身代わり聖女なので『今日の本当のこと』を伝えるのは心苦しいですが、公爵様とのお約束ですから誠心誠意努めます
「リヴィア、お前が聖女のふりをして公爵家へ嫁げ」
静まり返った部屋に響いたのは険しい表情をした父からの重々しい命令だった。
明日に控えているのは当代の聖女に選ばれた姉のお輿入れ。
しかも相手は王国の辺境を守護する公爵様だ。花嫁が入れ変わるという詐欺行為が許されるはずがない。
しかし、伯爵家の次女――リヴィアはあからさまな動揺は見せなかった。
「断ってくれても構わない。だが、こちらからの契約破棄となれば伯爵家の取り潰しは免れない」
苦々しく、慎重に選びながら紡がれる言葉にリヴィアは一度、視線を逸らした。
リヴィアの視線が向かう先は父の隣に腰掛ける姉のエレノアだ。
「ダメ! やっぱりいけないわ!」
居心地が悪そうに伏せられていたまぶたが持ち上がり、エレノアが強く否定する。
「幼い頃から聖女に選ばれたのはわたくしです。わたくしの身勝手で、お父様や聖女教会に迷惑をかけるわけにはいきません。何より、リヴィアを身代わりにするなんて!」
立ち上がったエレノアが床に膝をつき、リヴィアの手を両手で包み込む。
姉の頬を伝う涙が絨毯を濡らす様子をリヴィアは静かに見下ろしていた。
「父親としてはお前に頼みたくはない。だが、伯爵としてはお前にしか頼めない」
お願いでも、謝罪でも、懺悔でもない。
リヴィアは家を守らないといけない父の想いを重々承知した上で頷いた。
そして、エレノアの両手の中から自分の手を引き抜き、膝の上できつく指を結んだ。
「分かりました」
「リヴィア⁉︎」
「お姉様、わたしは大丈夫ですから、心配なさらずに彼の元へお戻りください」
「ほ、本当にいいの?」
「はい。大丈夫です」
家の存続がかかった局面で拒否できるはずがない。
しかも、相手は気難しく、人嫌いで有名な辺境の公爵様だ。
契約婚とはいえ花嫁が入れ替わっている。しかも瘴気を払うことができる聖女ではなく、ただの貴族令嬢になっていることが明るみになれば無事ではいられない。
しかし、リヴィアに断るという選択肢はなかった。
――怖い。
そう思えば、思うほどにリヴィアの指は強く絡まり合う。
「半年間でいい。お前は公爵家に入ることになるが、結婚式と同日に行われる"浄化祭"までは猶予がある。それまで屋敷で妻の役割を果たし、大人しくしておけばいい。わしとエレノアが何とかする」
父は眉一つ動かすことなく、命令の詳細を語る。
詳しく聞けば聞くほど、リヴィアの不安は募るが、頷き続けるしかなかった。
全ては伯爵家と大好きな姉のため。
唯一のヘルプサインである手遊びには父も姉も気づくことはなかった。
「必ず、迎えに行くわ。だから――」
「大丈夫です。大丈夫。わたしは大丈夫ですから」
少しでも心を落ち着かせるために自分に言い聞かせるように何度も続けた『大丈夫』を信じた父によって、リヴィアは辺境地へ嫁入りすることになった。
翌日。
花嫁を移送するに相応しい豪奢な馬車に嫁入り道具が積み込まれた。
本来の乗り手であるエレノアは伯爵家に身を隠し、閉じたカーテンの隙間から妹を見送っている。
「公爵様に嘘を突き通せるかしら」
不安に駆り立てられたが故の独り言をかき消すように馬車は辺境地へ向けて動き出す。
それから数日後、聖女として辺境の公爵領に迎え入れられたリヴィア。
馬車は盛大な歓迎ムードの町を抜け、公爵邸の前に停車した。
「お待ちしておりました、聖女様」
丁寧に腰を折り、エスコートしてくれる老執事の手を取り、下車する。
都会の伯爵領よりも自然豊かな辺境の町は空気が澄んでいて深呼吸だけでなく、人目を気にせずに背伸びしたい気持ちになった。
「聖女様、この度は当家へお越しくださり、誠にありがとうございます。先んじて一つだけお伝えさせていただきます」
到着早々の忠告にリヴィアは気を引き締め、姿勢を正した。
「ご当主様は気難しいお方です。笑ったところを見た者はいません。どうか、お心を病まぬように。何かあれば、我々にお申し付けください」
やっぱりそうなんだ、とリヴィアは頷いた。
最初から公爵様の良くない噂を知った上で足を運んだが、改めて使用人から言われるとぐっと体が重くなった。
荷物が運び込まれるよりも先に公爵邸へ案内された。
着慣れていない聖女の正装である純白のローブの裾を踏まないように、必要以上に言葉を発しないように、四苦八苦しながらロビーへ。
先導する老執事の後をついて行き、応接室の前で足を止めた。
かちゃりと小さな音とともに扉が開けられる。
促されるままに入室するとそこには背の高い男性が待ち構えていた。
「ハロルド様、教会より定められた聖女様がお越しになりました」
この人が――ッ!
