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わかつき  作者: はじ
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(2)わかつき



 木陰に咲いていた名も知らない黄色い花をもぎり引き千切ったおれは、ようやく落ち着きを取り戻す。露出した腕から雨のように汗が落下して、雑草に塩気を与える。濡れそぼったシャツは身体に同化しようと試みてるのか、じっとりと肌に吸着していた。静まった怒りの代わりに新たに出現し始めた不快感。少しでも涼を得ようと犬みたいに全身を揺すぶってると、目前に馬鹿でかい金網があることに気付いた。

 それは何かの境界線であるかのようにこっちとあっちを分断して左右に伸び、その途切れ目はここからでは見えない。手で揺さぶってみたが軋む音を立てるだけでびくともしない。身長の倍近くもある金網の上端には、いびつな形状をした有刺鉄線が絡まり付き、そこから先に踏み入ることを頑なに拒んでいるようだった。

 息を整えながら網の先に広がっている木々や花、野草を眺める。なぜだか無性に心を引かれた。こっちの植物とどう違うのかときかれる答えに困るけど、おれの瞳に映るあっちの植物は、優雅に背伸びをしてるかのように思う存分に枝葉を伸ばして、うたた寝の唇からこぼれる涎のような蜜を垂らして、木の葉の隙間から降りてくる柔らかな光で日光浴をしているように思えた。

 そのなかでも一本の木が目に付いた。太陽の光を葉々の隅々まで浴びて青々と輝いた若木だ。他の木々がまるで畏敬を払っているかのように距離を置いているから、周囲に遮るものがなくてやけに目立ってる。

 おれはさっきよりも力をこめて金網を揺する。軋みはするが破れはしない。足元を見るといくつも植物たちが網目を抜け、あっち側へと渡っていた。それを見た瞬間におれは燃えるような悔しさを覚える。おれはあっちに行けないのに、こいつらは行けるのかよ。屈み込んでその植物たちを残らずむしり取る。ここまで来るのに散々植物たちをいじめ抜いてきた手には濃緑の汁と土がこびり付いてる。その手で金網を三度揺する。今度は渾身の力をこめて揺する、揺する、揺する。金網は軋む、軋む、軋む、けど、壊れない。苛立ちは募っていき力がこもってく。剥き出した歯の隙間から呻き声がもれる。おれもあっちに行かせろ、行かせろよ、行かせろって、行かせてくれよ、行かせてください。金網は法律のように頑固だった。例外を許さず、情状酌量もなくおれを拒んだ。

 どう頼み込んでも通してくれない金網に、おれは口角から垂れる唾液を拭いもせずにある決心をする。網目に靴の爪先を差し入れ、上方に伸ばした手で金網をしっかり掴む。そして、壁を這い上がるトカゲのように金網を登っていく。有刺鉄線なんて気にしなきゃいい。たとえ突き刺されたとしても、それは一時のもんだ。一時の痛みに耐えれば、おれはあっちに行けるんだ。登れば登るほど昇天してくかのような悦楽が節々に宿る。あと少し、もう少し。金網の頂にようやく指先が触れたとき、耳をつんざくような鋭い怒号が飛んだ。

「おい、お前! 何やってんだ、停まれ!」

 その怒声はしばらく雑木林を木霊し続けた。轢かれる間近の野良猫のように竦み上がったおれの腰元が掴まれ、勢いよく地面に引きずり降ろされる。担任や養護教諭に暴言を吐いてたときの威勢は嘘のように消え去り、いまでは説教を待ち受ける子どものそれ自身だった。

 萎縮しているおれの頭頂部に雷のような拳骨が落ちる。続いて叱責の言葉が星とともに頭の周囲を回転した。あそこは保護区の緑地なんだ、何人たりとも踏み入っちゃいけんのだ、お前みたいなガキが入らんようにわしが見回りをしてるんだ、とんだ糞ガキだ、親の顔を見てみたい、どうせ親もろくでなしなんだろう。麦わら帽子を被った老人の叱責の刃を受けるたび、拡張を続けてた熊手状の植物は刈り取られ、大地に帰ってく。

