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わかつき  作者: はじ
3/3

(3)わかつき



 その種子は風に導かれていた。この風はどこからやって来たのだろう、そして、どこへ向かっていくのだろう。隔たりのない宙から七面倒臭い関係や些末な規則が蔓延する景色を見下ろし思いに耽る。かつてはあそこで暮らしていたが、もしあのまま地上にいたならば、環境に雁字搦めにされて窒息していただろう。しかし地上から脱したいま、その心配はもうなくなった。このままおれは運ばれてゆくだろう。何ものにも捕らわれない理想の地へ。風が運んでくれるだろう。風に翻弄されている植物たちが地上で喘いでいる。その種子は上空で風に導かれている。

 猥雑な繁華街は縮小してジオラマのように作り物めいていく。眼下の景色には緑が目立ち、あまい土の香りが上空まで立ち昇ってくる。種子は螺旋階段を下るように小さく旋回しながら地上へと降下していく。樹木の歓待を受け、樹冠の葉々と握手を交わしながら国境のように長く伸びている金網を越えて大地に降り立つ。

 この大地は母の抱擁のように柔らかいのだろうか。あの太陽は父の威厳を感じるほど輝いているのだろうか。周辺に生えている樹木は兄弟としておれを取り巻いてくれるのだろうか。この地にはおれの居場所はあるのだろうか。その問いすべてに応じるかのように、落下した種子を大地が育み、太陽が燦然と輝き、他の樹木が水分を分け与えた。やがて種子は大地から芽を出す。それは実直さを顕在させた、力に満ちた芽である。鷹揚に広げられた二つの葉は母譲り、芯の強さを固持している茎は父から授かった。周囲の樹木は種子だった彼から間隔を保ちながらも生長の良き手本となる。そこにあるすべてが、ここにいるすべてが、暖かく彼を見守っている。何ものにも捕らわれないこの地で、彼は健やかに育つだろう。何ものにも干渉されないこの地で、彼は自由に育つだろう。

 初めての夏がくる。秋がくる。冬がきて、春がくる。地球は確実に回っていた。彼は確かに生長していた。母から譲り受けた葉々は、いくつもの冷たい雨粒を寛容に受け入れることができた。父から授かった幹は、宿っている芯の強さを現前させたかのように太くなった。いまでは誰よりも立派になった彼のことを兄弟たちは誇りに思った。

 思うが侭に気ままに日々を過ごすことができるようになり、何ものにも縛られることのなくなった彼は、不意に自分自身の存在に嫌疑を抱いた。おれは父母から特性を受け継いでおれになったが、それは本当におれだといえるのだろうか。おれはおれという個ではなく、欲望を満たすためだけに排出された幾億もの父の精子と、生理という生体機能から義務的に生産された一つの母の卵子の、惰性のような偶然によって作り出された、言わば両者の搾り滓のようなものなのではないだろうか。

 他のものによって既定されている自己という枠組みを疎ましく思い始めた彼は、その囲いから脱出する策を黙考した。父と母から作り出されたおれがおれである以上、おれは父と母から作り出されたおれであり続ける。おれがおれでなくなるためには、父と母の存在を抹消すればいいのだろうか。いや、たとえ二人を消し去ったとしても、おれが二人から作られたという事実は揺るがない。それならば、おれ自身をどうにか策を弄しておれでなくさなければならない。

 木枯しが吹き、梢の葉が擦れて葉鳴り、はなりはなりと散っていった枯れ葉は、木にもたれ掛って眠っていた少年の頭に降り注ぐ。ここにヒトが来るなんて初めてのことだ。彼は初めて見る人間を興味深げにのぞき込む。木の葉に埋没していく少年は身動ぎもしない。まるで死んでいるかのようだ。彼はそう思ったが樹皮から伝わる点滴のような脈拍を感じ取っており、少年がまだ生命を維持していることを知っている。肉親に身を委ねるように身体を預けてくる少年に発熱する懐炉を内奥に抱えこんだかのような親心を抱く。それはいままで年長者に囲まれて自由奔放に生長してきた彼が初めて宿した感覚だった。

 ますます関心を引かれて少年を注視する。死貝のように閉口した少年の片側のまぶたの端に涙の雫が膨らんでいた。少年の身体のどこかにある水源から供給される水分で花の種ほどの大きさまで増大した涙は、淡い筋を引きながら頬を伝い彼が散らせた枯れ葉の脈へと滑り落ちていく。この少年も嫌気が差しているのだろう。その嫌気の対象から逃避するために深い眠りについているのだ。

 興味心は共感へと変じる。そしてその感覚も過程に過ぎない。共感は同一心を生み、同一心は投影に変わる。少年の鼓動と幹を流れる水音が重なり、彼は少年になる。少年は彼になる。二つの個体を行き来する彼の意識が少年側にあるとき、彼は彼から乖離し、父と母から作り出された彼ではなくなっていた。

 おれはこの状態を途切れさせたくない。おれはおれでなくなりたいんだ。もしおれが彼であり続けるのなら、おれはおれでなくていい。もしおれが少年であり続けるのなら、おれはおれでなくていい。

 利害を一致させた彼らは種を越えた密約を交わす。少年は彼だ。関係や規則から分離した自由の地に根を張った彼だ。彼は少年だ。両親から受け継いだ形質を持った彼とはまったく別の生物体である少年だ。