リヴィアの心臓が跳ねた。
焦げ茶の髪に灰青色の瞳。
どこか愁いた表情でこちらを見つめる公爵様に、リヴィアは何度も頭の中で練習した挨拶の弁をど忘れしてしまった。
「……聖女リヴィアでございます。今日からお世話になります」
震える声のリヴィアは緊張のあまり自分の名を名乗ってしまった。
その直後、しまったとリヴィアの顔が青ざめた。
本当は「エレノア」と名乗らなければならなかった。
この契約婚は王命であり国家任務とも呼べる極めて重要なものだ。
結婚するのは、エレノアとハロルドではなく、聖女と公爵なのだ。
だから、名前も顔も知らない人と結ばれる。
この場がお互いに初対面ではあるが、花嫁の名前は正しく伝えるべきだった。
致命的なミスだ。
リヴィアに激震がはしる。
まだお会いして数分しか経っていないのに、失敗してしまったことに絶望した。
ハロルドの眉がわずかに動き、薄い唇が開いた。
「聖女リヴィア様ですね」
痛いほどに何度も何度も心臓が胸を打ちつける。
リヴィアは体の前に置いた両手の指をきつく握った。
「長旅、お疲れ様でした」
数秒の沈黙は、リヴィアにとって悠久に感じるほどの長い静寂の時間だった。
眉一つ動かさないハロルドはそれ以上を語らず、発したのはたったの二言だけだった。
「聖女様、お部屋へご案内いたします」
扉の前に控えていた老執事の声かけにビクッと肩が震える。
(気づかれていない? それとも幽閉されて問いただされるの?)
嫌な想像を振り払うように一礼したリヴィアは、そそくさと老執事に促されるままに応接室を後にした。
次に案内されたのは、実家のどの部屋よりも広く、真新しい家具が揃えられた一室だった。
「ここが聖女様がお過ごしになる私室になります。壁の色や絨毯の質、ベッドの使い心地などご確認いただき、好みをお教えください。侍女は12名配置いたします。この後、侍女長に挨拶させます。ご遠慮なく、なんなりとお申し付けください」
目まぐるしい展開の速さとあまりの待遇の良さに頭がついていかない。
とにかく、偽物だと気づかれていないのなら良かった。
リヴィアは無言のまま公爵家の説明と侍女たちの紹介が終わり、あっという間に夕食の時間になった。
聖女装束から未来の公爵夫人のために作られたドレスへ着替えさせられたリヴィアは、わけもわからず着席した。
いくら長テーブルでも対面に公爵様がいれば、唾さえも喉を通らない。
食堂から聞こえてくるのは、使用人たちの足音と料理が運ばれてくる音だけだ。
一切、会話のない静かさに押し潰されそうになる。
苦しさを伴う静寂にリヴィアの頭の中は、「何か話さないと」、「失礼のないようにしないと」、「嫌われないためにどうすればいいの」という考えでいっぱいだった。
ハロルドがスープを飲んだことをしっかりと確認してから目の前に置かれたスープをひとすくいした。
「……美味しい」
一口すすれば、かぼちゃの甘さが口いっぱいに広がり、体の芯から温まった。
「お口に合ったようなら何よりです」
わざわざ、キッチンから挨拶のために顔を出してくれた料理長には会釈だけ交わして、次はフォークを持ち上げる。
一度食べると止まらないくらい美味しい料理ばかりだった。
「当家では領民が丹精込めて作った野菜を多く使います。苦手なものや味の好みをお教えください、奥様」
(お、奥様⁉︎)
フォークを動かす手がピタッと止まった。
料理長の顔には不安な色が濃く浮かぶ。
「お気を悪くさせてしまい、申し訳ございませんでした!」
突然の謝罪にリヴィアは気を遣わせてしまったと気づき、反省の意味を込めて料理長の方へ体を向けた。
「こんなにも瑞々しいお野菜を使った料理を食べたのは初めてで驚きました。食べられないものはありませんので、公爵様と同じメニューを出してください」
「は、はい。もちろんでございます」
その後もリヴィアは次々に運ばれてくる料理に口をつけた。
さっきまで緊張からお腹は空いていなかったのにいくらでも食べられてしまう。
でも、食べ過ぎて公爵様に大飯食いだと思われたくない。そんな複雑な気持ちだった。
チラチラとハロルドを盗み見ながらの食事中は一言も会話はなかったのだが……。
「明日から一日に一つだけ、本当のことを話してください」
突然のハロルドの発言にリヴィアは固まり、息を飲んだ。
「……本当のこと、ですか?」
「はい」
――やっぱり、わたしが聖女じゃないって分かってる⁉︎
でも、それならどうしてすぐに追い出さないの?