「ほれ、今回は見逃してやるからチンタラしてんでさっさと帰れ」

 背中を押されたおれはよろめきながら来た道を引き返す。金網から降ろされたときに擦りむいたのか、焼けるような痛みの奔る足を引きずるようにして取って返してきたおれを見て、踏みつぶされ扁平になった草花たちは葉や花弁を打ち鳴らして大声で笑った。自業自得だ。いい気味だ。惨めさで霞んでいく景色。足場がふやけて覚束ない。やっとの思いでもとの道へと戻り、今度は寄り道をせずに帰路をたどる。歩む道は消沈した気分と同じように徐々に下降していく。緩やかだった勾配は直立してられないほど急な傾斜を帯びる。足を突っ張り慎重に下りてくおれに対して、道に沿って生える木々はよろめきめせず高らかに空へと伸びてく。おれは脇にいるそれらすべてを羨ましく思う。歩行のできない樹木は一見すると不自由にも思えるけど、頑強な岩盤を穿ち、その僅かな間隙に蔓を差し込み、海原を越えた遠方に種を飛ばすことのできる彼らは、目視できないあらゆるものに束縛されているおれよりも遥かに自由を獲得してるんだ。

 植物になりたい。おれがそう思うには時間はそれほどかからない。

 たとえばだ。スイカの種を大量に飲み込めば、体内で発芽した果実は宿主から養分を奪い取りながら体型に合わせて変形していき、やがて人間型に形作られたスイカが表皮を隔てたすぐ内側にでき上がる。そしてある日、何の脈絡もなく皮膚がぼろぼろと剥落し、その下から緑地に黒の縞模様の新たな皮膚が現れて、そのままおれは人型スイカになってるんだ。

 我ながら趣味の悪い妄想にぞっとして小さく身震いをしていると、向かい側から坂を上がってきた主婦を見付けてとっさに顔を背ける。彼女の片腕にはスーパーマーケットのビニール袋がしっかりと握られており、緑色のネギの先端がまるで銃口のようにおれの脇腹に照準を合わせていた。いつ狙撃されるか気が気でなかったけど、すれ違ってしまえばこちらのものだと主婦が後方メートルまで離れたことを確認し、射程から遠ざかるために足の痛みを堪えながら一気に坂を駈け出した。

 風に吹かれた髪は糸に引かれたかのように一斉に後方へと逆立つ。その幾本かの先から汗の雫が幾粒か飛び去ってく。太陽に捉えられたそれらは宝石のように輝いてから浄化され、莫大な大気の一部へと混入した。まだ男性とは呼べないおれの身体と一体化してた汗濡れのシャツは、背部から吹き入った風により日焼けした表皮のように剥がれてく。重量としては極微量の減少だけど長年の間累積していた心労が一陣の風によって些事へと変じたかのような心的な解放感を覚えて、あれ程までに不快だった汗の膜ですら爽快に感じた。思わず緩んだ頬もと。さらなる解放を求めて速度を上げる。

 靴が地面を跳ねる。砂利を跳ねのける。腕が交互に宙を裂く。足の裏で地面を捉える感触が痛みとともに曖昧になって、汗の代わりに浮遊感が全身を覆う。目端を流れてく木々は絵筆でかき混ぜられたみたいな単一色。両側を濃緑に挟まれた黒い下り坂。風に煽られ草陰から飛び立つ白い綿毛。長い坂道を下りてく一つの種子の視界の中心には空色しか映ってない。こんなふうにしてすべての種子は目指しているんだろう。涸れることのない豊富な水源、味わい深い肥沃な土壌、燦々と降り注ぐ金色の光のある理想的な土地を。そしてそこに根を張り、大樹となる己の姿を想像する。けど、たどり着いた場所には生臭い排水が流れる下水管、乾いた血痕のようなコンクリート、雑居ビルに濾された錆色の光しかない。ただでさえ生き難いっていうのにそこには細かな規則がある。それを破れば待ってるのは冷ややかな蔑視。行き着いてしまった以上、種子はその土地の規則に従うしかない。水を吸うための整列、他種への配慮、決められた日照時間。多くの種子は長い歳月を隔てることでその規則に適応してくけど、必死に馴染もうと試みても心の底で抑圧してる理想郷への未練を消化できないやつもいる。そいつは葛藤する。この未練を養分にしてしまえば規則だらけの世界にも慣れて、それなりに生きてけるだろう。周囲の視線を気にして思い悩むことも、抑圧してた利己心で自傷に耽ることも、夢に落ちる前の謝罪もなくなるだろう。けど、馴染めないことを壁に向けて懺悔した後に必ず夢見てしまうんだ。あらゆるしがらみのない、広大無辺な草原の場景を、夢に見てしまうんだ。

