第十二話:黒衣の魔術師
「フィード、おいで」
黒衣の女は、子犬を呼ぶかのような気軽さでそう言い、カイラル王に向かって小さく手招きをした。すると突然、カイラル王の乗っていた騎馬が高くいななき、前脚を高く蹴り上げるようにして、カイラル王を振り落とした。カイラル王は抵抗の出来ない何か不思議な力によって不様に地べたに転がり落ちた。
シータはその様をあっけに取られてみていた。カイラル王の乗っていた騎馬は、そのままの勢いでこちらへ掛けてくる。そしてなんと、騎馬だったはずの馬体の左右から、それが当たり前であるかのような自然さで見る見る黒い二枚の大翼が生え出した。
「フィード……!?」
シータは我が目を疑った。だが、それは間違いなくシータがコルネイフで出会った黒天馬フィードに違いなかった。シータは戸惑いながらもその首筋を撫でた。フィードはあの静かな目で訴えるようにシータを見ている。
「殿下、今すぐ、アリスを連れてお逃げなさい。後片付けは私がしますから」
女はこともなげに言った。シータは困ったようにアリスを見やった。
アリスははっとしたように言う。
「シータ様、逃げましょう。この機を逃す手はありません」
アリスの言葉を受けて、シータはフィードに乗り込んだ。ご丁寧に鞍と鐙まで付けてくれている。
シータはアリスを後ろに乗せると、手綱を引いた。
カイラル王と国王軍も、飛び立っていくそのペガサスを為すすべなく見ているだけだった。カイラル王も、黒衣の魔術師が出てきた時点で、もはや何をしても無駄だと言うことを悟ったのだ。
戦場に残されたキースとスコットは、もう何合目か分からないほど剣と剣を打合せていた。スコットは自らの劣性を感じながらも、未だ一つの傷を受けることもなく、キースの剣を受けとめていた。
もはやいずれの王子もその場に居なかった。偽の王子はビーツ・ナインアータの猛攻を恐れた国王軍の兵士達に強引に退散させられ、ビーツもまた本物のシータ王子の方の後を追ってこの場から去った。第八部隊の幾人かはシータ王子らを追い掛け、残りの幾人かはその場に残り、キースとスコットの一騎打ちを固唾を呑んで見守っていた。皆、すでに戦う意義は失われたことを悟っていた。しかし、キースとスコット、彼ら自身も、そしてその場に居た者達も、二人がこの場で雌雄を決することの意味を感じていた。
「スコット、お前はさっき、なぜ俺がシータ王子を裏切ったかと聞いたな?」
キースは剣を打合せながら、まったく呼吸の乱れを感じさせること無く言った。
「……答えは決まっている。俺が仕えるべきはランサー王国であり、その主君たる国王陛下だからだ」
キースの言葉に迷いはなかった。恐らくここに居る者達の多くの心の内も彼とまったく同じだろう。自分達が仕えるのはシータ王子ではなく、ランサーとその国王なのだと。それほどに、賢君と呼ばれたカイラル王の人望は厚く、ランサーの年若い王子への期待に、まさかそれを勝るほどのものがあるはずもなかった。
だが、そうだとしても、それではシータ王子はどうなるのだ。彼がシータ王子その人だと言うことは誰の目にも明らかだというのに、誰にも顧みられず、葬り去られてしまっても構わないと言うのか。スコットはそう、叫びたかった。
それは一瞬の隙だった。たった一瞬気を緩めた隙を、キースの鋭い剣先が貫き、スコットの剣は激しい刃鳴りの音とともに虚空へ弾き飛ばされた。
スコットは茫然とそれを見つめ、キースの返す一撃が自らの首に迫るのを見ていた。
キースはすんででその剣を止め、静かにかつての戦友を見返した。
「言っただろう。そんな迷いのある剣では俺に勝てないと」
たしかに、キースとスコットの実力はほぼ五分五分だった。その場に居た誰もが、どちらが勝ってもおかしくはないと感じていた。スコットが破れた理由はやはり、その心の内に微かな迷いがあったからであろう。
「だがそれでも俺は、こんなこと認めない。俺は何があっても、シータ様が誰にも顧みられず殺されるなどと言うことは、とても認めることはできない」
スコットは敗北を認め、死の一撃を目の前にしてもなお、怯むこと無くきっぱりと言った。
「……良いだろう。どこへなりとも逃げるがいい。だが、二度とランサーへは戻ってくるな。お前と次に顔を合わせる時があったとすれば、俺は今度こそお前を殺すだろう」
キースは静かに剣を収め、きびすを返して去っていった。第八部隊の者達もその後に続く。
スコットは苦い敗北感に打ちのめされながら、去り行く友の後ろ姿を見送った。
「アリス、あの若い女はいったい誰なんだ?」
「シータ様はサーディーン・ウッディールをご存じないのですか?」