ここで、「どうしてですか?」なんて質問はできない。
控える老執事も侍女長も助け舟を出してくれる様子はなく、リヴィアは沈黙を破って「わかりました」と返事した。
リヴィアの困惑の瞳が揺れ続けている。
それを見抜いているのか、はたまた偶然か。ハロルドはリヴィアが知りたがっている理由を最後に付け加えた。
「私たちはこれから夫婦になるのですから」
笑顔を見せることもなく、"夫婦"という単語を使うハロルドの意図はくみ取れなかった。
夜。
湯浴みを終え、髪を整え、気持ちも整えた。
まだ結婚式までには猶予はあるが、すでに婚約関係にある聖女と公爵が初対面を果たしたとなれば、行為に及ぶ可能性があることは想像に容易い。
そもそも、聖女が辺境公爵に嫁ぐことになったのは、いつまで経っても結婚しないハロルド公爵に業を煮やした国王が命令を下したからである。
当初の予定では、辺境で発生する瘴気を払うために聖女を派遣するつもりだった。
しかし、聖女に選ばれるほどの人材であれば、気難しいとされる公爵とも打ち解けることができて、お世継ぎも産めるだろうという国王陛下の算段もあり、このような状況となっている。
そういう背景があることも説明を受けた上で、この場にいるリヴィアの覚悟は決まっていた。
ただ、聖女ではないという罪悪感だけが拭えなかった。
「それでは聖女様、ごゆっくりお休みください」
一つずつ部屋の灯りを消しながら告げられた言葉にリヴィアは聞き返した。
「休んでいいのですか?」
「もちろんでございます。長旅でお疲れでしょうから」
ふわっと微笑んでくれる若い侍女さんの後ろから侍女長が補足する。
「聖女様がこのお部屋で過ごされている間は、ご主人様はここへはいらっしゃいません。夫婦の寝室は別にありますので安心してお休みください」
「そ、そうですか」
遠慮がちにベッドに横たわるとすぐに布団がかけられた。
ぴんと張り詰めていた糸が解けたからか、あるいはふかふかの高級ベッドだからか定かではないが、リヴィアは眠気に抗えずにまぶたを閉じた。
◇◆◇◆◇◆
翌朝の朝食時、すでに食事を始めていたハロルドへの挨拶を終え、着席したリヴィア。
しかし、「今日の本当のこと」を話さないといけないことで頭がいっぱいになって、全く食事が進まなかった。
(どうして寝ちゃったのよ。毎日、本当のことを話さないといけないのに!)
今更、昨夜の自分を心の中で叱責するリヴィアを見兼ねたのか、ナプキンで口を拭いたハロルドがひと足先に席を立った。
「……あっ」
扉へ向かう背中を視線で追う。
しかし、声をかける勇気は出なかった。
「奥様、食欲がありませんか? それともお気に召しませんか?」
「いえ。今なら食べられそうです」
昨夜と同様にまずはスープを一口。
冷めていても絶品ばかりだ。さっきまでの緊張が嘘みたいに、クルミのパンも豆のスープもどれも美味しく食べられた。
リヴィアが私室へ向かう際には後方に行列ができる。
未来の公爵夫人ということで12名の侍女がついて回るからだ。
しかし、こんなに人数がいたとしても相談をできる相手はいない。
――わたしはもう公爵様に嫌われているのかしら?
などと、不安を抱え込んでいることを誰にも打ち明けられなかった。
ふと、肝心なことを思い出したリヴィアは急ぎ足で中庭に出て、領内に建てられた教会の方角を向いて膝をついた。
聖女は毎朝、必ず祈りを捧げる。
その作法は姉のやり方を見ていたから知っていた。
過去に姉の真似をして一緒に祈ったことを思い出しながら意味のないパフォーマンスの祈りを捧げる。
直後、背後から聞こえた足音に、ぴょんと立ち上がったリヴィアはスカートを直して会釈した。
「公爵様。あの……朝食に遅れてしまって申し訳ありませんでした」
「リヴィア様の朝食の時間は決まっているわけではありませんから、好きな時に召し上がってください」
「公爵様はいつも同じお時間に召し上がるのですか?」
「えぇ」
気難しく、人嫌いという噂だが、極端に視線を逸らすわけでも、悪態をつくわけでも、無視するわけでもない。普通に話せている。
どうして、あんな噂が流れているのか不思議で仕方がなかった。
「明日からわたしもご一緒させてください」
「構いませんが、朝は苦手なのでは? それとも昨夜はあまり眠れませんでしたか?」
「いえ。それが昨夜は……」
ふと、これが今日から本当のことになるではないかと気づいた。
「早起きは得意だと思っていました。でも、お部屋のベッドがすごく心地よくて。つい、寝坊をしてしまいました」
本当のことを伝えるのは苦手だ。
それを伝えて相手にどう思われるか気が気じゃなくなる。
本音で語れば、自己防衛もできなくなる。
なので、リヴィアにとって本当のことを一つだけ言うという約束は難易度の高い課題だった。
それに、一番ついてはいけない嘘を抱え、一番伝えなくてはいけない本当のことを言えないのが苦しかった。
「そうでしたか」
ハロルドは笑うでもなく、馬鹿にするわけでもなく、じっとリヴィアの目を見ていた。正しくは目の下を見ていた。
なので、リヴィアとハロルドの視線はわずかに合っていなかった。
「それが今日の本当のことですね」
「はい。あの……たった一つでよろしいのですか?」
「一日に一つだけで結構です」
2日目の会話はこれだけだったが、昨日よりも上手に話せていると少しだけ自信に繋がった。
公爵家に来て3日目。
朝食の時間にはハロルドよりも先に着席したリヴィア。
ハロルドがみえると立ち上がって、朝のご挨拶をして食事が始まった。
やはり食堂内で聞こえてくるのはお互いの食器が触れ合う音だけだ。