 はたりと風が止んだ。長らく続いた浮遊感は、国道を行き会う多くの走行車が巻き起こす烈風によって削り取られてく。走る速度を緩めてくと単調だった景色に再び色が付いて次第に明瞭になる。節々に疲労感が溜まり、意識して呼吸を行わないとむせてしまう。上半身に引っ付いたシャツを指で摘まんで剥がして、おれは国道に沿って歩く。

 二車線の道路を走行する自動車はどれも働き蟻のように忙しなくて、でも秩序を守って整列して走り去ってく。どこを目指しているのか、何を求めているのか、おれには見当もつかない。客が疎らなファミリーレストランの前を過ぎる。コンビニエンスストア、コインランドリー、有料駐車場、個人経営の居酒屋、交差点。信号は赤。停まる。待つ待つ待つ。青。手は上げない。梯子のような横断歩道の白い部分だけを歩いて渡る。歩道を行く人の数が増えてくる。それは駅が近いから。アパートに向かうためには人波と駅を越えなければならない。道幅の狭い歩道の前方から人が向かってくる。右に避けるか左に避けるか迷う。右、いや、左。通過。前方から歩いてくる人たち。右、いや、ひだ、やっぱ右。すみません。駅に近付くほど選択肢は枝分かれしてく。どれが正解の順路なのか、それは分からない。分からないけど正解を求める。右、右、左。この選択は正しいんだろうか。誰も教えてくれない。偉そうな担任も年増の養護教諭も、父親も母親も、誰も教えてくれないのは、誰もその答えを知らないからだ。

 駅前の通りに差し掛かると、歩道は牛の家族が横一列に並んでも悠々と闊歩できるほどの幅になる。行き来する歩行者の流れに身を任せておけば、さっきみたいな選択をする苦悩はない。でも、選択肢がなくなれば法則性が薄くなる。自転車が通りを横切り、飛び退いた老婆のカートに幼児が衝突して泣き喚く。申し訳なさそうな謝罪は雑踏に巻き込まれて聞き取れない。泣いてる息子を引っ張って駅に隣接するスーパーマーケットに入る母親。パチンコ屋から肩を落として出てくるサラリーマンと交代するようにして入店するくすぶった目をした若者。雑居ビルの路地でゴミを漁る浮浪者を追い払うボランティアの清掃員。ギターケースを背負った大学生は吸い掛けのタバコを排水溝に投げ捨て、棺桶を背負った老人は厳めしい目付きをして改札口へと向かう彼を無言で見送る。ポケットティッシュを配る女性の熟練した手さばきを巧みに逃れる熟達した諸々の歩行者。一見するとそれぞれが独立し自分の意思に基づいて往来してるように思えるけどこいつらは拘束されてる。将来、そこにいる誰かになるのであれば誰にもなりたくないと思ったけど、いくら想像力を自在に操ってもおれが歩む道にはこいつらのうちの誰かがいて、左右どちらにすれ違うか考える暇もなく衝突し融合してこいつらのどれかになってるんだ。

