10:AI
A
……ずいぶん久しぶりに、僕自身が表に出てこれた気がする。
意識が消えたのは、確か朝の学校だった。
イチカを呼び出そうとして、いつの間にか別の意識に塗り替えられるかのように、僕の意識が途絶えた。
その間の記憶は、僕にはない。イチカが入っているときはぼんやりとした間隔のようなものが残ったが、今回はそれすらない。完全に僕の意識は途絶えていた。
そして意識が戻ると、家の中にいた。玄関でデバイスを手にしながら立っていた。
画面の時計は17時を表示していた。昼間のあいだずっと僕は意識を失って、
……その事実を認識しても、とりたてて何か大きな感情、たとえば驚きであったり呆然といったり、あるいは喜びや興奮であったり、そんなものに襲われることもなかった。
もはやこんな状況は慣れっこどころか当たり前になってしまった。
でも、今目の前で繰り広げられている光景は、初めて見るものであり、少し新鮮さを覚えることが出来た。
デバイスに表示されているのはアプリケーション「Bird Cage」。これはイチカが僕と情報のやりとりをする時に、メッセージを通してそれを行えるという機能を持っている。
だからそこに表示されるメッセージは、基本的には僕に宛てた言葉が表れるはずだった。
しかし今画面に表示されているメッセージは
[だってアタシ、あったかいのが好きなんだもーん]
[このエロエゴが!]
……明らかに僕に向けられた言葉ではない。
画面の中に次々に繰り出されるメッセージ、それは一つのメッセージがその次のメッセージにつながり、さらにその次に……といった形で、会話の体を為しているのだ。
このデバイスの中にいるエゴは、もうイチカだけではない。
もう一人のエゴが、イチカの行動によって、このデバイスの中に吸収された。
そして今、その二つのエゴがメッセージを通して、言い争いをしているのだ。
[とにかく、アタシはあったかいものが欲しくてたまらないの!こんな何にもない場所じゃ、そりゃあ前にいたところほどじゃないけど寒いし冷たい、あったかくない!]
[だからって、勝手にアヤトの身体を使って言いわけじゃないでしょ!そ、そんな……破廉恥なことのために!]
[破廉恥……はれんち?ってなに?]
繰り広げられる会話を前に、僕が呆然とするしかできなかった。
新しくデバイスの中に入ってきた彼女は、ミサという名前を持っていた。
デバイスの中にいるデータの塊で、名前だけでなく自我、自意識を持っている存在「エゴ」だ。
そしてイチカと同じく、プロメテウスの力によって、アンセムから切り離されたらしい。
そして昨夜のメールで僕の元にデータとして転送され、僕の中に潜んでいたというわけだ。
イチカと同様、最初は僕の体の中に潜んでいて、そこからタイミングを見計らって僕の身体を通して現出し、この世界の中で自由に振る舞っていた。
でもイチカの時は、そうしている間に僕との意識の入れ替わりが起きたはずだったが、今回はそういうことはなく、僕の身体はずっとミサの操縦にまかせるがままだった。
このままいけば、僕自身が戻ることは無かったんじゃないかと思うと、結構恐ろしい。
どうやらイチカの機転により、ミサを「Bird Cage」に吸収し、イチカが僕の身体を取り戻してくれたようだ。
そして帰宅後、意識と身体を再び僕の元に戻したということだ。
(これらのことは全て、後からイチカに説明されたことだ)
そしてデバイスに戻ったイチカは、鳥かごの中に閉じこめられたミサに対する尋問を始めた。
[あなたはいったい何なの?][アンセムとは関わりがあるの?][どうしてアヤトの身体に?]
イチカは次々に質問をぶつけていったが、
[あんせむ?えご?なにそれ]と、どうやらミサは何も分かっていないような様子だった。
どうやらは、イチカと違ってそれを理解してなかった。
イチカが(あと僕もメッセージを入力していろいろ補足した)アンセムやプロメテウスのことを説明されて、[へー][そうなんだー]と納得の様子を見せた。
そうした説明を全て聞いた後で、ミサの出した言葉は
[で、アタシはいつあの身体に戻れるの?]だった。
少し間を置いた後に、イチカが返答する。
[いつって……アナタはエゴなの。だから、普段はこの中にいるのが普通。どうしても必要な時だけ、アヤトの身体を使って表に出るの]
[じゃあ大丈夫だね!][アタシ、どうしても必要なものがあるから!]