話し出すタイミングを見極めているリヴィアがいくら沈黙の時間を作ってもハロルドは責めたりしなかった。
今日の朝食時もリヴィアは本当のことを言えずに食事を終えて、中庭で聖女の祈りを捧げた。
立ち上がり、背後を振り返っても今日はハロルドはいない。
代わりに大きな木に釘付けになった。
昨日は気まぐれだったのかしら、と私室へ戻ろうとした際、思い切って侍女たちに聞いてみることにした。
「この木は古くに植えられたのですか?」
リヴィアが見上げるのは中庭に立つ立派な大樹だ。
「はい。ご主人様が幼い頃に植えられたそうです」
「春になれば花を咲かせるのですね」
「い、いえ」
言い淀む侍女に代わって、侍女長が教えてくれた。
「その木はもう何年も実がならず、花も咲きません。庭師には他の草木に影響が出る前に伐採した方が良いと言われてはいるのですが」
切らないの? とは聞けなかった。
それを判断できるのはハロルドだけで、この場にいる人たちに聞いても困らせてしまうだけだと分かっていたからだ。
「教えてくれてありがとうございました」
午前中は教会に出かけたり、領民と触れ合ったりして、瘴気を払うこと以外の聖女ではなくても聖女らしくできる精一杯の役目を果たす。
午後は屋敷に戻り、公爵家の妻として家を切り盛りするための勉強もとい花嫁修行に集中した。
日に日に忙しさを増すリヴィアの自由な時間は限られていく。
それでも、ハロルドとの約束を守るために夕食時には勇気を振り絞って告げた。
「今日の本当のことです。花が好きです」
するとどうだろう。
その時は素っ気なく返事をされただけなのに、翌朝には廊下の至る所に花が生けられていた。
不思議に思いながらもスキップしたくなる気持ちを抑えながら遠回りして食堂へ向かう道中、玄関先でハロルドと鉢合わせした。
「あ、あの、おはようございます」
「おはようございます」
「お花。とても綺麗です。ありがとうございます」
「それなら良かった」
公爵家に来て7日目にして、初めてハロルドと二人きりでのお茶会を開くことになった。
室内には給仕係がいないので、リヴィアがティーポットから紅茶を注ぐ。
ハロルドが一口飲んだことを確認してからリヴィアもティーカップに口をつけた。
「公爵様、今日の本当のことです」
「えぇ」
「本当は甘い方が好きです。紅茶にはミルクとお砂糖は2つ入れたいです」
ハロルドがベルを鳴らすと間髪を入れずに扉を開けた老執事がワゴンを押して入室した。
「明日からリヴィア様の食後の紅茶にはミルクと砂糖を入れるように」
「かしこまりました」
ちょっぴり申し訳ない気持ちになったが、今日のノルマを達成できた上に、食の好みも伝えることができた。
この時、リヴィアは初めて自分の好みを他人に伝え、それを受け入れられた。
だからだろうか。少しだけ気持ちが大きくなり、こんなことを口走っていた。
「あの、もう一つだけよろしいですか。えっと、これからお伝えすることを踏まえて今日の本当のことにしてください」
「えぇ。もちろんです」
「実はニンジンが苦手です。初日には料理長に嘘をついてしまいました。あ、でも、苦手なだけで食べられないわけではありません」
「聞いたな。至急、料理長へ伝えるように」
「かしこまりました」
ハロルドの表情は変わらない。だけども、老執事は優しく微笑んでくれた。
翌日は「静かな場所で本を読むのが好き」だと伝えると屋敷内にある図書室の鍵を渡された。
その翌日は「苦手なものは雷の音」だと伝えた。
リヴィアが何を伝えてもハロルドは目立った反応を示さない。ただ、何も言わずにリヴィアが過ごしやすいように対処してくれるのだった。
公爵家に来て34日目。
今日は朝からハロルドが不在だった。
「辺境の魔物被害が増えているのですか?」
リヴィアが問いかけると若い侍女は笑顔を作って、「そんなことはありません」と答えた。
「ご主人様がいらっしゃいますもの。辺境の騎士団をまとめるご主人様は一騎当千です。魔物なんて、けちょんけちょんですよ」
「それは頼もしいですね」
窓越しに遠くの空を見上げる。
きっと、今もどこかで戦っているのだろう。
――怪我をしていなければ良いけれど。
わたしが本物の聖女なら魔物発生の原因である瘴気を浄化できるのに……。
そう思わずにはいられなかった。
夜になってもハロルドは帰ってこない。
外では雨が激しくなり、雷鳴が轟き、風が窓や扉を叩き付けるようになっていた。
(かみなり……っ。まだお仕事かしら。今日の本当のことを伝えられていないのに)
リヴィアは屋敷に一人きりではないが、それでも大きな音が鳴ると体が震えた。
屋敷が慌ただしくなったのは夕食を終えたリヴィアが私室へ戻ろうとしていた頃だった。
「リヴィア様は平気か?」
玄関から焦ったような声が聞こえてくれば、返事をするよりも早くお出迎えに向かうのは当然だった。
「わたしはここです。何ともありません。公爵様こそご無事ですか?」
「雷は?」
「みんながいてくれますから平気です」
安堵したハロルドは何事もなかったかのように食堂に向かう。
リヴィアは彼の背中がいつもよりも小さく見えるような気がして後をついて行った。
「お疲れのところ申し訳ありません。今日の本当のことをお伝えしてもよろしいですか?」
おずおずと聞いてみる。
お疲れの様子だからまた明日にすれば良いという考えはリヴィアの中にはなかった。
「もちろん」
「わたしには趣味がありません。なので、中庭でガーデニングをしてみてもよろしいでしょうか」
「もちろん。好きにしてもらって構いません。庭師には話を通しておきます」
「ありがとうございます」
時間帯は遅いが、いつもの食堂でいつもの席につき、いつも通りに本当のことを告げる。