 世界の始まりを感じさせる大きな風が森林をざわめかせた。木々が目を覚まし、遥か遠く想像もつかないほど深い場所からおれの意識が浮上する。心臓から噴出した血液で全身に熱を感じた。髪の先から指の先まで神経が行き届いているかのようだ。高まり過ぎた身体を冷やすために身体中の毛穴から噴き出た汗は、汗を流すシャワーのように心地良い。汗で汗を流すという矛盾した思考から、おれは自分自身の変容を感じる。おれがおれでなくなったかのように妄想する。その思い込みだけで気分が新鮮になり、おれは新たなおれで鼻から大きく息を吸う。鼻腔を満たした大気には数日ぶりに嗅いだかのような土壌の匂い。その懐かしさに閉じていた目を思わず開く。黒一色だった視界が夜明けのようにまぶたの上へと消えていき、密集した木の葉が作り出す天蓋へと様変わりする。ごおぉう、と荒々しい風の音とともに木の葉の隙間を抜けてきた光が膨縮し、顔の上を滑るようにして渡っていった。

 おれは、腰を上げ大きく伸びをする少年を見下ろす。少年の面差しは夏空のように晴れ晴れとしており、その表情から涙の痕跡を見つけることはもう難しい。胸のつっかえが取れたかのように安堵し、後ろにある樹木の幹にそっと手を当てる。魚の鱗を思わせる表面から伝わる温もりには、人といくら触れあっても感じることができない懐かしさがある。おれは手の平から離され、その手で服についた土埃を払う。木にもたれ掛っていた上半身はそれほど汚れていなかったが、ズボンには水気を孕んだ土がじっとりとこびり付いていて払うだけでは落とせそうになかった。仕方がないのでそのままにすることにして、おれは今一度、身を預けていた樹木の根から幹、そして枝葉へと順番に見上げていく。かつておれだったものと、かつておれだったもの。見交わす少年の瞳にもう迷いはない。あるのはいままで抑圧してきた重力と闘う意志だけだ。

 おれは仰いでいる木に向かって小さく頷き、風に吹かれた枝から大きな葉を一枚落とす。それが別れのあいさつになった。おれは、毅然と背を伸ばして金網に向かっていくおれを見送る。おれはおれを信じている。あのおれならもう大丈夫。背中に向けられた声なき声援をおれは確かに感じている。ただ歩いているだけでそれを実感する。直立した背骨を軸にした脚がしっかりと地面を捉え、ここにおれがいることを教えてくる。歩行に合わせて僅かに前後する両腕はしっかりと空を切っている。呼吸は軽く、意識は出来立てのように明澄だ。金網に指を掛け、軽々と登っていくおれを木々の間から見守る。その境界線をよじ登り、反対側の地に降り立てば、おれは再び苛烈な世界へと身を置くことになる。少し臆して有刺鉄線を掴んだ手が震える。鉄線が手の平に牙を立て、じわりと痛みが拡がっていく。その痛みが全身に行き渡ってしまう前に、おれは金網を飛び越え、体勢を崩しながらもなんとか無事に着地した。

 木陰に隠れて見えなくなってしまったおれの安否を心配したが、草を踏んでいく靴音が聞こえてきたことで胸をなでおろす。その代わりに隠れていた寂しさがせり上がってきた。境界線を越えていったおれは、これから襲い掛かる様々な苦難に屈することなく人生を渡っていくだろう。しかし、嫌なことから目を背けて安住の地に逃げ込んだおれは、これからずっと、死ぬまで、この場所に留まり続ける。

 遠ざかっていく足音がやけにはっきりととどいてくる。止まる気配は決して見せない。自分にすら見放されたかのような心地になり、途方もない虚しさが鋭く胸を突き刺した。痛くはない。痛くはないけど、まるでぽっかりと洞が空いたかのような喪失感だ。

 もしかしたら本当に胸に穴が穿たれたのかもしれない。心配になり視線を下げたがそこに洞はなかった。ならばこの言いようもない喪失感はなんなのだろう。疑問を抱いたおれは、先ほどまでおれが眠っていた根元に堆積した木の葉の間からのぞく、何か小さな箱を見付ける。その実体を確かめるため目を凝らすと、それはかつておれが立ち向かった唯一の証に違いなかった。

 おれのなかで何かが弾ける。実か、心臓か、何かが。弾けたそれは一心不乱にそこら中から雨粒をかき集め、地中から有りっ丈の養分を吸い上げ、そのすべてを一本の枝先に捧げる。誰よりも輝いていて茂っていた葉はすべて抜け落ちた。頑強だった幹には虫が巣食った。紅葉の季節はおれだけ丸裸だった。辺りの木立はみすぼらしいおれを笑っていたが、そんなことは気にならなかった。おれの枝の先端は、一秒、一分、一時間、一日、一ヵ月、一年ごとに少しずつだが着実に宙を抉り、金網に近付いていた。その年月の間に東から西へと太陽が数え切れないほど通過した。そして、先行く太陽を追うようにして月が夜空を駈け抜けた。月はいつの日か太陽に追いつき、追い抜くことを夢見ている。しかし、決してそれが叶わないことを十分に承知している。知りながらも止まることができず、自らの愚かしさに打ちのめされながら不安定に形状を変え、ときには夜空から身を消してしまう。けれど、日が経てば再び姿を現して太陽を真似て空を廻る。そんな果敢な姿に胸を打たれながらおれも負けじと枝を伸ばした。

 幾年かのときが流れる。

 ようやくおれの枝が金網を越えたその夜の空には、泣きたくなるほど綺麗な三日月が孤独に浮いていた。

 まだ終わりじゃない。

 おれは、そう思った。




 今年の九月頃に書いていたもの。当時、自分はこれから何を書きたいのかよく分からなくなり、自暴自棄になりながら書いていました。そんなとき、何となくつけていた本作の原題「分かつ木」が、作中で「若槻」そして「若月」という掛詞として密かに散りばめられていたことに気付いたことで、何気なく言葉を選び、不連続にも思えていた執筆が、意識の深部で密やかに結びついていることを知りました。この体験によって、自分はまだまだ書いていけることを確信させてくれたという意味で、思い出深い小説です。


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