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わかつき  作者: はじ
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(1)わかつき

 初めて宇宙から地球を見た宇宙飛行士たちは、自らを包んでいた母ともいえる地球を外側から眺めることで人類誕生の神秘を感じ取ったけど、地球の教壇に立つ担任教師の手に持たれた地球儀を見ているおれは、息の詰まるような閉塞感を覚えて軽い吐き気を催してた。

 なんだあれ、おれはあんなボールみたいなもんのなかで暮らしてんのか。鳩尾からせり上がってくる痛みから気を逸らすため、窓外の景色へと視線を移動させる。

 丘の上に建つ校舎からは、我がもの顔で広がる街の全景が眺望できる。学校のある頂上付近には川縁の苔のように繁茂した樹木、濃緑の合間から家屋の屋根がちらほらとのぞいて、斜面が平地に近付くとともにその数は爆発的に増加、対称的に緑が消失する。正午過ぎの緩い陽光に甘やかされた街の景観は飼育小屋のなかのニワトリのように能天気に見えて、おれだけはその例外だと示すように僅かな雲が散りばめられた蒼天を仰ぎ睨みつけた。目に染みるほど晴れ渡ったこの空がおれを閉じ込めているあの地球儀の外殻なんだ。おれを息苦しくさせている原因だ。この拳を突き上げれば壊せるだろうか、バラバラに破壊できるだろうか。右手に摘まんでいた鉛筆をノートの上に放って拳固をつくる。さぁ振り上げろ、さぁ破壊しろ。耳の奥で囁いてくるその声は誰が口にしているんだろう。

 不思議に思って顔を戻すと、教壇にいる担任と目線が合う。ついさっきまで感じていた息苦しさも忘れて、さっと熱を帯びていく顔を隠すようにしてうつむいた。

 藤森、顔を上げろ。にわかに剣を含んだ担任の声が旋毛に刺さり、恐る恐る顔を上げる。

「モンゴルはどこだどこにあるんだモンゴルは」

 愛娘のように抱いている地球儀の表面を撫でて言う。回転する地球儀は一秒で一年を経て、その速度に振り落されないように大地にすがった人々が上げるだろう呻吟の声がおれの口からあふれる。瞳を半月形にして担任は地球儀を回し出し、教室のどこかから泡のように小さな笑い声がする。その泡は椀状に膨れ上がり限界がくるとバツンと爆ぜ、内部に溜まっていた腐臭を放散した。それが切欠になって続々と泡が出没し、バツン、バツン、と小爆発して部屋中に悪臭を立ち込めさせる。再来する嘔吐感。とっさに息を止めたおれは泥沼に潜行するように顔を伏せて目を閉じる。暗闇。ここなら安心できる。でも息ができない。換気しなきゃ。でも目を開けられない。どうしよう。手探りで窓を確かめる。冷たく硬いガラスの感触。このまま横にずれていけば錠に到達する。三日月型のクレセント錠に。こめかみから垂れてきた冷や汗がもみあげを伝い顎先へと流れ、暗闇の底へと落下してく。やっと指先が錠に届く。急いで窓を開け、られない。開かない。留めきれない焦りが汗となって体外へと排出されてく。泡の爆ぜる音が耳を衝き始める。急げ。このままじゃ。早く逃げなきゃ。早くここから逃げ出さなきゃ。窒息する。肩に手が掛かり、おれは閉じていた目を開けた。

 視界いっぱいに格子柄の天井が映った。周囲をうかがうために首を右にやると開け放たれた窓、そこから吹き込む微風で小波のようにヒダをつくるカーテン、鼻先を掠めていくほのかな薬品の臭い。自分が仰向けになっていることに気が付いて、上体を起こす。胸元まで掛かっていた純白の掛け布団が音もなく滑り落ちてく。ベッド脇にあるチェストの上に置かれた花瓶、活けられた造花の花弁が虫の羽ばたきのように微かに振動してる。白色を基調とした室内が保健室であることを知ったおれに柔らかい声が掛けられる。

「体調はどう?」

 使い古したモップのような天然パーマを頭上に乗せた小太りの養護教諭が心配げに顔をのぞき込んでくる。体臭を隠す意図が見え透いた香水の臭いが鼻を刺激した。その臭いから逃れるように顔を逸らし、もう大丈夫です、口にしてベッドから降り、床にそろえて置かれていた自分の上履きを履く。

