其の四・「嫁取り」
イヅナはとんでもない事を口にした。
その重大さが彼には分かっていないのか、当の本人意外は皆愕然とし、先程まで見直していた気持ちが一気に消えうせた。流石にこれは調子に乗りすぎである。機嫌を損ねれば死罪になるかも知れない。
しかしその時、意外な答えが返ってくる。
「いいだろう。シホを褒美にくれてやる」
代官の言葉を聞くと、イヅナはニヤリと笑みを見せた。
「本当に宜しいのか? 仮にも奥方ですぞ?」
「構わん」
「しかし、万が一という事もあります。その時は如何するお積りです?」
「しつこい奴じゃな。なれば誓詞を書こう」
「代官様、暫しお待ちをっ!」
思わず座から立ち上がり、一人の下級役人が側に駆け寄った。
役人は大層貧相な顔を代官の耳元へ近付け、小声で囁いた。
(宜しいのですか? 仮にもイヅナが賭けに勝てば―――)
(たわけが。そんな事、ある筈無かろう? これはこの生意気なガキを殺せる好機なのだぞ? 如何にあいつと言えども、多くの衆目の前で失態したとあれば、武士の名折れじゃ……)
(な、成る程……)
代官はさらさらと手早く誓詞を書いた。
それを確りと周りに見せ、確認させる。
「ならば、俺も誠意を見せよう。その場に相応しい場所を用意している!」
言うと、イヅナは大股、早足で歩き出した。途中酒の入った瓶を取ると、それを一緒に持っていく。
皆が彼の後にぞろぞろ続くと、正面玄関、大手門に到着する。
イヅナは其処から見える遥か遠くの丘の上を指差した。
「あの丘の上から、見事、的を射抜いて見せましょう!!」
この大手門から、丘の上まで凡そ五百歩はある。
そんなにも離れた場所から、矢を射ると豪語した。
「的にするのはこれです!」
すると、今度は的を紹介した。
彼は大手門で待っていたセンダから蛇矛を受け取ると、今迄大人しく待っていた舎弟に、先程拝借した酒瓶を恵んだ。
そして改めて、蛇矛に付いている飾りの房を見せた。これからその房を射抜くというのだ。
当たりっこない。長老衆をはじめ、マンタ当主も、シホさえもそう思った。
代官は大声上げて笑った。
「良いだろう! やってみろ!」
「は! その前に景気付けに一杯飲ませて貰いたい!!」
この上未だ飲むのか、と周囲は呆れる処か逆に感心した。馬鹿も貫き通せば格好良く見えるものである。
イヅナは飲み干すと、その侭三杯目を所望し、一気に平らげる。二杯目で終れば死に酒だからだ。これから重大な賭けをするのだから、それでは縁起が悪いと理由を付け、三升の酒が注がれた大皿で三回飲み干し、都合九升の酒を飲んだ事になる。
「では、これより、我が力をお見せしよう……」
イヅナはセンダに預けていた愛用の弓と矢を一本受け取ると、丘の上へゆっくりと歩み出した。
途中、彼の友である釣り眉毛が袖を掴み、止めた。
「イヅナ! 出切る筈無いだろう! 止めておけ!!」
カガ・マンタはイヅナとの出会いは、今から三年程前である。村の不良だった彼が問題を起し、それの解決と処理を任されたのが切っ掛けだ。
当初はとても嫌悪したが、次第に打ち解けた。
イヅナの放つ雰囲気は他人を引き付けるのだ。
以来、友として何かと面倒を見てきたりもした。金銭に困ったら工面してやった。無論、一度も返された事はない。時には長老衆との仲裁をしたりもした。
何故か危なっかしい彼を見捨てる事が出来ないのだ。
何処と無く子供っぽい所のある彼は、その陽気にして豪放磊落な性格からか、人を楽しませるし、知らない間にその懐に入りこむ。
カガは今回も、そんな無茶な事に望む彼を止めようとした。
イヅナは酒に酔っている。それも並みの酔いようではない。酒を立て続けに飲み干し、目は据わり、かなり酒臭い息を放つ。足はふらつき、真っ直ぐ歩くのも侭ならない。
「全ては天命が決める」
訳の分からない事を突然言い出した。
「俺は酒に酔っている。おまけに今は夜で明かりといえば、月の光と篝火だけだ。それで射抜けばそれは天命だ! 天が俺を生かすんだ! 死ぬも生きるも天命次第だ!!」
大声張り上げ、友を振り払うと、丘の上目指して上る。
「おい」
「はっ! お呼びでしょうか?」
「あの丘の上に密かに屈強な兵を忍ばせろ。イヅナが矢を射たら、斬りかかり、首を取れ……」
「はっ!」
* * *
「ようやく着いたか……。良い風だ……」
静かに吹く微風が、酒で火照った身体に心地良い。
(人は天により動かされている。生きるも死ぬも天次第……)
イヅナは自身へ暗示を掛け始める。
成功する自分を想像する。ぼやけて上手く出来ていない時は、更に強く想像する。
必ず成功する自分を思い描く。強く、深く、ハッキリと。
外の世界を遮断し、神経を集中していく。意識を研ぎ澄まし、瞳を伏せる。
(だが、俺は違う…天が俺を動かすのではない……!)
イヅナは一つ深呼吸をすると、徐に弓に矢をつがえ、きりきりと弦を力一杯に引いた。
周りは静寂に包まれている。
大手門で直立し、微動だにしない得物の蛇矛へ照準を合わせる。
(俺が天を動かすのだッ!)