「サーディーン・ウッディール?ではあれが、ランサーに仕える魔術師だと言うのか」
シータはフィードの手綱を引きながら驚いて聞き返した。
「そうですとも。若く見えますが、年齢は数百とも、千を超えるとも言われます。そうですね、カイラル陛下のご治世になって、国が安定しましたから、サーディーンも最近は朝廷に顔を出しておりませんものね。シータ様がご存じないのも無理はございません」
サーディーン・ウッディールは何世代もの永きに渡ってランサー王家に仕えてきた魔女だ。ランサーが乱れ、間違った方向へ進もうとする度に彼女が現れ、知恵を授けてランサー王家を助けてきた。ランサー王家も代々彼女に救われてきたと言う歴史があるから、彼女のことは丁重に扱い、彼女の言葉を尊重してきた。今回、そのサーディーンがシータ王子を助けたと言うことはつまり、カイラル王の過ちが証明されたことに他ならないのではないだろうか。
「それに……」
アリスは知らず口にしていた。サーディーンは公衆の面前で、ああも堂々と魔術を使った。こんなことは前代未聞のことだった。魔術師が巷の人間の為に魔術を使うなどと言うことは、彼らにとって禁忌であるはずだった。それだけ、シータ王子を助けたかったと言うことなのだろうか。
やがて二人はランサーの城下町から少し離れた、古びた洋館に辿り着いた。恐らくサーディーンがフィードに行き先を教え込んでいたのだろう。シータはただ手綱を持っていただけだったが、フィードは行き先を知っているように二人をその洋館へと案内した。
黒に近い灰色の石で出来た洋館は、いかにも魔女の拠城といったまがまがしい雰囲気を纏っていた。フィードはそのポーチの前に着地すると、自らすたすたと洋館の隣にしつらえられた厩へ向かった。
シータは呆れて鞍から降りた。どんな術を使ったか知らないが、よく教え込まれたものだ。
「ひとまず、中へ入ってみましょう」
アリスに促され、二人は洋館の扉を開けた。両開きの扉が軋みながら二人を招き入れる。
中は吹き抜けのロビーで、外見よりも小綺麗にされていた。床に敷かれたビロードは鮮やかなえんじ色。正面から真っすぐ階段が伸びており、二階の廊下へ続いている。
二人が戸惑っていると、正面の階段からころんころんと小さな犬が下りてきた。ふさふさした黒のむく犬だ。魔女なら黒猫ではないのか。と思って見ていると、黒犬はフスフスと変わった鳴き声を上げながらシータにじゃれついてきた。
「お前もここの主人に何か教え込まれてるのか?」
シータがふさふさの頭を撫でてやると、むく犬はシータにひとしきりじゃれついた後、ふと動きを止めて、またころころと階段を上がっていく。シータとアリスは顔を見合わせ、彼の先導に着いていくことにした。
階段を上がると二階の廊下に出た。むく犬は相変わらずフスフス言いながら、二人を廊下に並んだ部屋の前まで
シータとアリスが戸惑っていると、その正面の階段からころんころんと小さな犬が下りてきた。ふさふさした黒のむく犬だった。むく犬はシータの足元に辿り着くと、フス、フスと変わった鳴き声を上げながらシータにじゃれついてくる。魔女なら黒猫ではないのか。と思いながら、シータは思わずその頭を撫でてやった。するとむく犬はひとしきりシータにじゃれた後、ふと動きを止めて、またころころと階段を上がっていった。シータとアリスは思わず顔を見合わせ、その後を追った。
むく犬は相変わらずフスフスと鳴きながら、二人を廊下に並んだ部屋の一つに案内した。ビロードの絨毯の上に深緑の達筆が浮かび上がる。
“シータ王子のお部屋”
シータは思わず笑いそうになりながら、アリスの顔を見た。
「私の部屋だそうだ。ランサーの宮廷魔術師はなかなか茶目っ気のある方みたいだな」
中は深緑に統一された調度で揃えられた、なかなか豪奢な部屋だった。やはりえんじ色のビロードが敷かれ、ニスで磨き上げられた木材の壁の焦茶と、深緑に金の装飾のされた調度との色合いがなんとも美しい。
「シータ様、お疲れでしょう?牢獄では満足にお眠りになることもできなかったでしょうし……。せっかくサーディーンがシータ様のために準備をしたようです、お休みください。私が皆を待ちます」
「構わないか?」
「ええ。もちろんでございます」
「すまない。では休ませてもらう。正直なところ、本当にくたくたなんだ」
シータはアリスの言葉に甘え、少し眠ることにした。アリスの言った通り、牢獄では満足に睡眠も取れず、城から抜け出す為の戦いにくたくたになっていたシータは、ベッドに就いた途端、泥沼のような眠りに落ちた。