第十四話:ニーベルンの女王(下)
アリスが初めて訪れたニーベルンの宮殿は、実に壮麗なものだった。
何層にも連なって入り組んだ複雑なランサー王城とは異なり、ニーベルン城は地に這うような平らな形をしている。その単純さが逆に見る者を圧倒するような重厚さを醸していた。ニーベルンレッドとも呼ばれる葡萄茶の屋根や装飾と、白亜の壁のコントラストが、篝火に照らされて美しく映える。
広い廊下に、アリスを取り囲んだ甲冑の奏でる賑やかな音ががちゃがちゃと響いた。アリスはバファル将軍に連れられながら、ほんの一時も緊張を解くことが出来なかった。周りを取り囲むニーベルン兵達だけならばまだしも、先導するバファル将軍からは、例えようのない威圧感を感じていた。アリスが何かしようものなら、一刀のもとに切り捨てるとでも言うような、圧倒的な威圧感だった。
しばらく廊下をいくつか通り過ぎた後、広いホールに辿り着いた。
天井は、フロア三階分以上はありそうな高い吹き抜けのドームで、風の流れがあると思ったら、扉の無いドアのような入り口が左右にいくつも切られていた。外は庭へ繋がっているようだったが、今は暗くて良く見えない。
そして正面には、薄桃色の大理石を磨いた、背もたれの高い玉座が置かれている。その主はまだ姿を現していなかったが、アリスはニーベルンの女王の厳しい眼差しを思い出して、身の引き締まる思いがした。
兵士達はバファルを残して左右に下がり、バファルがアリスを促すように玉座の手前で腰を折ったので、アリスもその半歩手前に跪いた。
やがて、衣擦れの音とともにニーベルンの女主人が姿を現した。
「面を上げなさい、ランサーの若き騎士よ」
彼女は玉座にゆったりと座ると、アリスを見下ろして言った。
アリスは顔を上げ、ほんの一時、恍惚とその姿に見入ってしまった。
ニーベルン国王、コーディリア四世。
齢は今年、三十を越えると言うが、古典的な文様のレースをあしらった渋い嫩草色のドレスから伸びるほっそりとした腕にも、柔らかい白金の色をした長い髪に縁取られた知性的な面持ちにも、年齢からくる衰えなどはまったく感じさせない。
「ランサーの王太子からの使いと聞いたが、このような時分にいったい何用じゃ?」
アリスは震えそうになる声を励ましながら答えた。
「はい。わたくしは、ランサー国王軍第二連隊副隊長を努めております、アリス・シッチリグと申します。ランサー王太子シータ・ファルセウス・グランランサーより女王陛下にお願いしたき儀がございまして、このような礼儀に外れた時刻に参上した次第でございます」
どう説明したものか、と、アリスは頭の中で目まぐるしく考えていた。彼女を説得出来るか、すべて自分の腕次第だ。アリスは責任の重さに体が震える思いだった。
「陛下のお耳にも届いているかと存じますが、ランサーは今、乱れております。シータ王子がコルネイフを訪問していたおり、コルネイフがエドルニアの襲撃に遭い、王子もその混乱に巻き込まれ、帰国がままならぬ状況でした。その間に、ランサーの王太子の座を魔性の者が乗っ取ったのです。恐らく、……我がランサーに古くより仕えたサーディーン・ウッディールと同様、魔道をこととする者かと。かの者は魔術の力により、ランサーの国政を支配しようと画策しているのです。」
アリスはそこで一つ間を置き、女王の反応を待ったが、彼女は表情を変える様子もなく、静かにアリスの言葉を聞いている。
「ランサー国王カイラルも、宮廷の者達もすべて、その魔性の者に操られ、騙されてしまい、本物のシータ王太子は、国を追われ、命を追われております。王太子を、女王陛下の庇護のもとに置いていただくことはなりませんでしょうか。陛下ほどのお力のある方に御助力頂ければ、ランサーの者達も手を出すことは出来ぬかと。図々しいお願いであることは承知しております、ですがどうか、陛下のご慈悲を……」
「ふむ……」
コーディリアは玉座に片肘をついて、考えるように折り曲げた手の上に顎をのせながら言った。
「バファルよ、この者の言うこと、どう思う?」
コーディリアの言葉はどこか冷たく、ぞんざいに響いた。
「……荒唐無稽かと。」
アリスは驚いて思わずその横顔を見ていた。
「そもそも、この使者が本当にシータ王子からの使いかどうかも分かりません」
「……そうじゃな。私もそう思う」
アリスは再び全身が震え出すのを感じた。そんな。バファル将軍は先程、自分をシッチリグの家の者として信用してここまで連れてきたのではなかったのか。
「アリス・シッチリグとやら、ここまでのご足労、大儀であったろうが、どうやらそなたの力にはなれそうにない。もしもその話がすべて本当だったとして、その王子を助けることで我々に利点があるとも思えない。申し訳ないが、我々も今、自国を守ることで精一杯なのじゃ」
コーディリアは相変わらずゆったりと肘を突いたまま冷たい口調で言った。さらさらと揺れる美しい銀髪が、今は恨めしく見えた。
「そんな……。“コーディリア陛下”ならばと思いお願いに参ったのです。戦乱の世こそ、情けを忘れてはならぬのではないのですか?」
アリスは必死に食い下がった。
サーディーンも、自分達も、ニーベルンの気高く賢き女王ならば必ず力を貸してくれると思ってアリスを送ったのだ。まさか、このような扱いを受けるとは。
アリスははっと思い出して胸元に挟んであったサーディーンの言伝てを取り出した。
「陛下、ならば、最後にこれを。ランサーの賢人サーディーン・ウッディールからの言伝てでございます」
進み出たアリスの手から二つ折りのカードを受け取ったコーディリアはそれを開いて首を傾げた。
「サーディーンからの言伝てとな。……白紙じゃが、別のものと取り違えたのではないか?」
「白紙……?」
アリスは焦った。取り違えたはずはない。サーディーンは確かに、彼女が断った場合はこれを出せと言ったはずだ。
しかし、コーディリアが示したカードは確かに、裏表白紙だった。
白紙?何か仕掛けがあるのか?サーディーンも誤ることがあるのだろうか。
「そんな……」
「もうよい。下がれ」
アリスが女王と交わせた言葉はここまでだった。
なんということだ。アリスは自分がひどいしくじりをしてしまったことに気付き、責任を感じて打ちのめされそうだった。まさかとは思うが、ニーベルンにまであの魔性の者の影が及んでいると言うのだろうか。
もしもそうだとすれば、自分はみすみす敵に情報を売ってしまったことになる。ニーベルンへ逃げ込むつもりが、逆に女王は、国境に網を張って待ち構え、シータ王子を捕えるつもりかもしれない。