第六話:黒い天馬(2)
「しめた」
黒天馬は厩の中ではなく、一匹離れて外に繋がれていた。おそらく、他の馬とそりが合わないのだろう。
シータはそのあまりの美しさに、一瞬我を忘れた。毛色は青毛の馬よりなお黒く、黒鉄のように鈍く艶めいていた。そして何よりもその翼である。ペガサスの白銀の翼は見慣れているが、黒天馬の大翼は闇に塗りつぶされたような漆黒だった。
「なんて、美しい。」シータは知らずそう口にしていた。
黄泉よりの使者のようなその姿。シータは心が躍った。ランサーの王太子たる自分にこそ相応しい天馬だ。
慌てて立ちふさがった衛兵を、シータは驚くほど素早い身のこなしですり抜けた。衛兵などもう眼中になかった。ただ目の前のペガサスだけに心を奪われていたのだ。
「待てっ小僧!」
衛兵がシータを取り押さえるより早く、シータは黒天馬に駆け寄った。天馬には鐙も、鞍すら付けられていなかった。しかしシータは黒天馬を繋いだ綱を小剣で素早く断ち切ると、慣れた身のこなしでにまたがった。
「フィード、行こう!」
だが次の瞬間、フィードは激しく嘶くと、後ろ脚を高く蹴り上げた。鞍も鐙もない状態で、シータは咄嗟にしがみつくことも出来ず、無様に振り落され、地面に転がり落ちた。
「……っ!」
フィードはシータを振り返りもせず、再び激しく嘶くと、大きく翼を広げ、自由になった身体で空へと飛び立っていった。
「そんな……」
シータは呆然としてその後ろ姿を見送った。
完全に拒絶された。こんなことは初めてだった。ペガサスを操ることは、シータにとって唯一絶対的な自信を持って人に誇れることだった。そのことだけは、厳格な父もシータを認めてくれていたと言うのに。
体中の力が抜けたように、シータは駆け寄る衛兵に対し抵抗することもなく、手足をつかまれ、捕らえられた。それだけシータは自らの誇りと自信を失い、絶望に囚われていた。
そこへ駆けつけたのはビーツだった。ビーツはアルブサールを片手に、襲い掛かる敵を相手に戦っていた。八年も現役を退いていたとは思えない、素晴らしい動きだった。その剣技もさることながら、彼には広い視野で戦況を見極める優れた判断力のセンスがあった。背中に目が付いているのかと思いたくなるほど、周囲の敵の動きに敏感に反応し、どの相手の剣を受けるべきか、どの相手に注意すべきか、的確に見極めながら確実に敵を倒していく。
「ガーラント将軍、強すぎます!応援は?応援はまだなのか!?」飛び交うエドルニア兵たちの声。
もしシータがそのビーツの姿を見ていたとしたら、往年の彼の姿と重ね合わせ、感嘆していたことだろう。しかし絶望に囚われたシータの目はその時何も映してはいなかった。
「殿下、何をなさっているのですか!?」
「……ダメだビーツ、すまない。私は、フィードに認めてもらうことが出来なかった。たった一つの誇りすら失った」
「シータ様、しっかりしてください!」
ビーツはシータを捕えていた衛兵からシータを奪い返し、無理やりその体を立ち上がらせて怒鳴った。
「あなたは本当の愚か者ですか。そんな、ちっぽけな誇りが何になりますか?それであなたは、すべてを諦めてしまうのですか?コルネイフは、ランサーはどうなります!?」
シータは頬を叩かれたようにはっとしてビーツの顔を見返した。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。王太子たるシータに、そこまでストレートな言葉をぶつける人間は、これまで居なかった。
「ビーツ、私は……」
ちっぽけな誇りだと?……だがそれは、シータにとってはただ一つの大切な誇りだった。大切な……いや、でも、何か大切なことを忘れてはいないだろうか。
ランサーの太子であり、特別な力を持つ自分の方が、元の持ち主よりよほど黒天馬に相応しいなどという奢り、そして、なんとしてもあの美しい天馬を手に入れたいと言う欲が有りはしなかっただろうか。黒天馬に認められるほどの資質を自分が持っているのだと、誰かに誇りたいという気持ちがどこかに有りはしなかっただろうか。
シータはそこでようやく、自分の過信と幼い思い上がりに気付いたのだった。