これが今のリヴィアの日常だった。
「どうしてこんな遅くになってまで、私のわがままに付き合ってくれるのですか?」
ハロルドの前にはリヴィアが食べたものと同じ料理が運ばれてきた。
湯気が立っており、正にいま作られたものだ。
「約束は守ります。明日、会える保証なんてありませんから今日できることは今日やるんです」
はっとしたリヴィアは「……ご、ご迷惑でしたよね。すみません」と縮こまって小さく告げた。
「謝る必要はありません。私も肝に銘じます」
ハロルドはそれ以上のことは言わずに食事を始めた。
(いつもより食べるペースが早い)
相当な空腹だったのかしら、と心の中でつぶやいたリヴィアは姿勢を正したまま、ハロルドが食事を終えるまで眺めていた。
「リヴィア様」
食事を終え、ひと足先に私室へ向かったはずのハロルドが戻ってきて、呼び止められた。
「これをお使いください」
手渡されたのはリヴィアの手に馴染みそうなサイズのスコップだった。
「私が幼い頃に使っていた物です。素敵な中庭にしてください」
「あ、ありがとうございます」
翌日。
受け取ったスコップを持って、中庭に出たリヴィアは聖女の祈りを捧げてから何の気なしに土を掘ってみた。
「リヴィア様、お洋服が汚れます。希望をお伝えいただければ、庭師に仕上げさせます」
「では、庭師さんを呼んでください」
未来の公爵夫人に呼び出されたとあって庭師たちは飛んでやってきた。
「こちらの古い木を元気にする方法はありますか?」
リヴィアの突拍子もない質問に庭師たちが顔を見合わせる。
そして、言いにくそうにおずおずと告げられた。
「こちらの木はもう寿命を迎えています。ご主人様からは伐採するようにと指示されていますので……その……じきになくなります」
「公爵様はこれから遠征のはずです。まさか不在中に……?」
「そのように指示を受けています」
そうですか、とぽつんと呟いたリヴィア。
素人目にはまだどっしりと地に根を張っているように見えるが、それは見せかけらしい。
「奥様! 一つだけ希望を叶える方法があります。ただ、失敗するかもしれません」
意を決したように挙手したのは一番若い庭師だった。
「というと?」
「木の枝を切り、それを土に植え直す方法です」
「枝がこんなにも大きな木になるのですか?」
「保証はできません。仮に大樹になったとしてもそれは何十年も先の話なので、我々が生きている時に見られるかどうか」
これまでガーデニングというものをしたことのないリヴィアには到底想像もつかない話だった。
「でも、可能性があるならやってみたいです」
誰からも反論は出ない。
それは公爵から許可を得た未来の公爵夫人からの指示だからではなく、ここに集う一同全員の願いだったからだ。
リヴィアの希望通りに枝の一部が切り落とされ、土に植えられた後、公爵家の中庭のシンボルともいえる大樹は伐採された。
自分の指示とはいえ、多忙な日々を送るハロルドが帰宅した時に思い出の木がなくなっていたら何を想うのだろうか。
リヴィアはそんなことばかりを考えながら、教会に向かって祈りを捧げた後には毎日欠かさずに水やりを行った。
ハロルドが屋敷に帰って来なくなって10日目。
リヴィアを心配した侍女の一人が耳打ちした。
「ご主人様が屋敷を空けることは珍しくありません。むしろ、最近はよくお戻りになっておられました。あまり深く考えないようにしてください」
不貞を疑っていると思われているのかしら、とリヴィア。
まだ結婚式を挙げたわけではなく、表面上の手続きが終わっただけの関係だ。
夫婦らしいことは何一つしていない。
世間では仮面夫婦と呼ばれていることも承知している。
そもそも嘘をついているのはリヴィアの方で、別の場所でハロルドに良い人がいても咎められる立場ではない。
それでも、たとえ偽りの花嫁だったとしても約束は守りたい。
リヴィアは忘れてしまわないように「今日の本当のこと」をメモして、夜になるとハロルドの遠征先の空を見上げた。
それから数日後の夜。
ハロルド公爵が負傷したという一報が届き、まもなくして部下に付き添われたハロルドがお戻りになった。
「大事にするつもりはない。肩を掠めただけだ」
わらわらと集まってきた使用人たちに言い放ち、軍服を任せて執務室へ直行するハロルドの左肩に巻かれた包帯は赤黒く染まっており、痛々しかった。
(公爵様も無理をするんだ)
いつも冷静沈着で穏やかな人という印象を持っていたリヴィアは、胸のざわめきを抑えきれなくなって執務室を訪れた。
「リヴィアです。入ってもよろしいでしょうか」
ノックすると扉の向こう側では狼狽えた声が返ってきた。
「どうしました? もう遅いので早くおやすみになった方がいいですよ」
「今日の本当のことです」
薬湯をテーブルの上に置きながら――
「心配でした」
ハロルドは何も言ってくれず、呆然とリヴィアを見上げていた。
「……ありがとうございます」
続いてリヴィアは折りたたんだ手紙をテーブルの上に置いた。
「今日までの本当のことです」
「あなたって人は……どうしてここまで」
手紙を開いて目を通したハロルドは呆れたような、感心したような声を出していた。
「わたしにはこれくらいしかできませんから」
「約束を守るということがどんなに難しいことか分かっていますか? 現に私はリヴィア様との約束を違えているのですよ。私が約束を守っていないから一手間を煩わせてしまっている」
「わたしは剣を振ることも、軍を率いることもできません。公爵様はご立派です。わたしのことなどお気になさらないでください」
呆然と見上げていただけだったハロルドは髪をくしゃくしゃにしていた。
