第四話:黒い天馬(1)
シータは、ユトリアで戦禍に遭って孤児となってしまった少年として、身分を隠してビーツの家にしばらく逗留した。
それから約半月もの間、シータはビーツの家の寝台の上から離れることができなかった。傷と疲労に加えて、急激な環境の変化にすっかり体調を崩してしまったのだ。ビーツも今はただの貧しい農民に過ぎない。食料の備蓄は乏しく、シータに満足な食事を準備してやれないことを悔しく思った。大切な故国の太子を死なせるわけにはいかないと、八方手を尽くして食料や薬を求めた。
それでも、ビーツの努力の甲斐あってか、シータは三週間目が過ぎたあたりから徐々に回復してきた。
傷が癒えてくると、シータは多くの時間を費やしてしまったことに焦りを感じ始めた。
「ビーツ、コルネイフの状況はどうだ?ランサーは、他のエレスゲンデの国々はどうなったんだ?」
ビーツもここのところコルネイフやエレスゲンデの状況について出来る限り情報を集めようとしてきた。しかし、コルネイフの状況はともかく、周辺地域の情報はあまり入ってきていなかった。
「コルネイフはすでにほぼ全域がエドルニアの支配下にあります。王城は陥落。陛下は戦火のうちに、亡くなられたそうです。」
「そうか……陛下は、亡くなられたのか。」
陛下が亡くなられた。シータは初めてコルネイフが陥落したことを実感した。王城が陥落、陛下が亡くなられ、それはつまり、コルネイフという国が失われてしまったことを意味する。
「リーアは?リーア王女はどうしているんだ?無事なのか?」
「それが、王女様については全く話が流れていないのです。亡くなったという話も出ていなければ、捕えられたという話も聞こえてきていません。」
「何も……?」
シータは不思議に思った。リーアはエドルニア兵に捕らえられたはずだ。
「ですが、もっと不思議なのは周辺諸国についての話です。エドルニア軍がランサーや他のエレスゲンデ諸国に攻め込んだという話も出ていませんし、逆に周辺諸国がコルネイフを助けて援軍を送ってきたという話もございません」
たしかに不思議なのはそのことだった。エレスゲンデ諸国は北のニーベルン、コルネイフ、ランサー、南の三国ルトラ、リマ、アストーラ、そして少し外れてマラノ。全ての国々が固い同盟で結ばれていたはずだ。コルネイフが侵攻されたとなれば、真っ先にまず近隣のランサーとニーベルンから援軍が送られるはず。
「ランサーは、いったい何をやっているのだろう。父上は何をやっているんだ。何故、コルネイフを助けようとしないんだ」
シータは歯がゆい思いを感じていた。
情報が全く入ってきていないので何とも言えなかったが、シータとビーツも含め村の人々は、コルネイフ以外の国々もすでにエドルニアに攻め込まれたか、もしくは戦わずして降伏し、その指揮下に入ったか、いずれかだろうと推測はしていた。
「ともかく私は、一刻も早くランサーへ戻りたい。」
だが、どうすればいいのかシータには分からなかった。コルネイフは小さな島だ。国中にエドルニア兵がはびこっているようだし、奴らに気取られず島を出る方法などあるのだろうか。せめて、ペガサスがあれば……。
「シータ様、あなたはペガサスを操る技術をお持ちだとか。」
「ああ。以前話した通りだ。」
「それならば、方法があるかもしれません。」
「どういうことだ?」
「隣町のシクロに、元々コルネイフの軍用だったペガサスが一頭、余っているという噂を聞きました。」
ビーツの話によれば、元々シクロの町出身の騎士が乗っていたペガサスだったのだそうだが、彼女が病気か戦かで命を落とし、乗り手がいなくなってしまった。問題は、そのペガサスが黒天馬だったことだ。ただでさえ気難しいペガサスの中で、黒天馬というのは特に扱いが難しいと言われている。黒天馬はフィードと名付けられていたが、初めの乗り手にとてもよく懐いていて、彼女が死んだ後も、彼女に忠義を尽くし、けして他の騎士がその背に乗ることを許さなかったのだそうだ。
