第三話:ビーツ・ナインアータ
柔らかい朝の光が、シータを揺り起こした。シータは薄く目を開き、驚いて周りを見渡した。
さやさやと風に揺れる草原が延々と続いている。昨夜の出来事が急によみがえってきて、シータは暗澹とした気持ちになった。
あの後しばらく平原をさまよったが、疲れ果てて倒れてしまったのだ。こんなところに倒れこんでいて、朝までよく誰にも見咎められなかったものだ。野草が隠してくれたのだろうか。
体が鉛のように重たい。体中のあらゆる場所が痛んだ。でも、歩き出さなければならない。逃げ延びなければ。
シータは疲れた体を鞭打ってゆっくりと歩き出した。
「おやっさんおやっさん、大変だよ!男の子が、傷だらけの男の子が……!」
おやっさんと呼ばれた男は、けたたましい声に驚いて持っていた鍬を傍らに置いた。
「朝からいったいなんだって言うんですか?」
「とにかく来とくれよ!」
なんだか分からないまま彼は村外れまで連れられて行った。
男はその村にたった一人で住んでいた。男がいつ、どこから来たのかを村の誰も知らなかった。だが、男が誠実な人柄で、世話好きの働き者だったから、いつのまにか村中の者が彼を頼るようになった。村に何か事件が起こると、必ず彼が呼び出された。
少年は、本当に傷だらけだった。ここまで辿り着くことに体力と気力のすべてを使い果たしたとでも言うように、村人に支えられてぐったりとしていた。
男は一目見て少年がコルネイフの城下町の貴族か何かだろうと判断した。汗とほこりにまみれていたが、髪は綺麗なブロンドだった。服装は、元は貴族、それも超上流の貴族の着るような非常に上等な装束だったのだろう、今は見る影もなくあちこちがずたずたに寸断され、土と血の色に染められていた。
王都ユトリアは外国の軍団の襲撃を受けて壊滅状態らしい。この少年は、戦場から逃げてきたのかもしれない。
「ずいぶん身なりの良い子だけど、いったいどこのお坊ちゃんだろうね?」
「分からないが……とりあえず私の家へ運ぼう」
男は少し考えて、その場にいた者たち全員に向けて言った。
「また昨日のようにエドルニア兵の見回りがくるかもしれん。この子がここに来たことは、くれぐれも秘密にするように!」
男の家へ運ばれたシータは、そのまま丸一日眠り続けた。目が覚めたのはその日の夕刻、日が落ちてからのことだった。
「ここは……」
シータは見知らぬ場所の、寝台の上で目を覚まし、驚いて声を上げた。
すぐに男が飛んできた。
「目が覚めたか?」
シータはゆっくりと体を起こし、まじまじとその男を見つめた。頭がまだぼーっとしている。だが、この男、どこかで見たことがあるような気がする。
「ここはどこだ?」
「エンザドの村だ。ずいぶん酷い怪我をしてるようだが、ユトリアから逃げてきたのか?」
シータは自分の体を見下ろして悲鳴を上げそうになった。着ていた服は脱がされ、農民が着るようなもんぺのような物を履き、上半身には何もつけていなかった。素肌の上に体中包帯が巻かれている。
「わっ、私の服は?なんだこの格好は!?」
「なんだということはないだろう。酷い怪我をしていたから、村の者に手伝ってもらって手当をさせてもらっただけだ。」
「そ、そうか。すまない。驚いただけだ。……そなた、名前は?」
男は少しむっとした様子だったが、しぶしぶ答えた。
「ビーツだ。」
「ビーツ……」
シータの脳裏を何かが閃いた。ビーツ……?
「まさかそなた、ビーツ・ナインアータか!?」
男はその名を呼ばれて、明らかに驚いた顔をして硬直した。
「なぜ、その名を……」
「ビーツ・ナインアータなのだな?」
「やめてください。私は、その名はもう棄てたんだ」
ビーツの顔は堅く強ばったままだった。
記憶の中のビーツと、目の前に居る男とが完全に一致した。彼がランサーで活躍していたのはもう7~8年も前のことだから、随分老け込んでいたし、無精髭を生やして泥だらけの汚らしい農民の姿をしていたが、それでも隠し切れないきりりとした目元、鼻筋に、当時の面影がしっかり残っている。
ビーツ・ナインアータは、カール・マグヌス、マーク・オラインドという二人の騎士と並んで三金星と称されたランサーの英雄だ。英雄好きのランサーのお国柄、国民総てから熱狂的な人気を集めていた。当時まだ幼かったシータもそれに漏れず、三金星の姿を見て騎士に憧れたものだ。
そう言えば、いつの間にかあの熱狂的な人気は廃れてしまったのだが、その一因は確か、マークが遠征の際に命を落とし、ビーツが国外へ逃亡したと言う噂が流れたことだった。シータはまだ幼かったので、その辺の事情をよく覚えていない。
「まさかとは思いますが、あなたは、……ランサーの若君では?」
ビーツは恐るおそると言うようにそう口にした。
この人ならばと思い、シータは大きくうなづいて答えた。
「その通りだ。私はシータ・ファルセウス、ランサーの王太子だ。」
ビーツは仰天したように慌てて腰を屈めた。
「これは、なんと言うご無礼を……!!お召し物に、ランサーの紋章が刻まれていましたのでまさかとは思いましたが、若君でしたとは!」
その姿は騎士と言うより、もはや貴族や王に対する農民の仕草が板に付いていて、シータは少し悲しくなった。
「顔を上げてくれビーツ。私の方こそ失礼なことをしてしまった。私も昔はそなたの姿を見て、騎士に憧れたものだ」
「お恥ずかしい。私は御国と御君から逃げ出した、裏切り者です。」
「昔の事情は私は何も知らない。だが、ここで出会ったのも何かの縁だろう。私を、助けてくれないか」
シータは昨日から今日までの出来事を、包み隠さずビーツに話した。
「私は今まで、ランサーの王子として、大きな力を持っていると思っていた。何でも出来ると思っていた。だがそれは、私の周りの者が私を支えてくれていただけのことで、実際私には何の力も無かった。リーアが連れられていくのに、何も出来なかったんだ。一人では何も出来ないということを思い知ったんだ。」
話しているうちにまた悔しさが込み上げて、シータの目に再び涙が滲みかけた。
ビーツは、そんなシータの話をじっくりと耳を傾けて聞いてくれた。
「若様、かまわないのです。それが、王者と言うものです。王は百人の従者に支えられて、百の力を持てばそれでよい。百の従者を従える力こそが王に最も必要な力なのですから。そして……そのことに気付くことの出来たあなたは、おそらく真に善い王となることが出来るでしょう。」
ビーツは諭すように言ってくれたが、その時のシータには彼の言う言葉の意味がまだ理解できなかった。
ともかく、シータはまだ知恵も力も何も持ち合わせてはいなかったが、ビーツ・ナインアータと偶然とは思えないこの運命的な再会を果たせたことが、唯一彼が「強運」と言う、得難い力を持っていたことの証しなのかもしれなかった。