こんなにも苦々しい表情を見たのは初めてで、リヴィアは気に触ってしまったかもしれないと恐れた。
「約束は絶対に守る。人を傷つける嘘をつかない。領民や使用人たちにも優しい。それなのに――」
ハロルドは噛み締めるように呟いた。
「それなのに、どうして自分だけは大切にしない」
今度はリヴィアが目を見開く番だった。
そんなことは、これまでの人生で一度たりとも言われたことがない。
どんな反応をすればよいのか、どんな言葉を返せばよいのか、判断がつかないリヴィアは黙り込むしかなかった。
「一つ、お聞きします」
沈黙を破ったのはハロルドだった。
「私が帰ってきて、一番安心したのは誰ですか?」
リヴィアは答えられなかった。
「リヴィア様ではないのですか?」
そんなことはない、と言えば嘘になる。
だけど、この屋敷や領地にいる誰よりも安心した、と言えるほどの自信もなければ、そんな権利はないと思ってしまい返答できなかった。
「それだけで十分です」
「それでは役に立っていません!」
どうしても納得のいかないリヴィアの強い言葉にハロルドの口調もわずかに強くなった。
「役に立つかどうかで、あなたの価値を決めないで欲しい」
――まただ。
また、この人はわたしが言われたことのないことを言ってくる。
嫌なわけではない。だけど、心地良いわけでもない。
ハロルドがリヴィアを大切に想う発言をすればするほどリヴィアの胸は締め付けられた。
この短時間で感情をぐちゃぐちゃにされたリヴィアは気づけば、執務室を飛び出して廊下を走っていた。
上手に息が吸えない。
胸が苦しい。
どうすればいいのか分からない。
「……なんで。はぁ、きっと嫌われてしまったわ」
息を整える前に口からこぼれ出た弱音は止まらない。
「あぁ、もう、終わらせてしまいたい。あの人に嘘をつき続けたくない」
人目につかない廊下の片隅でうずくまり、すすり泣くリヴィアの気持ちは誰にも知られることはなかった。
◇◆◇◆◇◆
翌日。
泣き腫らしたリヴィアの目を見ても侍女たちは何も言わずに、それを隠すようにメイクを施してくれた。
「今日の公爵様のご予定は分かりますか?」
「はい。午前は視察で不在になられますが、午後はお時間を作れるかと存じます」
「ありがとうございます」
リヴィアは意図的に朝食の時間をずらし、ハロルドと顔を合わせたのは心の準備を整えた午後になってからだった。
執務室の扉をノックする手が震える。
昨夜、あんなことがあってどんな顔をして会えばよいのか。もしかすると、会ってくれないかもしれない。
しかし、そんな不安は一瞬にして消え去った。
「どうぞ」
扉の向こう側から聞こえるのはいつも通り過ぎるハロルドの声だった。
入室したリヴィアは静かに執務机まで歩み寄り、唾を飲み込んでから――
「今日の本当のことです」
そして、一瞬の沈黙の後にリヴィアは真実を告げた。
「わたしは聖女ではありません」
きつく握りしめた手が痛くなってくる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
執務室には時計の針が動く音しか聞こえない。
リヴィアの体が小さく震えている。
しかし、視線だけは一切動かさずにハロルドだけを見ていた。
長い沈黙を経て、公爵様の唇が動いた。
「帰りたいですか?」
ぽつんとした呟きにも似た問いかけ。
"帰れ"と言われることを何よりも恐れているリヴィアは咄嗟に首を横に振った。
「帰りたくありません」
「それは義務だから?」
「いいえ。わたしの選択です」
きつく唇を結んでいても、こぼれてしまわないように留めていた涙が頬を伝い落ちた。
「今日の本当のことです」
責められると覚悟していたリヴィアの耳に聞こえてきたのはハロルドの優しい声だった。
「実は気づいていました」
「…………え?」
あまりの衝撃にリヴィアは絶句した。
頭の中が真っ白になり、ハロルドが何と言ったのか理解できなかった。
「ど、どうして……」
やっと絞り出した言葉はいくつもの疑問を含んだものだった。
「毎朝、欠かさずに行なっている聖女の祈りは唯一神がおられる王都の教会に向かってするんですよ。天地がひっくり返っても辺境にある小さな教会に向かってはしません」
リヴィアは祈りの作法は完璧だった。
唯一の間違いが祈りの方角。
姉はいつも教会に向かって祈りを捧げていた。
それは王都の教会であって、その土地の教会に向けてではなかったことを知らなかった。
ハロルドは放心しきっているリヴィアへと続ける。
「それに、聖女とは簡単に頭を下げないものです」
「……で、でも、お姉様は――」
失言に気づき、とっさに口を閉じたが時すでに遅しだった。
ハロルドの中で点と点が線で繋がったのだろう。
納得したようにうなづいていた。
「お姉さんが聖女でしたか。リヴィア様は本当の聖女がどういうものなのか見たことがありませんね。見ていれば、あんなに当家の使用人たちに優しくしませんよ」
「お姉様は優しい人です」
「失礼しました。決してお姉さんを貶しているわけではありません。聖女の振る舞い方は厳しく教育されるのですよ。お姉さんが教会から帰って来れなくなった時期があるはずです」
そう言われると思い当たる節があった。
姉のエレノアは幼い頃に伯爵家を離れて、教会で育てられた。
再会したのは14歳の頃だ。
それからというもの伯爵家にいる姉しか見たことのないリヴィアが、エレノアの聖女の顔を知るはずがなかった。
「――だから、お姉様はわたしにお役目の姿を見せてくれなかったの……?」