「もうすぐ授業終わる時間だけど、どうする? 帰るならカバン持ってきてあげるけど」

 今から教室に戻る気になれなかったおれは小さく頷く。すると、死人のような色合いの口紅を塗った養護教諭の唇が物言いたげに動いた。おれは身を縮めて続いて出る言葉を待ち構えたけど、養護教諭は何も言わずに踵を返して部屋から出て行った。

 一人残されたおれはベッドに腰掛け、開かれた窓の外の奥を意味もなく見上げる。空は水色のペンキを糊塗されかのように淡く輝いてる。所々に浮いてる雲は塗装に根差した白黴のようで、塗装の表面をじくじくと蠢いて勢力を拡げてくけど、やがて太陽熱に滅菌されて薄く消えた。でも、目視できない胞子によってまたどこかから湧き出しては拡張していった。そしてそれも時が経てば焼かれて消えた。それでも滅入ることなく増殖を止めない黴雲が空を覆い尽くしたとき、大地に降りてくる幾筋もの菌糸が風呂場のタイルの間に繁殖するんだろう。それを見付けた母親はぶつぶつと文句を口にしながら除黴剤のボトルを握りしめて、小川で死んでいた蟹からかき集めてきた白濁した泡を噴出させて黴を殺すんだ。

 刻々と変容する雲を妄想の餌食にしてると、背後から養護教諭の声がぶつかりおれの横に重箱のようなランドセルが置かれた。いまにもシーツに沈んでいきそうなランドセルを慌てて手に取り、面伏せのまま消え入りそうな声で礼を口にする。小さな謝辞は養護教諭の耳に入り損ね、吹き込んできた微風に巻き込まれて薄雲のように消えた。それに乗じておれも部屋を辞そうと試みたけど養護教諭に行く手を遮られる。おれは視線を泳がせながら逃げ場を探す。養護教諭はそれに合わせて肥大した体躯を駆使して進路を塞いだ。

「君はいつまでそうやって逃げるのかしらちゃんと立ち向かわなければだめよそうやって嫌なことから目を背けていられるのもいまのうちよこれから先の人生にはあなたが思ってもいない辛いことしか待っていないわいまの間に少しでも慣れておかなきゃろくな大人になれないわよ」はい、はい、はい、はい。「そうやって頷いていれば済まされると思っているのなら大間違いよ表面だけで取り繕っていても君が心から納得しなきゃ意味はないのよ」

 はい、はい。

 何を言ってもおれの態度には変化の兆しがなく、あきれた養護教諭はこれ以上の物言いは無意味だと悟って通路を開けた。おれは彼女の顔色を上目遣いでうかがいながらベッドと彼女の間を通り抜け、いつ呼び止められてもいいように全身を固めてたけど、幸運にも呼び声が掛かることはなかった。

 保健室から退室したおれは足音を潜めて閑散とした廊下を歩いてく。まだ授業中なんだろう、校内に人気を感じはするけどそれは屋根裏を駈けるネズミほど些細な物音だ。手に持っていたランドセルを背負い、昇降口へ向かう。上履きの表底と木製タイルの廊下が粘着し、まるで泥濘のなかを歩いているかのように一歩一歩に違和感がある。早退することに罪悪感を覚えたことはないから、ただの体調不良だと思い直して強引に足を進めた。

 蜂の巣のように規則的に並んだ昇降口の靴箱で運動靴へと履き替え、両開きの大扉をくぐり抜けると、頭上から熾烈な太陽光が降り注ぐ。このまま引き返して物影で誰にも見つからないように縮こまりながら涼んでたい誘惑に駆られたけど、万が一にでもその姿を誰かに見られることの方が嫌だったから仕方なく日向へ踏み出した。

 折よく鳴り出した終業のチャイムによって、閑散としていた校内から生き物の気配が一斉にあふれ出す。猿の奇声、鳥の羽ばたき、犬の雄叫び。不思議と生き物臭さも漂い始める。おれは好奇の餌を求めて校舎中を這いずり回り始めた彼らに見付からないよう気を配り、校庭の端にある花壇に沿ってひっそりと歩んで行く。花壇に咲いている向日葵の影に遮られていると気持ちは落ち着いてくるけど、冷静になればなるほど背後から届いてくる喧騒がおれに向けられた嘲笑のように錯覚した。少しでも早くこの場から離れるために歩調は無意識に速度を増してく。爪先が地面を離れ、踵が着地する間隔が短くなる。砂埃が大きくなる。呼吸は次第に熱を帯びて、気付けばおれは校門に向かって全力で駈けてる。