[……なんなのそれ?]
[いーっぱい、あっためてもらうこと!][人間の、特に男の人の身体にぎゅっと抱きしめてもらって、うーんとあったかくしてもらうんだ!]
男の人?抱きしめ?それってまさか……
朝起きたときに感じた違和感が、考えるだけでも鳥肌が立ちそうな想像と共によみがえる。
誰かが他人の中に入ってくる感覚。特に口の辺りを中心に。
[あの、ミサ……ちゃん][昨日の夜、僕のところに来た後で、僕の身体を使った?]僕もおそるおそる、その会話の中に参入した。ちなみに表示されるメッセージは、イチカが赤枠、ミサがオレンジと金色の中間といった色の枠、そして僕が白い枠で囲まれることで区別されている。
[うん、出たよ]しれっと、何事でもないかのように繰り出される返答。
そしてさらに追撃[男の人に声かけられて、チューしてもらっちゃった]
僕は思わず口を抑えていた。寒気が身体を襲う。僕のこの身体が、男からキスを受けたというのか。
いくら空っぽで性欲もほとんどないとはいっても、性的にはノーマルだ。同姓からのキスなど
……いや、僕自身が体験したわけじゃないのだが。でもこの身体が体験して、身体の方に記憶として残っている以上、その感触からは逃れられなかったというわけだ。
生々しくよみがえってくる感触に、僕は耐えきれず台所に向かい、必死に口をゆしでいた。
数回それを繰り返しすと、感触は消えたわけではないが、まぁ落ち着けるところまではいった。再び部屋に戻り、デバイスを覗く。
膨大な量の未読メッセージが溜まっている。
[何考えてんの!アヤトの身体で……]
[だって一度入っちゃえば、もうアタシのものみたいなもんだよ]
[だからって、アンタの身体じゃないでしょうが!]
[でも身体の中に入れば、手も足も動かせる、っていうか動いちゃうじゃん。やりたいことも出てくるし、イチカちゃんは違うの?]
[それは……][大体何で、男の人に][その、そんな……そんなことを?]
[だって、あったかいんだもん!]
膨大なメッセージを交わして、イチカとミサが激論を繰り広げていたのだった。
そして僕は、画面の外からそれを覗くしかなかった。
[だいたいイチカちゃんだってそうなんじゃないの?こんなところで言葉を出すことしか出来ないなんて、退屈でしょうがないでしょ?外に出て、やりたいこといっぱいあるんじゃないの?]
[そ、それは……で、でもそれはアヤトの承諾をもらえる範囲でやってるだけで、アンタとは違う!]
[ねぇ、アヤトくんはどう思う?]
唐突に僕に話題が振られた。さっきのミサの衝撃の発言に対して呆然としてしまって以来、傍観しているだけだった僕。突然のフリに困惑しつつ、少し慌てながらメッセージを入力した。
[……さすがに僕も、男の人と、その……いろいろされるのに、僕の身体を困るかなぁ]
[アヤト、もっと強く言っていいんだよ!]イチカからの応援。
[むー][でもやめないよ!だってあったかいの、もっと欲しいんだもん!]
[だから……]
その時だった。
それに対して、最初に反応を示したのはミサだった。[なに?今ものすごいゾクって感じがきた][すごく冷たくて寒い、いやな感じ……]
イチカがその答えを告げる。[アンセム……!]