「聖女とは尊く、荘厳華麗でなければなりません。きっと、リヴィア様には見られたくない一面があるのでしょう。聖女の礼は何よりも重いものでなくてはならず、簡単に会釈なんてできないんです」
ハロルドの話はエレノアの不可解な行動の数々をリヴィアに納得させるのに十分なものだった。
しかし、ハロルド自身の行動には納得できなかった。
「ど、どうして、わたしが偽物だと知りながら追い返さなかったのですか?」
震える声で問いかけるリヴィアの視界は涙で歪んでいて、ハロルドがどんな表情をしているのか見えなかった。
「私は最初から王命であるこの婚約を破談にするつもりでした。だから、早々にあなたを追い返す必要はなかったんです。ですが――」
「…………??」
「リヴィア様のことを少しずつ知っていき、追い返せなくなってしまいました。あの日の夜、私は感動したんですよ。だから、何か事情があるのならそれを解決してからここを去って欲しい」
聖女としてではなく、リヴィア自身を見続けてくれたハロルドの配慮にリヴィアは嗚咽が止まらなくなった。
「勇気を出して話してくれてありがとうございます。試すような真似をしてしまって申し訳ありません」
立ち上がり、頭を下げるハロルドにリヴィアは何度も何度も謝罪した。
◇◆◇◆◇◆
数日後、屋敷に激震が走った。
この日は珍しくハロルドが屋敷にいた。
更に珍しいことにハロルドは朝食後からずっと玄関先をウロウロしている。
まるで、何かを待っているように――
玄関のベルが鳴り、ベルマンに続いて待ち侘びた来客を自ら応接室に案内したハロルドは多くを語らずに退室し、リヴィアを呼びつけた。
「し、失礼します。お、お父様に、お姉様……っ!?」
何も知らされず、応接室に向かうように言われたリヴィアが驚くのは無理もなかった。
室内にいたのはいるはずのない実の父と姉だったからだ。
「リヴィア!」
冷気をまとっていた聖女の姉――エレノアは表情が解けると同時に駆け出す。
心の底からリヴィアを案じていた姉の嘘偽りのない抱擁だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。辛かったでしょう」
「お、お姉様。これは一体……どうして?」
訳が分からず、混乱したまま抱きしめられるリヴィアの問いかけに答えたのは父だった。
「よくやってくれた」
「は、はい」
「エレノアと交代だ」
声にならない声がリヴィアの口から漏れ出るとほぼ同時に、父から開封済みの手紙を渡された。
考えるよりも早く、反射的に手紙を手に取って開けていた。
そこには『一度、お話ししたいことがあります』と達筆でしたためられていて、末尾にはハロルド公爵の名前が添えられていた。
「王命通りにわたくしが嫁ぐからリヴィアは自由になって」
「帰ってきなさい、リヴィア。お前は十分に役目を果たしてくれた。これ以上、自分を犠牲にする必要はない」
リヴィアの意見を聞くことなく、話を進め、ついにハロルドの元へ向かおうとする父と姉の背中に声を張り上げていた。
「ま、待ってください。わ、わたしは一言も帰りたいと言っていませんっ」
「何を言っているんだ。これは王命だぞ。聖女が公爵家に嫁ぎ、辺境を浄化する。お前にそんなことはできないだろう」
「そ、それはそうです……けど」
服を握りしめるリヴィアの気持ちは父には伝わり切らない。
(このもどかしい気持ちを上手く伝えるにはどうすればいいの……)
いよいよ涙を馴染ませて、うつむくリヴィアを見たエレノアが膝をついた。
「リヴィアの本音を聞かせて」
家族にそんなことを言われたのは初めてだった。
リヴィアは震える唇と声で一生懸命に告げる。
「帰りたくありません」
「無理をしていない?」
「はい」
「幸せを感じているのね?」
「はい……っ」
二度目は返事は今まで一度も見せたことのない笑顔だった。
「そっか」
エレノアの笑顔もまたリヴィアが見たことのない安堵しきったものだった。
「教えてくれてありがとう。お父様! わたくしたちは責任を取らなければなりません。リヴィアも一緒に公爵様の元へ行きましょう」
「待て。リヴィアはもう関係ない――」
「お黙りください」
パシャリと言い放つエレノアの声は冷徹で凛々しい横顔は底冷えするほど美しかった。
「……お姉様」
「聖女は荘厳華麗でなくてはならず、逃げることは許されない。リヴィア、もう少し付き合ってちょうだい」
初めて見る聖女としての姉の背中は大きくて頼もしかった。
それから執事を通じてハロルドが応接室へやってくると、エレノアはすぐに深く腰を折った。
「改めまして、わたくしが本当の聖女のエレノアです。本来であれば、わたくしが公爵様と婚姻関係になるはずでしたが、魔物討伐で瀕死の重傷を負った大切な人を癒やす時間を必要となり、このリヴィアが代役を務めてくれることになりました。騙してしまって申し訳ありませんでした」
エレノアに続き、伯爵も深い謝罪をして、リヴィアも父に続いた。
「お二人をお呼び立てしたのは謝罪を要求したかったからではありません。私は『教会が選出した聖女と結婚せよ』という王命に従っただけです。正直に申しまして、相手がどんな女性かなんて知りませんし、どうでもよかった。ただ――」
ハロルドがリヴィアに流し目を送った。
「リヴィア様は特別でした。リヴィア様、ご家族とお話しできましたか?」
「は、はい。あの……先日も申し上げた通り、わたしは聖女ではありません。なので、そのような敬称はおやめください。これまでの無礼の数々を謝罪いたします」
「そうですね。では――」
エレノアと伯爵へ向き直り。
「リヴィアは私の妻となる人です」
その言葉にリヴィアの胸は熱くなり、込み上げてくるものを我慢できなかった。