違う、今自分がやらねばならないことは、そんなちっぽけな誇りを守ることなどではない。自分はどうあっても、生きてランサーに帰らねばならない。生き延びて、リーアとコルネイフを助けねばならない。その為に、ビーツが天馬を探し出し、ここまでのことをしてくれたと言うのに。このままでは自分は、天馬を手に入れることも出来ず、ビーツが自分の為に尽くしてくれた苦労も全て無駄にしてしまう。
シータは左手の親指と薬指を口にくわえた。甲高い音が鳴り響く。ペガサス乗り特有の指笛だ。
「ビーツ、フィードを追いかける。援護をしてくれ!」
「はっ!」
シータはビーツの援護を受けながら、右手に持った小剣で何とか身を護りつつ、フィードの飛び去った北西を目指した。その間も指笛を鳴らし続ける。
帰ってきてくれフィード、せめて、今このときだけでも構わないから、力を貸してくれ。
私は、ランサーに帰らねばならない。お前の主人の国、コルネイフを救うと、約束したんだ。
すでに二人は数十人のエドルニア兵に囲まれており、とてもフィードを追いかけられる状態ではないように思えたが、ビーツの働きは予想以上に凄まじかった。シータを守りながら、敵を倒し、確実に活路を切り開いてゆく。そのあまりの力の差に、エドルニア兵の多くはすでに戦意を喪失仕掛けていた。
シータの指笛はその間も甲高く鳴り続ける。シータはビーツの作ってくれたわずかな隙を突いて敵の輪を抜け、走った。フィードの去っていった空を目指して。
その時、誰もが予想だにしなかったことが起こった。茜に染まりかかった西の空から、黒天馬が掛けてきたのだ。ビーツでさえ目を疑った。なんとかここからシータだけでも逃がすことが出来ればとは思っていたが、黒天馬は半ば諦めていたのだから。
「フィード、戻ってきてくれたのか!」
あるいは、フィードの死んだ主人が、シータに味方してくれたのかもしれない。
「フィード、私は醜い驕りばかりが達者で、何も出来ない愚かな王子だ。それでも私に力を貸してくれるのか?」
誇り高い黒天馬は、シータの数歩先に着地すると、全てを見透かしているかのような澄んだ目でシータを見つめ、鼻を鳴らした。まるで幼いシータを鼻で笑ったかのように見えた。
「フィード……!」
シータは思わず、その首に思い切り抱きついた。なぜかそのとき初めて、フィードと心が通じあったように思えたのだ。フィードはもう逃げなかった。
「フィード、私はひとまず私を助けてくれた恩人を、救いたいと思う。」
シータはすかさずその背に体を預けると、ビーツを迎えに行った。あっけに取られて見ていた衛兵が、思い出したように動きだす。
「ビーツ!乗ってくれ!!」
シータは馬上から体をぎりぎりまで右に傾け、半ば抱き留めるようにビーツの体を引き上げた。リーアにはよくやったことがあったのだが、ビーツは彼女の二倍近い体格と体重をしている。シータは予想外の余りの重みに振り落とされそうになりながらも、ビーツの戦士らしい腕力と機敏な動きに助けられ、どうにか騎上へ抱き上げることが出来た。
衛兵達ももちろんそれを黙って見ていた訳ではない。射手は一斉に矢をつがえ、黒天馬を狙って放った。しかしそこはさすがのシータ王子と言おうか、空に出た彼は、まさに水を得た魚のようだった。その巧みな操縦と黒天馬の飛行能力の高さが相まって、矢の雨をひらりとひらりと掻い潜る。
「殿下、私のことなど放ってお逃げくだされば良かったものを」
「いや、ビーツ、私の愚かさは良く分かっただろう?そなたが居てくれなくてはダメだ。せめて、私が無事ランサーに帰り着くまでは、そばに居てくれないか」
ビーツはそんなシータの言葉に、思わず苦笑して言った。
「あなた様のその謙虚さは本当に、見上げたものです。陛下のご教育が良かったのでしょうな。その気持ちが有る限り、あなた様はいくらでも大きく成長することが出来ましょう。そして、多くの仲間があなた様を支えようと力を差し出すことでしょう」
ビーツのその言葉はけして皮肉などではなかった。ビーツはシータの幼さゆえの愚かさを見抜いては居たが、その何事にも真っすぐで、認めるべきことを素直に認める謙虚さには心から賛美していた。王侯や貴族などという高い身分にある者には、なかなかそれを身につけることは難しい。
「……畏まりました。では、殿下が王城に帰り着くまで、この不肖ビーツ・ナインアータが御身をお護り致します」
こうして、シータとビーツはランサー王城を目指し、茜色の空の下を飛んだ。しかし、目指す自国ランサーで、更なる困難が待ち受けていようとは、この時の二人には知る由もなかった。