 おれはどうしても至ってしまうその未来から少しでも距離を置きたいと思って、逃げるようにスーパーマーケットに向かう。左右に開いた自動ドアを抜けると心地の良い冷気が顔にぶつかる。その涼風は青果売り場から野菜の青臭さと果物の甘さを混合して運んできた。キュウリとトマトの陳列棚の間を通り、足の赴くまま当てもなく放浪する。夕食前の店内には主婦の姿が多い。彼女たちは頭蓋骨の裏に張られたレシピ表に従って店内を練り歩き、目的地に着くその間にも年齢詐称の厚化粧に縁取られた瞳で目ぼしい商品を絶えず探ってる。鋭敏になってるのは視覚だけじゃない。店の端からとどいてくる目玉商品の価格を聞き逃さないよう聴覚も研ぎ澄まされてて、現在の彼女たちは野獣にも劣らない貪婪さを孕んでいる。当然の如く理由もなくそこにいるおれは彼女たちにとって異物だ。意味もなく店内をふらついてるだけのおれに向けられる視線には不審感が強い。どうして子どもがこの主婦だけの時間にいるのだろう。疑いの目を寄こすものの自らの目的が最優先のため声を掛けるものは現れない。

 期せずして戦場に迷い込んでしまったおれは、主婦から向けられる凶暴な視線を避けながら日配品の棚、魚や家畜の肉が並ぶ一角、おもちゃ箱の中身のような菓子コーナーを巡り歩く。無意味に商品を手に取り、解読できない表示を眺めて時間の経過を待つ。待てば何かが訪れることもないのに、商品を手に取り、表示を読み、棚に戻す動作を機械のように反復させる。通路に人が現れれば手にある商品をもとの位置に返し、人気のない場所を求めて移動する。

 その無益な行動が終わる切欠は、不意打ちのように唐突な着想だった。それはほんの思い付きに過ぎなかった。手に取ってた商品を棚に戻すとき、手元が狂って落としてしまった。園芸用の種が封入された小箱は、蛙のように数回床を跳ねた後、横滑りして停止する。それを拾おうと手を伸ばして、他愛もないあることに気付く。それは、この小箱とズボンのポケットの大きさの一致だ。取るに足らないその発見を確かめようとした訳ではないけど、拾われた小箱は本来あるべき場所に帰るかのようにおれのポケットへと収められてた。

 四角く膨らんだポケットを見下ろして、始めておれは己の行動の意味を悟り、目を見開いて逡巡した。そんな気は全然、なくて。わざとじゃ、ないし。ポケットに入りそうだなって思って。自らに向けて言い訳を重ねてると、食材を満載したカートを押した女性が通路に入ってくる。幸いなことに、いま通路にいるのはおれとその人だけで、さっきの場面を誰かに見られた恐れはないようだ。思わず安堵したけど、さらに重大な事柄に行き当たっていることが発覚して、鼓動のテンポが加速した。どうやって商品をもとの棚に返そう。いまから出せば絶対変な目で見られる。もしかしたら、店員を呼ばれてそのまま捕まるかもしれない。このままここにいても、ポケットの膨らみを見られたら絶対に怪しまれる。商品棚を物色している女性は着々とこちらへと近寄ってくる。おれはさり気なさを装って背を向けて正面を隠し、見付からないよう慎重にポケットから小箱を取り出そうとして、止めた。

 中途半端な位置にあった小箱をポケットの奥に押しこみ、その場からそっと離れ、長蛇の列を作っているレジの横を素通りして、何食わぬ顔で店から出る。

 出入り口に面した往来は、学校帰りの学生も加わって先ほどにも増して混雑してる。おれはその荒風のなかに身を投じる。吹き荒ぶ風によって地上は無作法にうねり、渦を巻いてる。どんなに目を凝らそうとも不可視なその移ろいを予測することは難しい。でも、視野を拡大すれば風は大気という体系の一部に過ぎなかった。大気ではすべてが関連付いてる。どこかの森林で小さな蝶が羽ばたけば、それは微風となって球面をたどり、どこかの列島で台風となる。蝶は自らの翅から生じた風の行方を知ることができず、台風は自らが生じた原因を知ることができない。すべてを知ることができるのは、大気という秩序から離れて球体を俯瞰しているものだけだ。

 おれは風の流れに揉まれながら大きく空を仰いだ。ただ青い。ただ青い空に小さな粒がちんまりと浮き、風に流されてた。おれはその行方を追うようにして、あの緑地を目指して走り出してた。




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