この中にいる
[行ける?]イチカからの確認。
[……うん]断る気力もなかったし、まあ男の人に抱かれるよりは、戦う方がはるかにマシだと、その時はそう思った。
[なになに?もしかして戦いにいくの?]ミサからの返答だったが、とりあえず無視をする。
繰り出されたインストールアイコンに指を置き、この身体をイチカに貸し渡す。
I
自我データが挿入される。肉体が男性のものから女性のものに変わっていく。そしてそれに合わせて、着ている服もその身体にあった形に、そして戦うための装甲に変化して、私の身体を包み込む。
変化の完了と同時に、私は窓から外に飛び出した。全身から湧き出る力が身体を軽くし、宙に舞うための力をくれる。
日はまだ地平線の上にあってまだ明るい。しかし空は徐々に赤みを増している。そんな世界の中で、私は屋根伝いに軽々と飛んでいく。
アンセムの反応のあった場所に向かって。
デバイスの中にいれば、地図上で正確に位置を判断できる。こうしてアヤトの身体を借りて表に出ている現在は、感覚を頼りに相手を追跡する。後者はわりとアバウトになってしまうが、その代わりに相手の方に動きがあっても柔軟に対応できる。どちらがいいというわけじゃないけど、生物の感覚を頼りに行動するというのも、悪い気分じゃない。
十五分ほど移動して、その場所に辿り着いた。
その場所は、何事もない一軒の家の前だった。ごくごく普通の一戸建て住宅。夕日に照らされて赤く染まっているその白い壁は、かなり新しいものに見える。おそらく、まだ建てられて数年かそこらだろう。
そしてその前に立つ、一人の男性の姿。
私はその向かい側に建つ家の屋根から、その家を、そしてその男の姿を見下ろしていた。
男の身体が銀色に包まれ始める。
それは確かに銀であり、金属的な外観を持ちながらも、夕日の光を反射せず、まったく輝きを帯びていない。
私は屋根を蹴り、その男の影に向かって飛びかかっていく。それに合わせて拳にプロメテウスの力を集め、大きく振りかぶる。背中から一撃を当てれば、アンセムを消すことが出来る。
ガキリィン!
硬いもの同士が重量の限界同士をぶつけあう音が、住宅街の中に響く。
私の身体は道路に平行に、後方へと飛んでいく。反対側の家の壁にぶつかる直前で何とか踏みとどまることが出来た。
赤い光に覆われた私の拳がぶつかる直前に、彼が背中の方に右腕を伸ばした。
その右腕は銀色の、機械的かつ厳つい外見をした武器に変化していた。そしてその先に付けられた武装―クワガタを思い出させる角が三本生え、その先端が重なる場所にエネルギーが集まり、光の弾を形成している―が私の拳とぶつかったのだ。
彼の身体―既に全身が銀色の鎧に包まれていた―は、全くその場から動いていない。私のパワーの方が劣っていたのだ。
銀色の彼はゆっくりとこちらを振り向く。顔の部分だけが銀色の侵食を受けずに、人間の顔を保っていて、その顔が口を動かして語りかけてくる。
「キミとは、はじめまして……かな。僕はツヴァイ、そしてアンセムでもある」
禍々しい外見に似合わない、小さくておとなしい声だった。
その一方で、右腕に聳える武装をこちらに向けてくる。既にその先端にはエネルギーが集中している。ツヴァイと名乗ったそいつの身体と同じ、金属らしさを帯びた銀色の光が集まっている。
「キミも僕にとっては、アンセムにとっては、排除の対象」
言葉とともに、飛んでくる光弾。
私は身構えると同時に左方向に跳んだ。光弾はわずかに私の右腕を掠めて、背後の壁に吸収された。掠めた部分の装甲が、煙を上げて蒸発していた。
背後の壁には何ら損傷はないように、この攻撃には物理的なエネルギーは無い。
しかし、私の身体、私自身の存在に対しては、それを消去するための膨大な力を発揮する。この光弾を一発でもまともに食らったら、この装甲は消えうせ、私自身の存在も危うい。
跳んだ先で、改めて敵の様子を伺う。右腕の先端には既にエネルギーが集まっているが、さっきの光弾ほどの大きさにはまだなっていない。どうやらエネルギーの充填には少しだが時間を要するようだ。
ならば、その隙をついて相手との距離を詰め、武装の無い左手から攻めるのが手だ。
本気で行くしかない。
その思いと共に、自分の中に意識を集中させる。私が表に出る代わりに、
私に与えられた力、その真の力を発揮するための能力。この前「Bird Cage」を更新することで使うことが出来るようになった、私の、私たちの力。
アヤト、聞こえる?