 黒い校門を抜けた途端、笑い声は間遠になる。でも視線を感じて振り返ることができない。おれは駈け抜けてきた勢いそのまま、校門の先にある十数段の石段を下りてく。足を踏み外し、真っ逆さまに下まで転げ落ちていき、コンクリートの地面に頭を強打する。そのまま血だまりのなかで死んでいくおれを想像し、下校する生徒たちに指を差されて笑われるおれの死骸を想像して下りる速度を少し緩めたけど、足は一刻も早く学校の敷地外に出たいという衝動を抑えきれず半ば想像通り転げるようにして最下段に到着した。

 擦り切れた運動靴の裏が地面と接着したその瞬間、先ほどまで全身を満たしていた衝動は、突風に巻かれた煙のようにこつ然と消えた。走り疲れて息を荒げた心臓はまだ治まってないけど、それも時間が経ってくといつものように静かになった。額に浮き出した汗の粒を手の甲で拭って、背後を振り返る。駈け下りてきた石段が見えるだけで、そこには校舎の面影はない。束縛する建造物のない場景から解放の実感を得ると、横柄な意識が地中から顔をのぞかせる。今まで散々重力に圧迫されてたそれは、自らを抑圧するものがなくなると、鉤爪のように生長させた芽を地表に出し、周辺の空白を貪り食いながら熊手状に拡がり宙を満たしてく。

 くそ、あのモップ頭。子どもだと思って調子乗んなよ。毎日、室内で紅茶飲んで菓子喰って雑誌読んでるだけのやつが偉そうに説教すんじゃねぇぞ。だから豚みたいにぶくぶくぶくぶく太んだよ。そのまま破裂して死んじまえよ。死ね、死ね、死ね。第一、クセェんだよ。色気づいて香水なんか使ってんじゃねぇよ。お前もう四十路だろうが。誰に色目使ってんだよ。お前なんて誰も見てねぇよ。自分のことを客観視できてねぇからいつまでも結婚できねぇんだよ。生き遅れババアが。死ね。

 数メートル先の路傍に密生してるブタクサを発見して、駈け寄って引き千切り、腕を振り上げて地面に叩きつけて踏む、踏む、踏んで踏んですり潰す。踏み付けた個所だけアスファルトは血痕のような黒染みを描き出し、その後には惨殺されたブタのクサが横たわる。目を剥き出しにして睨み付け唾を吐きかけ、嘲弄をこめて笑い声を立てる。心のなかで。それでも静まりをみせない怒りを発散させるために次なる獲物をすばやく探す。前方の並木道の脇に発見する。雑草に取り囲まれながら偉そうに咲いてるハルジオン。焦らすように歩んで、怯えて竦み上がった白い花を勢いよく踏みにじる。

 モンゴルの場所? そんなもん知るかよ。知ってどうなるってんだよ。知ってたところでなにか得すんのかよ。自慢げに地球儀回してんじゃねぇよ。そんなことおれにだってできるわ。あ? あれか、先週子どもが生まれたから浮かれてんのか? 言っとくけどな、お前の血を受け継いでるガキなんてどうせ傲慢なやつで学校入ったら周りから浮いてイジメられるんだよ。入学初日から上履き隠されて給食に泥水入れられて教科書とか全部盗まれるんだよ。お前の子どもとして生まれてきてホントかわいそうだわ。そんなんだったら生まれてこない方が本人も幸せだったろうにな。

 お前らもヘラヘラ笑ってんじゃねェよ。じゃあお前らは分かんのかよ。どうせお前らも分からねんだろ。分からねぇくせに人が困ってるとこを見て笑ってんじゃねぇよ。動物みてぇにキーキー喚くことしかできねぇのかよ。動物園よりもうるせぇんだよ。毎日毎日ツマンねぇこと話してケラケラ笑ってよ。どうせこれから先の人生も楽しいことばっかだと思ってるんだろ、馬鹿じゃねぇの。残念ながらお前らみてぇな喚くことしか能のない動物みてぇな奴らはな、檻に入れられてそのなかで暮らすんだよ。狭くて臭い場所でエサを与えられて客に笑われながら暮らすんだよ、ざまぁみろ。

 思い付く限りの暴言を吐いて一通り鬱憤が晴れると、一時的に平静が訪れる。でも、その凪も長くは持たない。土壌で熟成した憤りを根から吸収する熊手状の植物は、さらに領土を拡げるために生長をする。鬱蒼と茂った木々の合間に新たな非難の対象を見付け、暴力的にうねる蔓を伸ばして足蹴にしてく。そうやって目に付く草花を片端から潰しているうちに、自分でも意識せず道から離れて雑木林の深奥へと向かってた。




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