「どのような話し合いをなされたのか存じませんが、リヴィアを連れ帰り、私とエレノア様が婚姻関係を結び直すようなことになるのであれば、この一連の企てを国王陛下へ報告しなければなりません。きっと、聖女教会も事情を把握した上で止めなかったのでしょう。王家と教会の溝をこれ以上深くしたくはないのですが」
「仰る通りです。わたくし共は貴公に従います」
エレノアは判決を待つ罪人のように全てをハロルドに委ねた。
「私がお願いしたいことは二つ。リヴィアをこのまま私の妻として欲しい。そして、伯爵家にも"春の浄化祭"に参加して欲しい。以上です」
「よ、よろしいのですか?」
相手は無情の辺境公爵だと聞いていたエレノアは、どんな罰も受ける所存だったが故に唖然としてしまった。
「王命ですから領地の浄化はしてもらいます」
「も、もちろんです」
ハロルドから手が差し出された。
握手を求められていると察したエレノアは迷わずに手を取る。
「瘴気の浄化と魔物の掃討は責任をもって完遂いたします。差し出がましいお願いで恐縮ですが、妹をお願いいたします」
「はい」
ハロルドの返事は無機質で無感情なものだったが、握手の力を感じればハロルドが嘘をついていないことは明らかだった。
エレノアと父を見送ったリヴィアはハロルドと共に執務室へと移動した。
「今日の本当のことです」
「はい」
「帰る場所が二つになりました」
「それは良かった」
ハロルドがほんの少しだけ笑った気がしてリヴィアの頬も緩む。
ふと、ハロルドは封蝋で閉じられた封筒を差し出した。
「恥ずかしいので部屋に戻ってから読んで下さい」
怪訝な表情のまま帰室したリヴィアは早速、封筒の中から手紙を取り出した。
『今日までの本当のことです。
私は笑うのが苦手です。
私を怖がっている使用人もいます。
誰かと食事をするのは数十年ぶりです。
一番好きな場所は庭です。
思い出の木が腐った時はショックでした。
リヴィア様が本当のことを教えてくれるのが嬉しいです。
今では毎日の楽しみになっています。
若い頃、婚約者がいました。決められた婚約です。色々あって破談になりました。
もう二度と誰かが犠牲になって私と婚約をするのは嫌です。
リヴィア様が嫌なら私のことは気にせずに実家に帰って欲しい』
手紙には、あの日の夜――リヴィアがハロルドと会えない日々に伝えたかった『今日の本当のこと』を書いた手紙を渡した日から今日に至るまでの日数分の『本当のこと』がしたためられていた。
こんなにも綺麗な字を書ける優しい人だからこそ、有事の際には自ら武器を持ち、前線に立って傷ついているのだと想像することは容易かった。
――この人を放っておきたくない。
そう思った時には扉を開け放っていた。
貰ったばかりの手紙を鷲掴みにして、片手で雑にドレスを持ち上げながら廊下を走る。
礼節なんて気にならなかった。
まだ執務室の扉の隙間から灯りが漏れている。
リヴィアはノックと同時にドアノブに手を掛けて、ひと思いに開いた。
「帰る場所は二つになりましたが、帰りたい場所は一つです!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
それはハロルドも同じで、立ち上がった姿勢のまま目を丸くして固まっていた。
「私にとって魔物など脅威になりません。ですが、今、たった一つの質問するのがとてつもなく怖い」
「ご迷惑でないのなら、ずっとここに居たいです。聖女ではありませんが、ハロルド様と一緒に居たいです!」
「……ありがとう。私はね、あなたが聖女だからでも、伯爵令嬢だからでもなく、リヴィア様だからこそ一緒になりたいと思ったのです。聖女のお役目はエレノア様が引き受けてくれると約束してくれました。だから、あなたが気にすることはありません」
「頭では理解しても、心では難しいです。わたしはハロルド様にも、領民の皆さんにも嘘をつきました。許されることのない嘘です」
「リヴィア様は一度たりとも他人を傷つける嘘をついていません。自分を後回しにしてまで他者を思いやる清らかな心の持ち主だということを私が証明し続けます」
その言葉にリヴィアは感極まって涙を流し、その場にへたりこんでしまった。
「形式上の妻ではなく、共にこの地を治める伴侶として私と結婚してくれませんか」
「……はいっ」
やっと、自分の気持ちを伝えられた二人は静かに抱き合い、これからの未来について語り合った。
◇◆◇◆◇◆
それから1ヶ月後に執り行われた"春の浄化祭"ではリヴィアの姉である本物の聖女――エレノアによって魔物の発生源は見事に浄化された。
リヴィアが聖女ではないと正式に公表されたが、批判されることは少なく、領民はこれまで通りに接してくれてハロルドとの婚礼の儀もつつがなく終えることができた。
「今日の本当のことです」
そして、今日も二人は約束を守り続ける。
「この庭で季節の花を育てることが夢になりました」
隣並ぶ二人の視線の先にはリヴィアが植え直した木がある。
ハロルドにとって母との思い出を継ぐ木といえるものだ。
「なら、私の夢はこの木が大きくなり、花を咲かせる光景を毎年リヴィアと一緒に見ることです」
「きっと素敵な花を咲かせてくれますよ」
リヴィアにつられるように、ハロルドも柔らかく笑ってくれた。
「今日の本当のことです。あなたを愛しています」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「楽しかった」、「面白かった」と思っていただけたら、ブックマークや、↓の☆☆☆☆☆から評価をいただけるとモチベーションが上がります。




