を引くために優花が手を伸ばしたところ、逆に伊戸に小指をつかまれた。
「いたたたた!」
そのままぐいっと小指を反るような形で曲げられた。あまり力が込められているようには思えないにもかかわらず、尋常じゃなく痛い。
「これが一番簡単な技ですね。相手の指を一本だけつかんで逆側に曲げるだけです。まあ不意打ちみたいなものなので、これを使って出鼻をくじいた後はすぐに逃げましょう。逆上した相手に襲われる可能性も高いからです。この技の他には……」
優花の指を曲げながら、先程と同じように意図は説明を始めてしまった。
「わ……わかりました……。あの……」
「はい? ゆうかさま。どうかしました?」
きょとんとした顔で小首を傾げる伊戸に優花は引きつった笑みを浮かべた。
「そろそろ……指を離してもらっても良いですか?」
痛みに泣きそうになりながらそう言うと、伊戸はようやくまだ技をかけていたことを自覚してくれたらしく、手を放してくれた。
「すっ、すみません……」
ぽっと頬を赤く染めながらそう言う伊戸は、まるで初めて手を繋いだことを恥じらっているように見えるが、実際は指を折ったままで説明をしたことを恥じているだけだ。
小指が大丈夫なことを確認しながら、優花は仁戸にされた『どうかお怪我だけはしませんように。伊戸は不器用ですから……』という注意を思い出していた。
指折りはたしかに優花にも使えそうな技だが、この技だけでは乗り切れない場面も出てきそうなので、結局技を教えてもらうこと自体は止めず、次の技を教えてもらうことにする。
そこから教えてもらったのは、いきなり肩を掴まれた時の技や、胸ぐらを掴まれた時の技、相手がナイフを持っていた場合などに使える技。
実際に優花自身も技をかけてみるべきと言われたものの、優花は技をかけずとりあえず動きを覚えるだけにしておいた。
どれも実際に技をかけた後に説明が入る形で、悲しいことに毎回伊戸が技を解くのを忘れて、技をかけたまま解説をするので、優花は痛い思いをしながら技を覚えることになった。
筋肉痛で痛いのか、それとも技をかけられたせいで痛いのか。体のあちこちが悲鳴を上げる中、ついに最後の技になった。
「それでは、ゆうかさま。私に後ろから抱き着いてください」
「わっ……わかりました……」
息も絶え絶えになっている中、くりると優花に背を向けた伊戸の指示通りにしようと後ろから伊戸を抱えるように抱き着こうとする。これまでだったら優花が何か行動を起こす前に伊戸が技をかけていたので、あまり深くは考えず伊戸に抱き着こうとすると、そこで不幸なことが起こった。
「ゆうかさん。わたくしならもう怒ってませんから……」
なんて言いながらレクリエーションルームに凛香さんがガチャリとタイミング悪く扉を開けて入って来た。
「お嬢様!」
伊戸さんは凛香さんが来ることを予想していなかったのか、いきなり入って来た凛香さんに驚いたせいで、伊戸さんは技をかけるのを忘れてしまった。優花も優花で既に疲れ切った体は抱き着くために少し前傾姿勢になっていて、いきなり止まることもできず、その結果…………。
「きゃっ!」
優花の抱き着きは成功してしまい、優花が伊戸に後ろから抱き着く形になってしまった。
「……………………」
伊戸に抱き着く優花を見て大きな目を見開いて固まる凛香に、優花はさっと血の気が引いた。
絶対にまた怒られる……。
客観的に見たら、誰も来ないような場所でメイドさんに後ろから抱き着いているのだから、何を言われても仕方がないレベルの勘違いが起きてもおかしくはない。
……そう思ったのだが、意外にも凛香は驚きの表情が戻っても、怒鳴ったりはしなかった。
予想外の事態に固まったままの優花と伊戸の方に、歩み寄ってくると凛香はそのまま優花と伊戸の間に手を入れ二人を引き剥がしてきた。
「……それで? どういうことなのか、説明はしてくださるのですわよね?」
にこりと笑みを浮かべる凛香の表情は一見いつも通り。
「あっ、はい。もちろん!」
意外にも冷静な凛香に内心ほっとしながらも優花は、自然とその場に正座し説明をする。食事の後からの話を包み隠さず、なるべく詳細に凛香に報告すると凛香は一応納得してくれたみたいだった。
「そういうことでしたの。それなら良いのですわ」
にっこりと満面の笑みを浮かべる凛香に、優花が心底ほっとしたものの、続いて放たれた凛香の言葉に固まることになった。
「それなら……今度はわたくしがたっぷりと技をかけてさしあげますわ」
……………………やばい!
めいと伊戸が護身術を使えることから予想してみるべきだったが、凛香も護身術を会得しているらしい。この状況で技をかけられて無事で済むはずがない。
「えっ、いや! もう終わりにするところなんで大丈夫です!」
よく見てみれば、今までいつも通りのように見えた凛香さんの表情の内、目が全く笑っていなかったことに今更気が付き、嫌な汗が一気に吹き出してきた。どんな目にあうか想像し慌てて断ったものの、時すでに遅し。
「あらあら、そんなことはおっしゃらないで。わたくしはゆうかさんのためを思って、技を教えてさしあげるだけですわ?」
「いや、ちょっ、あの……」
「それでは、投げ技からいきましょうか。どれからが良いか悩みますわね」
ふふふと笑いながら歩み寄ってくる凛香が今だけは角が生えた悪魔に見えてくる。救いを求めて今まで優花が凛香に状況を説明する中で一切言葉を発していなかった伊戸が居た方を見てみると……。
「あっ! いない!」
そこには誰もいなかった。どうやら優花を生贄に差し出して、一人離脱したらしい。
「なるほど、これが護身術か……」
危険な状況からいち早く離脱するのは、まさに伊戸が語っていた護身術の教え通りではある。
「何をぶつぶつと言っているんですの? 早速始めますわよ!」
伊戸の危機回避能力? に半ば感心してしまった優花は結局凛香から逃げることはできず、その後無数の投げ技をかけられ、最終的に意識を失った。
 