「黒天馬か……それは、珍しい。」
シータも噂だけは聞いたことがあったが、実際に見たことは一度もなかった。黒い毛並みの天馬と言うのは非常に希少で、扱いも難しいが、一度手懐ければ主人に非常に忠実で、性能も普通のペガサスより格段に高いと言われていた。
「他に乗り手が見つからなかったため、黒天馬はしばらくその騎士の祖父の手元にあったそうです。祖父は亡くなった孫娘の形見としてシクロの自宅で大切に面倒を見ていたのだそうですが、今回この戦乱の中、シクロの町もエドルニア兵の襲撃を受けました。彼の生死は不明ですが、エドルニア兵に押収された彼の自宅には黒天馬がまだ繋がれているようです。おそらく、エドルニア兵も扱いに困っているのでしょう」
「そうか。その黒天馬を手に入れることが出来れば……」
「はい。黒天馬ならば闇に紛れて島を出ることも可能でしょう。ただ、……忘れてはならぬのが、黒天馬は非常に扱いが難しいという点です。殿下、無礼は承知でお聞きしますが、黒天馬を乗りこなす自信はおありですか」
シータは自信を持って頷いた。
「心配はいらない。必ず乗りこなしてみせる」
確かに、苦労して手に入れた末に乗れないなどということがあれば、こんな馬鹿な話はない。だが、そんな不安も跳ね返すほど、シータにはペガサスを操縦することにかけては絶対的な自信があった。そもそも一般的にペガサスは男子を嫌う。シータがペガサスに乗れることは奇跡だ、とまで言われていた。ペガサスを操縦することにかけては、自分には他人とは違う特別な力があると思っていた。
「レストは、本当にいい馬だったんだ。あれを失ったのは本当に残念だった。あれ以上に良い天馬にはもう出会えないかと思っていたが、こんなところで黒天馬に出会えるとは」
シータは滅多に手に入らない黒天馬にすっかり心惹かれてしまっていた。ここで出会ったのは運命かもしれない。黒天馬は、自分との出会いを待っていてくれたのかもしれない。
「分かりました。ではしばしお時間をください。探りを入れてみます。」
ビーツはシータの言葉に多少の過信があるのではないかと心の内で疑いながらも、そう請け負った。
「それと、ビーツ。もう一つ頼みがあるんだ」
シータは打って変わって控えめな口調で言った。
「なんでしょうか?」
「私に、稽古を付けてくれないか?せめて自分の身は自分で護れるようになりたいんだ」
シータはこれまで、剣術というものに全く興味を持てなかった。強くなりたいという気持ちがなかったから、稽古にも全く身が入らず、さぼってばかりいた。今となってはそんな自分を後悔していた。
「かしこまりました。私ももう剣を棄ててから十年近く経ちます。お役に立てるかどうか心もとないですが、出来る限りお力になりましょう」
昼間は村の者やエドルニア兵に見咎められる恐れがあったから、二人は日が落ちてから完全に暗くなるまでの時間、村の外れの林の中で調度いい大きさの木切れを手に稽古した。昼間は昼間で、ビーツはシータに鍬を持たせ、自分の畑を一緒に耕やさせた。
「鍬を持てば、腕や足腰に筋力がつきます。体力もつきます。半月も伏せっていらっしゃったから随分お痩せになったこともありますが、それでもあなた様の腕は少し細すぎます」
ビーツは自分の腕とシータの白い細腕を比べながら苦笑した。
「まったくその通りだ。私の腕は頼りなさすぎるな」
シータも強くなるためと思い、王太子に対するものとも思えないビーツの指導に、文句一つ言わずついていった。このわずかな期間に、シータはよく働き、よく食べ、失った体力を徐々に回復していった。