彼の鷹のようなずば抜けた視力と、空間把握能力を最大限に使い、目標との距離、弓の飛距離を頭の中で計算し、瞬時に身体が誤差を修正する。染み付いている動きは緻密にして繊細、一寸の無駄も無かった。
大手門でカガ・マンタや他の長老衆が息を呑み見つめ、シホは祈る気持ちで見守った。
(俺は天下を取る男だッ!!!)
――風が止んだ。
「はぁあッ!!!」
イヅナが放った矢は一直線に飛び、風を裂く。
まるで吸い込まれるかの如く、目標へ向かうと蛇矛を掠め、地面に突き刺さった。
皆、房を見た。しかし、それは落ちてはいない。
代官はニタリと笑い、カガ達は肩を落とした。
「わしの勝ちだな」
しかしその時『パサ』と何かが地面の上に落ちる音がした。
皆の視線が集まると、今度は我が目を疑う。それは先程まで蛇矛に確りと付いていた飾りの房であり、時間差で地面に落下したのだ。
これは人間のする技ではない。神業だ。
周囲はそう思い、空いた口が塞がらなかった。
「俺の勝ちだな」
聞こえたのは銀髪の青年の声だった。
彼は何時の間にか丘の上から、此方まで走って戻ってきていたのだ。
「なっ!? 貴様、生きておったか……!?」
「お前のとこの兵士に。俺が足で負ける筈がねぇだろ?」
詰まり彼は、矢を放ったと同時に、一目散に駆け出し、ほんの少し遅れで大手門まで戻って来たのである。驚くべき脚力と速さだ。
代官が呆気に取られていると、青年はこの肥満体の男には一瞥もくれずに進んだ。
「シホ。迎えに来た」
「イヅナさん……」
互いに見詰め合うと、イヅナは突然彼女を両手で抱き上げる。
振り向くと代官へ言った。
「賭けは俺の勝ちだ! 約束通り、シホは頂いていく!!」
「ま、待て―――!」
「センダ! ずらかるぞ!!」
言うが早いか、イヅナは脱兎の如くその場からあっという間に居なくなり、姿を消した。
残された者達は、未だに何が起ったのか理解出来ず、動揺したり、呆然としていた。
その中で一人、カガ・マンタは胃が更に痛み出し、穴が開きそうな勢いだった。イヅナは人前で堂々と嫁泥棒をしたのだ。しかも、評判の悪い村代官のをである。
(が、これは好機だな……)
しかし、カガは頭痛の種である彼が起したこの嫁泥棒事件を、好機と考えなおしたのだ。
「おい。急いで手の者使い、イヅナの行方を捜索させろ」
「御意!」
部下を一人密かに派遣すると、代官を見た。
この肥えた豚は先程までの余裕と上機嫌は全く無く、恥を掻かされた恨みと、憎しみ、怒りに頭から火が出る程、歯軋りし悔しがっていたのだ。
恐らく、この先直ぐに兵を集め、イヅナを探し出し、討ち取ろうとするだろう。
それよりも早く彼を見つけ出さなければならない。
* * *
「イヅナさん!」
「如何した、シホ?」
何処かの森の奥。彼女を両手で抱き抱えた侭、イヅナは全速力で闇世の中を駆けていた。
すると突然、シホが彼へ声を掛ける。彼女は下ろしてくれるよう言った。
ゆっくりと下ろすと、彼女は少し深呼吸をし、彼へ向き直る。
「どうして、こんな危険な真似をしたんですか!?」
「あんたに惚れたからだ」
「っ…!?」
率直に返され狼狽する。
「で、ですが、私なんかにここまでする必要は―――」
「お前じゃなきゃ、ここまでしねぇ」
「っ!? 死ぬかも知れないんですよ!? 代官様の下には、沢山の兵士が控えてますし、それに……」
「お前の為なら、死んでも良いぜ?」
そこまで言われると、言葉を失う。
すると、イヅナは彼女を抱きしめた。
「シホ。俺の嫁になれ! 天下の御台所にしてやる!」
視線を上に向けると、暗い闇夜にハッキリと光る二つの瞳がじーっと自分だけを見詰めていた。
夢を見、何処までも追い求める少年のような輝きであった。
このごの及んでもイヅナは天下を口にする。
それに内心些か呆れ、そして向こう見ずなこの男を愛おしい、と思った。
「……本当に、私なんかで良いのですか?」
「最初から言ってるだろ? それと後の喧嘩先にしろとも言う。俺は何れ天下を取る男だ。女はお前だけじゃねぇ。他にも娶るぜ?」
すると、呆れたような目付きになり、ぷくーっとシホの頬は膨れた。
「折角のかっこいい台詞が全て台無しです……」
「妬くな。だが、これだけは覚えとけ。お前は俺の一番だ」
「一番…ですか……?」
「あぁ。この先どんなに良い女が現れようと、俺の心だけはお前の物だ」
「イヅナ様……。余りシホに寂しい思いをさせないで下さいね……?」
「あの~…お二人さん? 続きはまた後でヤって下さいよ。今は逃げるのが先ですぜ?」
この森の道案内のセンダに言われ、ハッと気が付くとシホは顔を真っ赤に染め直ぐに離れた。
イヅナは暗闇の所為で彼女の表情が分からなかったのが、少し残念な思いだった。
「兎に角、急ぐぞ。シホ」
「どちらへ行かれるので御座いますか?」
「俺等の住処だ」
言うと再び悪人面の青年は強奪した花嫁を抱き上げると、暗闇の中を走り続けた。
この日の晩の月は夜空に大きく輝きまるで、二人を祝福しているかのようであったという。