ーうんー
力を貸して。
ーわかった……!-
二つの意識が、一つの目的の元で重なっていく。
私の、僕の中で、燃え上がる炎のように力がわき上がり、全身が赤い光に包まれる。
イチカとアヤト、この身体の持ち主とそこに入ったエゴ。二つの意識が一つになることで、この身体を満たすプロメテウスの力を最大限に発揮することが出来る!
IA
私(僕)の身体の変化に、相手も警戒心を強めたようだった。
次の瞬間、ツヴァイの身体は大きく上方に跳ね上がっていた。そして数分前に刃を向けようとしていた家の屋上に立つ。
私(僕)も、身体を大きく跳躍させてその後を追いかける。
しかし既にそこにツヴァイの姿はない。
はっと振り向くと、銀色の光弾が眼前に迫ってきていた。
私(僕)は右腕を突き出し、拳の先でそれを受け止めた。アンセムとプロメテウス、二つの力が相殺されて消える。
そして拳を向けている方向のさらにその先に、ツヴァイの姿はあった。数軒先の家の屋根に立っている。既に30メートル近くの距離を空けられている。
なるほど、相手のスピードは大したものだ。
だが、今の私(僕)の戦える範囲は、拳の届く範囲だけではない。
右腕の武装を私に向けて構えるツヴァイに向かって、私(僕)は右拳を思い切り突き出した。
拳の周りを包み込んでいた光の弾が、拳を離れ、空間の中を飛んでいく。
ツヴァイは慌てて右腕に集まっていた光を撃ち出し、自身に襲いかかろうとした光弾を打ち消した。
こういうことも出来るのか、相手の顔にはそんな驚きの感情が出ていた。
さて、どう来るか。私(僕)も相手の様子を伺いながら次の構えに移る。
カァンと、屋根と靴のぶつかる音が鳴る。ツヴァイはさらに私(僕)から距離を置いた。その位置に移動した瞬間、右腕から光弾を放った。
その身体の移動も弾速も相当なものだった。私(僕)はギリギリで身体を動かして交わすのが精一杯だった。
私(僕)も負けじと拳を突き出して赤い光弾を放つが、ツヴァイはそれを軽々と避けてしまう。
スピードという点では、完全にこちらが劣っている。
私(僕)の拳からエネルギーを放つというこの技は、パワーはあっても速射性やスピードには劣る。なぜならこれは本来の用い方ではないから。
どうするか。
私(僕)が考えている間にも、敵はこちらに向けてかなり性格に、そして絶え間なく銀色の光弾を撃ち込んでくる。
ここは一度身を隠したほうがいい。
私(僕)はツヴァイとは反対方向に身体を跳ばし、何とかその視線の届かない場所を目指して必死に移動した。
たどり着いたのは、街の中に広がる竹林の中だった。
ここならば障害物が多い。
ツヴァイは追ってくるだろうか。
私(僕)が考えを巡らせていると
ブルルルル!
小さな音が、それに割って入ってきた。
音の主はデバイスだった。腰のアーマーの中に収納用のスペースがあり、戦闘時にはそこに仕舞ってある。
イチカがここにいる以上、ここでメッセージを送ってくるのはミサしかあり得ないが、一体なんだというのか。
敵の気配は今のところない。私(僕)はしかたなくデバイスを取り出し、メッセージを確認した。
[アタシも、戦いたい!]
予想外の言葉だった。
ミサもイチカと同じことが出来るというのか。この身体に表出して、戦うことが出来るというのか。
しかも彼女の方からそれを言い出してくれるとは。
[今戦ってるのってツヴァイとかいうやつでしょ?]
[アタシ、最初に彼とぶつかって逃げられちゃったから、なんかもやもやしてるんだ]
どうする?ミサの言うことを信じるべきか。僕(私)の中で迷いが生じる。
しかし私(僕)の感覚は捉えていた。敵がこちらを目指して近づいてきていることを。
浮かび上がるインストールアイコン、イチカのとは違うデザインのものが、画面上に表示されている。
数秒の躊躇があった。しかし駄目で元々という思いで、そのアイコンにそっと指を伸ばした。